「クソッ!!! 離せよ! 離せってんだよぉっ!」
祐一はいま灰色の大地を眼下に望んでいた。
パルヴェーズに権能で送り出されてよりずっと藻掻いていた祐一だったが、結局どれほど暴れようとも、風の拘束から逃れる事は出来なかった。
この無色透明の檻は、どれだけ力を振り絞ろうと、柳に風と受け流し藻掻く祐一を相手にしなかった。
悔し気に思わず握り締めた拳で空気の檻を叩く。しかし霧散したかに思えた風は、すぐに元に戻り祐一を空の彼方へ運んで行く。
だが例え今ここで風の拘束から逃れようと、眼下に広がる大地に叩き付けられるのがオチだ。
だが祐一はそれを分かっていても、拘束を振り払う事を辞めはしなかった。
──許せなかったのだ。納得なんて行く筈もない。
今すぐパルヴェーズの元へ戻り、共に化身を倒さなければ!
そう思うのに、心が逸るばかりで、祐一とパルヴェーズの距離は放たれた矢の如く離れて行く。
二柱だ。あの強力な化身が、二柱も居るのだ。バンダレ・アッバースで暴虐の限りを尽くした『駱駝』……あの一柱でさえ、あんなにも苦戦したと言うのに……!
「なんで、俺を頼らねぇえんだよおお! パルヴェーズ!!」
俺たちは、共に背を預け戦場をくぐり抜けた仲間じゃなかったのか? お前にとって俺は、そんなに弱い存在なのかよ!
そんな思いがぐるぐると沸き上がって、じっとしていられなかった。
爛々と嚇怒に燃える瞳を宿し、檻に入れられた獰猛な猛獣の如く、猛り狂う祐一。
理性が完全に消し飛んでいる姿は、まさに獣である。
そして、眼下に見える景色が文明の色へ、にわかに色付いて来た頃だった。
───グググッ!
風の檻で閉じ込められ、身動きが取れない祐一を、何か強い力が引っ張ったのだ。
只でさえ、強風に運ばれていると言う摩訶不思議な状況の中、突然訪れた変化に、驚愕する祐一。藻掻く手を更に暴れさせるが、やはり柳に風。
祐一は結局、引っ張られる力そのままに、また遥か彼方へ運ばれて行った。
○◎●
どれほど押し流されただろう。祐一を引っ張る力は以前変わらないままだ。
祐一がこの力に拐われて、幾許かの時間が過ぎた。もうパルヴェーズの姿も、眼下に一瞬捉えた町も、遠い。
祐一は、もう虚ろな顔でうなだれ俯いていた。ただ弱々しく力の入っていない手で風を切るのみ。
いつまで続くんだ……。そう思った瞬間だった。
パッと、今まで祐一を縛めていた風の鎖が、ほどけた。
「──え?」
気付いた時には、遅かった。
風の檻が無くなり、遥か天空にて自由の身となった祐一。
「え? えっ? えっ!?」
風の縛めから解き放たれた祐一の身体を今度は「重力」と言う、同じく無色の鎖が絡め取る。
「ぎゃあああああああ!!!??」
絶叫を上げる祐一。唐突に始まった、パラシュートなしのスカイダイビングに、為す術なく落下していくだけだった。
それと同時に祐一のトラウマが呼び起こされた。アラビア海洋上で船から放り投げれたと言う記憶が。
どうしようもない恐怖に、全身がガタガタ震え、意味の無い絶叫が空へ轟く。寸での所で失禁は免れたが、恐怖で涙と鼻水が止まらない。
──しにたくねぇえええ!!! そう思えども、どうする事もできない。
気付けば、地面が酷く近付いていた。言語化出来ない言葉を洩らし、必死にもがく。
だが、重力は情け容赦なく、大地に祐一を引き込んで行く。
せめて! あそこに! 見える! 湖に……!
視界の端に、偶然見えた湖。群青色に輝く、大きな湖だ。
あそこに落ちれれば……助かる、かも……!
そんな淡い期待を胸に、必死に手をバタつかせ近づいて行く。
その甲斐あってか、湖の端あたりに落下しそうな事が目視で判った。
臍下丹田にある力を、汲み上げ全身に注ぐ。気休めだが、少しは肉体が硬くなれば僥倖。
そんな考えの下、気を纏わせる祐一。
その直後だった。
───ドッボォッン! 果たして、祐一は湖へ落下した。
○◎●
どれほど気を失っていたのだろうか?
