王書   作:につけ丸

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019:夢

 ───夢を見た。

 

 あの日旅立たず、故郷の地で安らかな日々を送っている夢を。

 拒絶した友人と和解し、家族とも笑い合って、幼馴染み達に感謝を伝えて……そんな誰もが笑っている優しい夢。

 水も蛇口を捻れば出て来て、朝露を舐める必要も無い。食べ物も一声掛け、ただ待っていれば、用意されていて。

 

 言葉も通じて、帰る家がある。

 

 沈む夕陽を眺めながら、郷愁に囚われる事も無い。

 学校に行くの、だるいよなぁ。今日の給食、揚げパンだったぞ。おい、何してんだ! 早く行くぞぉ! 

 そんな益体もない事を、友人と駄弁りながら、何となく将来を考え送る日々。危険なんて欠片もない日々。

 幸福で満たされた、ありふれた日常だった。

 

 なんて素晴らしいのだろう。

 夢は、祐一の中にあった郷愁を慰めてくれた。

 お気に入りの山から見下ろした故郷を、鮮明に映し出し、忘れ掛けていた故郷の風景を、そっと教えてくれる。

 

 慣れ親しんだ、我が家。子供の頃、良く遊んだ神社。裸足で駆けた畦道。びしょ濡れになって笑いあった小川。どこまで登れるか競った大木。学校の通学路にある駄菓子屋。竹林の中に作った秘密基地。

 波打ち、光を反照する、小さな湖。

 咲き誇り、魅了する、桔梗。なんて美しいのだろう。

 

 祐一は、気付けば、故郷にある家の前に立っていた。

 彼が14年間過ごした家。初めは白かった外壁も、二十年近い時の流れによって、灰色にくすんでいて。

 窓枠に嵌められた障子は、よく弟と喧嘩するから、新しく張り替えても、一週間と持たなかった。

 庭にある排水溝には、チャンバラで使うお気に入りの棒が隠してあり、子供の頃は良くコレを持って、野山を駆けていた。

 

「祐一! どこに行ってたの! 早く帰って来なさい、今日はアンタの誕生日よ? みんな待ってるんだから! 忘れたの?」

 

 母さんが呼ぶ声が聞こえる。在りし日々の懐かしい声。驚いて、振り向く。

 久しぶりに見る母の顔は笑顔で、帰りが遅い自分を、少し怒っている様にも見えた。

 白髪混じりの癖っ毛。自分の癖っ毛は母から受け継いだものだったと思い出す。

 我が家の紅一点である母の手と肌には、一家をその細腕で支えている事を示すように、皺が目立つ様になっていた。

 だが眼つきは鋭く、気の強さを顕著に表していた。

「祐一! アンタは友達を大切にしなさい! アンタは、一人じゃ、すぐ駄目になるんだから! 母さん、心配で夜も眠れないわ!」ふと、そんな言葉を思い出した。

 耳に蛸ができるほど聞いた、祐一の一番の指針にもなっている言葉だ。

 口うるさいけど、誰よりも家族を愛していた人だった。

 

 ───行かなくちゃ。

 

 母の隣には、父さんが立っていた。

 言葉は無く、静かに佇んで、祐一を見守っている。

 あと数年で齢五十に届く父は、額に深い皺を湛え、口元にはくっきりと、ほうれい線が浮かび上がっている。

 祐一が高身長な様に、彼の父もまた背が高かった。

 老境に入る年頃だったが、それでもシャンと背筋は伸びていて、高身長な祐一よりも、頭一つ高い。

 九州に生まれ九州で育った、生粋の九州男児だが、物腰は柔らかい。

 老眼が酷くなり、最近になって掛け始めた眼鏡の奥には、優しげな瞳があった。

 父さんもまた、口元を吊り上げ、不器用に笑う。

 とても、真面目で不器用な人だった。

 

 ───俺、行かなくちゃ。

 

