「──はっ! はっ! 何だコイツラ! しつけぇ!」
祐一が取った選択肢は「撤退」だった。
木々の乱立する森を全速力で駆けて行く。木の根が、枝が、石が、蔓が、窪みが、獣が、あらゆる森を構成する要素が祐一の行く手を阻もうとするが止まらない。おそらく野生の俊敏な動物でさえ追いつく事すら出来ないだろう。
「──だぁっ!」直感の叫びと時を同じくして、気合とともに前かがみに飛ぶ。髪を何かが掠めた感覚。はらりと視界に髪が舞い、ゴロゴロと転がったあとに視界を戻せば、今まで首があった場所より上がなくなった木々。まだ振り切れてなかったのか! 悪態を付きたい衝動を抑え、足をまた踏み出そうとして──動かなかった。
足に何かが絡みついている。何だ!? と見遣れば木の根がみしりと右足を覆っていた。
全く気付けなかった自分に歯噛みし、右足をなりふり構わず動かすが……びくともしない。耳をすませば、あの翼人の魔歌が微かに耳朶をうつ。……マズイ! 後ろを見ればナニカが蠢く気配と影を感じ、焦燥がジリジリと臓腑を焦がす。走れ走れ! 奴らに追いつかれる前に!
生き残った四体の魔物の攻勢は「苛烈」の一言に尽きた。土砂から這い出た魔物は一気呵成に攻撃を行った。牛頭の魔人は大剣でもって首級を求め、赤い蜥蜴人は長槍でもって心臓を狙い、翼人は魔歌でもって魂を奪おうとした。
比類なき魔物。おそらくチンギス・ハーンの眷属にも負けず劣らずの実力を秘めた怪物達。追い付かれたら終わりだ、祐一は独り言ちる。
だからこそこんな所で立ち止まる訳にはいかない。感覚で分かる、いま足に絡みついてる根は呪術によるものだと。俺は王国に帰らなければならない。
テスラに教えてもらった事を反芻する──。呪術ならば……! 内包する呪力を練り上げ、一気に右足を振り払う。
王国に帰って俺は……エイル達とまた卓を囲んで、今度は本当の戦友として、真の同胞として、
「盃を交わすんだ───!」
振り上げた右足はなんの抵抗もなく持ち上がった。引き抜かれた根が生命も根幹を穿たれた様に力なく頽れる。祐一の新生した肉体の能力が発揮されたのだ。
右足を大地に叩きつけるようにして、一歩を踏み出す。
おおおお! そして祐一は駆けた。ただただ一直線に。距離を取らねば、奴らに追いつかれるから。走らなければ、奴らに追い付かれるから。
走れ走れ疾走れ! 奴らを遠ざけろ───ッ!
そして辿り着いた。祐一が目指していた場所に。
そこは拓けた草原だった。ふくらはぎ辺りまで伸びた青々とした草木が生えただけの殺風景な場所。広々とし、例え数百人の人間が動いても楽に動ける場所。乱戦ならば、これ以上ないほど地の利が得られる場所であった……されどそれは数の多い方の利。
祐一が取った選択肢は「撤退」だった。そう、「撤退」だったのだ。
恐ろしいから逃げた訳でもなければ、勝てないから逃げた訳でもない。
奴らを王国から遠ざける為、奴らを確実に屠る為、祐一はこの死地へ奴らを誘い込んだのだ。それは天性の勝負感だったのかも知れない……背水の陣を敷き、敵を迎え討つ。
広い草原のど真ん中で腕を組み、何の策も、何の武器も持たず、決死の覚悟を胸に秘め、前を見据えて不敵に笑う。
それこそが木下祐一最強の構え。今、持っている最高の武器に他ならない。
気配が近づく。
魔物たちが遂に姿を現した。数十キロは走ったと言うのに奴らは祐一と同じく息も切らしていない。
あるのは膨大な怒気と覇気のみ。一歩一歩踏み締め、ゆっくりと向かってくる。先頭に立つ牛頭の魔人と……視線が重なる。──鋭い眼光が交わった。
強い。
理論や経験なんぞではない、ただの事実として、祐一は一瞬で理解した。
祐一という少年は……いや、戦士は普段であれば穏やかな相を見せるが、いざ戦いとなれば激しい闘争心を持つ戦士の相も併せ持つ。
故にいまの祐一は普段の表情も、意識も、雰囲気すらも様相を一変させていた。
ああ、そう言えば……。エイル達を始めとした戦士達は言っていた。名誉こそが何よりも価値があるのだと。ならば───
「───俺は誓う! 俺は必ず勝利を手に入れると!」
俺は名誉を手にし、王国へ錦を飾る──。祐一の意志は固まった。
GYAAAAAAAAA──!!!
