王書   作:につけ丸

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永き旅路の果てに

「………………ぅ……」

 

 呻きを上げながら、祐一の意識は覚醒した。

 同時に意識を引き裂きそうな激痛に、叫びそうになる。痛い、痛い、だが祐一は弱音ひとつ吐くことなく立ち上がろうとして───出来なかった。

 首が動かせず目視できないが、感覚は繋がっているのだから五体満足なのだろう。しかし身体は祐一に叛逆を起こしたかのようにピクリとも動かない。鉛で出来た傀儡を骨の折れた指で操っているかのようですらあった。

 ここ……何処だ……? 身体を動かすのを諦め、目を走らせる。

 うつ伏せになって目覚めた場所は荒涼たる大地の上だった。見渡す限り灰色の世界が広がって、生命の息吹が感じられない……以前旅をしたイランを想起させる光景。

 なんでこんなとこに? 

 記憶が混濁しているのか、ここがどこなのか、なんでこんな所で倒れているのか、なんでボロボロなのか、疑問が水面に吹き出る泡のようにポコポコと湧いてくる。

 今さっき思い出したようにイランの荒野を想起させる不毛な地。だがイランとは決定的に違うものがあった。

 何故今まで気づかなかったのか不思議になるほどの、大きな違い。

 それは眼前に広がる巨大な穴だった。底知れぬ無明の闇が広がっていて。まるで……。そう、まるで太陽を落ちてきたかのような……。

 ハッとする、祐一はやっと思い出した。なぜここに居るのか。何が起きたのか。なぜ傷付いていたのか。

 誰と戦っていたのかを───! 

 

「───まだ生きていましたか」

 

 唐突にヤマトタケルが眼前に現れた。

 おそらく神速で現れたのだろう……身体に紫電が舞っているのが何よりの証左。手中にあった白金の刃、『救世の神刀』は何処かへ消え去り、《盟約の大法》によって得た呪力もない。

 しかしヤマトタケルが負っていた戦傷は完全に治癒していた。

 あれは穴などではなかったのだ。ヤマトタケルが先刻揮った剣によって起こされた、破壊の残骸だったのだ! 

 

「呆れるほどにしぶといですね。あの必滅の刃を受け五体満足で生き残るとは……」

 

 肩をすくめ、祐一を見下ろすヤマトタケル。祐一は動かない身体の代わりに眼球を動かし睨み据えた。

 全神経を蝕む痛みと喉からせり上がる血を堪え、かつては親愛の情を抱いていた者へ詰問する。

 

「な……んで! な……んで、なん……だ!? 俺は……! アンタを……アンタを、兄だとすら……、思って……いたのにッ!!!」

 

 慟哭が寂しげな大地に虚しく響く。その言葉には怒りや絶望、悲しみも余すところなく乗り移り、しかし、一番感じ取れるものはやるせなさ、だった。

 どうしても納得がいかなかった。あれほど……あれほど慕っていた人が敵だったなんて信じたくはなかった。かつて友としたパルヴェーズも、変り果て遂には殺し合った。

 あのときだって辛かった。胸中にわだかまる疑問はこびり付く泥のようで拭えるものではない。

 またか、またなのか……! 認めたくなかった。その出来事は「木下祐一」という少年のトラウマそのものだったから。

 なにか理由が……縋れる理由が欲しかった。

 

「ふふ。私も貴方の事を弟だと思っていましたよ?」

 

 ヤマトタケルの返答は変わらず、嘲笑だった。

 口内が干上がる。『戦士』を奪われた時にも劣らない、激しい怒りが全身を焦がす。瞳が滾って、燃え上がりそうだ。

 

「アンタがッ……アンタが憎い───ッ!!!」

 

 この世のすべての憎悪を煮詰め吐き捨てたような声。さっきまでの惰弱で弱音を吐いていた自分などどこかへ消え去っていた。底の知れない純粋な怒りが祐一を支配した。

 精神が肉体を凌駕する。

 ブチブチと筋繊維がちぎれる感触が身体のそこかしこで起こり、傷口から間欠泉のごとく血が噴き出す。

 それでも諦めようとは、欠片も思わない! 

