王書   作:につけ丸

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第六章 ヒューペルボレア
063:英雄界ヒューペルボレア


 耳を澄ませば絶え間なく潮騒が聞こえる。此処はどこまでも紺碧の海原が広がる──『島と海の世界(ヒューペルボレア)』。

 晴れ渡たり日本とはどこか趣を異とする突き抜けるような青い空の下、水平線を飽きることなく眺めている少年がいた。

 服装は普通の学生が着るようなブレザーで、容姿も整ってはいるが飛び抜けているとは言い難い。けれど、人混みの中に放り込んでも埋もれてしまう事はない特徴を持っていた。

 苛烈、といってもいいほどの意志の籠もった瞳を。……さながら烈火の如きその()()()()に、誰もが目を奪われるだろうから。

 彼こそ当代の"神殺し"木下祐一、その人である。

 

「ここに漂流してから一ヵ月か、早いもんだぜ……。しっかし俺も運がいいなぁ、()()()()()()()()()()こいつは死んだー! と思ったらこんな所に打ち上げられるんだからさ。まっ、連絡手段もねぇし、帰る宛てもないんだけどな! わはは!」

 

 お気楽に笑う祐一。

 けれど、その言葉にはおかしな部分があった。彼は"神殺し"になってこれまで、船には乗っていない……ならば船とはどの船を指すのか。

 それは彼が"神殺し"となる以前の……イランに漂流する前に乗船していた船の事を指した。

 必然、"神殺し"になるまでの旅も、"神殺し"になってからの冒険も、勘定には入っていなかった。

 けれど祐一に冗談を言っている雰囲気はない。実際、彼の記憶は家出して乗り込んだ船が転覆したところで途切れている。

 簡単に言えば木下祐一は()()()()となっていた。

 

 確かに神殺しという偉業を為した強者……けれど彼はまだ十四の子供だった。精神も完全な成熟には至っていない、そんな少年だったのだ。

 若さ故に情が強く、感情は揺れやすい。だからこそ神殺しを成せたとも言えるが……今回は裏目に出ていていた。

 その不安定さに漬け込まれ、布袋に記憶をいじられたのだから。

 

 ともかく今の祐一は"神殺し"としての矜持も、友との誓いすら忘れ、ただの家出少年に戻ってしまっていた。

 

 

「えぇと、荷物は全部流されちゃったみたいだし手元にあるのはこれだけ、か……」

 

 呟きながら目線を落とした先には三つの物があった。

 ひとつは家出した最初から持っている父の腕時計。

 ……これはどうやら漂流した時に壊れてしまったようで針が動かない。でも捨てるにも惜しくて腕に嵌めている。

 

 もうひとつはバッグの代わりに持っていた背嚢。いつの間にか懐に入っていたこれはすぐにでも破れそうだったが、意外と頑丈で、見た目に反してよく物が入るので重宝していた。

 

 最後は、いつ取ったかも分からない一枚の写真だった。取った覚えはないが自分は確かに写っていて、けれど仲良さげに肩を組む少年も、アラブ人に見える人たちも、とんと記憶になかった。

 

「うむむ……これじゃあどうしようもないよなぁ。せめて方位磁石とかそんなんが残ってりゃ言う事なしだったのに」

 

 己の惨状を再確認し、がっくりと項垂れる祐一。

 手に持った写真をひらひら振りながら何気なく写真を眺める。

 たまに、意味もなくこうしてしまう自分に酷く戸惑う。それにこうすると、懐かしい気持ちがして、何か……とてつもなく大切な何かを思い出せる気して、気付いた時には写真を眺めてしまっていた。

 

「ぬあぁー! こんなウジウジしてるのなんて俺じゃねぇぜ! ──よっしゃ! さっさと用事済ませて帰るか!」

 

 頭を掻き毟り叫びながらと立ち上がると、祐一は勢いよく走りだした。

 

 

 ○◎●

 

 

 祐一が漂流してから流れ着いたこの場所は、小さな群島からなる不思議な島だった。

 人の足なら半日は掛かるが、それでも一日足らずでぐるりと回れる広さだ。

 果物を始めとした食べれる植物はふんだんにあり、食に困る事はなかった。

 漂流する前はオマーン海付近にいたはずで、そこは照りつける太陽とむせかえるような湿度に目眩がしそうだったが……この島の気候は穏やかそのものだ。適度に雨は降るものの、昼間に太陽が顔を出さない時はない。