先手は赤い二匹の蜥蜴人だった。
バンッ! と言う破裂音の後には、深く抉れ土煙の上がった地面。赤い鱗に覆われた尻尾を振り乱し、一瞬で距離を詰める。
異常な脚力……蜥蜴人の自前の力もあるのだろうが、違う。祐一には見えた。蜥蜴人の足に纏わりつき漲る呪力を。
呪力の源、奥を見れば獣に守られた翼人。奴は英雄を讃え奮い立たせる吟遊詩人であり、戦士達の堅牢な守りに固められた呪術師なのだ。厄介極まりない、奴をなんとかしないと戦いは長引くばかりだろう。
気を取られた、そう思った時には目の前に蜥蜴人は迫っていた。
速い──。閃電の如く二対の穂先が煌めき祐一の喉元と心臓を抉り取らんとする。首を捻り身体を捩って、穂先を躱す。
流麗な水が岩をスルリとすり抜けるような挙動。以前ならば躱すことも怪しかっただろう。
が、しかし王国に逗留し戦士達とさんざんっぱら立ち合って習得した……血肉と変えた技能が祐一にはあった。
これくらい躱せないと王国の戦士達に顔向けできねぇ! 眼光を眇め、心臓を狙ってきた蜥蜴人を見据える。一歩踏み出す。槍の柄に手滑らせ、蛇が這い回るように手の甲で弾く。
やれる! 神々から奪い取った権能を使わなくても、今の祐一であればこの程度の脅威、振り払う事は容易だった。
──そう思い至った瞬間だった。左頬に烈風を感じた。逡巡の間もなく、上半身ごと後ろへ身を捩る。
ヒュン! 見えた、今さっきまで自分の頭蓋があった場所に円錐形の飛来物が通り過ぎていった。弾丸はそのまま真っ直ぐ突き進み、奥の木々を薙ぎ倒していった。瞠目する。……なんて威力とスピードだ。
崩れた姿勢は立て直さずそのまま後ろへ倒れ込み、バク転の要領で体勢を立て直す。前を向いて状況を俯瞰し、推察する。放ったのはおそらく後方にいる翼人。蜥蜴人が初撃を仕掛け、その隙を精密にして強烈な一撃で祐一を仕留める算段だったのだろう……。
一筋縄では、いかない。
祐一は頬に伝う汗を自覚した。だが一番の気掛かりはその隣に居る牛頭の魔人だった。
戦闘が始まって一歩も動いていない……片手に持った大剣も微動だにしていない……泰然とし悠然と見守っているのだ。それが、いっそ不気味だった。
ハッと気が付いた。今さっきまでいた蜥蜴人の一体の姿が見えない。どこだ──!? 内心の焦りをおくびにも出さず、視線を走らせる。
影が視界を横切った。バラバラだった思考回路が繋ぎ合わさった──上か!
顔を上げる。遂に見つけた。隼の如く高く飛び猛禽の如き鋭さで、突き掛からんとする魔物の姿を。
咄嗟にバックステップして避けようと目論むが、いつの間にか後方に回ったもう一体の蜥蜴人が槍を放つ。自分の心臓を狙った、的確で精妙な一撃。高い技倆を、それこそ一流の戦士ですら難しい一撃をこの状況で放って来た。
それだけではない、翼人もまた動いた。
■■■■■──。
再び魔歌と共に円錐形の弾丸を繰り出す。間違いなく祐一の急所を穿くルートで迫り来る。──三方からの同時攻撃、必殺の三撃が祐一を襲った!