 だが、無意味だった。憎悪と共に立ち上がろうとした祐一を一笑し、ヤマトタケルはふたたび虚空から豪剣を取り出して、軽快に揮った。

 サク、サク、サク……。三度、祐一から簡素な音が鳴る。小気味良い音だった。

 奏でたのはヤマトタケル。楽器はもちろん豪剣と祐一だ。両足の健と、左腕の神経が断たれ、糸の切れた傀儡のように地面へ倒れ込む。

 

「フフ……。無駄です、もう諦めなさい」

「殺して、やる……ッ!」

 

 豪剣を首元へ添え、最期とばかりに祐一へ語りかけた。祐一は呪詛を吐き出し、睨み据える。

 

「さぁ、もはや貴方は刀折れ矢尽き、命運も尽きました。ですが貴方は私に答えを示す事はなかった……」

 

 天を仰ぎ、無念そうに嘆くヤマトタケル。芝居がかった姿にどれほどの真実味が含まれているのか定かではない。嘲弄してしているのも嘆いているのも間違いはないのだろう。

 対する祐一が答える事はなかった。

 

「ああ、残念です……私はあなたならば答えを示してくれると思っていたのに……」

 

 ヤマトタケルの独自が聞こえているはずだが、祐一はもう怒るわけでも、足搔くわけでもなく、ただ眼光鋭く目を見開いていた。

 生きるのを諦めた訳でも、勝利を諦めた訳でも、憎しみが消えたわけでもなかった。

 

「フフ、貴方は用済みになったのですよ。ですが貴方が奮戦し、私の喉元に喰らいついたのは事実。故に貴方の奮闘に敬意を払い、その右腕に宿るかつての半身ごと我が手ずから斬り裂いてあげましょう」

 

 ただひたすらに憎悪で瞳を染め、真っ向からヤマトタケルと振り下ろされる剣を睨んでいた。

 内に巻き起こる波濤の如き激情に呼応するように、頬を冷たい風が撫ぜていく。

 祐一は刮目していた。つぶさに見定めていた。探し求めていた。

 絶体絶命の窮状に陥ってしまった己が、生き残る活路を。寸毫もないはずの活路の道をこじ開けるために。

 精神の極限まで集中していたのだ。

 

『───祐一くん! 全部……全部罠だったんだ! 王国は敵だったんだ!』

 

 その時だった。友の……今まで離れ離れになっていた寿の声が聞こえたのは。同時にひとつの───確信が湧く。

 視えた───! 光明が見える。活路が拓けた。掌握していなかった最後に残るウルスラグナの化身がついに祐一へ力を貸くれると言う、確信が! 一も二もなく化身する。 

 直後、風が吹いた。

 髪を揺らす一陣の風は次々と変化し、目を瞑らんばかりの突風から渦巻く旋風へ! 

 これこそウルスラグナ第一の化身『風』。アヴェスターに記されたかの軍神は強風の姿で聖者ザラシュストラの前に現れたと言う逸話に由来する力……友が窮地に陥ったとき、風と化して駆けつける。それがこの化身の力なのだ! 

 ウルスラグナの十の化身。そのすべての化身をいま完全に掌握した。溺れそうな全能感を振り切って、言霊すら唱えることなく呪力を叩き込む! 

 

「───むっ!?」

 

 異変に気付いたヤマトタケルが咄嗟に剣を揮うが、もう遅い。空を斬るヤマトタケルの刃。旋風が消え去ったころにはもう祐一の姿は見当たらなかった。ここに居るの一人だけ。……だだっ広い破壊し尽くされた大地にヤマトタケルのみ。

 

「………………ははは。……覆した、覆したのですか。フフ、未だ彼の命運は尽きていなかったようですね……」

 

 歪な笑みを深め、肩を揺らす。そこに悔しげな色はなく、ひたすらに愉快げで。

 

「ですが……私から逃げ果せれるとは思わないことです」

 

 どれほど逃げようが必ずや我が掌中へ……。勝利も獲物も逃したと言うのに、ヤマトタケルの面貌は歓喜に彩られていた。

 

 ○◎●

 

 

