王書   作:につけ丸

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062:戦士よ、戦え。

「黙れェ! 貴様にかかずらっている暇はない!」

 

 祐一が怨嗟の声をあげようと天使はさして気に留める事なくシィムルグを追い駆けようとした。

 当然だ、祐一はとどめを刺すまでもなくボロボロなのだから。

 

 しかしその判断は地上に現れてより、何の間違いも犯さなかった彼が犯した、最初で最後、そして最大の決定的な間違いだった。

 

「叢雲ッ! アイツを! あのクソ野郎をッ……確実に……完全に……撃滅できる策を! ──俺にくれッ!」

 

 勝利のために──因果と廻る天輪の反逆者は叫んだ。

 勝利のために──稀なる闘争と不運の寵児が希った。

 勝利のために──エピメテウスの落とし子が欲した。

 ひとえに勝利を。そして彼の佩いた神刀は静かに応えた。

 

『おぬしの持つ軍神の骸……それを使えば確実にあの天使を討滅することができる』

 

 叢雲の錆びきった声が木霊する。その言葉を理解するために、しばしの時を要した。

 

「むくろ……?」

『先刻、かの『鋼』に斬られた神具……おぬしが波斯の地にて殺めし、勝利の軍神が遺した"羽根"の事よ。あれは彼の神がもつ"導きの神"としての側面を形作ったもの……あの神具と(オレ)が合力すれば必ずや討滅出来る』

「───────」

 

 魂を削る選択の時であった。あの羽根は友の魂そのもので……友の魂は己の魂で。

 己の理性が脆弱な砂岩のごとく落剥していく。友が遺し、友の声を聞き、友の存在を感じ取れるものを……。

 大脳皮質の最奥でかすがいによって打止められ、オブラートで包んで、黄金に輝くあの日々を……あの旅のよすがとなるものを取り上げられるなどと──

 

「ッ構う、ものかよォ!」

 

 即答ではなかった。逡巡もあった。どこか投げやりな感情もあったのかも知れない。けれどもう、祐一は我慢ならなかった。

 何度も何度もすくったものは手のひらから零れ落ちていって。あの日から……人類の戦士となった日から世界は壊れていくばかりで、だと言うのにこの世にのさばる『まつろわぬ神』どもは一向に、減る事も、行いを悔い改める事もない。

 

 もううんざりだった。神の勝手を止められないのも、人が目の前で死ぬのも。

 だから、ここで、必ず殺す。友のよすがを無に帰そうとも。

 

『良いのか? あの羽根は完全に潰える事と……』

「俺に従え叢雲」

 

 返答はなかった。ただ、漆黒の波紋が揺らめいただけ。

 面積を減じた『ウルスラグナの鵬翼』がひとりでに浮いては湖面に雨粒が落ちるがごとく黒い刀身に溶けては消えた。

 

 真実、湖面に波紋が広がるように刀身が揺らめき、呪力が変容していく。

 

 

 ──翔。

 そうする間にも天使の飛翔は止まらない。視力のすこぶる良い祐一でさえ視認が難しい距離。

 

 で、それが? 

 

「堕ちて、死ね。地獄で詫びろよ」

 

 祐一の血錆びた聖句。累卵の爆発で赤々としていた空が今度は黒に染まる。一部の隙間もなく真っ黒へ。

 次いで──()()()()()。そう錯覚するほどの強風が崩壊した都市を全方位から急襲した。

 

 

 ──轟。──轟。

 

 轟。轟。轟。轟。轟。轟!!!

