くだる、下る、降る。
ここは陰々滅々とした気配と、どこかに近寄りがたい神秘さを共在させた昏く深い場所……例えどれほど赫々たる武功を上げた戦士とて、例えどれほど智謀冴えわたる賢者でも、例えどれほど信心深い狂信者でさえ、生者である限り、たちまちの内に立ち消える……ヒューペルボレアにて『冥府の谷』と呼ばれる場所。
そこを、ボロボロに擦り切れた外套を纏う者が下へ下へと向かっていく。辺りは灰色の荒涼とした大地。歩を進める地面は蛇が地面を引き摺ったように均され、そこを言葉もなく、黙々と。
外見は未だ木乃伊じみた姿を残しながらも満腔より滲む神々しさに満ちている。このとびきりの異形は誰であろう、今回の事件の元凶たるサトゥルヌス。
サトゥルヌスは冷気と土埃の舞う冥府の道なき道をこともなげに歩き進めた。なにせ此処は彼の本領。彼は農耕神であり、農耕とは豊穣と同義である。そして生を司るという事は死もまた司ると同義。ゆえにこの『冥府の谷』は彼の根城でもあった。
冥府と一口にいっても広大無比であり、人がどれだけ歩いても果てには辿りつかない場所だ……当然、冥府を司るサトゥルヌスにも手の届かない領域があり、いま歩を進める道もまたそう言った場所であった。
サトゥルヌスには目的があった。……でなければいかに冥府の神とはいえ、こんな辺鄙な場所に近付かない。
彼もまた仇敵である"神殺し"と同じく化身集めに?
いや、そうではない。なにせ彼はすでに二柱もの化身を掌中に収めている。本命である化身は……太陽を宿す化身は、まだ手に入れていないが焦る事はなかった。
くだる。降る。下る。
それからどれほど時間が経った時であろうか? 唐突に視界が拓けた。なにもない拓けた場所……──いや、本当にそうか? 居る……何かが。
姿かたちは見通す事はできずただ漠然と感じるだけだが、巨大な
「──やはりここで眠りに就いていたか
サートゥルヌスはそれを前にしても泰然とし、それどころか喜色を帯びた声で言い放つと、眼前の存在を畏れることなく歩を進め手を伸ばした。そしてサトゥルヌスはその異形に似つかぬ猫なで声で語り掛けはじめた。
「余は幾星霜にもおよぶ因縁を絶ち切る為、此処を戦場と定めた。討ち果たすべき敵は二人の"神殺し"ども……大地とともに永きにわたる静寂にあった君を起こしてしまうのは些か心苦しいが……余に力を貸しておくれ?」
サトゥルヌスの言葉が終わり、幾ばくの時と静寂が流れた。短くはない時間。
だが、一度変化が訪れると静寂は立ち消えた。何かが身を起こす気配と、筋肉の収縮や呼気が場を満たし、最後には鐘を鳴らすようなどこまでも響きわたる咆哮が冥府を揺るがした。
姿の見えない「力」としか称しようのない『まつろわぬ神』はそれを回答としたのだ……"是"と。
幾星霜、眠りに就いていた主の激情に呼応するかの如く冥府全域が鳴動する。
口元で弧を描く。
祐一たちが二柱の化身を手に入れた時を同じくしてかの神もまた二柱の化身を収奪し、さらに同族さえも従えていた……準備はととのった。
あとは本命たる化身を揃え、王手を掛けるのみ。
サトゥルヌスにとっては思惑通りであり、祐一たちにとっては最悪一歩手前の未来が待ち受けている事を示していた。
○◎●
「……マズイことになった」
それは『山羊』を倒し、名も知れぬ町を離れてから一週間の時が流れた頃。
海を渡って……というか漂流してというべきか。ともかく濡鼠になりながらも新たな街を訪れ、白い頭巾の者から情報を得た護堂の第一声であった。
今回訪れた街は以前いた町と比べてずっと栄えていた。道はたんに土を固めたのでは無くて石で舗装したしっかりしたもので、街を取り囲む壁も厚く、高いものだ。中身の街並みも背の高い建物が見え、モニュメントさえあるほど。