 視界を覆っていた旋風が霧散する。

 まず最初に目に入ったのは赤。祐一は何度もその色を見たことがあった。……血の赤だった。

 漆黒の獣皮にいくつも突き刺さる剣斧を見て、瞬時に悟った。あれは血まみれのラグナだったのだ。全身が総毛立って、心臓が跳ね上がる。

 次はラグナの隣にいた寿。彼は右肩を抑えているが、軽傷で済んでいる。

 やはり傷が深いのはラグナだ。五メートルほどの巨体になっているラグナの体表には、至るところに裂傷が走り、槍や矢すら突き刺さっている。だが倒れる事なく大地に仁王立ちし、後ろにいる寿を守り徹していた……祐一との約束を、果たすために。

 次いで半壊した王国の城壁が見え、そしてぐるりと囲むように戦士達が武器を構えていた。

 居並ぶ誰も見たことのない者たちばかり。おそらく王城に控える近衛兵たちだろう。囲んだ戦士達は突然現れた祐一に驚き、まだ動揺から戻ってきていない。

 

「──ッ!」

 

 強烈な視線を感じて咄嗟に目線を向ければ、そこには王国の女王たる『神祖』ニニアン。戦士を束ねるように奥に控え、しかしこの上なく厳しい表情を浮かべて祐一を睥睨していた。

 烈火の如き眼光と冷厳な眼差しがかち合う。ニニアンから向けられる純粋な殺気を全身に浴びながら、祐一もまた闘志に満ち満ちた眼光で返礼とした。

 だが、……見えたのはそこまでだった。

 ドサリ、と壊れた人形のように地面に叩きつけられ、些細な衝撃でも呻きを上げる。

 眼の前に現れて直ぐにくずおれた祐一に、混乱からいち早く立ち返った寿が駆け寄った。力の入らない祐一に肩を貸す。

 

「祐一くん! その傷は!?」

「おっちゃん頼む……! 俺を、ラグナの……ところに!」

「でも! 君は!」

「いい、から……───早くッ!」

 

 常ではありえない有無を言わせぬ、その鬼気迫る声に寿は「……わかった!」と答え、祐一を背負いラグナの元へ駆け出した。

 

「────何を、して、おる! あの、異物は、手負い、ぞ! 疾く、仕留め、よ!!!」

 

 ニニアンの隣に侍っていた生白き容貌の老人が大喝し、戦士達が我に返ったように動き出す。

 だが、遅い。ラグナと祐一達の距離は現れた時点で目と鼻の先にあった。故に、彼らを仕留める千載一遇の好機は過ぎ去っていたのだ。

 遅れてそのことに気付いたカズハズは「投擲、せよッ!!!」と挽回するための一手を巡らせた。王国でも上位の戦士たちはカズハズの下知にも見事に応え、直後、鉄の嵐が吹き荒れた! 

 それは一秒にも満たない刹那の一幕。倒れ込むようにラグナの元に着いた祐一が、己が内に宿る化身を呼び覚まし、残り少なくなった呪力を精錬して……叫びをあげたッ!!! 

 

「ラグナッッッ!!!」

 ──ルオォォォオオオオオオオッッッ!!! 

 

 祐一の意図を悟ったラグナが、覚悟を表明するように哮りを上げる。だからこそ祐一は迷わなかった。

 今、祐一が用いている化身は『少年』! 祐一の為に命を賭して、約束の為に命を賭して戦うものだけが得られる、聖なる軍神の加護! 

 練り上げた呪力を至純の『加護』へ変えた祐一が、己の血まみれの腕をラグナの傷口へ叩きつけるように──重ね合わせた。それと武器の嵐が迫ったのは同時だった。

 

「ラグナァァッ! 吹っ飛ばせェ───ッ!!!」

 

 血を吐きながら、地鳴りが起きるほど全力で叫ぶ。

 

 ────ッルオオオオオオオオッッッッッッ!!!! 

 

 直後、あらゆるものを大地は灰燼に帰す咆哮が轟いた。極大の衝撃波が鉄の嵐を、そして戦士諸共吹き飛ばし、地面の土砂すら巻き上げる。

 しかしニニアンはそれを受けてさえ無傷であった。衝撃波がたどり着く瞬間、カズハズがその見た目にそぐわない俊敏な動作でニニアンの前に躍り出てると、呪術による障壁を張り守り切ったのだ。それほどの事が起きようとも、ニニアンの視線が揺らぐことはなかった。そんな些事よりも、大事が目の前に依然として転がっているのだから。

