───ラクシェは、気に入らなかった。
敬愛すべき主の寵愛を一身に受ける少年の存在が。
主の第一の臣下たる私こそが、寵愛を受け、主の無聊を慰め、そして殉死するに相応しいのだ。
そう思って憚らない。
だが、現実は違う。
主の側には、あの生意気な人間がいつも付いて回り、へらへら笑っているのだ。
許せない……! そう、ラクシェは憤る。
その感情は嫉妬すら越え憎しみと言い換えても良いかも知れない。
確かにあの少年とは、あの試練で協力しあった。
だが一時的な物で、試練が終われば元通り。
いがみ合う、以前の関係に戻ると信じて疑っていなかった。
だがそうはならなかった。
あの少年は試練が終わっても近付いて来た。どれだけ素っ気無くしようと、構わず話し掛けて、こちらの反応を伺っていた。
鬱陶しい事この上ない。
主が居なければさっさと縁を切り、遥か彼方へ走り去っていると言うのに。
ラクシェはそう思って憚らなかったが、結局拒絶しようともしなかった。ラクシェもまた、祐一の事を少しは気に入っていたのだ。
己に敗北を与えた好敵手たる強い存在を。
どれほど不運に塗れようと憎悪を向けない純粋な存在を。
己と旅をし色付いた世界に引き込んだ存在を。
ラクシェは気に入っていたのだ。
そう──己の命を賭して、庇おうとするくらいには。
気付けば、身体が勝手に動いていた。
背の主と友は、動けずに居るのが判ったから。
動けるのは、己しか居なかったから。
そんな思考を巡らすより速く、迫る死の予感に身を踊らせていた。
魂を収奪する死神から、守る様に。逃れ得ぬ脅威から、身を挺し庇う様に。ラクシェは、その巨躯をもって、猛った。
背に乗せる仲間を守る為に。
次いで感じたのは、首から尾までの間を、何か鋭い物が駆け抜けた感覚だった。鋭い物は、己の誇る強靭な肉体を、産まれたての赤子の肌でも切るかの如く、容易く切り捨てた。
一瞬、感覚が白く濁った。次いで、炉で鍛え、まだ赤々と赤熱する刃を身体へ差し込んだ感覚。
四肢の神経が寸断され、痛覚が、けたたましく叫ぶ。
神速で切り捨てられた四肢が、弾け飛びそうになるが、力一杯ふん縛り堪える。
力を込めた事により、血が間欠泉の様に出る。
それを横目で見つつ、前へ、前へ歩を進める。
───ッ! ───ッ!
鬱陶しい。
背で、何か叫び声が聞こえるが無視する。
もう、主の姿は、無い。
何度も繰り返し強襲する敵へ、応戦している様だ。
だが命を賜った。最初で、最後の命。
──『小僧を、頼む』と。
おお! 望外の幸せ! なんとしてでも、叶えなくては!
主の命がため、我が身命を賭して!
ならば私は……少し先に見える、身を隠せるほどの岩まで、背の友を運ぶ。
それが、己に託された使命だ。
ぐらり。
意識が薄れかけ、脚が縺れた。情けなく、頭から地面に倒れ込みそうになる。
寸での所で、耐える。
背の声は、何を言っているのか分からないが、酷く鬱陶しく、五月蝿い。
黙らせる為にも、速くあそこに着かなくては。
四肢に力を込め、立ち上がる。裂けかけていた腹袋が破け、ドシャドシャと、血と臓物が溢れる。激痛に意識が、明滅する。
それでも、脚は、動くから。
『仲間を助けるのは、当たり前だ』
そう言った少年の言葉に従うようで、酷く尺ではあったが、「フンッ!」と鼻を鳴らし、また前へ踏み出す。
私は、お前の言った言葉を、実行しているだけだ。
文句を言いたいなら、あの時、私に水を渡した過去の自分に言え。
そんな子供っぽい幼稚な考えで、突き進む己の、なんと滑稽な事か。
そんな考えをしていると判れば、あの少年は、馬鹿野郎と怒るだろうか。
主は、呆れた様に笑ってくれるだろうか。
目が霞む。
もう視界には、何も映らない。虚無の世界が広がっているばかりだ。
それでも、あと何歩進めば辿り着けるかは、覚えていたから。
主の命を果たさねばならなかったから。
背の友を、死なせたくなかったから。
だから私は、最後まで進む、のみ。
一歩、一歩、進むごとに、己が生涯の情景が流れていく。
産まれ出て数年。讃えられ、崇められさえした日々。輝かしき、栄光の日々。
───しかし、色の無い日々だった。
だが、あの少年……祐一と、主が現れてから、全てが色付いた。
薔薇色。黄金。虹色。そんな、ちゃちな色では無い。もっと美しい色に彩られた、尊き日々。
これ以上、望むべくもない。
───そして今、最初で最後の命を受けた。
何という、幸運。
私の無価値な生にも、唯一無二の価値が出来たのだ。
ならば……。
身命を……賭して……。
叶……え……ね…………ば……。
「おーい、ラクシェー! 何やってんだよ! 置いて行っちまうぞー!」
声が聞こえた。
ここ最近、毎日鬱陶しいほど聞いていた声。いつもいつも、私の耳元で叫んでは、振り払っていた。
だが、嫌いではなかった。
「ははーん? もう、バテたんだな? ははは。ラクシェとも、あろう奴が情けねぇなぁ。おら、おぶってやろう。背中貸してやるぞ! ほれほれー!」
無礼な! 私を馬鹿にするとはいい度胸だっ! 今すぐ素っ首落としてくれるっ!