人通りの多いメインストリートで立ち止まって居たからか、はたまた装いが珍しいからか奇異の視線を投げかけられてしまった。とりあえず人通りの邪魔になるので歩き出す。
「マズイこと、ですか?」
難しい顔をする護堂に、未だ理解が及んでいない祐一は相方の言葉を鸚鵡返しするしかなかった。
「ああ、サトゥルヌスの目論見は薄々感付いていたが……話を聞いて確信を得たよ」
「……」
「祐一、俺たちの前に現れたあのサトゥルヌスが農耕神なのは知ってるな?」
「それくらいは。種撒かれて苗床にされたくらいですし」
「そうだったな。でもな、サトゥルヌスにとって農耕神ってのは
「正しい姿ではない?」
農耕神が正しい姿ではない、と言われてもピンと来なかった。そもそも正しい神様の姿っものがいまいち理解できなかったのだ。
「ああ、例えば日本の妖怪だって元は土着の神様だったって奴がごまんといる。ギリシャ神話の怪物メドゥサだって、アテナの一側面だったていうのは有名な話さ……サトゥルヌスも同じで、かつての姿から零落して農耕神に甘んじているんだよ」
「あいつ、言ってましたね。農耕神から太陽神へ回帰するって……それがあいつの正しい姿?」
「だろうな。サトゥルヌスは四輪の戦車で現されることがある……
つまりサトゥルヌスはソルやヘリオス、アポロンなどなど……これら古代のギリシャやローマで信仰された太陽神の一柱であったらしいんだよ」
「あ、あー……それで農耕神から太陽神に戻ろうと俺がもってるていうミスラを狙ってたんですか」
「そういうことだろう。確かに今じゃお前の力を奪って『まつろわぬ神』と伍するレベルにまでいるが……結局、本来の姿に戻れてないのさあいつは。そうだ、アイツにとって農耕神という現状は屈辱以外の何ものでもない」
神なんてものに至っても、未だ悲願の途上。サトゥルヌスの喪ったものの巨大さに祐一は少しだけ同情を覚え、その大きさだけサトゥルヌスの強さにも等しいのだと想いを新たにした。
「ギリシャ神話のサトゥルヌスあるいはクロノスはかつて神王で天空すら統べた神だった……しかし暴政を見かねた子供たちによって覆され転落し、化外の地へ追い払われた。
太陽神だった彼の神は大地という鎖に繋がれ囚われの神となった。一年に一度、解放される時もあったが七日間だけで、それも太陽神を復活させてはじめて行われる
「なんか不自由な話しっすね」
「そうだ、サトゥルヌスは不自由な神なのさ。だからあいつは何が何でも復活したい」
サトゥルヌスがなぜ自分を襲ったのか、その理由の一端がやっと分かった。
過去を取り戻したいのだ。それはきっと祐一と同じように。
「ここまでが前提の話だ」
「長い前提だぁ……」
ガックリと肩を落とした。自分に纏わる話なのだが、正直授業を聞いているようで眠気と嫌気がさした。だけど寝てはテスラからの鞭が飛んでくる気がして、頬をはたいた。誰かの名前を思い出した気がしたけど、記憶の暗幕がすぐに覆った。
「でもサトゥルヌスの元となった太陽神って何なんでしょうね? たくさん候補はいるのは良いですけど……」
「それはきっと、サトゥルヌスのやつが此処に来た事が大きなヒントだろうな」
「此処……?」
「ヒューペルボレアさ」
英雄界ヒューペルボレア。それがサトゥルヌスの正体を暴くひとつの鍵だった。
そして神殺しである彼らの天敵を生み出すことも可能にする聖域でもあった。
「ヒューペルボレアが神話でどういう風に語られるか知っているか?」
「いやぁ……俺、神話は疎くって。ヒューペルボレアって言葉もサトゥルヌスなんて神も護堂さんに聞いてから知ったくらいですし」
「普通はそうだろうな。知ってる奴なんて神話の勉強をしてる奴か、よっぽどの物好きくらいだろうからなぁ……」