 まるで嵐の前の静けさだった。衝撃波が過ぎ去ったあとには耳鳴りがするほどの静寂が居座り、意識をなんとか繋ぎ止めた数少ない戦士も、主を守護するカズハズも、冷厳な瞳で見据えるニニアンも、誰もが等しく同じ方向を見ていた。

 ざり、なにか巨大で力強い存在が大地を踏みしめる音が静寂を引き裂いた。巻き上がった粉塵から、圧倒的な巨駆を持つ黒い影が現れ出る。そこから導き出される答えは───。

 容貌魁躯なほど太く、たくましい胴回り……。黒い影は、闇を溶かし込んだ漆黒毛皮に隠し切れない猛々しさが滲みでた凶相を湛え……。そして両頬辺りから突き出た禍々しく長大な牙と、烈火の如き意志を宿した二対の眼光……。

 黒き神がそこには居た───! 

 力尽きるはずだった破壊の顕身が復活を遂げたのだ。なんという威容か。あれこそ聖典に記された、ヤザタの示現! あれこそ正に、近寄り難き者也! 

 今ならばどんな戦士もカズハズも、ニニアンであろうと一息に殲滅できるだろう……。だが祐一はその選択肢を選ばなかった。否、選べなかった。

 厄災が、凶兆が、───ヤマトタケルが。あの怨敵が、刻一刻と迫っている事に気付いていたのだから。逡巡する暇も、一刻の猶予もなかった。寿に支えられながらラグナの背に乗り込み、毛皮を握り締め、

 

「掌中の、珠も、砕け散った……! 血まみれの、肺腑は、地に落ちた……さあ、無秩序を……!」

 

 言霊を謡い、意思を伝える。言い様にやられ腸も煮えくり返っているだろうに友は……ラグナはいつものように応えてくれた。

 転身して王国に背を向け、走り出す。常勝不敗の化身であるラグナに無様な敗走をさせてしまった己に忸怩たる思いが心にわだかまるが唇が噛みしめ逃げを打つ。

 去りざま、ニニアンの紫紺の双眸と交錯した。

 

「────」

「────」

 

 祐一は手負いだ。だからこそ祐一の持つ激しい獣性はこれ以上なく極まり横溢していた。しかし、それでもニニアンは一切怯むことはなかった。

 傲岸に、凛と、ただひたすらに祐一を睨み据えるだけ。

 その時、初めて祐一は知った。その冷たい瞳の奥に劫火の意志が潜んでいることを。彼女がこれ以上なく激怒していることを。

 そこまでだった。

 ラグナの速度が跳ね上がっていき、幾ばくもなく神速下へ。巨大だった王国が一瞬で遠ざかり小さくなっていく。

 

「祐一くん、怪我は大丈夫なのかい!? その傷は! まさか彼奴等に!? それに別れたあの後一体なにが……! ああ、王国もどうして襲ってきたのか……」

 

 状況が、落ち着いたと思ったのだろう。寿が矢継ぎ早に問うてきた。それを遮るように拳を弱々しく、しかし力一杯に毛皮に叩きつけ呪詛を吐き出さんばかりに口を開く。

 

「エイル達は……!」

 

 首を振り、握りしめた拳が白む。

 

「俺が殺した……っ!」

 

 ハッと。

 ……寿はそれだけで多くのことを悟った。視線を落として、肩を震わせる。

 祐一の激怒し昂ぶっていた心が萎み、心臓を掴まれた冷たい感覚が巣食う。頬に走る乾いた二条の赤い跡に、ふたたび二条の雫が落ちる。透明で、淀んだものを洗い流すような雫が。

 

「ごめん……おっちゃん、ラグナ……。俺の、俺たちの……負けだ……!」

 

 寿は思わず目を伏せた。祐一の背がいつになく小さく見えて仕方なかった。いつも闊達で、笑顔の絶えない、それでも決める時はどっしりと構え、しっかり決める。そんな彼の姿とは程遠くて……。

 戦いに破れた、無様な敗残兵。それが今の祐一達を端的に現した言葉だった。

 そして───

 

 ッキィィィィィィィィィィンッッッ!!! 