 

 

 颶風の原因は黒い孔だった……雨のそそぐ隙間さえないほどの、彼方から此方までびっしりと埋め尽くす、黒い孔。

 

 指先でつぶせそうな孔。拳ほどの孔。大人が入れそうな孔。胎動する孔。落ちる孔。収縮と膨張をくりかえす孔。奈落の淵につながっているような億千万の孔であった。

 真実、それらは間違いなく奈落へつながっているのだろう……まるでブラックホールに呑み込まれるかの如く、強力な引力が嵐を作り、黒い孔へ瓦礫や車両がことごとく吸い込まれていく。

 風、風、風。孔、孔、孔。クジラが魚群を平らげるがごとく暴食っぷりを発揮し、四方八方あらゆるものを飲み込んで行く。

 

「こ、これは……異界に繋る孔か!? 再び邪魔立てするか魔獣め! 神殺しの『獣』め! そんなにも欲するならば! 息の根をこの手で確実に止めてくれるッ」

 

 突如として現れた黒い孔と嵐に、瞠目し詰問する天使だったが原因が祐一であると悟ると、すぐさま方向を反転させ、撃滅しようと拳を構えた。だが、いつもならその素晴らしい翼の羽ばたきで瞬く間に距離を詰めれるはずの天使が、今はどうしたことか、全く前に進めてはいなかった。

 

 美しく力強い翼もむなしく空を切るばかり。そればかりか刻一刻と孔に引きずられて行く。

 祐一へ向け飛翔していた天使は、いつの間にか吸引の力から抜け出せなくなっていた。懸命に黒い孔から伸びる見えない魔手から逃れようと羽根を降りしきる。

 

「ぐ、ぉぉおおお……ば、ばかな……!」

 

 あまりの吸引力に叫ぶ事すらできず全身を縄で縛されたような呻き声を上げる。けれどそれも短い時間。逃走は叶わず天使はついに黒い孔に捕らわれた。

 膂力ももって足掻こうと、もはや意味はない。瞬く間に天使の身体は吸い込まれ、たくましい胸から下はすぐさま視認出来なくなった。

 

「"神殺し"……いま己が何をしているのか判っているのか……? 人類が助かる唯一の道を……それを自ら閉ざしてしまうのだぞ……!?」

 

 伏せた顔から白い息がけぶるとともに、小さな小さなささやき声が耳朶を打った。遠く離れて、騒音すら酷い有様なのに、言の葉が風に流されて、耳から脳へ埋め尽くされていく。

 

「赦さん……断じて貴様を赦さんッ! 貴様の剣の矛先に禍あれ! 暗黒に沈みゆく世界とともに穢れて堕ちよ! 民衆の怨嗟に塗れながら死を迎えよ! 貴様のすべてに呪いあれェェェ────!」

 

 憎悪のしたたる声を咆哮を上げ、こちらを紅い双眸で睨み据える姿は悪魔や妖魔の類よりも悍ましく恐ろしい。

 

 

「…………」

 

 祐一はただただ気圧されるばかりであった。激情はより強い激情に呑み込まれる……妄執とも言うべき激情に。

 それを感じ取った瞬間、祐一の中で激していた感情が一気に氷点下へ落ちた。それは自慰したあとに来る虚しさにも似ていて……つまり祐一は醒めてしまったのだ。

 

 先刻、激情のままに強行した所業の数々が酷い後悔とともに伸し掛かってくる。

 重なり合った視線はどれほどもなく途切れることとなる。天使の身体は、黒い孔へ沈み消えて行ったのだ。

 

 

 ──あとには、ふたたび深閑とした白痴の世界が訪れた。静寂と残穢ばかりが残る戦場跡に、ひとり祐一は居た。 

 

「終わった、のか……?」

 

 呆然とつぶやく。実感がなかったのだ……あの恐ろしい大敵があれだけで討ち果たせた……否、退けられたなどと。

 ゴミ箱から拾った糞みたいな勝利とは、この事を言うのだろうか。勝利の余韻は毛ほどもなく、誰一人護れず怒りに呑まれ暴れるしかなかった自分が惨めで仕方なかった。なまじっか、友の遺品であった羽根まで考えなしに失ってしまったのだからなおさらだった。だが。

 

「あは」

 

 笑い声が木霊した。

 

「あはは……あはハ……アハッ!」

 

 笑い声は狂していた。

 

「アハハハッハハハハハハハハハッ! やったぞパルヴェーズ! 見ろよ勝ったんだ! また約束を守る事が出来たな! なあそうだろ!」

 

「エイル! エオ! ムイン! テスラ! 俺は勝ったぞ! そうだ……そうだよ……俺はお前たちの仇を討つ! あの天使が最初の餞だッ!」

 