祐一の答えに責めるでもなく護堂は苦笑気味だったが、今度は一転して真面目な表情を浮かべた。
「ヒューペルボレア伝説は北海を起源とするもの、デロス島を起源とするもの……いくつかあるんだが、その多くがアポロン崇拝の盛んな描写があるんだ。だからヒューペルボレアは"太陽神アポロンの故郷"だって話がある」
「アポロン? ……ってギリシアの神でしたっけ。じゃあそのアポロンって奴がサトゥルヌスの正体?」
「いや違う」
「えぇ?」
ははーん、アポロンだな? と飛びついてみればバッサリ切られてしまった。
あれ……なんかこの感覚、似たような事が前にも……。なぜだろう、祐一はひどい既視感を覚えた。
見上げた空に、転覆した船で知り合ったおっちゃんがイイ笑顔をしてサムズアップしている気がした。
「ギリシャ神話の神々には土着の神とは別に、いわゆる外様の神様が結構いるんだ。アポロンももとを辿れば外様の神なんだ。
起源はいくつもあって絞れないが、アポロンの母レトは小アジアで信仰された地母神だった。で、それに随伴するように
「植物神?」
「そうだ。そして祐一、お前は『犠牲の獣』って覚えているか?」
「そりゃあまあ。ここに来る前に何度かやりましたよね、海に漂ってる牛とか獣を殺して食べ物にするの」
「ああ。そしてこうも言ったろ……神話世界だから神話に沿った法則がある、ってな。『犠牲の獣』は確かに神話があって、そしてとある神様に纏わる神話なんだ」
「それって?」
「"雄牛を殺すもの"ミスラ。神話には犠牲の獣の体から効能あるあらゆる薬草や植物が生まれ出て、大地を緑で覆ったなんてものもある……そしてアポロンとミスラは同じ太陽神であり酷く似通った神様なんだ」
互いに似通った神性を備えるミスラとアポロン。"太陽神アポロンの故郷"とは、アポロンのいにしえの姿を表すものでミスラこそが祖であったなら、ヒューペルボレアの真の主とはつまり……。
真相は不明だが、アポロンにしろ、ミスラにしろ、ヒューペルボレアにおいては太陽が重大な意味を持つ。なんせ世界の主たる神様が司るものだから。
「そしてミスラとサトゥルヌスも遠い縁戚みたいなもんなんだ。最初は別々で全く無関係でも、時代を下るごとに文化や民族がぶつかり合って合わさっていく過程で習合した事があるんだ」
「ふーん?」
「まだローマ帝国があった時代、冬至の季節にサトゥルヌスにまつわるお祭りとして「サートゥルナーリア」っていうクリスマスの元祖ともいえるお祭りがあったんだ。
開放的な祭りでな、奴隷と主人が立場を入れ替えてバカ騒ぎをする。そんなお祭りだった」
「そんなお祭りがあったんですか? 知らなかった……」
「はは、まあ古いお祭りだしな。で、このお祭りはさっき言ったことに繋がって来るんだが囚われのサトゥルヌスを解放するお祭りだったんだ。一年に一度、冬至節に七日間このお祭りは開催され、親しまれた」
「へー」
「それともう一つ、クリスマスの起源と言われるお祭りがあった。それは十二月二十五日に行われ、"不滅の太陽が生まれる日"を祝うお祭りだった」
「不滅の太陽? ってなんか大仰な名前ですね……」
「実際太陽が登らない日なんてないからな、古代人たちはよく太陽を不滅に象徴として祭り上げてる。太陽と不滅はイコールで、不滅の太陽とはローマ帝国で信仰されたミトラ教の主神"太陽神ミトラス"を指し、つまりミトラスを祝うお祭りだったのさ。
……時代が流れて行くごとに良く言えば寛容、悪く言えば適当なローマ人の間で、その二つのお祭りは習合していく。祭られる神様もまた同一視される事となったんだ」
「……」
「そう……つまりミトラスあるいはミスラこそ、農耕神サトゥルヌスが回帰しようと目指している太陽神の正体なんだ」