 

 ───戦いはまだ終わっては、いない。

 一条の閃光が霹靂のごとく駆け巡った。ラグナが咄嗟に半身をずらす。背の祐一たちも振り落とされないよう強くしがみついた。

 ──劫! 直後、轟音が祐一の鼓膜を叩いた。ハッとして音源地に目を走らせると、先刻まであったはずのなだらかな丘が消え去り更地と姿を変えていた……。

 放たれた方向へ視線を向ける。……やはり、来た。神速で逃げる祐一達を追い、これほどの破壊を為せるものなど、そうそう居ない。

 即ち。

 倭の勇者・ヤマトタケル。かの怨敵が追ってきたのだ! 

 

「私から逃げ切れると思わないことです。文字通り、地獄の果てまで追いかけましょう」

 

 ゴロゴロゴロゴロ───ッ! 

 そう嘯くヤマトタケルはとある物に騎乗していた。翼ある駿馬が牽く、雷光を纏った二輪の戦車に。空を縦横無尽に翔けるその姿は何も遮るものなどないもないとばかりに雄々しく勇ましい。

 祐一達は神速で移動している。だと言うのにそれに追い付かんばかりに猛追するアレも、神速に及ぶ速度なのだろう。祐一はあの戦車をなんとなくだが天空神に纏わるものだと、霊視の痛みががふたたび激しくなった脳内で悟った。

 

「あいつが、天空……神……?」

 

 戦士を使う時に得た、幽世に漂う知識との違いに思わずそんな疑問が口をつく。

 確かにヤマトタケルは雷と関わりの深い神格だ。それは剣神と言う枠組みで見れば珍しくない。

 彼の死後も、その身を鳥の姿へ変え天に昇っていったと言う。正に『鋼』そのものと言ってもいい逸話だ。しかし天空神となれば首をかしげてしまう。それにヤマトタケルと翼を持つ馬を結びつける話などどこにもないのだから。

 劫劫劫劫劫劫劫劫劫劫劫劫─────ッッッ!!! 

 思案に暮れる間にも幾条もの閃光が煌めいて、幾つもの穴が穿たれていく。

 もはやヤマトタケルは一切の手加減を捨てていた。猛攻と言い換えてもいいほどの、捕らえる事など端から考えていない殺意を孕んだ攻撃で、それでいて凌げて当たり前だと言わんばかりに苛烈な攻め。

 息つく暇もない! ──左から二つ! 上から三つ! 下から一つ! それを意思をシンクロさせた祐一とラグナが紙一重で避けていく。神速で動き、細かい動きは不可能だが、夜空に疾走る稲妻よりも軽快にジグザグと『Z』を描くように軽やかに避けていく。

 ヤマトタケルと馬上戦を演じれているのも権能の恩恵だ。おそらく騎乗の権能がなければ即座に討たれていただろう。

 だが優位なのはヤマトタケル。いまの祐一には逃げるしかなく、対抗する術はないのだ。ヤマトタケルに掌で踊らされている錯覚に陥りながら、しかし、どうすることも出来ずに逃げの一手を打つだけだった。

 どうすれば、いい!? そう頭を抱えそうになる。

 だが一瞬の油断も隙も許されない。そんなものを見せれば──劫! やはり槍が一切の慈悲なく飛んでくる。閃光が横切り、余波が肌を灼いた。

 ───フェルグス・マク・ロイヒ

 まただ。今度はハッキリわかった。フェルグス・マク・ロイヒ。王国で何度も聞いた『まつろわぬ神』の名だ。ケルトの英雄の名にして王国を襲った災厄。それが何故……? 戦場だと言うのに祐一はそのことが気になって仕方なかった。無意識に思考を割き、霊視をもっと深く得ようとして……。

 

『あれもまた、あやつの権能なのだ』

 

 唐突に声が鼓膜を揺らした。雷撃の轟音が鳴り止まないこの場でもその声はしっかりと祐一の耳に届いた。この芯から響く野太い声は間違いなく叢雲。いままで沈黙していた友の声だった。

 

「叢……雲。おまえ、大丈夫……なのかよ」

『すまぬな、少し眠っておった。まさか忘れ去られた古の盟約を行使するとは思わなんだ。あれから身を守るのは……なかなか骨が折れたからな。だが、……おぬしほどではない』

「ごめん……」

 

 だが叢雲の声に覇気は少なく、疲れ切っているようですらあった。思わず祐一は謝罪の言葉が口をついて出た。……叢雲はあの神刀の大切断を防いでくれたのだから当然だろ。生きているのが何よりの証拠だ。どうしようもなく情けなさが心に巣食う。