「やーい! 怒りん坊ラクシェがキレたぞ! 逃げろ逃げろっ!」
「えぇい騒がしいのう。おぬしら」
「おっ、パルヴェーズ」
主! 聞いてください! この者が……
「ふふ。まあ、よいではないか。何時もの事じゃろう? ……それより、旅を続けねばの。急がねばならぬのでな……」
「だってさ。ほら、さっさと行こうぜ」
そう言って、二人は歩き出した。
私も……行こう。
脚を踏み出そうとする。……だと言うのに、脚が動いてくれない。まるで、肉体なんて最初っから無かった様な……。
今さっきまで、動いてた口も動かない。まるで、固く閉ざされた扉のよう。
待って! そんな簡単な言葉さえ、出せない。
視界が霞む。主たちが居た景色は、深い霧に溶けて行く。意識が……遠のいて行く……。
置いて……行かないで……。
私……を……ひとり……に…………。
掠れ行く意識の中、ラクシェは哀しみに濡れながら、思う。
たが、そんな意識を掬い上げる様な声が、聴こえた。
「さぁ……行こうぜ。ラクシェ……」
───少年が、見えた気がした。
傷付き、今にも倒れそうで……。
少年……祐一の、笑う様な……泣いている様な横顔。
そして、固い決意を秘めた声が、耳朶を叩く。
ああ。共に……。
───それがラクシェの、最期の記憶だった。
「───ラクシェエエエエエッ!!!」
祐一の慟哭が響く。
祐一は跪き、ラクシェに縋り付いては、喉よ裂けよと叫ぶ。
後悔が。
……思いが、溢れる。
──お前を、まだ、上手く乗りこなせていないのに……!
何度も、何度も、ラクシェに振り落され、落馬した。
──お前に、まだ、助けて貰った恩を返してないのに……!
俺はあの時、お前に助けて貰わなければ死んでいた。
──お前と、まだ、何も判り合っていないじゃないか……!
いつもいつも、いがみ合って、歩み寄ろうとした時には……もう遅かった。
祐一の胸中は、後悔で埋め尽くされた。
どうする事も出来ず、泣き叫ぶのみ。仲間と思っていた者の死は、若い祐一にとって、初めての事で……。
ただ、ただ、戸惑い、泣き叫ぶ事しか出来なかった。
「小僧! 無事か!」
後ろから、聞いた事の無い切羽詰まったパルヴェーズの声が聴こえた。今さっきまで、争っていた化身の気配が無い。彼が、どうにか退けたようだ。
しかしその対価は重く、パルヴェーズにも、左肩から腹部にかけ裂傷が走っていた。
はっ、と祐一は顔を上げ、パルヴェーズの方を向く。
「パ、パルヴェーズ! ……ラクシェが! ラクシェが死にそうなんだ! 早く、早く助けてやってくれよ!!」
祐一は、懇願した。
あの奇跡を起こせるパルヴェーズなら、倒れ伏したラクシェでも、助けられるはずだ。
そう思って祐一は、パルヴェーズの外套の端を握り締め、頼み込む。
だがパルヴェーズは目を伏せ、首を振るのみだった。
うそだ! うそだ! パルヴェーズが出来ない訳無い!