「俺は殺すぞみんなみんな『まつろわぬ神』どもを! 殺されたお前たちの分まで! あはっあはははっははははっ!」

 

 静寂の中で祐一の空しい笑い声だけが戦いの終結を告げていた。狂ったように勝鬨を上げるのはたった一人の孤独な少年。

 笑いながら漆黒の剣に縋って吼えたける。黒刀が痛ましげに揺らめいた気がした。

 

「そうだ! みんなみんなッ…………みんな…………」

 

 哄笑をあげ続けていた少年の頬に一条の涙が伝った。

 

「───死んじまった……」

 

 祐一はそれがなにか分からなくて頬に触れて、拭って凝視して、それがなにかやっと理解できた。

 

「………………う、あ。…………、……はは」

 

 今度は乾いた笑いが木霊する。止められなかった。笑っていると束の間の安息を噛み締めることができたから──だがやはり、その安堵は束の間だった。

 

「ぅ、ぐ。我が久遠の旅は……終わりを迎えたか……。永かった……。逢いたかったぞ神殺し……木下祐一……」

 

 ドサリと後ろから音が響き、ふり向けば黒い孔から()使()()()()()()()()()()()

 

 どのような手段を用いたのか、先刻見た時よりも随分色褪せ煤けてはいる。

 

 だが天使はふたたび戻ってきたのだ。きっと、祐一への復讐を携えて……。

 地面に叩き付けられ、立ち上がる気力すらないのか伏したままだったが顔をゆっくりと傾け、眼窩に収まった紅い瞳を向けた。

 

 いまだ瞼にこびり付く憎悪に満ちた目に、五臓六腑がすくみ上がった。

 

『落ち着け祐一……もはや奴に戦意はない』

「え?」

『あの孔はたしかに異界へのつながっていた……それも遥か遠い遠い異界へな。あの『まつろわぬ神』は永い……それこそオレとヤマトタケルが歩んだ時よりも長い時間を旅し、悠久の時を経てここに戻って来たのだろう』

「ならなおさら……」

『いや、よく見よ。もう奴は己が自我を保つことさえやっとの状態よ。当然、戦意もまつろわぬ性もとうに擦り切れておる』

 

 叢雲の言葉通り、こちらを見やる天使に戦意や憎悪はなく、どこか空虚な眼差しを送っていた。

 

空虚、と言うよりは悟りを開いた仏……俗さや烈しさの一切を捨て去った神聖さの介在した眼差しだった。

 

 以前の彼では持ち得ない……まつろわぬ神がまつろわぬ性を失ってしまった。そんな眼差し。

 

 

 けれど敵意がないなら何故、俺の前に? さらなる疑問が生まれた。

 

「木下祐一。私は君に託さなければならない事がある……私はその為に最後(いやはて)の地から那由他の道を越え、ここへ舞い戻って来た……」

 

 寝そべった姿で力なく口だけを動かし、天使は言葉を紡いだ。その姿はひどく穏やかで、幼い頃、まだ故郷にいたときに見た涅槃図を想起させた。

 

「俺に、託さなければならない事……?」

「そうだ……君は"義務"を果たさなければならない」

「義務、だって?」

「"使命"とも言い換えても良い……。世界は滅びに向かっている……他でもない神々の手によって」

「……………………」

「ゆえに私は託そう"神殺し"木下祐一……あれら(『まつろわぬ神』)から、迫りくる災厄の手から、人類を守れるのは、神を殺せる君だけ」

 

 祐一は悟った。

 なぜこの天使が戻ってきたのか。彼は祐一に呪いを遺そうとしている。祐一が薄らと自覚し、目を逸らし続けていた真実を。

 

 木下祐一というハングドマンに審判する天使の如く。

 それは祝福と呪いの言霊だった。

 

「や、やめろ……それ以上言うな……ッ! 言わないでくれッ!!!」

「故に……──()()。人類を救う『救世主』として。狂ってしまった世界と神々を糺すのだ」

 