まだだ、祐一は焦らなかった。
行くぞ。意識が切り替わる。世界の色が消失し、あらゆるものがモノクロへ──。
祐一は権能ではない一つの奥義を発動させたのだ。『心眼』と言う奥義を!
コマ送りの様になった世界で、全てをつぶさに感じ取る事が出来た。知覚が異常な程に鋭くなっているのだ。
一つ。半身を開き遠方から飛来する弾丸を避ける。ジッ……と標的を見失った弾丸が鼻先を掠め過ぎ去っていく。体勢を変えた祐一に構わず、やはり二対の槍は狙い違わず迫る。
二つ。脳天に突きこまれる上方からの槍を、左手を伸ばし掴む。GYA!? 驚愕する声が耳朶を穿つ。掴んだだけ、それだけで敵の攻撃は止まった。臍下丹田の力を振るい、膂力無双とも言える力を手にした祐一だから出来た芸当。そのまま腕を振りかぶり、槍を握り締めた蜥蜴人ごと彼方へぶん投げる。
三つ。視線を巡らせる、最後の槍……それだけは──避けれない。悟った祐一は覚悟を決め、目を眇めた。空いた右掌で柄の部分を逆手打ちではたき落とす。狙いがそれ空を切る、──筈だった。
しかし執念を燃やした槍は、やはり祐一を捉えて離さなかった。穿──。鮮血が舞う……。清らかな草原に赤い雫が落ちる。遂に祐一の皮を破り、血と肉を引き摺り出したのだ。
ぐぅっ! 呻吟の声が、大気を揺らす。しかし祐一は立っていた。その眼光に衰えはなかった。──それが全てを物語っていた。
オオオオォォ───ッ!!! 『獣』の咆哮が大地に轟く。
自分の腹に収まった槍を、自分の意志で引き抜く。さらなる鮮血が祐一の身に付けていたブレザーを汚すが、構うものか。
ウラァァァ!!! ──気合一閃。
今まで自分に突き刺さっていた槍を振り下ろし、蜥蜴人へ向け地面に叩き付ける。ドンッ! 大地が揺れるほど強く叩き付けた。それでも蜥蜴人は意識を保っていた……それどころか肩がグシャグシャになりながらも槍を握り締め、反撃しようとさえしている。
地面に仰向けになった蜥蜴人と立ったままの祐一とが槍を間に鬩ぎ合う。
祐一の殺意に染まった眼光と、蜥蜴人の血に染まった眼光とが重なる。相対する異形の双眸は憤怒の情に染まり赤い雫が滴り落ちていた。
■■■──! 恐怖か興奮からか、意味の無い不快な鳴き声を垂れ流す。
本当に執念深い、祐一はそう思った。だが、それも長くは続かない。もはやこの状況は詰みだったのだ。
祐一が更に力を込め、蜥蜴人の腕ごと──引き抜いた。力を込めた腹部から血が噴き出る。ブチブチと肉が千切れる音が鼓膜を叩く。胴体から引き離された手は未だに槍を握り締めていた。
蜥蜴人はとうとう呻吟の一つ漏らさず、祐一と言う重りの無くなった事を悟ると、直ぐさま抜け出そうとした。
すげぇよ、お前。思わず感嘆にも似た感情が胸中に浮かび上がった。
だからこそ。祐一は迷わなかった。
奪い取った長槍を、颯と振り降ろした。中空を裂く霹靂さながらの強烈な一撃。神殺しの一撃は狙い違わず、魔物の心の臓を喰い破り、大地を刺し貫いた──。
───GYAAAAAAAAAAAAAAA!!!