祐一は気が付くと、湖の浜で倒れていた。どうやら身体の節々が痛むが、動けない程じゃないようだ。
なんか、デジャヴ……。そんな事を呟き立ち上がる。
痛てて……。だがすぐに全身に激痛が走り、思わず地面へ転がる。やはりあの高さから落ち、助かったとは言え代償は大きい様だ。
痛みに呻き、はぁ……とため息一つ付きながら腰を降ろす。丁度いい岩を見つけ、もたれ掛かかった。
パルヴェーズは……大丈夫だろうか……。友の身を案じる祐一。あの場に残っても足手まといにしかならない事は分かっていた。そして今から走ってもどうしようもない事も……。
それでも、心配だった。ほっとける訳がない。
今まで、何度助けてもらったか分からない。今まで、何度笑い合ったか分からない。
一緒に旅して、同じ釜の飯を食い、背中を預けて戦い、夜空に輝く星空を見ながら語り合った友。
思いを募らせるほど、吐き気がする程の不安が祐一を苛む。己の無力感に、唇を血が滲むほど噛み締めた時だった。
予兆は、無かった。
しょっぱい……? 噛み締めた唇。そこから何故か、塩辛さを感じてしまった。疑問が湧き上がるより先に、海に打ち上げられた以来の感覚が懐かしくて……なんとなく安堵を覚えてしまう自分が居た。
異界の法則に長じる魔術師や、生物学の碩学泰斗であれば、あるいは気付けたかもしれない。
空から見た時……落ちる瞬間に見えたのは湖だったから……塩湖? 祐一は、テレビで見た死海と言う塩湖を思い浮かべた。
(なら、ここは死海か……? 死海って確か……イスラエルにあった筈だよな? あんな遠くに飛ばされたのかよ……)
イランどころの話じゃない。盤上から弾き出され、蚊帳の外にいるのだ自分は。言葉もなくこれがパルヴェーズとの差なんだと暗示されているようで心が常になく、どこまでも帳が降りて沈みきってしまう。
周辺の異常なほどの神力の高まりに、尋常ではない生き物達の怯えに。
パルヴェーズは街へあと少しで着く、と言っていた。だが祐一は今、飛ばされた場所から遠く離れた場所に居る事に思い至り、酷く動揺した。
だが、どうする事も出来ず、眼前に広がる湖面を見つめていた。
大きな湖だ。視界いっぱいに広がる湖面。
故郷のお気に入りの湖とは、桁違いに大きく、美しい。でも、やはり故郷の湖の方が好きだな。そう思った。
やっぱり故郷が好きだ。自分を頑固な奴と思いながらも、疲れ切った心に郷愁がもたげていた。
湖を泳ぐ魚、空を飛翔する鳥、穏やかな湖、青い空。その全てが異変を感じ取り、動ける者は少しでも遠くへ逃げ、動けない者はただのひたすらに身体を震えさせていた。
……気付かなかったのは人間だけであった。
そうしてボーと湖を見ていると、ふと湖面に黒い影が見えた。魚か? と最初思ってしまったが……大きさがおかしい。
遠くの湖面にいると言うのに、その黒影の姿がハッキリと分かる。
祐一は、安直にクジラかな……? と思ったが、ここは海では無いと思い至り、分からなくなった。
だが、一人だけ気付いた人間が居た。類稀な運と鋭い洞察力を持った少年、木下祐一だ。
嘗て感じた……恐ろしい感覚がした。全身の穴と言う穴に槍を付き入れられる感覚。足が竦み、全身に悪寒が駆け抜ける。
瞬時に立ち上がる。全身に激痛が走るが無視する。
先刻現れた、二柱の化身。
最初に現れた化身は、早すぎて気配を感じる事すら出来ず、次に現れた化身は、恐ろしい感覚を感じる前にパルヴェーズが守ってくれた。
だが───今は違う!
───突然の出来事だった。
湖が爆発した!? そう思える程の水量を巻き込み、黒い影は湖面より這い出てきた。
──ルォォォォン!
