刃の一閃が走り、祐一の眼前を通り抜けた。刃風を靡かせた鋭い閃光が唯一残った視界を掠めた。
祐一は身じろぎもしない。動けなかったのではない……動かなかったのだ。
ドンと構えた太い胆力で、薄皮一枚の際どい一閃をくぐり抜ける。過ぎさった刃を横目に、手中に収めた鉄剣を掬い上げ逆袈裟に振り上げる。けたたましく刃男がうねり、鉄剣が相対するエイルの喉元へ向かう。
エイルもまた凄まじい胆力で切っ先を見据え、首をひねって躱す。はらりと数本の金髪が舞う。
これじゃあだダメだ……! 祐一の隻眼が細められ、苦々しい色が混じる。
胸元へ水平に構え、エイルは祐一を見据えた。その構えを見て取った祐一の脳裏に苦い記憶が過ぎるとと同時、眉間に皺が寄った。
エイルと刃を交える様になって、これまで。何十、何百と打ち合い何度も辛酸を舐めさせられた物と同じ物。
この型はひどく危険だ。祐一は手に持っていた鉄剣を八相に構え、迎え討った。同時に己が会得する奥義「心眼」を発動させる。
くるぞ! ──瞬間、無数の閃光が煌いた。
速い。速い。見る事すら叶わぬ、刃の大瀑布。本当に一本の剣から繰り出されているのか疑問すら湧く程の剣の波。
それを祐一は眇めた隻眼でしっかと見据える。打ち、払い、躱し、見切る。その動作を狂気的な集中力で、何度も繰り返し撥ね退けていく。
しかし完全に防ぎ切る事が出来なかった斬撃が身体を捉え、至る所に裂傷が量産されていく。鋭い痛みと刃の冷たい感触が痛覚を激しく刺激する。
だがそれでも眉一つ動かさず、強い目で剣を見据え、活路を見出す。
──好機! 剣を振り下ろす。瞬間、鮮血が舞った。
この王国の戦士は片手に剣、もう片方に盾と言うのが基本的なスタイルだ。だが相対する剣神の愛し子であるエイルは違う。
両の腕で剣を握り、一切脇道にそれる事なく剣のみを揮うのだ。だが両腕が同時に、それも十全に扱える特異な盾も彼は持っていた。
嘗てエイルが若かりし頃……ヤマトタケルと言う頂きへ登り詰める為、強さを求める求道者であった頃。
彼は剣を愛し、剣を求め、剣に狂った。己の利き腕である右腕を根本から切り落とし、剣神ヌアダに捧げたのだ。
そして生死の境を彷徨い歩き、それでもなお狂気的に剣を握りついに神に認められ手に入れたのだ───『
───ギィィィィンッ! 金属の打ち合わさった甲高い音が空間に響く。この一月近くの間よく耳にする不快な音に思わず苦い顔を作る。
エイルの右腕は外側だけは常人の物と変わらない腕だ。しかし少し皮を剥げば与えられた神と同じく神与の白銀に輝く義腕が現れる。祐一との初戦で見せ、祐一から隙を引き出し虚を突いた義腕が。しかし……
───構うな、剣を振るえ!
「だぁぁぁあああああっっ!!!」
一気呵成に、荒れ狂う激情と共に義腕を叩き折ろうとする。烈火の如き剣気がエイルの髪を払う。
内功の扱いに長けた祐一から繰り出される一刀は、鉄を引き裂く剛剣である。切り裂くのではない、その剛力に任せ引き裂くのだ。故に、彼の一太刀を浴びれば如何に堅固な銀の義腕であっても、叩き折られる事は必定であった。
だからエイルは取り合わなかった。右腕を捻り、風にたなびく柳の様にスルリと受け流す。翩翻と翻る旗の様に形を変え、佇む巨岩の如く不変の意志を持って、致死の一撃を軽く受け流す。
轟音が響き、目標を見失った祐一の剛剣が大地を裂く。それを冷徹な瞳で見据えたエイルが、胸元で剣を構える。
マズイ! 祐一も前のめりになった身体をそのまま前に捩り、飛び退く。だが……遅い。
──青光一閃。
エイルの長剣が祐一に迫った。己と放たれた剣の間に、なんとか剣をねじ込み防御する。しかし不安定な体位は踏ん張る事を許してくれない。そして放たれた長剣も、鋭く重い。
なんとか受け切り無傷だったのはいいが、剣の勢いに為す術もなく跳ね飛ばされ、手に持った剣は宙を舞った。
また一つ、祐一の連敗記録が更新された。
修行が終わり、闘技場の隅にある水場で身体を清めていた。火照った身体に浴びる透き通った清涼感のある水が、修行で昂った精神すら冷やしていく。
見れば修行で負った傷も治り掛けている。つくづく規格外の身体だ……祐一は呆れ混じりに思った。
視線を落とせば水面に映った自分の顔が目に入り、家出した頃に比べれば随分と精悍になったものだ、と思う。
一番に分かりやすいのは眼の眼帯。エイルが気を利かせて持って来てくれた革製の眼帯だ。これ治るのかな? そんな疑問が湧き、一生このままだったら戦い難いよなぁと、むむむと顔を顰める。
自分に魔術は効かなかったと言っていたテスラの話を反芻し、そこでニヒルに笑う『雄羊』が見えた気がしたが全力で無視する事にした。
もう何度か死んで、慣れはしてきたでもないが、片目を治す為に死ぬと言うのは勘弁して欲しかった。
ふと、空を見上げる。空は濃い紫を映し出して此処が故郷のある世界とは全く別物なのだと痛感させられる。
日本では十月あたりだろうか?