 それがお前へ贈る祝福(呪い)だ……。空を、いや、その奥にある遠いものを見つめ、天使はどこか柔らかな表情を浮かべ、穏やかに呟きはじめた。

 

 

「ああ……長う御座いました……。主よ……いま、あなたの御許へ……」

 

 その言葉を最期に、名前も知らぬ一柱の『まつろわぬ神』は滅びた。全身が石となって、風化したように崩れていく……。

 

 同時、祐一の双肩にチンギス・ハーン以来のなにか降りかかるような重さが去来して、とけては消えた。

 なんてことはない重さだったはずなのに……祐一は耐えきれず膝をついてしまった。

 

「今、あいつ、なんて言ったんだ……『救世主』だって……? ハハ、なにかの悪い冗談だろ」

 

 乾き切った笑いのあとに去来するのは失ってばかりの記憶。地面へ、強く強く、拳を打ち付ける。拳が壊れるほどに。

 

「また……! 俺のせいで人が死んだんだぞ……誰も救えやしなかった……ッ! だって言うのに俺が『救世主』になんてなれる訳がないだろ……!」

 

 うずくまったまま地面へ向けて叫ぶ。物語から外れ、居ても居なくても変わらない傍観者になりたかった。力もなく意志もない、罪のない民となって超越者の築く屍山血河の一滴となりたかった。

 

 おれ、なんで戦ってるんだろう? 偽りのない疑問……茫洋としてゆらめく瞳は、己を疑問視している事がどうしようもなく本音なのであると物語っていた。

 故郷にも帰れず、今まで傍にてくれた友はすべて己のせいで死を迎えるか、自分が拒絶して離れていった。

 

 死者の遺志を継ぐ。綺麗な言葉だ、だけどそれが何になる。生者の……残された者の独り善がりな考えではないか。

 

 疲れてしまった。立ち止まってしまった。帰りたかった。他でもない故郷に。

 

 心は真夜中の静寂のように凪いでいて、能動的な行動も、楽天的な思考も、すべてが消えてなくなっていて。

 誰もが夜空にあまねく天の星だったとして、まわりの星々は時の歩みとともに少しずつ進み続けるといのに、自分だけ取り残されていた。天体という抗いようもない運命に張り付けられた存在にでもなったかのよう。

 抜け出したかった。この地獄を再現したかのような現実と己の使命から。こんな未来も結末も望んじゃいなった。けれども、もう変えようとすら微塵も思わなかった。

 ゆるゆる、と。転がっていた叢雲を手に取って、切っ先を腕へ向ける。

 

『正気に戻れ』

 

 腕の自由が利かなくなった。支配権を奪われたのだ、叢雲に。自傷を選ぼうとした少年から……戦士ではなくなった者から支配を奪うことなど偸盗の権能さえ持ちうる叢雲にとっては児戯に等しいことだった。

 

『お前は(オレ)と約束したはずだ。亡き友に誓った常勝不敗の約束、その誓いと約束を忘れず戦い続けると。(オレ)はその誓いに力を貸そうと』

 

 平坦な声だった。

 

「……なら叢雲!」

 

 血を吐くような声だった。

 

「俺にこれ以上何をしろっていうんだよ!? 友達は死んで殺して、心を通わせた者には裏切られた! 果てには守るべき人たちはみんなみんな死んだ! 死んだんだ、死んだんだよッ! これ以上どうすりゃいい!?」

「………………」 

「もう、折れさせて、くれよ……。挫けさせてくれ……。膝を付かせて地に伏せさせてくれ……」

 

 剣を腕へ押し込もうとして……刀身が半ばから折れている事に気付いた……まるで祐一の心が折れたように。けれども、まだ、《廻る天輪》は、《因果》は祐一を捕らえて絡めて休ませてはくれない。

 

 ──戦士よ、戦え! 戦士よ、戦え! 戦士は戦わなくてはならない! 

 ──汝は、戦う者なれば! 

 

 頭の中でわんわんと壊れたレコーダーのように鳴りひびくのは友の言葉。かつての友が矜持とし、祐一もまた倣った戦士としての言葉。

 俺には……無理だ……! 