圧倒的な巨駆。容貌魁躯なほど太く、たくましい胴回り。今は湖の中にあり見えないが、その魁躯を支える四肢の強靭さは伝わって来る。
黒い影は、闇を溶かし込んだ黒色だった。全身に黒い毛皮を持ち、塩水で濡れそぼった毛皮は、元から美しい毛並みを更に光沢のある物へと変えていた。
影の容貌は恐ろしい。隠し切れない猛々しさが滲み出た、今にも狂奔に猛っても不思議ではない凶相。
そして、何より特徴的なのは、その両頬辺りから突き出た、禍々しく長大な牙───!
間違い無い! パルヴェーズが言っていた残る四柱の化身が一つ
───『猪』だ!
祐一は、これまでの経験を頼りに、確信に到った。
水中から現れた『猪』。
元々猪ないし豚と言う生き物は、以外と泳ぎが上手い生き物である。
インド神話にて大地が水中に沈んでいるのを見たブラフマンがイノシシに変身し、大地をその牙にて持ち上げる神話や、魔神が大洪水を起こし、大地を水中に沈めた時も、ヴィシュヌがイノシシの化身へと変化し、魔神を殺し、大地をこれまたその牙にて引き上げている。
思いのほか猪は水と関わりが深い、と言っても良いかも知れない。
そして、アドニス、ディルムッド・オディナ……猪の出現によって殺害された神や英雄は多い。
また「白い猪」と出会い死へと繋がった日本最大の英雄ヤマトタケル、多くの英雄達を破滅へ送ったギリシア神話に登場するカリュドーンの猪……直接的な要因は無い物の、死を呼び込む凶兆としても恐れられる猪。
古代の世界では、猪は死の化身。或いは、凶兆の化身と考えられていた。
祐一は、その『猪』の化身と対峙する事となったのだ。
───恐ろしい魔物。
だと言うのに祐一はその威容を見て、思わず見惚れてしまった。恐怖を一時とはいえ忘却するほどの偉駆であったのだ。
そもそも祐一には、この黒い猪が、何故か敵だとは思えなかった。禍々しく、凶相を湛え、それでいてどこか神聖さを感じる。
常ならば敵と断じて戦意を迸らせる場面。
だと言うのに祐一はジッと『猪』を見つめるばかりで、何もしなかった。戦いの構えすら取らずに。
パルヴェーズも、戦っている。
ならば、自分もこの化身と干戈を交え、パルヴェーズの為に、手傷を与えるのが正しいのではないか……?
そんな思いも、胸に浮かび上がったが、どうしてもこの化身とは、矛を交える気になれなかった。
『猪』がゆっくりと祐一に近付いてくる。『猪』もまた祐一をその猪目で見据えていた。一歩、また、一歩と近付くほどに、その威容はありありと見通す事が出来た。やはり『猪』は凄まじく大きく、街中に生えている電信柱なんて優に越える身長を持っていた。
近付いた事により、初めて気付いたが、『猪』は何か口に咥えている様だった。咥えているものは『猪』の牙と体毛に隠れ、全容は見通す事は叶わなかったが、何か木の枝の様にも見えた。
もう、かの化身は目の前に居た。手を伸ばせば届きそうな、そんな近さ。
戦いたく無い……と思っていた祐一も、流石に身構えた。
やはり自分の考えは間違っていたのだろうか。そんな疑問すら湧いてきて……。
迫って来た『猪』はフンッと鼻を鳴らし……果たして、祐一の横を通り過ぎただけだった。
ホッと、一息付く。やっぱり自分の予想は間違っていなかった。
どうやら、あいつにも敵意は無いみたいだ。
敵意が無い。そう確信していた祐一だったが、実際は本当に襲って来ないか、不安に駆られていた。
何度も化身に襲われ、窮地に立たされた祐一にとって、それは無理からぬ事だった。
振り返って、通り過ぎた『猪』を見る。
『猪』は少し進んだ所にある平らな場所へ腰を降ろし、座り込んで居た。空に目を向け、一息付いている様だ。
祐一には、穏やかな雲の流れを見ているようにも見えた。
そんな『猪』の姿を見ながら、頭を掻く。そして、よしっと一つ気合を入れると、恐る恐る『猪』の方へ近づいて行った。
そんな祐一に気付き視線を寄越す『猪』。睨む様な目ではあったが、近付いて見える、その瞳には確かな知性が宿っていた。
近付き傍によって、立ち止まり、視線を重ねる。
こちらを見定める様な、見通す様な、射抜く視線。激情を抑え込んだ、漆黒の瞳である。 己の強烈な意志を宿した烈火の瞳が交叉する。
お前は、一体なんなんだ……? ……敵、なのか?