魔物の断末魔が迸る。赤黒い血が零れ、貪欲な大地が飲み干していく。血の錆びた匂いが鼻腔を犯す。
ああ……。
酔い痴れそうになるほどの快楽。呑まれそうになるほどの力。強敵を降したと言う途方もない快感。
知れず祐一は口元に歪な笑みを浮かべていた。それが神殺しへ新生したからか、それとも生来の性根がそうさせるのかは、判らない。
だが今、祐一は血に酔う戦士そのものだった。
■■■■■■■■■■■─────ッ!!!
突然、甲高い奇声が響いた。
浮き上がった心がはたき落とされる。思わず耳を塞ぐが、遅かったのか耳鳴りが止まらない。
なんだ……? 声のする方向を見遣れば、四足の獣と共にこちらへ猛然と疾走する翼人の姿。目一杯に伸ばした右手をこちらへ向け、狂声を上げ祐一へ向かって来る。
今まで後方で用心深く、後方で攻めに回っていた厄介な敵がどういう事か前に出て来たのだ。
なぜ? と言う疑問より先に──好機だ。そう思った。息を吸い込み、内息を整える。臍下丹田より湧き出た力を練り上げる。突き刺していた槍を引き抜き、心眼を凝らす。
視界が移り変わる───。色が無くなりモノクロだった世界が、絵の具を水を零し、手で撹乱させたように、不透明になる。
───フッ! 長槍を握り締め弓なりに引き絞った身体で、長槍を迅雷の矢の如く放つ。放った槍はまさに閃電、大気を咲き一直線に煌いた。
破砕音が耳朶を穿ったのもそう時を置かずしての事だった。槍は獣の脳天を突き破って翼人の胸に風穴を開け、彼方の大木に突き刺さりようやく止まった。
くずおれた二体の魔物が地面に強かに打ち付けられ、骸を晒すのを見落ろし、これで、二体。そんな呟きを口から零す。
それを酷く冷めた目で睥睨し、祐一は牛頭の魔人へ視線をずらそうとして
───ッ!!! 瞬間、膨大な殺意が全身を駆け抜けた。驚いて……いや、驚く事はない。この殺意の正体なんて一つしかないのだから。
殺意のする方向へ首を向ける……やはり間違いはなかった。闇夜にさざめく草原を疾走する赤い影。破竹の勢いで、それこそ噴き出る火花の如き駿足。速い。
心眼を使っていなければ、見失っていたかも知れない。そんな事を想起させるほどの速度。だが、祐一の胸裡に焦燥は欠片もなかった。
全てが、視えた。
奴の赫怒に染まった面貌も、奴の息遣いも、奴が次の瞬間放つであろう槍の軌道も、それがただの目眩ましである事も、そして隠し持っていた剣で首を切り落とそうとしている事も。全てがつぶさに視えた。
瞑目する。
半身をずらす。───瞬間、風切り音。
目を開けばもう奴は眼の前に居た。だが祐一の心はひどく凪いでいた。無限に広がる空で揺蕩う浮雲の様に、殺意すらもそこにはなかった。
蜥蜴人が隠し持っていた鉄剣を袈裟斬りに振り下ろす。祐一は拳を放った。
鉄剣は躊躇せず向かってくる拳ごと一息に斬り裂こうとする。
腰を屈め、前へ出る。辿り着くのは左拳の方が速かった。
左拳を蜥蜴人の剣を持った手首に叩き込む。剣を持った両の手から骨の砕ける感触が伝わる。苦悶の表情を浮かべた蜥蜴人が赤い瞳で祐一を睨む。
それにも祐一は頓着しなかった。
ハァーッ! 左拳の陰に隠していた右拳を、奴の胸部へ叩き付ける。祐一は既に放っていたのだ──二撃必殺の技を。
終わりだ。
祐一の拳は見事に蜥蜴人の内部を蹂躪し、心臓を食い破った。返り血が頬を汚す。ぬるりと肉の生暖かな感触と、血の温度が神経を伝わって感覚野に広がる。
蜥蜴人の限界まで見開いた瞳から、血の涙が零れた。奴の手が弱々しく持ち上がり、祐一の頬を撫ぜる。
祐一にはそれが最後の攻撃なのだと思った。まだ暖かさが宿る手が撫でるように頬を滑り、そして落ちて行く。