 友の言葉も、仇敵の言葉も、すべては祐一を縛める枷でしかなかった。耳を塞ぐ。

 パルヴェーズ……どうしてこんな時、お前は隣に居てくれないんだ……。

 かつて友がいた。誓いも、約束もあった。けれど残ったのはそれだけだった……。胸に手を当て、そこにある友との写真を強く意識する。縋れるものは、頼れる人は、笑い合える友は──

 

「──やっと、隙を見せたな。因果律に歯向かう異物……永かったぞ」

 

「…………布、袋……」

 

 突如、眼前に現れたのは陰々とした老人であった。常ならば幽鬼が朽ちた死者を動かしているかと錯覚するほど病的な彼……だが今は一転して嬉々とした感情が朧気に伝わってくる。

 布袋は長い間この時を、この間隙を、ひたすらに待っていたのだろう。

 

「もはやおぬしが知ってもどうにもならぬ事だが教授してやろう……先刻、おぬしの斃した天使の滅びの預言は間違ってはいない……この世は確実に滅びへ向かっている」

「滅、び……」

「そう……『まつろわぬ神』による天災、それも確かにあろう。だが否。違うのだ、判りやすい理由が他にある……──他でもない木下祐一……お前が『天人離間』の呪法を破った為にな」

「俺のせい……?」

「ああ、そうだ。"神殺し"はそこに居るだけで秩序を乱す存在。世界の癌だ。現にこの世界でも多大な犠牲を払い為したあの呪法を……そしてその上に成り立っていた平穏を素知らぬ顔で握り潰したッ赦せるものか巫山戯るなッ!」

 

 布袋の纏う雰囲気も口調も一変していた。おどろおどろしく勿体ぶったものから、酷くぞんざいなものへ。

 声の張りも荒々しく、そして幾分か若々しい。けれど体力がないのは変わらず、まるで阿片を吸い絶頂に至ったように、息を深く吸っては細かく震える。

 祐一はその異様な老翁に気圧されるばかりであった。そして意気の萎えた彼には差し出される小枝じみた人差し指をよける事すらできなかった。指が近づいて額に触れ、パリン、と何かが弾ける音が脳から響いた。

 その瞬間、記憶が滝へ落ちる水へ代わったかのように片っ端から崩れては白濁していく。誓いも、約束も、戦う意味も、剣の握り方も、優しげな友の顔も、みんなみんな消えていく……。

 その様を見遣りながら布袋は何事かを口遊んだ。すると驚くことに先刻、天使を呑み込んだ黒い孔が再び視界を覆うほど現れた。

 今度は大規模なものではなく、二人が居れば狭く感じるほど小規模なもの。けれどその権能が、劣っている事を意味しない。強烈な乱風が吹き荒れ、二人の衣服を大きくはためかせた。

 

「この先はお前にとって最も困難な《運命》が待ち受けるどこぞの平行世界。異物なんてものは潰さず取り除くのが常識だろう? ──俺が舗装し、俺の定めた道を進んで滅びろ、木下祐一」

 

 その言葉を最後に、彼は現れた時と同じく一瞬で姿を消した。影に溶けるように。

 轟、轟、轟。制御できない無数の眼にも思える異界の扉が距離を詰めてくる。───逃げ出せない……だが祐一は決して逃げ出そうともせず、ただ力の奔流に身を任せた。

 

 

 ○◎●

 

 

 やっとか……。

 布袋……いや、布袋の姿を借りた何者かは、肩の荷が下りたように安堵のため息を付いた。その面貌に刻まれた懊悩の色は濃く、拭えないほどであった。

 彼はいま鳥上の人であった。同盟神たるロスタムが呼び出したシィムルグの背の上にいるのだ。

 どうやら彼らを乗せたシィムルグは南東に向かっているらしい。吹きすさぶ風の中でも全く気にする事なく超越者たちは、静かに言葉を交わしていた。

 

「呵呵呵、これで満足か兄弟?」

「満足もなにもあるか。だがまあ、胸のすく思いは無きにしもあらずか……あれをこの世界から放逐する為に幾つもの手を打つ羽目になったからな」

「素直に喜ばんかい、万歳万歳万々歳じゃろうが。これで儂らも思うままに動けるというもの、まぁーったく、好き勝手出来んとは窮屈すぎて肩が凝るわい」

 