そんな思いを込めて見据える。敵意は確かに感じない。しかしどこまで、信じられるのか判らない。
祐一は、それを確かめたかった。
ふと、何か、形容出来ない……波の様な物が伝わって来た。刺々しく、荒々しい。しかし温かみを感じる波。そして泣きたくなるほどの懐かしさ。
祐一には、その波が『猪』の心に思えて仕方無かった。
『猪』もまた、祐一の心を覗き込んでいる様にも見えた。そして、祐一もまた、『猪』の心を覗き込んでいた。
どれほど視線を合わせて居ただろうか。
祐一は、もうすっかり『猪』の事を、”敵”とは思ってなかった。それどころか、気を許しさえしていた。
手を伸ばせば触れる距離。
そんなにも『猪』と近い場所で祐一は腰を降ろし、対座する『猪』を見ていた。
「なあ……。お前たちは一体何者なんだよ。人間の敵なのか? 俺、そう思ってたけど、お前見て分かんなくなったよ……。今まで出会って来た奴らは、問答無用で襲いかかって来たし……」
邂逅して来た化身を想起しつつ、歩んできた過去を『猪』に独自しながら胸の内を語る。
「でもお前は違うのは、なんとなくは判るよ。だからちょっと、判らなくなったんだ」
ふと、思い出す。
「……はは。そう言えば、パルヴェーズも同じ存在だって言ってたっけなぁ……」
ならホントに……わっかんねぇなぁ……。 どこか諦めた様な、そんな穏やかな声音で祐一は独り言葉を零す。
『猪』はただ、ジッと祐一を見続けていた。
「あはは。こんな事言っても、判んねぇよな」
そう言って『猪』を見遣る祐一。ただ『猪』はその理知的な瞳で見据えていた。なんだかこちらの言葉を解している様にも見えて……。
そして、『猪』はフンッ! と鼻を鳴らした。
──あ……。 祐一は、その動作が強く印象に残った。
なんだか、似ていたのだ。少し前まで、祐一を背に乗せ、躍動する四肢で大地を突き進んだ──今亡き仲間に。
気高く、孤高。美しくも雄々しい、巨駆を誇った馬。
そう。……ラクシェに。
今まで燻り蟠っていた感情が……、なんとか作った急造の防塁が決壊し、感情が溢れ出す。
枯れていた涙が、止まらない。
抑え込もうとした嗚咽が、どうしようもなく漏れる。思考が上手く働かない。心を抑え込もうとするが、止まらない。
心が、己の手を離れていくかのよう。
──ピタリ……。
ふと俯き嗚咽を漏らす祐一の頬に、触れる物があった。驚いて、手で触れる。
白く、大きな物だった。硬質で無機質さが隠し切れない……、だと言うのに仄かな温かみを感じて。
祐一は、その大きな物が伸びる先を追った。
白い物は、『猪』の、その両頬から伸びていた。
牙だ。初めて見た時には、禍々しさすら感じた牙。
そう。『猪』が……片目だけ開けてこちらを見る『猪』が……祐一にその大きな牙を添えていたのだ。大きな牙を器用に動かし、祐一の心を繋ぎ止めるように差し出しいていた。
──はは。なんだか、おかしくなって笑いが漏れる。
それから祐一は大きな牙に縋り付き、泣いた。
決壊した思いは嗚咽と共に言葉となって溢れ出す。
なんで、こんな事になったんだ……! 俺が、俺が何したって言うんだよ!
学校でもそうだ!
俺は、俺は……友達が傷つけられたから、ただそれが許せなかっただけなのに……!
なんで嫌われるんだ!
なんで怖がるんだよ!
俺を見ろよ!
目を逸らすなよ!
ああ、くそ。みんな、ごめん。秀、隆、秋、勇樹……。みんな……ごめん。
何も言わず、勝手に出て行って。何時も一緒だったのに……。お前たちだけは信じてくれたのに……。
でもだからこそ俺は、俺は……怖かったんだ……。お前達まで拒絶されたらって思うと堪らなく怖かったんだ……。
なあ、ラクシェ……俺、お前に何もしてやれてないのに、勝手に行くなよ。
本当なら、俺がお前を助けなきゃいけなかったのに。何、勝手に死んでんだよ……。
そんなに俺が気に入らなかったのかよ……?
