『通廊』の中は深い闇だけがあった。ただ暗闇だけが広がる空間。これが夜でもないことは辺りを見渡せば、星空がないので容易に察せられる。
この世界に光源は一つだけ。奥深くにか細い一筋の光があるだけだった。
重力が消失し浮き上がった身体が、そこへ向けて近付いていく。光は力強く、確かなものへ。……そうして時は訪れた。
────抜けた!
世界が逆しまにひっくり返る。常夜の世界が切払われ、光明の世界が顔を出す。
はじめに見えたのは闇を払拭する夕陽だった。この赤焼けの空を見るのはいつぶりだろうか。そんな感慨が胸を焦がし、目を細める。
ああ……帰って来たんだな、と。ここが現世であることを、言葉もなく教えてくれる夕焼けに、包み込むように照らしだす本物の太陽に、思わず涙が滲みそうになった。
「……帰って、来たな」
「うん」
短く、言葉を交わす。胸に宿る想いは、同じだとわかっていたから。それ以上の言葉はいらなかった。
王国の理は現世の理と変わらない、と教えてくれたエイルの言葉を思い出す。
そうか。祐一はその時やっと気付いた。朝、戦い始めてもう日が傾くほどにぶっ通しで戦い続けていたようだ。
それに『通廊』から繋がる場所も、水と関わる場所だったらしい。下を見れば水面が揺れている。
ラグナは飛び出した勢いのままに空を翔ける。見渡す景色は、すべてが燦めいて見えた。背の高い山々は見当たらず、遮るもののない広い空と雄大な緑の大地が視界いっぱいに広がる。まるでラグナと初めて出会った時を想起するほど美しい光景。
湿地のような浅瀬の先に佇むのは、石造りの古城跡。夕焼けに灼かれた風情のある城だった。
「城、か……あれ……?」
「……みたいだね。」
その間もラグナは足を動かし進んでいく。もう神速ではないがそれなりの速度だ。音速程度ならばあるのではないだろうか。だが安心は全くできない。
逃げ切れるのだろうか? 逃げ切れたのだろうか? 追ってくるのだろうか? ……それこそ世界まで越えて。
愚問だろう。
祐一も判っていた、ただ現実を直視したくないだけなのだと。思い起こすのは背に受け続けていたヤマトタケルの、粘ついた視線。
気味が悪かった……ひどく、恐ろしい。同時に、何故俺なんだという思いすら生まれる。俺より剣の上手い英雄なんて居るはずだ。武勇だけで見れば、悔しいが『鋼』の神格には一歩も二歩も劣るだろう。畜生、なんで……
『現世、か』
声に思考が裂かれた。腕に宿った叢雲に視線を落とす。
「叢、雲……?」
『柄にもなく感傷的になっていた。此処に来るのは、大分久しいからな』
「……そう、だったな……。叢雲たちが現世から……追い出されて、何万年も経ってるんだっけ。……永いよな」
『ククク……ああそうだな、永かった。彷徨い歩いて、巡り巡って、どこまでも流されすぎて、ついには半身さえ裏切り、またここに戻って来るほどには』
ビュウ、ビュウ、と言う風切り音とともに聞こえてくる叢雲の懐かしむような声に耳を傾けながら、祐一もまた三ヶ月ぶりの現世に思いを馳せる。
『あやつと世界を巡り、あやつと世界を渡り、あやつと幾星霜を生き……果てには裏切り此処に居る。……
「バーカ、何、言ってんだよ。叢雲は俺を……助けてくれたろ。狂ってなんて、ねぇって……」
『いや、それこそ………………。フフ、そうだな……』
「……なんだよ。なんか、含みのある言い方、だなぁ?」
『ククク、すまんすまん』
どこか柔らかくなった声音で叢雲はクツクツと笑っていた。祐一も表情をゆるめ、まなじりを下げる。
つかの間の安らぎなのは判っていたけれど、両者は一時の間だけ、戦いを忘れ語り合っていた。
最源流の鋼である叢雲と神殺しである祐一と言う、闘争に魅入られた者たちが、戦いを忘れて笑っていた。世界の理から見れば、それは本当におかしなことに間違いはないのだろう。だがこの穏やかな時だけは誰にも侵しがたいものに思えた。
だが、それもすぐに終わる。
「──ここはトルコだ!あの形はアナトリア半島とキプロス。ぼくたちは地中海から出てきてトルコに出て来たんだ!」
その時だった。寿が声を張り上げたのは。
随分、上空まで駆け上ったから地表の形がよく見える。たしかに世界地図で見たトルコだ。
すぐさま叢雲との会話を打ち切って、呻く。
トルコだって!? 現在地の場所を聞いた瞬間、思わずそう呻いてしまった。
都合よく日本に出れる訳がないとは、思っていた。だが自分たちが消えたドバイだろう、とも少し楽観していたのだ。
しかし、現実は甘くはなかった。
ギリッと拳を握り、渋面を作る。今の状況は完全に退路を断たれた憐れな兵士と代わりなかった。
ヤマトタケルとこのまま戦えば、背水の陣ですらない……もはや勝ち目のない戦いで一矢報いることも出来ず躯を晒すだけになるのは必定。
どうするんだ祐一! 俺は、俺たちは──どこに逃げればいい!?