「ミスラ……」
ミスラ。何度も聞いたような記憶があった。
思い出せないが、それは祐一にとって聞き覚えのある神の名で、これまでの道程をともにしてきた"なにか"と同じ名前をしている気がした。
「ミスラとサトゥルヌスの関係はなんとなく分かりましたけど、でも、今のサトゥルヌスは農耕神なんでしょ? そんな簡単に別の神格に変われるんですか?」
「もちろん簡単な話じゃない。でも不可能でもない。覚えておくといい……『まつろわぬ神』ってのは神話をなぞるように贄を捧げたり、儀式を繰り返す事で、狙った神性へ回帰する事ができるんだ」
「…………」
「一番手っ取り早いのは自分に由来する神具を使って道標とするのだが……そんな都合のいいものあるはずないし、だからサトゥルヌスもお前の権能を狙ったんじゃないか」
「今度はあいつの好きなようにはさせません」
祐一は言い切った。護堂も同意するようにうなずく。護堂はサトゥルヌスが次に打ってくるであろう一手を思案しはじめた。
何度も耳にした太陽という言葉。そう聞いて電流じみた映像が脳を駆け抜けた。黄金の首飾り。聖なる白。逞しき四足の獣……。
「太陽を、日輪を運ぶ白い神馬──常勝不敗の闘神第三の化身『白馬』……」
祐一は知らぬ事であったがウルスラグナは神話ではミスラと主従関係にあってミスラという日輪を乗せて導く神だった。
神話や讃歌でも合わせて語られる事も多く、太陽を司る『白馬』はミスラの一部と言っても過言ではなかった。故にサトゥルヌスを太陽神に導くには打って付けの化身ともいえた。
「『白馬』、か。馬は太陽を運ぶ聖獣。あいつはお前が持つ『白馬』もまた狙っているんだろうな。今まで姿を見せなかったのも、そういう訳かもな」
護堂は顰めた顔を隠すように手で口を覆い、苦い思考をそのまま口から零した。思わずつられて神妙な顔になってしまう。
「そういえば他にも神話をなぞったり再現することでも回帰できる、ってましたよね。そっちはどうなんです?」
「最後の手段になってくるはずだ、なにせ手っ取り早いやり方がまだあるんだからな。
あくまで二の矢、胸に留めて置けばいい。神話を再現して神性を高めるやり方なんて……かなりの大事だ。それこそ新しく神を招聘するに等しい。きっと人間を何千何万と生贄にしてやっと、ってほどにな。生半に出来る事じゃない」
「でもサトゥルヌスも俺たちにちょっかい出してきたって事は、生半な覚悟じゃないって事でしょ」
「そうだな。あいつの目的は今も昔も変わらない。……かつての太陽神だった頃へ回帰すること。今のような半端な豊穣神ではなく、完全な太陽神へ」
現状、サトゥルヌスの求める権能は確かに存在し、チャンスもしっかりある。だが祐一達が先に取り返し、二の矢に頼らざるを得なくなれば……やるかやらないかで言えばやるだろう。
サトゥルヌスに限らず、自我と自尊心に怪物たるまつろわぬ神は例外なくその選択肢を取る。
「話の続きだ。サトゥルヌスがお前の『白馬』を手に入れたその時、それを呼び水にミスラに限りなく近い太陽神としての神格を取り戻すだろう。
果てにはヒューペルボレアという世界において"無敵の太陽神"として復活してしまうと俺は予測してる。
なんせただ権能を持ってるお前でさえ、恩恵を受けてるらしいからな……此処の創造神に近い存在となれば相当だ」
「無敵って……そんな弱腰、護堂さんらしくないですね」
「ミスラは強い。侮りは控えた方がいい。俺が以前遭遇した、太陽神であり最強の『鋼』であったミスラは、カンピオーネやそれこそ同胞である『まつろわぬ神』でさえすべてを殲滅する凄まじく強力な神格だった」
「すべて!?」
驚愕する祐一。信じられなかったのだ、そんな途方も無い武勇と根気を持つ神がいるなど。