──■■。蜥蜴人の口から断末魔の言葉が漏れた。
拳をゆっくり引き抜く。ズルリと、支えを失った骸は地面に頽れ、───もう起き上がる事はなかった。
異形だった。
敵だった。
そして、───戦士だった。
祐一は強敵への敬意を払う事を自制できそうになかった。必ず彼らを弔おう。そう誓いを樹て、前を見据える。
───後には人と魔だけが残った。
仲間がやられた事に眉一つ動かさず、何の波風も立っていない底冷えする感情が祐一の肌を伝わった。
相対する両者の視線が絡み合い、ふと一つの記憶を思い越してしまった。牛頭から覗く虚ろな両眼に祐一は、イランで『雄牛』と邂逅した時の事を想起したのだ。
いいや。首を振る。
大丈夫だ。そう心に言い聞かせる。
あの時はなんの力も持たなくて、為す術もなく殺されてしまった。
──だけど、今は、違う。
祐一は先刻討ち果たした蜥蜴人の遺骸から、蜥蜴人が持っていた鉄剣を奪い取り、正眼に構える。対する牛頭の魔人もまた剣を薙いで大上段に構えた。
ふいに辺りは静寂に包まれた。
牛頭の魔人は泰然とした姿勢を崩さない。猛々しい容貌からは想像もつかない、ひどく落ち着き払った姿。そこがまた底知れず、不気味で、恐るべき敵なのだと言葉もなく示していた。
──殺せ。殺らなければ、殺られるぞ。
囁くような冷たい思考が脳裏を掠め、意識を敵へ近付けて行く。じりじりと意識が狭まり、ゾクリと気圧されるものを感じた。凪いだ静かな闘志に背筋を凍らせるほどの恐ろしさ。殺れ、殺れ、殺れ。生存本能と直感がけたたましく叫びを上げる。
そんな事は判っている……! 囁きかけてくる意識に、そう吐き捨てる。どうしようもなく冷えた剣、祐一は相対する敵にそんな虚像を見出した。
奴は確かに隙だらけなのだろう、祐一は敵を見て取って剣をやたらめったらに振るっても当たりそうだ、そんな思いを抱いた。
だが隙が多すぎると、却って隙はなくなる。祐一はエイルと修行していた時の事を思い出した。
今の奴は全身が空虚で、風に揺れる木々の如く捉えどころがなかった。エイルもまた似たような技を会得していた。
この敵を見た時、祐一は思い出したのだ。あれは間違いなく武術の極致の一つだ、と。
それをあの牛頭の魔人は、安々と演じている。思わず呼気が漏れた。短く、何度も、何度も。
なんてプレッシャーだ。うなじから背筋へ流れる冷たいものと思考が絡み合って滑り落ちていく。
それでも……!
血染めの腕が冷え、寒さを神経が伝える。血を流していた腹部の傷は塞がり始めている。
祐一の全身は己が流した血と返り血で赤く染まっていた。薄暗い闇の世界でも赤い血は鮮烈で、心の奥底に潜む激しい情欲を呼び覚ます。
ああ……心が熱い……身体が震える。しかし、剣を持つ指は静かに落ち着いていた。
敵が凍てつく「静」ならば、祐一は燃え上がる「動」だった。剣把をぎしりと握り潰しそうなほど強く掴む。
恐ろしい敵。だと言うのに祐一の闘志に衰えは見えず、それどころか昂りさえしていた。舌で唇を湿らせる。ひどく喉が乾いていた。目が滾るほど強い熱をおびていた。
祐一の眼光が烈火となった。
牛頭の魔人の瞳孔が収縮した。
合図はなかった。ただ闘志がぶつかっただけだった。───瞬間、彼らは風となった。
人が疾駆する。
魔が猛進する。
両者ともに常人が何歩も歩かねばならない距離を一息に詰めていく。武道の練達者が居れば「縮地」だと気付いただろう。
祐一は吠えたけり、剣を振るった。これまでの修行は辛くも、意義のあるものだった。培った武芸が拙いわけがない。
金光一閃。流星の光芒すら、今の刀光には及ばないだろうその力強さ。
勝つ。勝つ勝つ勝つ!! 絶対に───勝つ!!!