ああ、パルヴェーズ。そんなに俺が頼りないのか……。俺は、お前の為なら死ねる。嘘じゃない。俺はお前に助けてもらったんだ。ならお前の為に使って何の不思議がある? そうだって言うのに、お前はまた、俺を残して行ってしまう! 『駱駝』の時と何も変わらない!
俺達はそんな、弱い関係だったのかよ!!!
くそ。くそ。くそ。みんな好き勝手やりやがって……! 俺だって、本当に怒るんだぞ!
家族も、学校のみんなも、ラクシェも、パルヴェーズも……! 今度あったらぶん殴ってやる!
自分勝手で、支離滅裂な祐一の言葉。それは簡単に表せば……”愚痴”だった。
祐一をこれまで、容赦無く苛んできた出来事は、彼の心を傷めつけ蝕んでいた。
如何に、明るく、辛い事を乗り越え、心が折れても立ち上がって来ようとも、無傷でいられる筈がなかった。
心と言う池に沈殿する澱の如く、積み重なっては大きくなって行った。
そして、ラクシェの死とパルヴェーズに置いて行かれたと言う事実が、極大の澱となって祐一の心を埋め尽くした。
祐一は、もう、一杯いっぱいだったのだ。
彼を襲う因果は、どうしようもなく彼を責め続けた。
そうして彼は心の澱を流し出す様に、泣いては嗚咽を漏らした。
『猪』は、ただ、静かに耳を傾けていた。
○◎●
「なんで、もっと上手くできないんだろうな……」
愚痴を言い終えた祐一は『猪』の牙に寄りかかりながら、そう語り掛けていた。
辺りはもう日が暮れ始めていた。夕暮れ時とまでは行かないが、あと少しすれば太陽が大地を赤く染め上げるだろう。
どうやら随分と祐一は『猪』に愚痴を漏らしていた様だ。だがそれも当然なのかもしれなかった。
旅を続けて、精神的に強くなった祐一でさえ、今日起きた出来事は、真正面から受け止めるには辛過ぎた。
それでも、彼は目を背けず、前を向こうとしている。
祐一は、強い……とても、強い少年だった。
そんな時だった。
今まで祐一の言葉を、静かに聞いていた『猪』。その『猪』が、巨体を揺らし立ち上がった。
わっ!? 牙に寄りかかっていた祐一は、突然振り払われ、驚いた。呆然とする祐一。
『猪』は、祐一の眼前に立ち、これまた器用に祐一を咥え、背に放り投げた。驚いた祐一だったが、持ち前の反射神経で、背になんとか着地する。美しい毛皮に触れ背で揺られる感覚に泣きそうになった。
しかし感傷に浸る暇なく、すぐに揺れが祐一を襲った。
『猪』が走り出したのだ。
思わず、膝を付き、『猪』に黒い毛皮にしがみつく。
突然の事に戸惑っていた祐一。しかし、すぐに動揺も吹き飛んだ。
まるで新幹線にでも乗ってるかのように、景色が移り変わって行く。久しく見なかった人が住む街、青々と繁る草木、人々が営む田園風景、眩く光を反照する湖、赤みを帯び始めた蒼穹……美しい光景は、暗く沈んでいた祐一の心を一気に引き上げ、高揚させた。
『猪』が進む道は大地だけではなかった。
その意外にも華奢だった四肢が踏み締めるのは、湖面でさえも変わらなかった。水上でも構わず駆け抜け、青い大地は祐一の視界を楽しませてくれた。
不意に、『猪』は湖へ潜り込む。
驚いて息を止める祐一だったが、すぐに堪らず口を開ける。水が口の中に入り込むかと思われたが、結局、そんな事にはならなかった。不思議と息が出来たのだ。
視界の隅に、どこか笑う様な色を湛えた『猪』の瞳が見えた。
コノヤロウ。ポンッと握り締めた拳で、背を叩く祐一。『猪』は、笑う様に体を揺らした。
『猪』の出現に驚いて逃げる小魚の姿があったが、構わず駆け抜ける『猪』。湖を進む船の船底、湖面を突き抜ける陽の光、海底に沈む遺跡、忙しなく泳ぐ小魚……そうした物を目に収め、今度は海面へ向け上昇する『猪』。
──ドボンッ!