 常春の島、と名付けるに相応しい場所だった。

 

 あとは、どうやらこの島は絶海の孤島らしく、視力の良い祐一があたりを見回しても障害になるものはなく水平線が見えるばかりだった。

 人との関わりが断たれてはいるものの、それは無人島という事を意味する訳ではなくて、一人だけとはいえ島に住む人間がいた。

 

「じっちゃーん!」

 

 手を振りながら声を掛けた人物は、白髪交じりで枯れ木をそのまま擬人化したような人物だった。だった。赤褐色の外套と年季の入った貫頭衣に簡素なサンダルといった出で立ちだ。

 この老人はこの島に住み、羊飼いをするただ一人の人物で、海岸に流れ着いた祐一を拾った恩人でもあった。

 祐一が居候させてもらっている家……というより遊牧民の天幕じみた場所はなだらかな草原が広がる場所で、傾き始めた太陽に、頭を垂れて祈りを捧げていた老人は、帰ってきた祐一を見遣っては頷いた。

 

「ほら見ろよ、今日もこんだけ獲ってきたぜ! へへ、俺の手に掛かればざっとこんなもんよ!」

 

 ニカッと笑って、担いでいた背嚢から鳥やら魚やら今日の獲物をとり出す。

 胸を張って自慢する祐一に、老人は邪険にするわけでもなく静かに頷いた。切り株に立てかけていた斧を手に取ると、寄る年波によって刻まれた皺にうずもれてしまいそうな細い目をどうにか開いて天幕の方へ歩き出した。

 祐一を拾ったこの人物は寡黙すぎるほど寡黙な人で、祐一も一月は一緒に暮らしているが肉声を聞いたことはなかった。それこそ長い一人の生活で、他人との会話を忘れてしまったのかと錯覚するほど。

 けれど祐一もそんな彼とはそこそこの時間を過ごしている。同居人の意を得たと天幕の方へ駆けて中に入ると、天幕の中心にある土を掘った簡素な炉に座りこんでどこか手慣れた手つきで火を起こしはじめた。

 日も落ち始めたこの時間、蝋燭すらない彼らにとっては夕餉の時間だ。

 ここの生活時間は元居た日本のそれとは全く違うもので、ここに来た当初は戸惑いもあった祐一だが、今では日が昇る時に目覚めて日が落ちる時には眠りに就く生活を気に入っていた。

 料理、と言っても野菜や肉片を煮込んだだけの簡単なもの。けれど自然の恵みをたっぷり受け取った食材は日本で流通するそれとも遜色なく、祐一はこの食事の時間が一日のなかでも最大の楽しみだった。

 

「いやぁー! やっぱここのメシはうまいな、故郷に帰っても食べ続けたいくらいだぜ! 自然の味、つーのかな? あ、そう言えばじっちゃんは今日何してたんだ?」

 

 夕餉を胃の中に掻き込んで満腹になった祐一は忙しなく、向かい合った老人に話しかけた。老人は問いかけに、天幕の入り口付近に立てかけた斧を見やった。

 

「あ、分かった、あの斧で木を切ってたんだろ。なんだよ言ってくれれば手伝ったのにー、ここに来てからなんだか身体の調子がめちゃくちゃ良いし、じっちゃんより俺の方が動けるんだから、大変な仕事は俺に任せてくれよ! タダ飯食らいはゴメンだしな!」

 

 祐一が少し口をとがらせても、老人は小さく肩を震わせるだけだった。

 

「でさ───」

 

 それからも祐一と老人の会話は続いた。語り手は祐一だけで老人は一言も喋らずうなずくばかりだったが、それだけでも会話は十分成立していた。

 

 それから一刻が経っただろうか。日も完全に落ちてしまい、すっかり辺りは真っ暗だ。

 祐一たちも炉の火を消して、就寝する。その時になっても、祐一は天幕に居る事を許されていた。祐一は居候の身だ……それは現代日本と違って身分を証明するものも、なにも保証するものない此処で、赤の他人を懐に入れるという自殺行為に等しいものだ。

 命も財産も根こそぎ奪われないとも限らないというのに、あの老人は一番無防備になるこの時でさえ祐一を家から追い出すことなく、家の敷居をまたがせ寝食をともにしていた。

 まだ若く、そういう事に疎い祐一でも、彼の寛容さは理解していた。

 