強大な意志が世界に木霊する。遂に人魔の雌雄を決する時が来た。
薄暗い世界で夜霧が立ち込めた。
その霧は赤かった。──血だ。血飛沫が空を舞い、辺りを赤く染めているのだ。
同時にいくつもの金属音が飛び交い、二つの影が際限なく蠢き踊る。豪快で俊足の剣が疾走る。精緻で軽妙な剣が煌めく。
─────オォッ!!
─────ッッッ!!
青光一閃。冷たい光が煌めいた。
大剣が刃風をなびかせ、祐一の左脇腹から逆袈裟に斬り裂こうと迫る。厄介な……祐一は眉を潜めた。
いま奴が放っている一撃は、死角の多い潰れている右目の方向から、それも確実に生を刈り取る致命の一撃だ。
だがそれを座視する祐一ではない。両の手に持った鉄剣を寸でのところで割り込ませる。ギィンッ、甲高い金属音が大気をとどろかす。それだけで止まる一撃ではなかった、ギリギリと骨が軋み、肉が抉られる
祐一の二周りは逞しい巨駆を持つ牛頭の魔人が、その体軀に恥じない膂力で祐一を鉄剣ごと両断しようとする。……しかし剛力無双は祐一も同じ事であった。
臍下丹田より湧き出る力を練り上げ、両の腕に、腰に、足に、行き渡らせる。
「う……ぉぉ、おお……オオオオオォォォオオオ!!!」
少しずつ、少しずつ、押し返す。
ぜりゃァァっ──! 両手で握り締めた剣をあらん限りの力で横一文字になぎ払う。
風切り音と共に、血煙が上がる──事はなかった。
居ない!? 瞠目すると同時に背後から殺気を感じた。もはや反射以外の何物でもなかった。鉄剣を殺気の方向へ盾にする様に割り込ませる。冷たい音と同時に、祐一は凄まじい衝撃によって吹き飛ばされた。
「ガッ!!?」
世界がまわって背中に鈍痛が走る、意識が飛びのきかけた。ぐらつく視界がブラックアウトしそうになる。
だが吹き飛ばされる瞬間見えた……牛頭の魔人が剣を突きこんでいた姿を。あの牛頭の魔人は祐一が剣を振った瞬間、『縮地法』に似た歩法で祐一の背後を一瞬で取ったのだ。
クソっ、思わず悪態をつく。次いで態勢を立て直す。
祐一は生きている。……それも無傷で、だ。それだけで十分だった。
立ち上がり前を見る。牛頭の魔人は己の右腕を、静かに見下ろしていた。奴にとって今の一撃は意識外からの完璧な奇襲だったのだろう。
しかし、違った。
右腕に走る、浅い傷跡が全てを覆していた。手のひらを開けては握りをくり返す。牛頭の魔人と視線が交錯する。祐一は不敵に笑い、戦意を迸らせた。
フッ……と、奴が笑った……気がした。首を振る、そんなはずはねぇと血と汗が滲んだ剣把をふたたび握り締める。
「フゥ───ッ!」
内息を整え、身体に巡る気を充溢させる。スイッチを切り替えるように思考切り替える。
ギリギリとはいえ右腕を斬り裂く筈だった刃が容易く止められた。
鋼の肉体。
チンギス・ハーンと戦った嘗ての記憶と共にその言葉が脳裏を過る。おそらく奴もアレと同じ類のものを持っているのだろう。
なるほど、強いはずだ。祐一は嘗て死闘を演じた『四狗』の猛威を思い出していた。おそらくあの時、闘った神の眷属にも匹敵するプレッシャーとポテンシャルを持っている。そう、直感で悟る祐一。
敵は『鋼』なのだ。祐一の海馬から一つの知識が蘇る。そうだ、奴は鉄なのだ。ならば───『斬鉄』。鉄を断つ剣でもって、叩き切ってしまえばいい!