なんとなく祐一は、家出してからこれまで何日経ったか振り返る。もう三ヶ月近く故郷に帰って居ない事を思い出し、郷愁の感情が顔を出す。
神殺し、なんてモノに転生し数週間が経ったが「息も付かせぬ」と言う言葉が相応しい程の波瀾万丈な珍道中に、平穏そのものだった遠い故郷を想う。
それに連られる様に共に旅をした友と、最後に果たした約束を思い出してしまった。
……それとこの一月の間、負け続きの記憶も。
思わず渋面を作り、悔しさと苦い記憶を振り払う様に汗と血の滲んだ服をゴシゴシ洗う。
旅に出た時と比べれば祐一と同じくらい、もはや全く別個のものと言ってもいいほど変わり果てたブレザーはどれだけ汚しても、破いても、元に戻る不思議な物に変貌していた。
家事全般を担当しているテスラが洗濯してくれるので、今洗っていることすら特段必要な訳ではないのだが、礼儀としてこれくらいはしなければならないと祐一は思っていた。
ふぅ、と一息つき濡れた顔を拭きながら、エイルの元へ向かう。と言っても、すぐ近くで剣の手入れをしているだけなので、向かうと言う程ではないが。
彼は汗まみれで傷まみれの祐一とは違い、汗一つ傷一つ付いていない。エイルと自分との遠く離れた距離を幻視して、今度は当てる! と心に誓う。
「……お前は無手の方が、何倍も恐ろしいな」
気配に気付いたエイルがポツリと、祐一を見ずにそんな事を呟いた。顔を拭いていた手を止め、不思議そうにエイルを見遣る。
やっと彼は視線を寄越した。
「……只人であれば武器を持った方が恐ろしく感じるが、お前はそうじゃないと言いたいんだ。お前が持つ戦いの嗅覚は獣のソレだからな」
「獣て……」
あんまりじゃないか、そう続けようとして、ふと自分の戦歴を振り返り「あながち間違いじゃないな……」と思わず閉口してしまった。
「だがその持ち味も武器を持てば途端に嗅覚を活かしきれなくなる。お前はどうも剣に意識が集中しがちだからな。私としてはお前は武器を持った方が逆に与し易い。まぁ、私の得手、と言うのもあるがな」
「ふーん……」
なんとなく理解した風に答え、しかしそれに構わず更にエイルは言葉を続けた。
「だから祐一、お前の思い違いをしていると私は感じた。……武器は剣だけではない。靭やかで頑丈なその肉体こそ、どんな刃にも劣らない武器であり、どんな刃も通さない盾なのだ」
「……!」
その言葉はスッと頭の中に入り、ストンと腹の中に落ちて、身体に沁み渡り溶けて行った。
チンギス・ハーンとの死闘が脳裏を過ぎる。どれほど強かな一撃を受けようと耐え凌ぎ、行く手を阻む人狼達を悉く討滅してきたこの肉体こそ、一つの武器なのだと何の抵抗もなく受け入れる事が出来た。
「俺の身体が一つの武器、か……」
エイルは静かに頷く。
「……それに祐一、お前の振るう剣は情が強すぎる。私が無心で揮う剣を無情剣とすれば、お前の裂帛の剣は有情……いや、激情の剣と例えていいだろうな」
「激情?」
「ああ。……私が冷徹に揮う静かな剣を『静』とすれば、お前の激情と共に振るう荒ぶる剣は『動』だ」
「『静』と『動』……? うーん、確かにエイルの剣は鋭くて静かだけど……」
「判らないか。そうだな……祐一、お前は手に持った剣で、己の意思で、罪なき人を斬り捨てられるか?」
エイルがそんな事を問い掛けた。
「ムリだな」
即答だった。有り得ないとばかりに首を振り、そもそもそんな質問をする事が理解できないと否定する。それは、日本と言う平和な国で生きてきた人間として、当然の答えでもあった。
そんな祐一に思わずエイルが闊達に笑う。
「ははは。だろうな、肯かれたら困る所だった」