『──落ち着け』
胸に響く声が鼓膜を揺るがした。スッと、揺らぎ惑っていた心が、焦点を合わせる様に定まっていく。
『ひとつ考えがある。……この世界には『地脈』と呼ばれる大きな呪力の流れがあるのだ。それはこの星に血管のごとく行き渡り、海流のように巡っているの。──これを使う』
「地脈……?」
『言葉にするよりこちらが早いか──
叢雲の言葉を理解するより早く、それは現れた。彼に促され視た世界は、様相を一変させていた。
先ほどまでは赤焼けに包まれていた大地が、今では暗闇に染まってどこまでも広がり、その暗闇を煌く光点が川のように流れている。その川は空からうかがう祐一からでさ見通すことができないほど巨大で雄大な流れ。光り輝く光点と相まって、まるで夜空に浮かぶ天の川が地上に現れたかのようだった。
「なんだ、これ……?」
『これが地脈だ。おぬしの呪力が全身に満ち駆け巡っているように、この星もまた随所に呪力があふれ遍満しているのだ。それこそなにかの拍子に『神』が生まれるほどには、な』
「これが……」
世界に遍在する呪力の流れ、叢雲が眼を貸してくれたお蔭で今こうして視ることが出来ているらしい。
数多に輝く呪力の流れの中でも、いっとう大きく雄大な流れがあった。いっそ、いままで気づかなかったことが不思議なほど凄まじい呪力の量。まるで運河だ。
おそらく呪力を弾く能力をもつ神殺しであってもあの流れに乗れば間違いなく移動できるだろうと思わせるほど大きな。そして叢雲は、これを使えと言っているのだ。
『神々や神祖の間にも地脈に従って移動する術は、いくつもある……。祐一よ、
叢雲の策はどこか遠い国の言葉を話しているかのように現実味がまるでなかった。呪術や世界の理の知識がおぼろげにしかない祐一にとってひどく曖昧で荒唐無稽な言葉にしか聞こえなかったのだ。
鉛のように重い生唾をなんとか嚥下する。こんな選択肢しか選べない未熟な自分に忸怩たるものを感じて仕方がない。ラグナ、寿、叢雲。途方もない重みを感じて仕方がなかった。まるで権能を得たときのような、目に見えないナニカが祐一に重みを感じさせている。
───だがその通りなのだ。
今、祐一の双肩には彼らの命が掛かっていた。
決断せねばならなかった。一呼吸も満たない逡巡のあと、祐一は答えを出した。
首肯く。
「分かった。……結局、俺たちが逃げなきゃいけないのは間違いねぇんだ。なら───避けろラグナァァッ!!!」
───ッルォォオオオオン!!!
祐一とラグナが叫んだ瞬間、それは来た。
ッギッィィィィィィィィィィンッッッ!!!