「我は最強にして、全ての勝利を掴み取る者なり───」
聖句ではない。ただ言葉を紡いだだけ。
だけれども、祐一は知っている。呪力の類がなくとも言霊は、己に力を貸してくれるのだと。
祐一は知っている。
パルヴェーズ……俺に、力を貸してくれ───。友は己に力を貸してくれるのだと。
全く、しようのない奴じゃ! 思い出すのはそう言って尊大に笑う友。口角を吊り上げ、獰猛に笑う。
眼を大きく見開いて、心眼を開眼する。さらに深く、さらにさらに深度を下げ、どこまでもどこまでも深く堕ちていく───。
牛頭の魔人はその間、祐一を静観していた。まだ刃を向けるべきではないと言わんばかりに。
されどそれも束の間、意識を浮上させた祐一は一も二もなく疾駆し……閃光と火花がまたたき薄暗い世界を照らす。
ギィィィィン───ッ!
次いで、大剣と鉄剣がつんざくような大音声を奏でた。ビリビリと柄から伝わる激しい振動とよくこの鉄剣が保ったものだと感心するほどの衝撃。
強力な膂力で打ち合わさった二振りの剣が反撥し、真反対の方向ヘはね返えり、両者はそれに逆らわず距離を取る。
牛頭の魔人はふたたび正眼に構え───直後、剣を横一文字に薙ぎ払った。キィンッと金属音が響く。直感がけたたましく警鐘を鳴らしたのだ。くるり、くるり、と天高く舞うものは『剣』。
誰が投げたのか、なんてわかり切っていた。眼光を眇め視線を前へ向ける。そこには腕を振り下ろし、前屈みになった祐一の姿。
ググ……。牛頭の魔人は握り潰さんとするほど強く柄を握り締め──瞬間、祐一が目の前に現れた。
なんて速度。確かに祐一が投擲し停滞していた時間など一秒にも満たない時間なのだろう。
だがそれだけではなかった。
祐一は模倣したのだ。目の前の牛頭の魔人が行使していた──『縮地』と言う歩法を!
──ッ! 牛頭の魔人が驚愕するより速く、祐一が動く。
なんて皮肉な身体だ。そう、胸中でこぼす。
あの辛かった修行をこなしても中々身に付かなかった基礎が、技術が、心得が、おもしろいように祐一の力となる。
数十日掛けて成し遂げた修練よりも、たった一度の実戦の方が遥かに糧となっているのだ。これを皮肉と言わずしてなんと呼ぶ? ここが戦場でなければそう嘆いたに違いない。
だが今は好都合──!
獰猛な笑いをさらに深め、猛然と祐一は疾駆する。たった今、覚えた技で彼我の距離を一息に詰める。
『お前は素手のほうが何倍も恐ろしいな……』
そうだ、エイルの言うとおりだ! 俺は剣がなくても戦える!
心で声高に叫び、真正面から突き進む。
だが牛頭の魔人もさるもの。横に薙ぎ払った態勢から手首を捻り、一瞬で迎撃態勢を整えた。
来るぞ──!
──青光一閃。見事な一太刀によって大気が両断され、刃音が響く。……だがそれだけだった。
そこに獲物はいなかった。
そこに敵はいなかった。
そこに祐一はいなかった。
瞠目し、視線を巡らせ───見付けた。祐一はしゃがみ込み、身体を投げていたのだ。あの牛頭の魔人が剣を振るより、速く。
腰を落とし、広げた足で牛頭の魔人の脚ごと一気に薙ぐ。牛頭の魔人は巨駆。普段の力では刈り取れるわけもない───ならばもっと力を込めるだけ!