 首を振って、前を向く。悲観するのはあとにしろ、今はこの死地を乗り越えることだけを考えろ。

 突然響いた声にキョロキョロと辺りを見渡す寿に、大丈夫、と頷きかける。結局、寿は頷いて何も聞かなかった。

 

『構わん。祐一よ、あの権能はな、先刻あやつが振るった偸盗の権能、そのなれの果てなのだ』

「なれの果て…………?」

『応。今あやつが行使する雷の権能はあやつ自身のものではない。流れゆく時の中であやつが持っていた偸盗の権能は変様を重ね、今では敵を斃しその力を奪う、といったものへと変容していった。おぬしと近しい性質へ……神を斃すことでその神格から権能を簒奪する、といった具合にな」

「それが、あの権能の、正体……」

「そうだ。故にヤマトタケルが永き旅路の果てに獲得してきた証そのもの。しかし諸刃の剣だ。己と友誼を交えた神格と己の神格を溶け合わせるように同化させ初めて動く権能。故にあやつは自我は見失いあの様に狂った」

「そんなの、ありかよ……! ぐッ、また!」

 

 ────■■■ン

 ────■■・■■■■

 ────■■■

 いくつもの神格の名が脳裏に過ぎっては消えていく。同時に、霊視の頭痛が何度も何度も駆け巡る。

 自前の権能だけでもあれほど強力なのに、まだあいつは強力な手札を持っているという。古今東西これほど強力な神がいるのか疑問すら湧く。

 どんなに肉薄したと思っても突き放され、いくつもの隠し玉を放ち、比類なき武勇を誇る神。ヤマトタケルという神格に、呑み込まれそうな怖れがわだかまる。

 

「どうにか、出来ないのかッ!?」

『今はどうする事もできん。逃げを打つしかない』

「なら『智慧の剣』を使えばいい! あいつが権能を使ってるって言うならヤマトタケルの大本ごと斬り裂いてやればそれで……」

『無駄だ。もはやヤマトタケルと同化した神格は、溶解し鍛造された鋼の如く混ざり合っている。ヤマトタケルの一部と言っていいほどにな。すべてを斬り裂こうとすれば『智慧の剣』は何本、何十本と必要になる……よしんばそれで斬り裂こうと権能も数日程度で復活してしまう』

 

 いくつもの神格の名を割り出し、知識を蓄え、剣で斬り裂く。とてもではないが非現実的だ。例え不可能を可能にする神殺しと言えど、その難行は厳しいものがあった。

 ッゴロゴロゴロゴロ───ッッッ! 戦車の轟音が時を重ねるごとに近づいている。打開策を検討する間にもヤマトタケルの苛烈な攻めは止まらない。

 祐一の持つ異常な再生力が負った傷を時間とともに治癒していくが、燃焼し注ぎ込んでいる呪力は底を尽きかけたまま。

 それに今気付いたが、異常な熱を掌に感じた。祐一からではない……それはラグナの獣皮からだった。少し考えればわかること……神速下でもう長い時間を動いているのだ。

 車で例えるならエンジンを全開にしてフルスピードで動いているようなものだ。自身の振るう『鳳』ですら制限があるのだ、如何に神獣のラグナと言えど限界が近いのだろう。ヤマトタケルを止める手段も頭をどれほどこねくり回そうと出てこない。

 そして一番の問題は逃げ道がないことだった。いまは我武者羅に逃げているが、例え振り切ったとしても現世へ脱出する術がない。王国に辿り着いた時、三ヵ月の月日が必要だと宣告されていた。それから二ヶ月経ち、それでも一月は現世には脱出できず……いや、そもそも脱出する手段すら祐一たちは知らされていなかった。

 じゃあ俺たちはずっとこのまま身を隠すしかないのか!? このままでもジリ貧だっていうのに! 拳を握り、顔を俯かせる。万事休す、どうしようもない袋小路に閉じ込められていた。

 

「───逃げよう祐一くん!」

 

 その時だった……力強い言葉が祐一の耳朶を打ったのは。振り返れば今まで黙り込んでいた寿が、決意を秘めた瞳で祐一を見据えていた。

 