「警戒心、無さすぎるぜ。じっちゃん……」

 

 寝床で見慣れた天井を眺めながらぼんやりと呟いた。

 

 ここに来て一ヵ月ほど。

 なんにせよ祐一は現代人であるにもかかわらず、辺鄙とも表してもいい此処で、随分と馴染んでいた。

 

 

 ○◎●

 

 

「にしても此処、どこなんだろうな? じーちゃんは確かに新しいものに興味はなさそうだけど、こんなにも文明の匂いがしないのはちょっと異常だぜ」

 

 海を眺めながら思案していた祐一はぽつりと零した。居候先の老人が言うには「日本」という言葉も、そもそも「国」という概念すらも聞いたことがないと言った風だった。

 文化水準もおそらく千年以上前……もしかしたら紀元前ほどかも知れず、今日日、アマゾン奥地の民族ですら電子機器を持っている世界でこれはちょっと異様だった。

 

 それに島に流れ着いてから、異様な感覚がずっと傍にあった。まるで"世界に後押しされている"ような感覚。

 言語化が酷く難しいのだが……そうとしか表現し切れない全能感が、島に住み着いてからまとわりついていた。 

 そんな不思議な島だから、不思議な作用が働いていて文明を……いや、人を寄せ付けない場所となっているのかも知れない。そんな馬鹿げた思考すらしてしまう。

 

 空転して明後日の方向に飛んでいった思考に苦笑いしながら、広大無比な海原へふたたび視線を向けた。

 欠片も似ていない綺麗な場所なのに、ノスタルジックさゆえか故郷にあるお気に入りの山を想起させた。

 この海岸は祐一の記憶のなかに眠る故郷の記憶を呼び覚ます鎹のような場所であった。海からやって来た温かいもやさしい潮風は目に沁みて、封をしていたはずの郷愁を呼び起こしまった。

 

「帰りてぇなぁ……もう帰らないって誓ったはずだけど。……父さんに母さん、祐二、それに秀、隆、秋、勇……みんなに会いたいぜ……──ま、どうにかなるか!」

 

 無理やりに楽観を口にする祐一だったが、現状の打破を諦めたわけではなかった。こうして本当はこの海岸によく来るのも船が通り掛かるかも知れない。そんな淡い期待を抱いての事。

 

 ふと思い立って懐からひとつの写真を取り出した。何時撮ったのかも、どこで撮ったのかも、誰と撮ったのかもまるで分からない写真……けれどなぜか思考の中にしこりのように蟠って、意識を拭おうとどうにも後ろ髪を引かれるこの写真を。

 

「なぁ、アンタ誰なんだよ……? 俺はなんでか見た事も会った事もないはずのアンタを知っている気がするんだ……絶対忘れないって誓ったような気もする……でも全然思い出せない。だから思い出せない自分にめちゃくちゃイライラしてる、んだと思う……」

 

 左手に写真を持ちながら、彼の右手は白く染まり骨が浮き上がっていた。

 記憶の暗幕が晴れない。勿体ぶるようにチラチラと知らない過去を幻視し、それが祐一には途方もないストレスだった。

 

 気を紛らすように、視線を変えてみる。

 視界に映りこむ水面は紺碧に輝き、影を曳く船もない単調な海面は常と変わらず綺麗だった。

 

「ん……?」

 

 ──いや、おかしい。波が()()のだ。

 まるで流れのなくなった湖のごとく海面は微動だにせず羊羹や寒天さながらにぴったりと固まり動いていない。完璧な凪。

 こんな現象、これまで一度もなかった。少なくとも一月近く、ここに通っていたはずの自分が知らない異常事態と断じてもいい超常現象であった。

 

 変化の波は、それだけでは収まらない。

()()()()()()()()()()()。腹部……臍下丹田と呼ばれる場所からなにか蠢く力が噴き出て全身に満ちては闘争心がこぞり出された。

 なんだ、これは? 