「でぇええりゃあああああ!!!」
腹いっぱいに雄叫びをあげ、一気呵成に左から右へ薙ぐ。やにわに立ち上がり体勢が崩れたところを、ダメ押しするように頭部を殴打する。
これには如何に巨体を誇る牛頭の魔人と言えど堪らず、コマのようにグルンと宙を舞い、強かに地面へ叩きつけられた。
───フッ! 一気に、跳躍する。
銀光を反乱射し、くるり、くるり、と空を舞い落ちて来た鉄剣を、掴む。
と、同時に左の首元に冷たく硬質な感触と悲鳴のような痛みが走った。牛頭の魔人が足掻くように放った大剣が祐一を捉えたのだ。血飛沫が舞う───だが、浅い。皮と肉を削がれたが、重要な血管には至っていない。
いや、そもそも祐一は気にも止めなかった。
巡る思考はただ一点を捉えていた。──ただ敵を倒す事のみを! 祐一は無手のほうが強い。それは純然たる事実だ。しかし……
拳だけじゃねぇ……! エイルのお陰で、俺は───剣も強くなった!!!
「オオオオオォォォオオオオオオッッ!!!」
咆哮をあげ、剣を掲げる。乾坤一擲の攻撃が無意味に終わったと悟った牛頭の魔人が、最後の抵抗とばかりに腕をクロスさせて絶対防御の構えをとった。
牛頭の魔人の肉体は鋼鉄にも及ぶ堅牢さを誇っているは、先刻打ち合ったときに身に沁みて理解している。鉄じゃあ……斬鉄じゃだめなんだ!
なら、神様だって斬る刃を振るうだけだ───ッ!
『悟りを宿す菩提樹にして曇りなき明鏡の如く』
脳裏に響くはエイルの教え。
無心で無情で冷血な、そして穢れなき剣こそが最強であると信じていたエイルの言葉を思い出す。
ただ剣の一本に生涯を捧げ、神の喉元に剣を突きつけんとする一人の剣鬼を思い描く。
───違う、そうじゃない。俺が目指すべき場所はそこじゃねぇ……。
祐一には判っていた。エイルの剣の道と自分の道とでは行き着く頂きが違っているのだと。
思い出すのは因果律の居た空間。あそこには全てがあって何もなかった。何も得る物はないと思っていた。
しかし、あそこにこそ答えがあった。
因果律と相対した時、祐一は因果律のあまりの巨大さと強大さに膝を屈しそうになった。だがそれでも折れなかったのは、祐一自身の強い自我があったからこそだった。
故に、祐一は思う。
何物にも流されず、何物も受け容れる意思こそ一番大切なのだ、と。
悟りが、答えが、菩提樹や明鏡にあるのか?
そんなもの、最初っからない! たとえ辿り着くとしても、そこにはただ絶対の『無』があるだけだ!
ならば森羅万象を許容しろ。天地万物を肯定せよ。あらゆる感情を感じ取れ。
意志を斥けるな! ───絶対不変の〝決意〟を持て!
その時だった。
唐突に、身体が拡張されたような感覚を覚えたのは。いや、拡張されたのではない……剣がまるで身体の一部になったかのように意識が切り替わっただけ、……それだけだった。
故に己の意志が、剣の鼓動が、万物の呼吸が、全てが手に取る様に判った。心眼が嘗てないほど強く発動している。
ホント……なんて理不尽な身体だよ。
エイル、今、判ったよ……。
祐一はここに至って『極致』へと、至った。
眼光に炯とした強い光が宿る、同時に口角を吊り上げて傲岸に笑う。剣の柄を力いっぱい握りしめ大上段に振りかぶる。
ここで決める!
全てを込めろ!
全身全霊を籠めてッ!
───振り降ろせェェッ!!!
「オオオオオオオオオォォォォォッッッッ!!!」
───斬。
獣のような咆哮とともに、全てを断つ一太刀が牛頭の魔人を強かに斬り裂いた。
感想お待ちしています(三顧の礼)