そして一拍置いて、
「───だが、私は出来る。例え、女子どもであろうと……それがテスラやエオ、ムインであっても。勅命が降れば、一切の躊躇なくこの剣を揮うだろう。それが『神』とさえ打ち合える『静』の剣……無情剣の行き着く先なのだ」
祐一はエイルが放った言葉に驚いて顔を跳ね上げ、彼を見た。
彼の目は、一切の淀みがなかった。いっそ寒気がするほどに。自分の言葉が真実であり、決して妄言虚言の類ではなく、そこに嘘偽りなど無いのだと言葉もなく語っていた。
俺には、出来ない。
目を伏せ、強く思い知らされる。自分が何故エイルに何故勝てないのか、その答えに少しだけ触れた気がした。
親しい者を手に掛ける。そんな境地に至るまで、祐一は剣に狂えそうもなかったし、戦いに狂えそうもなかった。それは情の強い彼にとって決して犯してはならない禁忌に違いないのだ。
獣の嗅覚、強烈な意志、類稀な豪運、おかしな肉体……剣という土俵に於いて自分の持てるカードを幾ら並べても、エイルの出した一つのカード……無情剣に匹敵するカードは見当たらなかった。
「そしてお前の振るう激情の剣は確かに扱い辛い物なのだろう。その時の精神に応じてお前の剣は研ぎ澄まされもすれば、鈍りもする。
確かに私の無情剣の様な安定感はないかも知れない。……しかしその激情と共にあれば、お前が人の身で為した偉業のように、今度は剣にて『神』をも倒せるかも知れん」
「激情で……『神』を」
「お前が神を殺した時は無手だったのだろう? ならば剣で出来ない道理はない。必ず成し遂げられる」
なるほど、これが剣鬼か。祐一は悟った。
剣神の愛し子と誉れ高いエイルは、当然の如く剣が一番強い武器なのだと信じている。
故に無手で為せたのなら、それよりも強い剣を使っても出来るに違いない、そう信じているのだ。
「そして『神』とも打ち合い、果てには『神』をも斬り捨てられるかも知れない。そんな奇人の世迷い言にすら聞こえるひとつの極致がある」
「神と打ち合い、神を切り捨てる……?」
「そう。それこそ私ですら、寸毫も覗くこと叶わぬ境地。激情と無情と言う矛盾した物を渾然一体とするもの……そんな一挙両得の『極致』があるのだ」
激情と無情と言う矛盾した物を渾然一体とする奥義……。
「剣は無情……身体には激情……か」
そう口にした瞬間、うん? と祐一はそれに似たようなものが何かある気がした。
「そうだ。それこそ我ら剣の徒が目指す頂きの一つだ。しかしその頂きには、私よりもお前の方が一番近い場所にいる。それは我々が会得する奥義の極意に答えがあるだろう」
「そっか、心眼か」
心眼に目覚めた時の、あの特異な感覚。相反する理性と本能、静と動が混じり合う、無我でありながら狂奔に狂っている不可思議な感覚を思い出す。
陰陽太極図の如く、感情の奔流に必ず冷徹な思考があり凪いだ心に必ず荒れ狂う感情があって初めて行使できる「心眼」と言う奥義の極意だ。
「そう、無情と激情の極意。私は静とお前は動……私の私情を殺し尽くし、無我の境地の末に行使できる物ではなく、お前の矛盾する二つの物を共存させ、渾然一体とする物こそが相応しい」
夢想剣、無念無想、無我の境地。エイルの寒気がするほどの研ぎ澄まされた剣気と冷徹な瞳の中には、静の極みとも言える極意が込められているのだろう──だがそこに祐一の持つ激情はない。
「剣は無情、身体は激情。冷徹にして激情のままに、戦わねば会得できぬ剣。それがお前の至るべき境地。
その為には剣も武器の一つであり、肉体も武器の一つ。それと同じ様に四肢も剣も同じ肉体なのだ。その事、ゆめゆめ忘れてはならん」
「……」
祐一は深く頷いた。