王書   作:につけ丸

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三つ巴編は祐一くんの知能が若干高めなのですがこれまでの経験を糧としたということで一つ。


074:因果逆転の夜

 そろそろだな、伽藍とした人気のない広場に祐一はひとり呟き立っていた。時刻は日付けがもう間もなく変わるかといったころ。そんな夜更けの、誰もいない広場に彼はいた。

 待ち人がいた。自由奔放を地で行く彼でも、決して無視できない待ち人たちが。

 と、やおらに闇夜の濃い影からゆらめきが起きた。異変であった。かげろうさながらの揺らめきは波紋となって強弱を得て、最後には人型となった。影の暗幕を破って現れ出でた影は、ひとつではない。ふたつの人影が示し合わせたように揃って現れた。

 

「驚いたな……二人一緒に御登場かよ」

 

 小さく笑みを浮かべながら、ちょっとしたからかい混じりに待ち人を迎え入れた。

 俺の思っていた以上に神話の関係ってのは深いらしい。笑みは獰猛だった。獣の笑みだった。

 待ち人はごとごとく特異である。片方は隠し切れない不吉さをもつ背の高い年経た老人で、もう片方は銀月を溶かした髪色をもつ幼さを宿す少女。とびきりの異形と、とびきり美しい者。それが彼の待ち人だった。

 

「不快だぞ神殺し。余とそこな小娘の間にはそのような親類縁者の情は芥も持ち合わせておらん。余は余の刻む時のままに出向いたにすぎぬ」

「なるほど。当代の神殺し殿はどうやら諧謔の才がないらしい」

 

 両者が揃って否定するものだから祐一は内心苦笑した。けれどそれも束の間、瞬きを終えると瞳を燃え上がらせ、戦士としての覚悟を終えていた。覚悟。つまり戦いが始まるのだ。

 "戦と智慧の女神"アテナ。

 "死と時の神"サトゥルヌス。

 "神殺し"木下祐一。

 この場に集った超越者どもの狙い同じ所にあり、彼らが求めるのは揃って()()()()()であった。

 名をゴルゴネイオン。ここに集う一柱……女神アテナの半身であり、彼女が奪還せんとする神具である。

 

 しかしゴルゴネイオンを求めるのはアテナだけではない。サトゥルヌスと祐一もまたゴルゴネイオンを希求した。

 

 サトゥルヌスはゴルゴネイオンを質として強大な地母神であるアテナを従えんと目論んだために。

 

 祐一はゴルゴネイオンという餌があれば二柱をある程度コントロールでき、上手く立ち回れば一掃できると目論んだために。

 

 当初、ローマの魔術結社が持て余すばかりだったゴルゴネイオンだったが同地に現れたサトゥルヌスによって感知、奪取されてしまった。サトゥルヌスと祐一のみに終始していた騒乱は、渦中へゴルゴネイオンが投げ込まれたことを切欠にアテナを呼び込み、ノルウェーはベルゲンを舞台として拡大を続けていた。

 そして今宵。

 肥大する騒乱に終止符を打たんとゴルゴネイオンを掌中に収めた祐一によって、決戦が為されようとしていた。

 誰もが安眠を貪るなか人知れず集った超越者どもは、息を殺して雌伏していた己に別れを告げ、本来の姿へと立ち返らんとしていた。

 寂として風も吹かず、雲もない空っぽな夜だった。夜空に掲げられた下弦の月が驚くほど映える夜だった。

 

「刻限だ」

 

 透徹とし乾いた夜闇に、嗄れた声が重なった。サトゥルヌスが手を広げて雄々しく宣告する。

 

「約定に則り、古の《蛇》を希求する我らは鉾でもって雌雄を決する。勝者には冠たるゴルゴネイオンを、敗者は賭した己が命を、我らの武威によって弄ぶのだ」

 

 言葉は静かであり簡潔であった。けれども死の神であり『鋼』たるサトゥルヌスは、猛っている。宿敵たる草薙護堂に二度目の敗北を与えられ、屈辱と妄執によって冥府より黄泉がえりを果たしてより、それほど時は流れていない。まだ一度も月の満ち欠けは終わっていないだろう。

 ならば内より吹き上がる火柱さながらの熱は、いささかの衰えもなく、それどころか熱量を増すばかりだった。

 