 外界だけでなく内でも起こった変化に戸惑いを隠せない。急転する状況。

 

 それでも──である祐一は、動揺や不安を表にして隙を見せるという愚を犯しはしなかった。なぜならこれは日常茶飯事で、いつも隣り合わせにあった事なのだから。

 

「……いつも隣り合わせ……?」

 

 呆然と呟く。

 不可解な事が立て続けに起こって戸惑いを隠せない。焦燥と不安に心拍数を上げる身体とは裏腹に、思考はいっそ氷点下を下回るほど冷徹で、状況をつぶさに観察していた。

 否、心拍数が上がっているのも焦燥によるものではない……高揚感だ。久方ぶりの"故郷"への帰還に、心の底から歓喜し、激して、喜悦が抑えられない。

 

 誰だ、俺は。なんだ、これは。

 

 肉体と心、そして思考にまで置いてけぼり。混乱の真っ只中、最悪のタイミングで……その存在は現れた。

 

「──お初にお目に掛かる"神殺し"」

 

 唐突も唐突。

 咄嗟に振り向いた時には、灰色づくめのボロボロの外套で身を覆った男が立っていた。それだけでも異様なのに、身長は驚くほど高く、祐一でさえ腹部あたりにしか届いていなかった。

 面貌には獅子の意匠が刻まれた黄金の仮面が被せられ表情は要として知れず、そんな異様な男の登場にまったく気付けなかった。

 ───いや本当にそうか? 

 自己がふたつに別れていた。どちらも本物の自分だとお互い知っていて……年相応の少年と、一廉の戦士が、木下祐一という自我を奪い合っていた。

 今の祐一は最新鋭の戦闘機に中学生が乗っているようなもの……そんな状況で最高のパフォーマンスなど不可能だった。

 

 現れた灰色の男もまた不可解も不可解だった。

 雰囲気が異様そのものだったし、船で渡ってきたような気配はなく、さりとてそれ以外に島を訪れる手段などなく……。

 そもそも何故この目の前の人物は俺にまるで知古のごとく語りかけてくるのだ? けれど個人を見ている訳ではなく、俺を通して別の存在を見ているような態度で。

 疑問が乱舞する。

 

「えぇと、旅の人だよな? ……初めまして、でいいのかな」

 

 ──だから祐一はそれを全て無視した。いつも通り普通の対応をしよう、とそう決めた。

 ただ単にゴチャゴチャ考えているのが面倒になったのだ。それに木下祐一という少年はよほどの事がなければ初対面なら笑顔を向けるし、どんな相手でも友誼を交えようとする性根を持っていた。……それが最大級の悪手であるとも知らずに。

 

「愚かよな……余を前にしてもその楽観とは。豪胆ゆえか、無知ゆえか、若く未熟ゆえか。致し方ないとはいえ些か癪に障る──しかし今は好都合」

「え?」

「嗚呼、どれほどの時が流れたか。少年よ、少しだけ昔話に付き合ってくれ……」

「む、昔話?」

「かつて……最早記憶すらも霞む遥か昔に余は……一柱の神であり、輝かしき太陽神であった。忘却の彼方でさえ煌々と輝くあの太陽だったのだ。

 恋しい。狂おしい。余は何故、()()の神などに甘んじ、果てには世を彷徨う亡霊に落ちぶれてしまったのか……!」

「太陽神だった……て何を」

「そうだ! 余は太陽神だったのだッ、だが余はその職能を失陥した──敗北によって! 

 敗北とは即ち、死だ! 死とは不滅である太陽神にとっては滅びではなく、肉体と魂魄を別つ儀式に他ならぬ!」

 

 気付けば目の前の灰色の男は、祐一の首を掴んでいた。片手で首を捻られ軽々と持ち上げられる。もう片方の手は、灰色の男が自ら嵌めている仮面に当てられ、指が仮面を砕かんばかりに白んでいた。

 

「故に余はふたつの存在に分かたれた。魂魄となった余は神霊となり時の中で零落し"灰色の霊"となり……亡骸は在りし日を取り戻すための"神具"となった!」

 

 常の祐一であれば……いや、"神殺し"の記憶の刻まれた彼の身体なら避ける事など容易いはずだった。

 けれど、出来なかった。

 誰でもない祐一自身が、無理矢理に動こうとする自分にブレーキを掛けていたのだ。反骨心の塊である祐一は、勝手な動きをする自分を許さなかったのだ。今の祐一と身体は致命的なまでに噛み合っていなかった。

 

「しかし余は遂に、まつろわぬ神として甦りを果たす! そなたを"贄"としてなッ!」

「───!?」

 