 かつては象にも見紛う巨駆だった体から伸びる細まった腕を回して闊達に笑うロスタムに、布袋は苦笑を漏らした。頬を緩めるだけの小さな笑み。

 

「ロスタム、貴様は変わらんな。その無謬の性根……『天人離間』の法が崩れ、猫の手も借りたい状況であったが……貴様が覚醒めてより手を出させなくて正解だった」

「じゃろうなあ。儂ぁ場を引っ掻きます事には右に出る者はおらんと自負しとるしの」

「自負ではなく自他ともにと言え」

 

 ──とある極東の島国にて『因果破断の神性』に少年が触れた。

 

 異変に気付き対処しようとしたときには、時すでに遅かった。世の理からつまみ出されたその少年が引き金を引き、綻びを見せた呪法の孔から、『まつろわぬウルスラグナ』が顕現するにまで到ってしまった。

 

 世界の静謐を脅かす、二つの要素……。ウルスラグナと極東の少年。

 

 けれど、それがなんの因果か? 

 ウルスラグナの残り滓と件の少年は出会い、なにかに導かれるかのごとく、或いは、因果に操られる様に……少年は神殺しを為した。

 

 当然、座視していた訳ではない。

 

 ウルスラグナが顕現した際、十に別けたのはこの者のであり、異物と異物で潰し合いをさせようと少年と化身たちとが邂逅したのはこの者の仕業である。

 

 だがそれもすべては無為に終わった。

 

 木下祐一の"神殺し"への新生により、まつろわぬ神を決して顕現させないはずの大呪法は粉々に砕け散ってしまった。

 『不死の領域』と幽世とが現世が繋がり、軛の無くなった神々は幽世より世界を渡り歩いてた。自儘に権能をかざす『まつろわぬ神』が、世に溢れ返ってしまったのだ。

 

「暗澹たる」とはこの事であった。

 祐一を殺すためチンギス・ハーンを使嗾してはドバイでぶつけ、幽世にあるニニアンの禁足地へ誘ったのは誰であろう、この者である。何度も何度も殺そうとした。けれど結局、どれも叶わなかった。

 

 殺せない、ならば追い出せばいい。そう考えを改め、策は遂に成った。

 

 歪みさえ居なくなれば後はどうとでもなる……再び世界のあるべき形へ戻す事ができる……。

 

「忙しくなるぞ」

「呵呵、儂らはまつろわぬ性なんぞとうに擦り切れるほど長い付き合い。その誼で儂は使われておるんじゃ、上手く使って見せろよ兄弟」

「退屈はさせん」

「そりゃ重畳」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○◎●

 

 

 

 

 ざぁぁ……。そこは穏やかな波が打ち寄せる砂浜だった。耳を澄ませば絶え間なく潮騒が聞える場所。……ここはどこまで紺碧の海原が広がる───『島と海の世界』。

 そこで膝小僧を抱えながら、茫、と水平線に沈む紅玉を眺めている少年がいた。

 こうするとなにか懐かしい気持ちがして、失ってしまった何かを思い出せる気がするのだ。

 

「祐一、こんなとこで何してるんだ」

「あ、護堂さん」

 

 少年を呼ぶのは若い声だった。

 黒髪黒目の純日本人然とした青年。名を草薙護堂と名乗った。彼もまた少年と同じく類まれに奇怪な運命を持つ"神殺し"なのだという。

 

「もう日も落ちる。そろそろ行こう」

「ほーい」

 

 踵を返した護堂。祐一も立ち上がって頭一つ分は高い、恩人の背を追いかけた。

 

 

 ここからはじまるは再起の物語。"神殺し"と"神殺し"が交叉する物語。

 一握りの希望と友の約束を胸に携えた彼は、酷薄な現実の前に倒れた。 

 それでも神に祈りは、届かない。ならば信じられるのは己のみ。

 

 ───戦士よ、戦え。

 

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