だが護堂は静かに、そしてしっかりと頷き、それが間違いのない真実なのだと言葉もなく語っていた。
護堂はふたたび口を開くと、これまでの話をまとめはじめた。
「このヒューペルボレアにおいてミスラは間違いなく強大な権威と力を振るえる神格だ。そしてサトゥルヌスは子であるユピテルに追われたとはいえ元はといえば主神だった神格……それくらいの力や権威があっても不思議じゃない」
「……」
「サトゥルヌスが太陽神へ至ったが最後、このヒューペルボレアにおいてカンピオーネすら歯牙に掛けない、最大の天敵である『魔王殲滅の勇者』が誕生する事になる」
「魔王、殲滅……」
魔王殲滅。その単語が鼓膜を打った途端、全身の肌が粟立った。己の過去はいまだ判然としないがそれが忌むべき言葉なのだと直感的に理解できた。
「それに今は冬至節。サトゥルヌスが解放され、もっとも力を強めている時期……サトゥルヌスのやつがこの期を逃す事はまずない。『白馬』が現れた時、激しい争奪戦になるぞ。覚悟しておけ」
護堂の静かで確信の籠もった言葉に、新たなる騒乱を予感し、鉛じみた生唾を嚥下した。
「と言っても今の俺たちになにか出来る訳じゃないしなぁ……とりあえず飯食うか」
「うわぁい、さっきまでの神妙な雰囲気ぶん投げましたね?」
「よく言うだろ? 腹が減っては戦はできぬってな」
話に夢中になり気付かなかったが、いつの間にか大きく赤々しい中華風の建物の前に立っていた。中からは香ばしい香りが漂ってくる。どうやら料亭らしい。
「そういうもんですか」
「そういうもんなのさ」
肉、肉、肉、肉。以前いた町とは打って変わり今度訪れた街は魚や野菜は邪道と言わんばかりに肉尽くしであった。というか全体的に赤い。調味料がふんだんに振られ、まるで元いた世界で饗されるような満漢全席といった風情である。
豪勢な料理にならんで祐一たちの居る部屋も豪奢なもので部屋は広く、内装やグラスの一品に至るまで趣向を凝らされ、金銭感覚が庶民の祐一は部屋に通されるなり目を回す事となった。
どうやら此処は白蓮王という同族が坐す本山に近いらしく、それに伴って白蓮王の影響力がかなり強いらしい。そのため白蓮王の義兄弟という護堂を迎える歓待は盛大なものとなった。
まあ色々思惑が絡んだ結果であっただろうが饗されるならば遠慮はいらないと健啖家二人はさながら餅を突くようにして、手に箸に料理を取って一息に胃へ収めていった。
食事のあとにはうら若い乙女ばかりが舞い……透けるように白い肌を持つ者も居れば、褐色のエキゾチックな者も居て、年代も様々だった。祐一や護堂の同年代もいれば年上年下とまさによりどりみどりである。
饗される料理が落ち着いて行くにつれ、祐一は嫌な予感をひしひしを感じていた。踊り子たちが来る前に逃げよう。席を立とうと意識を切り替えた時には、すでに数多の乙女たちに囲まれてしまっていた。カンピオーネの直感は万能ではなかった。
「あばばばばばばb……」
これまで何度か言及したが木下祐一は女性が苦手である……饗されているはずの立場である彼が大いにキョドってしまうほどに。
「祐一……お前そんなに女性ダメなのか……」
呆れた、と言うより少し意外そうに護堂は零した。護堂の印象としては老若男女美醜問わず誰でも別け隔てなく突っ込んでいく性根を持っている、というのが祐一という少年であった。
「いや! 普通なら全然大丈夫なんすけど! そういうふいんきになると! ……てか、アッー! 誰か触った!? ……俺も! 以前はここまで酷くなかったんですけど……イッ! キャー!」
彼の言うとおり常ならば彼もここまで動揺する事はない。だが動悸、目眩、吐き気……これも記憶を失った事に関係が!? 俺はどんな修羅場を潜り抜けてきたんだッ!?