 男の狂った声に呑まれ、祐一は忘我して動きを止めた。

 だがそれが新たな冒険に誘う──分水嶺となった。

 

 最初に感じたのは異物感だった。ひどく乾いて節くれだった手が、無理矢理、口の中に押し込めらた。

 そして手からさらに押し込まれた"何か"を嚥下する。まるで自分に"種を撒かれた"……そんな感覚を覚えた。

 

「フ──睨もうとどうにもならん。そなたには我が滋養となってもらうため大地の権能を種子を飲み込ませたのだ……根を張り、力を喰らい、強大になる大樹の種子を」

「────!」

 

 言葉は嗚咽しか許されなかった。必死に吐き出そうと喉に手を突っ込み……しかし嘔吐が喉をせり上がってこようと状況は好転する事はない。

 体内で何かが蠢くのを感じ、全身の虚脱感が加速度的に増えていく。

 変化は顕著だった。

 肉体の内から爆発的に植物が飛び出す。祐一を苗床とするように口や鼻にはじまり、耳や肛門、毛穴に至るまで、穴という穴から枝葉が伸び、勢いは天井知らずに増大していく。

 

「余は余の復活のために秩序を乱そう。逆縁を手ずから呼び起こう。勝者(神殺し)敗者(サトゥルヌス)の身分逆転の狂宴を催そう。

 ──漲るぞぉ神殺しぃ! そなたの呪力が大樹となり、そなたの権能が実となっていく!」

 

 灰色の男が言うように祐一の内包する呪力を糧として、最初は産毛ほどだった新芽も今では樹齢数千余を越えるほどの大樹へと。

 大木が一斉に枝を四方八方に伸ばす様はさながら素裸の山神が背伸びをするかのごとく壮観であった。

 それだけではない。伸びた枝葉の先には神々しか食する事を許されないという蟠桃や黄金の林檎かと見紛わんばかりの黄金に輝く果実が揺れていた。

 祐一が見る事にできた光景はそこまでだった。緑の氾濫はどこまでも勢いを減じる事なく、祐一は樹皮の波に呑まれて埋もれていった。

 

「余の求める『太陽』を持つ"神殺し"が未熟で僥倖であった……光を得た上で、厄介な"神殺し"を封じ、力を蓄える事のできる一石三鳥の策がこうも上手く運ぶとは」

 

 哄笑する灰色の男の存在感が増す。記憶喪失とはいえ祐一の潜在的な意識下で、舐めてかかっても瞬殺できる相手だと思っていた。それがどうだ。今では同格の存在と認識できるほど。

 

 灰色の男……いや、まつろわぬ神は外套を脱ぎ捨てた。

 そこにあったのは、幾重にも包帯を巻かれたミイラさながらの悍ましい姿だった。かつては神なりし者であった者の残滓が永き年月と壮絶な妄執を以って、恥辱に塗れながらも足掻いていた姿だった……。

 しかしそれも過去の話。大樹という半身から享受した莫大な呪力によって瑞々しく美々しい往年の威躯へと変貌していく。

 

 灰色の男は夢想した。

 己が太陽さながらの『まつろわぬ神』へ至り、嘗ての栄光を取り戻す。そんな再誕を幻視して──

 

 

 ──ところがぎっちょん。

 記憶を失っているとはいえ、仮にも木下祐一は"神殺し"……人間の身でありながら神を殺した戦士だ。

 いつまでも良いように掌で踊っている事があるだろうか? 言い様にやられても右往左往し指を咥えて待っている堪え性があるだろうか? ──いいや、そんなものはない。

 

 灰色の男が異変を感じ取ったのと、大樹内部で呪力の大噴火が起きたのは同時だった。大樹の内部で幹に埋もれていた祐一はひたすらに激怒していた。

 ふざけるな、と。

 

 この結果はなんだ木下祐一! 俺が! この俺が! あんな訳の分からねぇ輩に言い様にされて良いのか? ───言い訳がないだろうッ

 

 端的に言ってむかっ腹が立っていた。

 赫怒の怒りに意志が精錬され、それが何かの引き金を引いたかの如く、カチリ、と()()が嵌まった気がした。

 同時に胸の奥から口腔へ湧き上がってくるものがあった。血でもない。呼気でもない。これは──言霊! 