海面を突き抜け、水飛沫が上がる。だが『猪』は止まらない。
今度こそ、祐一は驚いた。
『猪』は、なんと空中を駆け抜けたのだ!
すげぇ! すげぇ! まるで、その言葉しか知らないように、繰り返す祐一。
大地も、水上も、水中も、空中でさえも駆け抜けて見せる『猪』に祐一は、惜しみない称賛を贈った。
『猪』も、全く拒む素振りすら見せず、少し誇らしげに鼻を付き上げる。
「ははは。ありがとな」
『猪』はどこかで照れる様に、そっぽを向き、大きく鼻を鳴らした。
やがて、景色を見続けていた祐一だったが、とある違和感に気が付いた。
なんだか、身体のそこかしこが無性にヒリヒリするのだ。なんだ、なんだ? と、身体を良く見ると来ているブレザーに、白い粉が付いていた。
首を傾げ、匂いを嗅ぎ、一舐めする。しょっぱい……。
(そう言えば、ここ、塩湖だったっけ)
今さっきまで忘れていた事実に思い至り、身体を襲う違和感の正体に当たりを付ける。
良く見れば、『猪』の毛先にも塩が引っ付いている。
トントンと、『猪』を叩き、どこかで洗わないか? そんな仕草を取った。言わんとすることを理解した『猪』は、方向を変え、また走り去った。
祐一と『猪』は、両者とも濡れそぼってる。大きな河川に、降り立った『猪』だったが、如何せん『猪』も同じ様に大きい。
祐一は、自分のブレザーと身体を水で洗いながらも、『猪』の巨体を手を使い、洗うのを手伝っていた。『猪』はどうやら悪戯っ子の様な気がある様で、その尾で水を掬い、ふざけて祐一に掛けてきた。
驚いた祐一だったが、彼もそれに対し、少し怒ったような仕草で、しかし笑いながら水を掛けた。
「なあ……お前が、ここまで連れて来たのか?」
ふと、気になって尋ねた。
祐一は思い出した。本来なら、祐一は街に送られる筈だった。だが、今はこんな所……街とはかけ離れた場所に居る。
吹き飛んばされた時、感じた違和感。途中で引っ張られる感覚は、この眼の前の『猪』がやったのでは無いか?
なんとなく、そう予測したのだ。
『猪』は、祐一を静かに見つめ、果たして、ゆっくりと頷いた。
「そっか。……まあ、文句は言わないけどさ。楽しませてもらったし……。でも、何でこんな事を……? なんも、理由なしにやったんじゃ、無いんだろ?」
『猪』に問い掛けた。それを受け、『猪』は少しの間、瞑目した。
そして目を見開いては、祐一を燃え上がる強い瞳で見据えたのだ。
祐一には『猪』の一連の動きが、何かとても……とても重要な選択を選ぶ者の姿に見えて、仕方が無かった。
「ここで引いては、いけない」……そう思えてならなかった。
この無愛想だが、こちら気に掛けて来て、そして……妙にパルヴェーズを想起させる化身は、何か途轍もない期待を己に懸そうとしている……。 そう、思えてならなかった。
だから、だろう。
祐一も、真正面から『猪』の瞳を受け止め、強い眼差しで応えたのは。
やがて『猪』は、口角を吊り上げ、笑った様に見えた。
そうして『猪』は、おもむろに口の中から、とある物を取り出した。
少しだけ、見覚えがあった。
祐一と『猪』が初めて会った時『猪』が持っていた物。
(あれは──”枝”だったのか……)
祐一が、思った通り、『猪』の持っていた物は”枝”だった。祐一の腕程の長さで、夕日を反射して、少しだけ輝いている様にも見える……だが祐一には、ただの枝に見えた。
『猪』は、その枝を壊れ物でも扱うかの様に丁寧に扱い、不思議な力で持ち上げていた。
器用なモンだな……。祐一は、”枝”が近づいて来る様子を見詰めながら、そう思った。
”枝”は、思いの外、素早い速度で祐一に近付いて来た。
思わず、身構えそうになる祐一。だが、そうはしなかった。その行為は、『猪』の信頼を裏切る様で……それは、なんだか、パルヴェーズの信頼すらも裏切る様で……祐一は嫌だった。
当たる!