「祐一兄ちゃん。またどっかに、行っちゃうのかよ?」

 

 弟の声だ。

 まだ声変わりしていない、若さよりも幼さが目立つ声。

 反骨心旺盛で、いつも喧嘩していた弟。

 2つ下で、顔立ちは祐一と似ていないが、目の鋭さはそっくりの少年だった。

 数年前まで、いつも後ろをついて回っていた弟の姿は無い。いつの間にか、自分の選んだ道を歩く様になっていた。

 弟は負けん気が強く、負けず嫌いな所は、祐一に勝るとも劣らない。

 そんな兄弟だから、毎日の様に喧嘩していて、近所でも有名だった。そして喧嘩すれば、決まって祐一が勝つのだ。

 まあ、それが気に入らなかったのだろう。喧嘩で負けた後は、しょっちゅう家を飛び出して、なかなか家に帰ってこなかった。

 そして母さんに拳骨を貰って、お菓子片手に迎えに行くのが、祐一の日課でもあった。

 何だかんだで、よく世話を焼いていた。

 

 ───ああ。また、行くよ。行かなくちゃならないんだ。

 

 祐一は、歩き出した。

 ここが、自分の都合の良い夢だと、気付いていたから。

 ここでは誰もが笑っていて、欲しい物がすぐに手に入る、満たされた世界だ。

 この世界で何も考えず、刹那的な快楽を得る為に、己の使命を忘れ、幸せな日常に耽溺しても良いだろう。

 己の人生なのだから。

 死期が近い彼が、末期の時を享楽的な時間に費やそうと、誰が文句を言うだろうか。それどころか、せめて最後の時くらいは、と誰であっても静かに見守るだろう。

 

 ──それでも祐一は、未練を断ち切る様に進んだ。

 

 全ては、友の約束を果たす為に。

 そう、パルヴェーズとの約束を果たす事だけは、この何でも手に入る夢の中では、手の入らなかった。

 ……いや、夢の中に居るからこそ手に入らないのだ。

 誰もが笑い合う世界。でも、この世界にパルヴェーズは居ない。ここには異国で出会った、旅の相棒は居なかった。

 一度は、信じ切れず拒絶してしまった友。

 あの時は辛かった。まるで体中をロープで縛り、同時に引っ張り引き裂かれる様な痛みと、四肢を失った絶望感で、立ち上がれなかった。

 もう、あんな思いをするのは御免だった。

 祐一の足は止まらず、振り返る事も無かった。

 ただ、心は嵐の如く荒れ狂い、溢れ出る涙を堪えるのに必死で、振り向く事が出来なかった。

 

 運命は、天命は、因果は、何時だって彼を苛んだ。

 

 祐一が凶行を犯さなければ、家出しなければ、あんな事さえしなければ、彼が船に乗る事もなく、数多の災厄に見舞われる事も無かっただろう。

 家族と共に過し、彼の愛する故郷の地で、静かで穏やかな日常を送り、精一杯生き、老いて死んだだろう。

 だが、巡り巡ってやって来た因果は、祐一に災厄と絶望と死を、何度も運んで来た。

 

 あの日。あの時。大罪を犯してしまった彼は、いつも死と隣合わせにあった。

 

 船が転覆した事も、過酷な土地に流れ着いた事も、魔物に襲われる事も、因果が彼を敵視し、牙を剥くからだ。

 それでも祐一は、持ち前の前向きさと身体能力、それと、強運で生き残り続けた。

 どれか一つでも間違えれば、死が待っている選択肢の中で、祐一は、正解を引き続けていたのだ。

 例え正解が無くても、自分で正解を作って、時には友に助けてもらって。そうして、なんとかここまで辿り着けた。

 だが、もう限界だった。

 パルヴェーズの助けは無いだろう。彼は、試練や勝負に甘い顔を見せる奴じゃない。確信を持って、そう思える。

 そして、俺は辿り着く事無く……力尽きる。

 確信を持って、そう思った。

 諦めた訳じゃない。冷静に状況を鑑みて、弾き出した結論だった。それでも……

 ───力尽きるまで、進み続けよう。

 