「は……? ……逃げるったって、どこにだよ!? 逃げ道すら、生き残れるかすら……俺たちはそれすらも曖昧なんだぞ!?」

 

 少しずつ治癒してきた身体に鞭打って、悔しげに寿に言い募る。口角泡を飛ばし、逃げ道なんてものはないじゃないか、とそう叫ぶ。……だが寿の瞳は揺らぐことはなかった。

 

「───海だよ!」

 

 寿から飛び出した言葉に、祐一が鼻白む。いつもは驚かせてばかりの祐一が、この時ばかりは寿に気圧されていた。

 

「…………え?」

「僕たちが初めて現れた場所を覚えているかい!? あそこは確かに海だった! あそこに僕たちが出てきたことにはきっと……いや、間違いなく理由がある!」

 

 思い起こすのは、透き通る浅瀬、白い砂浜……そして紺碧の海。確かにそんな場所だったはずだ。

 でもなぜ……? 疑問に頭を埋め尽くされた祐一に、豪快に腕を振るって寿は言葉を重ねる。

 

「ケルト神話では、海には異界が広がりそして浅瀬は異界の入口とされたんだ! 僕たちが現れた場所がまさにそれだっただろう!? ───それに今はサウィン! 異界との扉は繋がりやすくなってるはずだ……!」

「でも現世には三ヶ月必要だってあいつが……! あれからまだまだ二ヶ月しか経ってないぞ!?」

「あれはヤマトタケルが君を王国に留めるためについた嘘だったんだと思う……。テスラさんから……それどころか王国の誰からもそんな事は言っていなかった、それどころか初耳だって人もいた」

 

 そう言い切って、寿は静かに顔を俯かせる。

 

「僕だって王国に来て遊んでばかりいた訳じゃない……帰り方の目星は付いてたんだ……。けど踏ん切りがつかなくてね……」

 

 そして寿は、でも……と顔を上げ祐一と視線を合わせた。

 

「行こう、祐一くん。僕はこの選択に命を賭けるよ」

 

 歯を食いしばり常になく厳しい表情を浮かべた寿の目には、一切の迷いはなかった。覚悟を決めた男の目だった。

 安くはない……決して安くはない言葉。……しかし祐一は逡巡した。いいのか、と。もし違ったら、と。ここが分水嶺だ。額にぬるりと雫が落ち、瞑目したまぶたを伝う。

 ───友を疑うのか? 

 その時。まるで旅立つ前の自分に、神殺しになる前の自分に、あの時のパルヴェーズと引き離されたあの時の自分に……問い掛けられた気がした。

 眼を見開いて、かぶりを振る。

 ふざけるな、友を疑う? そんな訳ないだろう。友がこの局面で、決死の覚悟で、命を賭けると、そう言うのだ。──―なら応えるのが、俺だろう! 

 

「ラグナ! あの場所、判るか?」

 ───ッオォン! 

 

 任せろ! と頼もしい返事が返ってくる。

 

「よし。なら、戻るぞ……現世に!」

「うん!」

『応!』

 ───ルオ! 

 

 掻き集めた呪力をラグナに注ぎ、ギアを上げる。呪力がうなりを上げラグナが猛り狂う。持ちうるベットをすべて賭けた後先考えない、まさに乾坤一擲。───それは英雄神ヤマトタケルにもすぐに伝わった。

 

『ほう、迷いがなくなりましたね……。道を見出しましたか』

 

 双眸を眇め、喜悦が湧く。さぁ、苦境に立たされたあの神殺しはどう道を切り拓くのか。ああ、早く……見せてくれ、観せてくれ、魅せてくれ! 歓喜が疼き、逸る心が早鐘を打つ。

 ヤマトタケルのその瞳は虚ろでどうしようもなく濁っていた。

 

 背筋に氷柱を入れられた悍ましい感覚がぞわぞわと這い回る。誰に見られているのはよく判っていた……ヤマトタケルの見据える視界で、その視線を振り切るように祐一は動いた。背に受ける気色の悪い視線を無視して、加速する瞬間、ラグナに一つの指令を下す。

 

「吼えろ! ラグナッッッ!!!」

 

 ─────ル、ォォォオオオオオオオオオオオオッッッ!!! 