そう思った祐一だったが、しかし、そうはならなかった。スッと、驚くほど簡単に”枝”は祐一の中へ吸い込まれて行ったのだ。
思わず、入っていった場所を抑え、確かめる。
だが、穴なんて空いていなくて、ホッと安堵の息を吐く。だけど、なんだかモヤモヤした物は拭い切れない。
確かに、この『猪』は敵じゃないし、自分を慰めてくれた優しいやつだ。だけど祐一も、何かよく分からないものを埋め込められる程、無条件で信じられるか? と聞かれれば、目を逸らすしかない。
今の所、どこも異常は無い様だが、少しだけ祐一は不安だった。だが『猪』は、祐一の不安を見透かしたように、フンッと笑う。
何処か馬鹿にした様な仕草。
祐一は、コンニャロウ! と『猪』に吶喊する。『猪』は、そのフサフサの体毛で受け止め、愉快気な色を崩さなかった。
じゃれ合う一人の少年と巨大な『猪』。
ひとしきり戯れた両者は、川の畔で寝そべり、沈む夕焼けを見ていた。どこに居ようとも、この夕焼けだけは変わらず美しい。祐一は、差し込む夕日に身体を紅く染めつつ、そう思った。
はた、と、とある事に思い至った。気になったら、止まらない。
祐一は、背の『猪』へ訊ねる事にした。美しい毛並みを撫でながら……
「あ、そうだ! そう言えばさ、お前は名前ってあるのか?」
そんな疑問を口にした。半日にも満たない時間。それほどしか共に過ごしていないのに、祐一はこの巨大な化身に確かな友情を感じていた。
だからこそ、気になったのだ。彼も初めて会ったパルヴェーズの様に、この『猪』も名など無いのでは? と。
『猪』はやはり予想違わず、首を振り「否」と示した。
やっぱりな! うんうん、と何故かしたり顔で頷く祐一。訳がわからない、と言う風に首を傾げる『猪』。さもありなん。
あの時はパルヴェーズが、自分で名前を付けてた。けど、今回は俺が付けてもいいよな!
そう強引に理由を付け……
「よしっ! 何か名前、付けてやるよ! うーん、そうだなぁ……」
「───ここにおったか」
パルヴェーズが、現れた。
その瞬間だった。
───ルオオォォオオオオオオオオオッ!!
『猪』が突然立ち上がり咆哮を上げた。余りの勢いに、吹き飛ばされる祐一。尻もちをつき、驚いて『猪』を見る。そして祐一は凍りついた。
───恐怖によって。
『猪』は恐ろしい凶相を浮かべていた。正に、怒り狂っている。
その双眸は地獄の業火の如き、烈火の瞳を持ってパルヴェーズを睨み見据え。
その口からは、地の底を這いずる様な唸り声と共に、身体の内から抑え切れなかった、灼熱の吐息が漏れ出している。
その全身からは、可視できるほど膨大な殺意が溢れ出す。戦意や敵意、などと言う生易しい物では……無い。膝が震え、倒れ込みそうになる程の殺意!
正に、鋭く近寄り難き者! 敵対する者、須らく逃れられぬ牙にて穿ち、惨たらしい死を与える者! 全てを一撃で、粉砕し、蹂躙する断罪者!
だが、その恐ろしき威圧を受けてなお、パルヴェーズは悠然と微笑むのみだった。
「え、パ、パルヴェーズ……?」
祐一は、戦慄した。思わず彼の名を呼ぶが、パルヴェーズはこちらを見もしない。
彼への違和感は、天井知らずに膨れ上がって行く。
過去、何度か彼に恐れを抱いた事はあるが、今ほど異様な恐れでは無かった。
それは例えるなら、知らない物への無知の恐怖だった。
しかし今パルヴェーズに抱いている物は、違う。
根源的な恐怖。
まるで深淵を覗き、深淵に覗き返されている様な底知れない恐怖だった。
「やはりこの気配『猪』であったか。光明の気配濃きこの湖に潜み、気配を悟らせなかったおぬしが、どのような心算じゃ? まさか素直に我へ力を明け渡す気ではあるまい?」
───ルオオォォ……!!