膨大なエネルギーを宿した、一筋の霹靂が駆け巡った! 阿吽の呼吸で示し合わせ、一息に神速下に達したラグナがギリギリのところで避けた。首筋を熱波がチリチリと灼く。
いぃぃぃぃん……。狙いを逸れた雷槍がドップラー効果を残して過ぎ去っていき、次の瞬間、先刻まで居た場所で爆発! 祐一の視界を白く染め上げ、爆風にラグナが堪えきれずガクガクと揺れる。あのラグナが揺れている……あの強靭で比類なき力強さをもつラグナが!
爆風だけではない威力も尋常ではなかった。あそこにバンダレ・アッバースや王国があれば、間違いなく消し飛んでいただろうことは容易に察せれる程の威力。
あの雷槍は何度も見たことがあった。違う点はただ一つ、シンプルに一つだけ、これまで放たれた中でも桁違いに威力が跳ね上がっていることだ。
後ろを振り向く。
古城の最上部に立つ黒い影が、こちらを見据えていた。
───英雄神ヤマトタケル。あれは仁王立ちしたヤマトタケルに相違なかった。
追ってきた……! 世界すら越えて!
何という執念。もはや何度目になるか判らないヤマトタケルの執拗な追撃に、恐れすら抱く。
それにこの背筋が凍る感覚……あまりに距離が離れ、その視線の向かう先は見通せないが、それでも全身を舐めるような感覚は忘れようもなかった。
視られている───。
まるで怖ろしい瞳術に魅入られたかのようだった。ともすれば自然界で王者として君臨する猛禽に狙われる矮小な鼠にも思える……そんな錯覚に陥るほどの眼光。
『満腔より溢れる我が猛りよ。紫電の紐となりて路を紡げ。幸多き野原も百花繚乱の谷も悉く討ち滅ぼせ』
言霊を紡いだヤマトタケルを中心に、中空のいたる所に紫電が疾走った。まるで中空をキャンパスに黄、赤、紫、黒、色とりどりの絵の具を叩きつけたよう。
しかしそんな生易しいものではないことは身体に刻み込まれていた。
来るぞ、雷撃の嵐が!
ラグナと意思を重ねて一気に駆け出し、次の瞬間───何十、何百、何千と雷槍が祐一たちへ殺到した。荒れ狂う雷霆に飛び込んだと錯覚ほど凄まじい数。
それほど時を待たずして、周囲の温度が跳ね上がっていき、寸での所で避けるラグナの美々しい毛皮が黒煙を吐く。ただの人間である寿にはもっと辛く、皮膚が赤く爛れ始め、それでも彼は苦悶の声を出すことなく必死に耐えている。
すべての意識を集中させ権能を動かす。意識を共有したラグナとともに全力で疾走する。
右の斜め後方から、天頂から、真後ろから、三方向から一気に、そして変則的な動きを混じえ雷槍が突き進んでくる。
僅々のものはそれだけと言うだけで、その後ろにも夥しい数の雷槍が祐一たち目掛けて迫っていた。
前を向き全力疾走するラグナの目の代わりになって、最小限の動きで躱すイメージをラグナとトレースし悉くを躱していく。
狙いを見失った雷槍が、あらぬ方向へ向かいやにわに爆発。眼下に存在していた標高百メートルはあったはずの山が一瞬にして豪快に吹き飛んだ。
それがバケツをひっくり返した土砂降りのごとく降り注いでいる。紙一重で避けてはいるが、それも限界がある。いかに神殺しとして強靭な肉体を持ち、無尽蔵の体力をも兼ね備えた祐一であっても人間だった。限界は間違いなくある。
現に、だんだんと視界がかすみ、意識が朦朧としていることが良い証拠だろう。
まだか! まだ着かねぇのかよ!? 胸中をどうしようもない焦りが撫ぜていく。
あらゆる場面で窮地に陥った。それはヤマトタケルの強さや狡猾さで、祐一の至らなさも多分にあった。
だけど祐一たちはここまで辿り着いた。誰もが未熟な身でありながら、あらゆる神話群でも強大な強さを兼ね備えた『最源流の鋼』英雄神ヤマトタケルを相手取って。
凄まじい戦果だった。類稀な武勲だった。赫々たる戦功だった。だからこそ、祐一は思う。そう、どこまでも強欲に!