どこぞの幽世で邂逅した神祖の正装が記憶を失おうとも深く大きな傷跡となっているらしい。そんな過去など忘却している祐一はどんな大敵を相手にしてきたのかと戦慄していた──!
○◎●
「──おや? 青筋を立ててどうかなさいましたかニニアン殿?」
「……いえ、何者かが私を貶めているような気がして……」
「はぁ。神祖たる貴方が言うのならもしかするやも知れませんが……ですが行方知れずであった貴方の腹心であるカズハズ殿も戻って来たのです。我らの大願と
「フェルグス、貴方に言われずとも承知しています。それ以上言葉を重ねるのは止しなさい」
「まあ、いいでしょう。……それとフェルグスと呼ぶのは止めてくれと何度いえば判るのですか?」
とある幽世の片隅にてそんなやり取りがあったなど祐一は知る由もなかった。
○◎●
「ふーん。でも今まで異性と関わりがなかった訳じゃないんだろ? 思い出せる範囲で異性との交流を思い出してみたりしたらどうだ?」
祐一に話しかけながらうら若い女性たちを受け流しながら侍らす護堂。その姿に記憶を探りながらも「やはりドン・ファン……!」と戦慄する祐一。
「うむむ……。元々クラスの女子とかそんなに関わってなかったしなぁ……」
「ふぅん。なら思い出しはじめた記憶の中はどうだ?」
「喪った記憶の中……──あっ! 今ピンク色の髪を持った元気のいい女の子が脳裏をよぎったような……!」
「よし、これ以上の詮索は止めとくか」
「え?」
イイ笑顔でストップを掛けられた。
「まさかとは思うが、神話世界だからってひょっこり出て来そうだしなあの人……」
「?」
ボソリ、と呟かれた言葉は祐一の耳に届く事はなかった。それはそれとして、護堂と自分を客観的に俯瞰し、深く思い悩む仕草をとる祐一。
ろくな事を考えていないのは短い付き合いだがなんとなく分かった護堂。
「うむむ。護堂さんはこんな時でも泰然自若としている……俺はこんなにも心を乱されてしまうと言うのに……ハッ! まさか護堂さんの強さの秘訣って女性慣れ──!?」
「あー……まあ何度も助けられたし、女性は味方に付けといて損はないと思うが……。同じくらい窮地にも陥ったけど」
「なるほど! ──オレ判りましたよ! 自分が弱い理由がッ!」
「そ、そうか」
だァラッシャーッ! 我こそが夜の魔王じゃー! 威勢よく飛び込んだ祐一。だが気合で上手くいくなら彼はこんな場所に迷い込んでいない。
女性陣に言い様におもちゃにされると、半刻も持たず宛てがわれた部屋へ逃げ込む事となった。
○◎●
薄明の朝、空が滲んで太陽がいまだ顔を出していない時間。不思議と祐一はこの時間に必ず目を醒ました。この世界に漂流してから自然と早く目覚めるのだ。
これも過去が原因なのだろうか? と少し靄のかかった脳内で思案する。
部屋を出ると、護堂と鉢合わせする事となった。彼も早起きらしい。
「よう、夜の魔王」
「なんの事ですか? 俺、過去は振り向かない主義なんで……」
祐一が目を逸らすと、クツクツと護堂は笑った。
「ま、いつか慣れるだろ」
「う……。まぁ、情けなさこの上ないですし、頑張ってみます」
朝の軽いやり取り。この会話が少し先の未来にて大いに影響を齎すことになるとは、神ならぬ二人には見通せる筈もなかった。
昨夜と同じく、同じ料亭で饗される事となった。朝、というよりまだ夜に近いのだが、街はにわかに動き出していた。二人が席に付くと同時に、粥や肉饅頭やら次々と皿が置かれていく。相変わらずカラフルだなぁと、どう見ても朝食の量ではない朝食を口に放り込んでいく。