『猪』は、唸り声を上げ威嚇するばかりで、パルヴェーズの言葉など歯牙にも掛けない。
何という威容! 森羅万象の一切を灰燼に帰し、死を振り撒く、破壊の化身である!
祐一には、もう『猪』の恐ろしさなんて、頭の隅にすら残っていない。祐一に見えるのは、眼の前の、変り果てた友の姿のみ。
パルヴェーズは、一瞬こちらへ目を向けた。しかし彼は祐一を見ている様で、──見てはいなかった。
まるで路傍の石でも見ているかの様な、冷たい眼差しだった。
同時には思い出す。最後に見た、パルヴェーズの優し気な眼差しを。
致命的に何かが欠落していた。パルヴェーズがこちらを見る眼の、何と冷たく酷薄な事か。
───祐一は……ここに至って理解した。
バンダレ・アッバースを出てから、パルヴェーズに抱いていた違和感の正体を。
パルヴェーズが、何故、祐一を戦場から遠ざけたのかを。
パルヴェーズが、手を引き、寂しげ表情を湛えていた理由も。
別れ際、今生の別れにも聞こえる言葉を残したのかも。
──全て……理解できた。
祐一は、思い出した。ボロボロと、パルヴェーズへ違和感を感じていた時の記憶が蘇る。
違和感の正体は、全て、同じ理由だった。
パルヴェーズは……化身を倒す毎に”人”から外れて行くんだ……。
……いや、そうじゃない。───パルヴェーズは嘗ての存在へ立ち返っているんだ。
──人ではない『
そして祐一は、その解を得ると同時に……思う。
そうだ……。あのパルヴェーズが……俺よりも負けず嫌いなパルヴェーズが、あんな変わり果てた姿になる事を座して待っていた筈がない。
パルヴェーズは、俺の知らない所で戦っていたのかも知れない。
そう考えると、思い当たる節があった。
バンダレ・アッバースから、これまで、パルヴェーズは単独行動が多かった。不自然な程に。
自分から率先して水を汲みに行ったり、道の状況を見に行ったり……。そして、よく眠るようになったり……。
そして、顕著なのは試練だ。あの時、パルヴェーズは試練開始を告げると、すぐさま走り去った。まるで、何かから逃げる様に……。
祐一は元より、あのラクシェでさえ追いつけないほど。確かに生半可な速さでは、俺達に追い付かれるのは目に見えていたが、それでも違和感は残った。
それに、パルヴェーズの微笑み。
あの人形地味た無機質なアルカイックスマイルが、どんどんと神々しい菩薩の様な笑みへと変わっていって……。
試練を終えた時。あの時祐一が、一番美しいと感じた微笑みは、パルヴェーズが変化する己と戦い、辛勝を得た姿だったのでは……?
そうだ。
やっぱり、パルヴェーズは戦っていたんだ。
己が、何か違う……恐ろしい存在へ変わる事に抗っていた……。
そして、パルヴェーズは、気付いたのだ。
もう、祐一と歩む旅は終わりなのだとのだ、と。
もう、次に会う時には己では無くなる、と。
だから、あんな言葉を残し、祐一を遠ざけた。
──嘘だ! 祐一は、信じたく無かった。
あんな、「さよなら」で納得できる筈がない。
だから、それを確かめたくて……
「パルヴェーズ!」
そう、叫んだ瞬間だった。
だが、その叫びはすぐに掻き消された。
『猪』の、大地を揺るがす咆哮によって……!
───ッオオオオオオォォンンンンンッッッ!!!
凄まじい轟音が衝撃波となり、ありとあらゆる物を粉砕して行く。
猛り狂う『猪』は、パルヴェーズへ向け突進した。
全身を、一発の弾丸にも思わせる突進力で突き進む。破壊神の如き猛威。大地が、踏み砕かれては、荒れ果て──
対するパルヴェーズは、ただ微笑むのみ。
『猪』の咆哮など、いま祐一が感じている微風程度にしか気にしていない。歴然たる差が、そこには横たわっていた。
祐一には、パルヴェーズの誇る強大な力が、彼が”人”から外れた証左である気がして、強い不快感を抱いた。
だが祐一は、パルヴェーズと『猪』、どちらの側にも立つ事が出来なかった。
ただ、茫然と、友誼を交えた者達の戦いを見ている事しかできなかった。