死にたくない。いや、まだ死ねない! 帰りたい! みんなとまた笑い合いたい! だから、何がなんでも生き残ってやる!!!
想いが活力と変わり、生命を燃やす。呪力が尽き果てた祐一に残された最後の選択肢だ。
自分たちが生き残れるかはここが正念場だ。ぶっ倒れそうな己に喝を入れ、目を凝らす。最後っ屁だのなんだの言われようが、生き残ってやる! 祐一の眼光にはこれまでで一番輝きを放っていた。
「うぉぉぉぉおおおおおおおッッッ!!!」
あと少し! あと少し!
暗澹たる暗闇の中でもがき続け、光明を見つけた心持ちだった。地脈まであと少し、距離にすればあと十キロほどか。神速ならば刹那の瞬きでたどり着ける距離!
走れ! 奔れ! 疾走れ! 速く! 疾く! 夙く!
必死に己を鼓舞し、寿と肩を抱き、叢雲を胸に抱き、『ラグナ』に振り落とされないよう縋りつく。
もう、眼の前だ───。
「───あなた方は甘いのですよ……。《因果》と《運命》を敵に回すという意味を理解していない……それがどれほどの事なのかあなた方は寸毫も理解していない…………故に私が、教授してあげましょう」
我、討つのは魔王。我、切り裂くは羅刹。倭の勇者・倭健命これより修羅へ入り破邪顕正の御劔とならん……。
謡とともに希望と言うものをごっそりと奪い尽くす悍ましい感覚が全神経を焼く。しかもこれが初めてではない、ついさっきも感じた二度目の感覚にぶるりと慄く。
莫大な神力の爆発。一気に神力が溢れ出し……、幽世で動き出した《盟約の大法》が神殺し四、五人分だったとすれば今はそれすら越えて十人分へと達し、そして……。
『馬鹿な! 辞めよヤマトタケル! それをこの世界で放てばどうなるか判らぬ貴様ではないはずだッ!!!』
祐一は少なからず驚いた。叢雲の常では絶対に有り得ない、狼狽えた声に息を呑む。
流石の祐一でもヤマトタケルが何をしようとしているのか悟った。奴はまた破壊を齎そうと言うのだ。
ニニアンの禁足地で行使した、あの《盟約の大法》と己を『剣』とすることによって初めて使用可能となる───世界を斬り裂く大切断を!
もう、遅い────。
そんな声が、鼓膜を揺らす。
祐一の冷静な部分が結論を出していた。ヤマトタケルの揮う剣の切っ先は、唯一の逃げ道である地脈へ向かっている、と。そしてこのまま地脈へ飛び込めば、そのまま祐一たちごと跡形もなく消し飛ぶだろう、と。
───ッ!
逡巡さえなかった。それまでの努力も奇跡もすべてかなぐり捨てて、祐一はとんぼ返りを打った。生き残るための最善を尽くすために。神殺しになる以前から備わっている鋭い直感が祐一を生かそうとけたたましく警鐘を鳴らしたのだ。そして祐一もそれに逆らうことなく従った。
───それが間違いだと気付いたのは、それほど時を待たずしてのことだった。
祐一は思い違いをしていた。
自分の双肩に乗っているものは仲間だけじゃなかった。それこそこの世界……全人類の命運そのものが乗っかっていたのだ。
立ち向かわなければならなかった。
死力を尽くさなければならなかった。
知恵を振り絞らなければならなかった。
喩え、仲間がみんなみんな死んでしまおうと、戦わねばならなかった。どれほどの絶望に苛まれようと、どれほど敵が恐ろしかろうと、逃げ回ってはいけなかったのだ。……戦わなければならなかった。
そこに気づけなかった代償は途方もなく大きなツケとなって返ってきた。
どれほど後悔しようと、どれだけ嘆いても、もう遅い。 ……結局、いまの祐一にそれを止める手立てはなかったのだから。
因果の王よ。因果の道化共よ。最も古き盟約をいざ果たそう。
因果破断を宿した凶児を討ち果たす刃を今ここに───!!!
その日───
───