「祐一」

 

 父さんの声が聞こえる。深みのある染み渡る声。

 祐一は、振り向かず進む。

 

「いつか……帰って来いよ。そがん急がんで……よかけん。……お前の足で、帰って来い」

 

 寡黙な父の言葉が、祐一の胸を打つ。

 血が出るほど、唇を噛み締め、涙を堪える。

 ───ごめん。ごめん。

 ───今の俺には、あなた達より大切な人が出来てしまったから……だからもう、あなた達の所には戻れないけれど。

 ───今まで、ありがとう。……さようなら。

 目を覚ます。

 まずは感じたのは、酷い頭痛だった。気怠さと、身動きする度に走る痛みが、祐一を容赦無く襲う。

 目から入る世界の色が、痛む頭には酷く鬱陶しい。思わず目を瞑り、少しでも和らげようとする。だが、今度は痛覚が鮮明になって、頭痛を強く感じ取ってしまった。脳の中に通る太い血管の収縮が、じんじんと痛む。

 頭痛で思わず涙が滲みそうになるが、もう視界が潤む事すらなかった。

 唐突に気付く。喉や腹で暴れ狂う飢餓感を。

 喉の渇きは、変わらない。乾きこびり付いた口は、弱った祐一にとって、開く事すら億劫で疲れるものだった。口の中には、道端の草を根っこごと食べていたからか、泥臭い味がこびり付いていて、吐き気が胃から這い上がる。

 四肢に力を入れ、身体を起こそうとして、出来なかった。身体の半分が動かないのだ。すぐにバランスが崩れ、倒れ込む。

 そもそも、立ち上がれる程の力すらない。

 

(甘えんな……いくぞ……!)

 

 弱った身体は、立つことすら儘ならない。

 だが、身体は動く。這いずる様に左手と左足で、進む。

 這う左手に石が突き刺さり、鋭い痛みが走る。それでも、前へ進む。這いずっているとシャツが破け、腹部をデコボコとした砂礫がひっかいて行く。

 動かない右腕と右足に、感覚が無くて良かった。

 引き摺り、肌を晒す身体は、皮が破け、血が滲み、貪欲な大地が飲み込んでいた。一番傷付いている右腕と右足に、痛みがあれば、さしもの祐一も進むのを躊躇ったかもしれない。

 ただただ、機械の様に動く。親に貰った身体で、前へ進む。

 己の人生が終わる……その時まで、進み続けよう。

 疲れ切り膿んだ顔で、力無く笑う。

 だが目には確かに灯る、光があった。

 祐一の心は、悲しいほどに、強くなっていた。

 

 

 ○◎●

 

 

 ───ラクシェは気に入らなかった。

 

 気高く、孤高。剛力無双にして、頭脳明晰。

 威風堂々とした姿は、ありとあらゆる同族を押し退け、王者の風格を纏っていた。種の頂きに立つ彼女を前に、数多の同族は家臣の如く、須らく膝をついた。

 人々もまた、惜しみ無い称賛を送った。

 

 駆ければ、その魁駆に見合った力強さと、疾風の如き速さを発揮し、比喩では無く本当に千里を駆けて見せるだろう。

 

 まさに、並ぶ者なしの名馬である。

 そんなラクシェも、先日生涯で初めて、心からの恐怖を味わった。

 

『駱駝』である。

 

 あの破壊の化身が姿を表し、一度咆哮を上げれば、如何に最高位の能力を持つラクシェでさえ、恐慌状態に陥った。

 暴れ狂う『駱駝』。巨駆を誇るラクシェであっても、歯牙にかけない巨大な『駱駝』を止めたのは、なんと己よりも矮躯で下等な「人間」の子供だった。

 強烈な意志を宿し立ち向かう少年の姿は、誰よりも背の高い彼女には、よく見えた。

 