子供が癇癪を起こした様な、怒りにも似た感情が沸き上がる。
でも祐一には、その感情を、言葉にする事が出来なかった。
祐一も、判っていたのだ。
血溜まりに沈むラクシェは……共に大地を駆けた仲間は、もう逝ってしまったのだと。
ただ、その現実が余りに受け入れ難くて。
永遠の別れ……そんな物は初めてで。
そして、何も出来なかった己が情けなさ過ぎて。
ただ、拒絶するように、泣き叫んで居ただけだった。
パルヴェーズはラクシェの側へ、外套に血が付くのも構わず、膝をついた。
そして、ラクシェの瞳孔の開いた目を見詰め、感謝を伝えると、労る様にラクシェの目蓋を閉じた。
スッと、立ち上がったパルヴェーズ。そこには、死者を弔う陰のある表情は無い。これより行われる激戦に備え、闘志を充溢させる戦士の表情があった。
祐一の如く、仲間の死に戸惑い、悲しみに暮れた顔では無い。彼は正しく戦士であった。
「小僧、おぬしは逃げよ。今は手傷を負い、退いているが、あの化身もまた、戦場での不死性を持っておる。そうそう死にはせぬ。然程時間も掛からず襲って来るじゃろう……。今のうちじゃ逃げよ」
「いやだ!!」
「……ならぬ! 今のおぬしに、何が出来る? 仲間が倒れ、心乱れ、心眼も使えぬおぬしが、化身を相手取って戦えるとは思えぬ! ここは、引け! 小僧!」
「なんでだよっ! なんでそんな事、言うんだよ!! ラクシェが! ラクシェが殺られたんだぞっ!! 仲間が……! それなのに、仇を取っちゃいけねぇのかよっ!!?」
「違う! そうではない! 数多の戦場を見てきた我には、分かるのじゃ! 今のおぬしでは、武運拙く何も出来ず、果てるのみ! 冷静さ欠いたおぬしなど、あの化身の相手では無い! ここは聞き分けよ、小僧!」
「ふざけんな! 俺は、あいつの……!」
───突然の出来事だった。
───燦めく。
虚空に、光が生まれた。
見れば、それは一つだけでは、無い。
十や百は優に越え、幾千、幾万にも及ばんとする数。
まだ太陽が燦々と輝く真っ昼間だと言うのに、この空間だけ夜空の星空が現われたかのよう。
───。 ───。
声が、聞こえる。英雄譚を朗々と謳い上げるような。記された歴史を淡々と語り上げるような。犯してきた罪科を糾弾するような。
何の言語なのかも、何の話なのかも、解らなかったが、祐一にはその声が酷く恐ろしく、鋭い物に聞こえて仕方が無かった。
インド──インドラ マニ──アダマス バビロニア──ネルガル エジプト──ホルス ギリシャ──ヘラクレス アルメニア──ヴァハグン
いくつもの綺羅星さながらの勇壮な名とイメージが乱れ飛ぶ。
なんだ、これ……。
祐一に疑問が湧くと同時に、パルヴェーズの驚愕した声が鼓膜を叩く。
「──『戦士』の化身じゃと!?」
祐一は、少なからず驚いた。
いつも、泰然自若としたパルヴェーズ。そのパルヴェーズの、焦燥感に満ちた声なんて、聞いた事がない。
それほどまでに、パルヴェーズの声音は、余裕のないものだった。
祐一は、ここに至って、やっと冷静になれた。
パルヴェーズの言葉は、頭に血が登っていた祐一には、冷水に等しく、聞いた側から、正気に戻すほどの衝撃を与えた。
最初に現れた化身の比ではない。
絶体絶命。
正に、焦眉の急を告げるに等しい事態だと、理解したのだ。
───ドスンッ……!