「あ、ふぉうだごふぉーさん」
「頼むから飯食ってから喋べってくれ」
お約束と言うべきか口にものを詰めながら喋り始めた後輩に、苦笑いする。
「んぐ、……えと、この街に来る時に、『駱駝』と遭遇して倒したじゃないですか。それで前の記憶をちょっとだけ思い出したんすけど」
「へぇ、よかったな」
実は祐一と護堂はこの街に向かうその道中で、化身の一柱である『駱駝』と遭遇し、これを倒して手中に収めていた。
とはいえその戦闘の余波で祐一たちの乗っていた船はあえなく転覆し、この街を訪れた時、濡鼠になっていたのはそういう理由だった。なんやかんやあって記憶を取り戻した事を忘れていたらしい。
この二人旅で二度目となる漂流に「もう二度と護堂さんとは船に乗らない」とは祐一の弁。なお護堂は「カンピオーネなんて言う台風の目が二人も雁首揃えばそうなるんだって」とどこか悟った風な主張をしているようだ。
閑話休題。
「やっぱ俺、何回か神様連中と戦ってたみたいっす」
「だろうな」
「もうちょっと驚いてくださいよ……。まぁ俺も今のままで忘れてたんですけど」
「お相子だろ。で、どんな神様だったとか憶えているのか?」
「えっと確か……初めて"神殺し"になって戦ったのはドバイでした。そこで襲って来たチンギス・ハーンと戦ったり、迷い込んだ幽世って場所でヤマトタケルと殺し合ったり……記憶が途切れてるのはトルコで天使と戦ってからですね。その戦いの余波でトンじまったみたいで」
「へぇ、なかなかの戦歴だな」
「でしょ? でも戦ってばっかで何を喋ったのか、何をそんなに笑って怒ったり、悲しんでたりしてたのか、全然思い出せないんですよねー。
『鋼』や神祖、あとは神様の名前や出会った人の名前、その辺りなら問題なく記憶を出し入れ出来るのに、その人がどんな人物で、どんな事を話たのかになるとてんでダメなんですよ」
「なるほどなぁ。記憶喪失でも種類があるっていうし、段階的に思い出してるって思えば少しは前進してるんじゃないか?」
「お、いい考えっすねそれ」
と、その時だった。東方に眩い曙光が迸ったのは。
「今のは……!」
祐一が勢いよく立ち上がるのを尻目に護堂は見えない糸を手繰るような仕草を取った。
「ああ。現れたぞ『白馬』と……」
───神殺しよ。時は来たれり───
「ッ! サトゥルヌス!」
──一つ、提案がある。余もそなたらも、彼の化身を前にして邪魔立てされるのは本望ではない……そうであろう? ──
「何がいいたいんだ? 本題を言えばいい」
──フフフ……。ここでひとつ雌雄を決しようではないか、と言っているのだ。余とそなたらで覇を競い合うのだ──
「つまり俺たちとアンタが勝負して、どっちが『白馬』を手に入れるか戦おうって訳か」
──左様。なに、勝負といってもどちらが『白馬』を先に奪取するか、それだけが条件の簡単なもの。……如何かな? ──
「ハンッいいぜ、受けて立ってやる! クビ洗って待ってな!」
──フ……東の大地にてお待ちしよう──
そこでサトゥルヌスの言葉は切れた。売り言葉に買い言葉で、思わず叫んでしまったが冷静になるとやっちまったと顔に書いて護堂の方を見た。けれど彼は咎めるでもなく、苦笑するばかりだった。
「まあ、虎穴に入らずんば虎子を得ずってな。勝つぞ」
「うす!」
○◎●
「現れたか。"神殺し"たちよ」
『白馬』のいる街の郊外。サトゥルヌスの指定した東の地に祐一たちは歩武を鳴らして現れた。