 そして、鮮烈で、猛々しく、不敵に笑う少年の姿は、ラクシェの脳裏に焼き付いた。

 同時に己が頗る情けなく、少年に対して嫉妬にも似た感情を抱いてしまった。己が、至高であると考えていたラクシェの生涯で、初めて抱いた感情でもあった。

 だが、少年は武運拙く破れ、骸を晒した。

 立ち向かった少年に鼓舞された者達は立ち上がり、魔物へ立ち塞がった。

 それは、ラクシェもまた、例外では無かった。

 

 しかし、そこへ──主が現れた。

 ラクシェは一目で悟った。己はあの方の役に立つ為に生まれ、尽くし、そして死ぬのだと。

 死闘の幕が開け、遂には、倒れた少年も蘇り、参戦し『駱駝』討ち果たしたのだ。

 気付けば、足が動いていた。彼らと共に行きたい、と身体が勝手に動いていた。

 

 そうして始まった旅は、ラクシェの無味乾燥とした生に嘗て無い程の刺激を与えていた。仕える主を得て、競い合う強者も居る。悪くない時間だった。

 ただ先日の、主の不興を買い怒らせてしまった事は、反省すべきだと思っていた。試練を与えられ成し遂げる事を決意するラクシェ。だが、敵愾心を煽るこの人間と、何かを為すのも素直に肯けなかった。

 だから、試練が始まり、走り去った主を追いかけた。追い縋る人間を振り払って。いい気味だと思った。

 ラクシェには、勝算があった。己の足を持ってすれば、主に追いつけるだろうと。そして追い付けば、あの少年が持つ羽根なんぞ必要は無い、と。

 

 だが、すぐに気付いた。……追い付けない、と。

 なんて速さ。完全に見失ってしまった。諦め佇むラクシェ。己の足に絶対の自信を持ち、今まで速さでは、無敗だったラクシェにとって、その衝撃は計り知れない程だった。

 仕方無く、主が走り去った方向を目指す。ふと、喉の渇きを自覚し、水を取ろうとして……出来なかった。

 

 触れようとしても、触れないのだ。まるで靄のように、すかを切るだけ。

 目の前にあるのに、取れない。ひどい生殺しだった。

 主の言葉を思い出し、落胆した様な、仕草を取る。

 苦渋の決断だったが、引き返し人間の方へ向かう事にした。

 ぬけぬけと厚顔に、少年の前に姿を表す事は気位の高いラクシェにとって、到底不可能な事だった。

 歩く人間の遙か後ろで、己の不甲斐なさを呪いながら、ラクシェもまた歩いていた。

 

 そして今、その己に比肩する強者が倒れ伏し、情け無く地を這っている。

 もう余命が幾許もない事は、すぐに分かった。

 認めたく無かった。

 気に入らなかった。

 喉の渇きも、空腹も、屈辱も、羞恥すら忘れ、ただ祐一を睨むように見下ろしていた。

 これまで己と肩を並べ、戦える者など、出会った事は無かった。ましてや、負け知らずの己に土を付ける存在など、皆無だった。

 己に初めて、「嫉妬」や「敗北」を与えた存在。

 ラクシェが初めて得た好敵手とも呼べる存在が、弱り切り、哀れな姿を晒している。

 そんな姿を見ているの者は、己と太陽のみ。それでも、この人間が醜態を晒す事を良しとしたくはなかった。

 死相を浮かべ……しかし眼光は未だ鋭い少年に、近づく。

 どれだけ近づこうとも、少年は気付かない。

 ひたすらに左腕を動かし、這って這って、前に進む。

 ───気に入らない。

 自分が無視されたようで。鋭い眼光には、己では無く、主しか見えていなくて。

 少年は、己の矮小さを、言葉も無く語っているようにも、見えたのだ。

 右脚を振り上げる。

 蹄に少年の服を引っ掛け、すぐ横にあった小岩へ乱暴に立て掛ける。まるで、小枝のような軽さに驚く。思わず乱暴だった動きを改め、壊れ物を扱う様に丁寧に運ぶ。

 意味が解らず、目を白黒させる少年。──いい気味だった。

 見下ろし、鼻を鳴らすラクシェ。

 