 

 振り上げた前肢を地面に叩きつけ、同時にこれまでで最大規模の咆哮を放つ。二つの途方も無いエネルギーが大地に衝撃となって伝わり、文字通り、地を割り天を咲いた。まるで世界が裏返った光景さながらに破壊の化身たる所以を余すところなく発揮し、地平線の彼方までその猛威は止まらず破壊は広がった。

 ダァァァァンッ! と最初に轟音がヤマトタケルを襲い、一瞬遅れて衝撃波の砲弾が迫った。さしものヤマトタケルの駆る天馬もたたらを踏み、足が止まる。だが、天馬もヤマトタケルもその肉体には───傷一つついていない。

 その程度目眩ましにも……いえ、これは……。嘲笑しようとした瞬間、ヤマトタケルははたと気づいた。岩石と粉塵が一体を覆い、一時ヤマトタケルの視界を奪ったのだ。眼を眇め幾ばくかの神力を解放し、巻き上がった土煙を一息に払う。

 やはり、ですか。祐一達の姿はもう、どこにもなかった。

 フフ、狩りですか……。はて、これほど愉しい狩りは何時ぶりでしょう? 獲物を逃がしたというのに肩を震わせヤマトタケルは急ぐでもなく、泰然と、悠々と戦車の手綱を引いた。

 

 ○◎●

 

「はぁっ……はぁっ…………はぁっ」

 

 なんとか振り切ったようだ。ぐったりとラグナの背に寄りかかり、躍動する背から落ちないように寿に支えてもらいながら確信していた。無尽蔵に湧き、全身に横溢していた呪力はもう残り少ない。

 あの目眩ましは神速で走れる力を残し、正真正銘、最後の呪力を使っての大技だった。だけどあれ目眩まし。豪快で派手ではあったが結局目眩ましにしかならない。

 祐一に備わっていた戦闘感が、確信となって囁く。あれくらいの目眩ましヤマトタケルは一瞬で、振り払い追ってくるだろう……。そんなことは二度も矛を交えその武威を脳裏に焼き付けた祐一にとって察することは容易だった。

 だが、一瞬。その瞬きの時間が、生死別つ境界だったのだ。背に感じていた舐めるような視線が無くなっていること、それが何よりの証拠だ。

 しかし代償も大きい。

 潤沢にあった呪力は今のでほとんどなくなった。ヤマトタケルに追い付かれればもう反撃も許されず、祐一と頸は撥ねられるだろう。間違いない……祐一の戦闘感も囁いていた。

 

「……はぁ…………っは……!」

 

 だからこそ意識を途切れさせる訳にはいかない。

 ここで気を失えばすべてが立ち消えてしまう。なんとか掬い上げれた小さな希望も、波に呑まれる泡沫のごとく霧散するだろうから。

 誰もが無言だった。

 祐一の息遣いとラグナの足音だけが響く。玉のような汗が血と混じって滴りおちていく。誰も彼も疲れ切っていた。それに……口を開いても苦境は覆らない……そんなことはみんな判っていたから。なら何故、楽観的な言葉など口に出せようか? 

 打てるだけの手は打った。そうだ。俺たちはやれるだけのことはやったのだ。なら、あとは天運に任せるのみ。ラグナを疾駆させながら、祐一は瞑目し、萎えかけた心を励ます。

 雷光にも及ぶ神速は草原の荒野もまたたく間に越え、遂に、始まりの場所に着いた。

 紺碧に耀く海と、どこまでも白い砂浜。見紛うはずもない。しかし、初めて訪れた時とは何か様子が変だった。

 ───紺碧の海の水面にはぐるぐると海流がうずまいて渦潮が出来ていた。どんどんと近付いて行くと何やらおかしいことに気付く。

 渦潮ができているのは水面だけだった。海面は漣を揺らめかせるだけで、あれが自然現象とは切り離された現象なのだと、嫌でも理解させられた。

 そうだ。あれは渦潮、などではない。不気味で、奇怪、未知の異界へ続く『通廊』なのだ。───だからこそ、迷いはなくなった。

 

「────突っ込め!」

 

 ────ルォォォオオオオン! 

 

 祐一の叫びに応え、ラグナが『通廊』へ身を踊らせる。

 ザパァン、と水飛沫をあげラグナの巨体が渦潮に呑み込まれ、───祐一たちはついにニニアンの領域から姿を消した。


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