 

「汚れなき御身の為、光の柱たる我れが名代となり剣となる。貴方の権を振るう先の一切の悪意と悪魔を焼き尽くす為に。我が燃えさかる焔と見透す瞳が不浄を祓い清めよう」

 

()()の理屈も記憶も祐一は知らない。けれど使い方だけは、この武器の振るい方だけは、幼い頃から親しんだ物を扱うように手に馴染んでいた。

 未知の力でも祐一はなんだって良かった。超常の御業を振るうあいつに、対抗する術があるのなら是非もない。

 一矢報いてやる……逆襲の武器があるのなら、それがミサイルだろうとパルテノン神殿だろうと使ってやる。それほど後先考えない獣性を瞳に爛々と湛えていた。

 ───パキパキ……。

 大樹の軋む音が海岸中にうつろに響く。祐一の行使したらしき超常の法理が作用したのか、海岸に突如として現れた大樹は内部から焔に焼かれたように灰となり枯れ落る。

 そして枝に実っていた数多の黄金の果実は──()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 祐一は湧き上がる力に任せて大樹から這いだして、灰色の男を鋭く睨んだ。もはや和解や友誼など惰弱な事を言い出す雰囲気は皆無で、己を害した者への敵意で満ち満ちていた。

 

「やはり若く未熟でも"神殺し"! 余の思惑通りには進まぬか! あと一歩の所で拒むとは!」

「この野郎……さっきから訳わからねぇ事をべらべらと!」

 

 気炎を吐きながらまつろわぬ神を睨み据える。

 

「つーか手前ェ、俺に何かしやがったな? 大事なものを奪いやがったな!? 

 覚悟しろよ……手前ェの身体バラバラにして諸々吐かせたら、舌根っこ引っこ抜いてその首落としてやるッ!」

 

 一色触発。

 戸惑いはしたが、あいつは己の命を取らんと画策し、実際に、あいつのせいで大切な何かを失う羽目になったのは確かだった。

 この時点で許す気持ちも、退くつもりも、綺麗さっぱり消え去っていた。

 なぜだかそもそも敗ける気が全然しない、そんな気持ちが胸中を占めているからか祐一は大胆な態度で臨んでいた……と言っても敗ける気がしたら態度が変わるのかと言われれば口を噤むしかないが。

 けれど思惑を外して憤懣やるかたなしと憤るのは灰色の男も同じ。

 

「まだ終わらぬ! 先刻、おぬしから力を奪い、余は『神』に伍するほどとなった! 『まつろわぬ神』となった余がそなたを討ち果たし、余はさらなる復活を臨もう!」

「──()()()

 

 その時だった。異常事態に似つかわしくない泰然とした声が、灰色の男と祐一との間に割って入ってきた。

 驚く事にその声の主は祐一と同じく東洋人……それも日本人のようで年齢は二十歳程度か。容姿は整ってはいるが、こんな修羅場に似つかわしくなく、平凡な域をでない青年だった。

 

「そこまでだサトゥルヌス。アンタがまたパワーアップして復活されたら困るんだ」

「おお、やはり余を追ってきたか忌まわしき仇敵草薙護堂よ! ……やんぬるかな! 今の余はまだそなたと対決できるほどの力を取り戻しておらん!」

 

 現れた青年を見咎めた瞬間、サトゥルヌスと呼ばれた異形はさっきまでの臨戦態勢を一転させた。

 

「……ゆえ再戦は預け、ここは一端退かせてもらおう!」

 

 捨て台詞を吐いてそうそうに大地の中に溶けて消えた。どうやら逃走したらしい。

 その後に訪れたのは先刻までの喧噪は嘘かと錯覚するほどの静寂だった。

 

 なにがなんだか呆然とする祐一に突然の乱入者……祐一と同じく日本人で、祐一よりも頭一つ分は背の高い好青年は笑い掛けてきた。

 まるでさっきまでの出来事が日常であると言わんばかりに、気負いなく。平凡、とは評したがすぐさま祐一は撤回しなければならない……祐一は確信した。

 

「あんたも巻き込んじまったみたいだな……まあ、俺たちはそういう星の下に生まれた様なもんだし許してくれ」

「えと、あんたは……?」

「俺は草薙護堂。よろしくな()()()

 

 その笑みは何故か獣が牙を見せる威嚇じみたそれに見えて仕方がなかった。

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