「ラ、ラクシェ……か……?」

 

 状況把握が出来ていない愚鈍な人間に向け、もう一度鼻を鳴らす。

 前しか見ず、進み続けた少年は、漸く己をその瞳に捉えた。嘲りの表情を浮かべたラクシェに、ムッと顔をする少年。──いい気味だった。

 水の入った袋を、少年に向け、「取れ」と言わんばかりに差し出す。言わんとする事を察した少年が、凄まじい顰めっ面を浮かべ、諦めたように手を伸ばす。

 どうしようもない程、喉が渇いているのだろう。

 立ち上がれない少年の手は、袋に手が届かず、空を切る。

 白い目を少年に向け、膝を折るラクシェ。

 青筋を浮かべ、顰めっ面が酷くなる少年。

 遂に、袋を手に取り、貪る様に水を鯨飲する少年。

 その姿を、ラクシェは静かに眺めていた。

 どれほど時間が経っただろうか。袋の水が無くなるのでは無いか、と心配になるほど飲み続けていた少年。

 少しだけだが、顔に生気が戻っている。

 不思議な事もあるものだ……。ラクシェは、遠目に見ながら思案した。

 

「ん」

 

 飲み終わった少年が、袋を差し出す。

 

「ん!」

 

 反応を示さないラクシェに向けて、もう一度差し出す少年。

 何故そんな事をするのか分からず、ラクシェは胡乱な目を向けた。

 少年は、心底面白く無さそうな表情を顔に貼り付けて、ぶっきらぼうに言う。

 

「お前も、水、飲んでないんだろ。この袋は、俺しか触れねぇ。ここに水はねぇ! ……なら、飲めよ」

 

 いらない。ラクシェは心の中で、呟く。

 ラクシェもまた喉の渇きは、酷い。焦げ付いたような喉は、息をするのも辛く、唾を飲み込む事さえひと苦労だ。

 余談だが、馬が一日に飲む水の量は多い。おおよそ、二十Lから四十Lの水が必要だ。それに加え、ラクシェは巨駆なのだ。通常の馬がで必要な水量よりも、数倍は必要だろう。喉の渇きは尋常では無いだろう。

 それでも、この人間から何かを受け取る事を、ラクシェのプライドが許さなかった。

 王者であり、無敗を誇った己の人生に、初めて敗北と屈辱……それに、羨ましい、と言う感情を与えた存在に、助けられたくは無かった。

 睨み合う両者。

 意固地になり、反発し合う一人と一匹は、なかなか相手の好意を受け取ろうとしない。頑なであった。

 似た者同士、かも知れぬのう……。

 此処にもし、パルヴェーズが居れば、苦笑しながらそう思うだろう。

 

「……俺だってこんな事したかないけど、お前は俺を助けただろ。俺は、お前に借りを作りたくねぇ。腹立つし……。けど……、仲間を助けるのは、当たり前だ。……だから……飲めよ」

「……」

 

 渋々、と言った様子で口を近づけ、袋の水を飲む。

 最初は、ちびちびと飲んでいたラクシェ。だが、喉渇きが収まらず、気付けば、ゴクゴクと飲み干さんばかりに、口を付けていた。

 ──ぽす……。

 撫でられた様な……そんな痛くも痒くもない感覚が、眉間の痛覚を刺激する。

 そんな、おかしな感覚に、少し驚くラクシェ。

 次いで、水を飲んでいた口を止めては、何か飛んできた方向を見遣る。

 手があった。人間の、か細い手だ。

 聡明でなくとも、すぐに理解した。少年が、ラクシェに拳骨を落としたのだ。

 ラクシェはまた、胡乱な目を少年に向ける。

 少年は、落胆した表情……「至極残念だ」と言う言葉を顔に書き、舌打ちを鳴らしていた。

 