足音が、聞こえた。
巨体を誇る者特有の、大地を揺らす振動と共に聞こえる音。威風堂々とした姿を思い起こさせる音。
ああ。仲間であれば、どれほど心強かっただろう。
ああ。聞こえる足音の、なんと恐ろしい事だろう。
祐一の胸中は、絶望に占められそうだった。
『強風』『山羊』『雄牛』『駱駝』──今まで邂逅した化身達と、まるで気配が、違う。あの化身達は獣の如く本能的で、猛り狂う厄災の如き恐ろしさがあった。
だが今回感じる気配は、違う。
まるで『剣』だ。石から産まれ、業火にて鍛え上げられた……数多の難敵を調伏する『剣』。
そんな恐ろしい気配を、ひしひしと感じながらも。
だがそれでも、勇気を出して、顔を上げる。
とある方角を睨むパルヴェーズの、視線を追う。
そして、見た。
大地を踏み締め、進む……───《鋼》の巨人の姿を。
その姿は、筋骨隆々とした勇ましき戦士。
背丈は、見上げるほど。そこらの木々なんぞより、ずっと高い。
魁躯を誇り、眩く輝かんばかりの戦士だ。
光り輝く黄金の鎧で、全身を包み込んでいる。だが、その分厚い鎧からでも隠し切れない、赤銅色の肉体が、彼の力強さを、この上なく物語っていた。
手には何も持っていない。
しかし代わりに、あの戦士が身を包む鎧の様な……黄金の光球が空に散りばめられている。
その光の、なんと恐ろしい事か。
頭部には、これまた黄金の兜を被り、赤々と烈火の如く紅い巻毛の髪が覗く。
戦士の容貌は、面貌の如く顔を覆い尽くす兜で伺い取れないが、こちらを射竦める視線はハッキリ感じ取れて、祐一は動けなくなってしまった。
その時だった。
──グンッ! 何か強い力で引っ張られた。
───斬ッ! その瞬間、今さっきまで、居た場所を鋭い真空刃が駆け抜けた!
じっとりと、冷や汗が滲む。
最初、何が起こったか理解出来なかった。だが、すぐに思い至る。あれはラクシェの仇だ! と。
だが、祐一が行動を起こすより早く、祐一を引いた手は、彼を離さず何処かへ駆け出した。
驚いて、引っ張られた方向を見遣る祐一。
その手は、パルヴェーズの手だった。
あの彼が……負けず嫌いで、己を勝利の化身と言って憚らない彼が、戦場から背を向け、遁走していた。
呆然とする、祐一を連れて。
思わず、パルヴェーズを見る。
なんで……? そんな疑問の言葉を投げ掛けようとして、閉口した。
──その横顔が、余りにも寂しそうだったから。
「小僧。これより、おぬしを強風の権能で街へ送り届ける。おぬしは先に、街で待っておれ」
「は……? ……な、何言ってんだよ、パルヴェーズ……!」
「ふふ。なぁに、心配する事は無い。我の強さは、おぬしがよく知っておろう? ──友を信じよ」
「うそだ!! お前、最初の化身との戦いで怪我してんだろ!? 俺、なんとなく判るんだ! お前が今、どれだけ苦境に立ってるのかも!」
パルヴェーズは、微笑む。
アルカイックスマイルでも、仏像のような神々しい笑みでは無い。
何時も笑い合っていた、祐一の大好きな笑顔で。
「おぬしと出会えた事、全ての因果に感謝しよう。おぬしと出会わなければ、ただ流れる月日を無為に過ごし、迫りくる性に呑まれるだけであったじゃろう。しかし、そうならなかったのは、おぬしのおかげじゃ……感謝する」
いつか聞いた、別れの言葉。
今、パルヴェーズが紡ぐ言葉は、あの時の言葉を強く思い起こさせた。
そんなもの、絶対に認めたくは無かった。どれだけの苦難に塗れようとも、あんな思いは二度と味わいたく無かったから。一人戦場に残ろうとする友を置いて行きたくなかったから。
無意識に、パルヴェーズの外套を引っ掴む。そして、離すものか! と力を込める。
だが、出来なかった。
パルヴェーズは微笑んだまま、祐一の手を取り、掴んだ指を、一本、一本、剥がして行く。
何という膂力。必死に抵抗しようと力一杯に込め、引き剥がす力に抗うが……ビクともしない。
祐一は叫んだ。
「ふざけんな! ふざけんなよ!」
だが、もう遅い。指は全て、離れてしまっていて……
「ふふ。……さらばじゃ、疾く行くがよい!!!」
突風が吹いた。
その風は、逃れようと藻掻く祐一を絡め取り、空中へ連れ出した。ぐんぐんと大地が……戦場が、離れて行く。
たった一人、友を置いて、自分だけが───!!
独り戦場に残ったパルヴェーズは、笑っていた。優しげに笑い、去り往く祐一を見守っていた。
黄金の鎧に身を包んだ『戦士』
神速で空を駆る金色の『鳳』
迫る二柱の化身を背にして……。
「────パルヴェェェェェズ!!!」
祐一の絶叫は、ペルシアの空に溶けては消えた。