サトゥルヌスは見晴らしの良い場所に、一人立っていた。サトゥルヌスは以前の記憶よりも、力を増したように見えた……何か、深く暗く昏いなにかの気配をビリビリと皮膚に感じる。凍えるような凍気に、昨夜の話がひどく疑わしく思えた。
彼を見咎めた瞬間、祐一と護堂の肉体が力と闘志で満たされる。東方の空には、太陽とは別に輝く、黄金の光明。祐一の直感が囁いている、あれが『白馬』なのだと。
「フッフッ……余の復活の準備は着々と整っておる。おぬしたちも気付いておるのだろう余の思惑を? おぬし達は愚かではあるが馬鹿ではないと承知しておるゆえな」
「まあ、あんたが懲りずに太陽神へ立ち返ろうとしてる事くらいは、な」
「そうでなくてはな我が因縁、草薙護堂よ。あの日輪を運ぶ神馬を掌中に収めれば、余は嘗ての権勢を取り戻し、このヒューペルボレアの地においては無敵の存在となろう。だがそれを為さずとも、余はそなたらを討ち取る事も難しくはないと考えている」
「へぇ、神様ってのは冗談を言うんだな初耳だぜ。ま、全くおもしろくないけどな」
割り込むように声を発したのは戦意と怒気と横溢させた木下祐一である。護堂には長年の因縁があるように、祐一にもサトゥルヌスにはいいように利用された借りがあった。彼を前にして穏やかになれるものではない。
押し留めるようにして護堂が前に出た。
「この場じゃそっちはアンタ一人だけで数的にはこっちが有利なんだ。それに、まだ『まつろわぬ神』に成ったとはいえ完全に御してる訳でもないんだろう?」
サトゥルヌスの返答は沈黙のみ。沈黙は肯定と同義であった。
「なぁ、ここは大人しく引いた方が身の為だと思うぞ?」
「だからそなたらは愚かだと言うのだ。草薙護堂、宿敵を前に余がこれまで無為に過ごしていたと思うのか? ──姿を見せるがいい、余の伴侶よ」
「!」
「なんだぁ!?」
大地の鳴動、そして亀裂。そこから現れたのは一体の巨大な銀色の竜であった。竜、とは言ったがその姿はどこか蝶や蛾を思わせる鱗翅目の羽根で、胴は蛇じみた流線的な身体であった。
"神殺し"の肉体と直感教えてくれる。これは化身のような神獣などではない……歴きとした『神』なのだと。
「驚いたかな? そなたらの言うとおり数では余が不利だったゆえ、冥府を下り、余の妻を揺り起こしたのだよ……木下祐一と言ったか、おぬしの化身の収集なぞほんの片手間にすぎぬ」
「ふん、そーかよ」
サトゥルヌスの妻……という事はオプスか。護堂は記憶の奥から知識を引き出した。おそらく従属神や眷属神と呼ばれる存在だろう、『まつろわぬ神』には一歩譲るが侮れる相手ではない。
草薙護堂、木下祐一。サトゥルヌス、オプス。
二人の魔王と二柱の『まつろわぬ神』が睨み合う……ここはもはや神代の戦場。覇気と神気に烟る戦場。
だが臆病者風に吹かれたものはいない。それどころか戦意を横溢させる者がいるばかり。
「いいな、神に神獣! 今度は竜か! 退屈しねぇな!」
「フッ……ま、そういう事だ」
死線を目前に控えながらそんな事をのたまう同族に思わず吹き出してしまう護堂。だが、すぐに目をグッと細めた。
「サトゥルヌスの奴は俺が相手をしてやる。祐一、お前はあの龍……オプスをどうにかしろ!」
同じ戦場で肩を並べながらも、二人は同じを場所を見てはいない。言葉はなく犬歯を剥き出しに威嚇するような笑みで応えた。
この日、神話世界ヒューペルボレアにて二人のカンピオーネと二柱の『まつろわぬ神』がぶつかりあった。