「ちぇっ。力一杯殴ってもこれかよ……。はぁ……まあ、いいや」

 

 ため息を零した少年は、ラクシェの方を見遣り、

 

「おい、ラクシェ。置いて行った事、これで手打ちな。……俺が元気なら、ホントにぶっ飛ばしてたからなっ! 覚えとけよ!」

 ……フンッ! 

「あっ、テメェ! お高く止まりやがって! そう言う所がムカつくんだよ! ちょっとはパルヴェーズを見習えっ! あいつは、確かに偉そうだけどな、めっちゃ優しくて……」

 

 何か雑音が聞こえて仕方が無かったが、ラクシェは全て無視し、袋の水を飲む事に集中する。

 久しぶりに飲む水は、喉の渇きも、もやもやした感情が蟠っていたラクシェの心さえも、癒やしていった。

 

「……まあ。……ありがとよ。これで、また頑張れるからさ。ま、礼は言っとくぞ」

 

 そう言ってまた這って進み始めた少年。もう、四肢のほとんどは動かず、唯一動く左腕で、少しずつ少しずつ進む。

 進んだ後には、黒く濁った血がこびり付いている。引き摺る手足は、かつて己と競った力強さは……無い。

 肉が削げ落ち、剥れそうな皮に角張った骨が浮かび上がっているのみだ。

 ──なんて、醜い姿。

 気位の高いラクシェは、そう思って仕方が無かった。……だが、同時に思う。

 ──頼れ。置いて行った私がそんなにも気に入らないか。

 ラクシェは、そう言葉も無く、心の中で問い掛けた。

 四肢の殆どが動かず、生命を維持する事さえ事欠く少年にを見下ろす。何か、胸から込み上げる様な、抉る様な感情がラクシェを支配した。

 それは、人であれば「悔恨」と表す感であった。

 

「あ、おいっ、何するんだよ!」

 

 気付けば、少年……祐一を、口でつまみ上げていた。

 僅かばかりの抵抗しか出来ない祐一に苛立ちと、己に敗北を与えた好敵手を好きに出来る暗い快感を感じながら、つまみ上げた少年を背に乗せる。

 フンッ! と鼻を鳴らし、歩き出す。

 だがすぐに、背に乗せていた重さが消える。と、一瞬の間を置いて、ドシンッと鈍い音がする。

 

「ふざけんな! 俺は……んぶっ!」

 

 最後まで言わせず、再びつまみ上げ、背に乗せる。

 ──ドシン。

 また、落ちる祐一。苛立った様に、嘶きを上げ、再びつまみ上げる。

 ──ドシン。

 睨み合う両者。

 戦況は、動けない祐一が、圧倒的に不利である。だが、「絶対に、コイツの手は借りん!」と抵抗し続ける。

 だが祐一も頑固なら、ラクシェも頑固だった。

 乗せては、落馬し、乗せては、落馬し……その動作を何度も繰り返す。

 どれほど時間が経っただろうか。やがて祐一は力尽き、意識を失った。

 汚れ塗れの土塗れ、全身に流血の跡が残り血塗れな祐一の姿は、まるで、ギリシアの英雄アキレスに引き摺り回されたヘクトールの如き無惨さである。

 勝者はラクシェ。おそらく、これがラクシェの初勝利ではなかろうか。

 満足した様にラクシェは、大地を踏み締め、歩き出す。そんなラクシェの姿は、どこか上機嫌にも見えた。

 

 試練開始より三日目。

 いがみ合っていた両者は、やっと同じ道を歩き始めたのだった。

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