 今ここに宿敵・草薙護堂はいない。しかしいにしえの故地ヒューペルボレアで奇縁にして逆縁を結んだもう一人の神殺しは、執拗にサトゥルヌスの覇道を阻んだ。ならば前哨たるかの戦士を討ち、本命たる宿敵を滅ぼすのみ。

 

 気炎万丈。振りあげた手には昔日の禍々しい鎌……ハルパーが収められ、漏れでる死の気配に草木が枯れ落ちた。

 祐一は言葉もなく目を眇めてよく応えた。先刻まで寸鉄も帯びていなかった祐一の掌中に黒い刀が忽然と現れ、剣把より伝わる重みを切欠として戦意が肉と血を満たした。あとは一心不乱の死線にのめり込むのみ。

 

「待たれよ」

 

 そんな両者に"待った"をかける者がいた。誰であろうアテナである。

 

「我らが鉾を交える前にひとつ確認しておこうか。なあ、当代の神殺し」

 

 彼女は気色ばむ二人を横目に、戦意を高めるでもなくただ事務的に確認事項を祐一へ問いかけてきた。これにはさしもの祐一も鼻白んで、気勢を削がれる思いだった。ともすれば智慧の女神、これが意気込みを奪う策略かと疑いすらした。

 なんだよ、と三白眼で睨めつけながらつっけんどんに問い返した。

 

「なに、そう大した事ではない。古の《蛇》……ゴルゴネイオンをこの目で確かめたいのだ。ああ、妾がゴルゴネイオンを掠めとるなどと下衆な勘繰りはするな。

 そなたが真にゴルゴネイオンを有しているならば、妾も武威と智慧を用いた奪還に否はない。ただ、確たる証を見たいのだ」

「ゴルゴネイオンを? ……まぁいいぜ。そんなに言うんなら見せてやるよ。ほら、ゴルゴネイオンなら此処に………………──ん?」

 

 訝しげにアテナを見ていた祐一だが、拒否するのもおかしな話かと結論づけて応じることにした。と、懐をまさぐっていた祐一だったが、素っ頓狂な声をだし首を大きく傾げた。

 

「こ、ここにぃ……置いて、たん、だけどぉ………………?」

 

 あれェ!? ついには叫び声をあげてしまった。サトゥルヌスはアテナの意図するところを察した。どうやら祐一は紛失してしまったらしいのだ……ゴルゴネイオンという特級の神具を。

 ゴルゴネイオンはもともとアテナの半身と言っても過言ではない代物である。故に祐一の手元にないことは一目見れば看破するのは容易である。アテナは呆れたようにため息を吐いた。

 

「妾は申したはずだぞ、ゆめゆめ無くす事のなきようにと。だのにこの不始末とは……非難は免れぬと知れ"神殺し"」

「ぐぐ、ぅ……」

「クク、流石は愚か者たるエピメテウスの義息だな。嘗てそなたには愚か者であるが馬鹿ではないと申したが……撤回せねばなるまい」

「コイツラぶった斬りてぇ……ッ」

 

 フルボッコであるが残当である。だがここで反論したり暴れても恥の上塗りでなので甘んじて受け入れるしかなかった。内心では目の前の仇敵をボコボコにしつつも、それくらいの分別と冷静さは保っていた。

 欲するものは失われていた、ならばこの場に用もない。三者三様散るばかりと思われたが、意外にもアテナは言葉を続けた。それも祐一にとっては意表を突く提案をたずさえて。

 

「しかしこうなっては致し方あるまい。我が半身たるゴルゴネイオンがこの地のどこかにある、というのならば……神殺しに祖父殿よ。ここはひとつ余興をせぬか?」

「余興だって?」

 

 然り、とアテナは頷いた。祐一は失態に苦い顔を浮かべながらも耳を貸すほかなかった。失態を犯したのは自分であったし、この者たちを野放しにもできなかったからだ。

 

「神殺しの過失もあるがゴルゴネイオンが姿を消したのはなにかしらの天意にも思えるのだ。運命の見えざる手によってゴルゴネイオンは喪われ、そのまま永久に妾たちの前に現れぬやもしれぬ……と智慧の神である妾と託宣の神である妾が警鐘を鳴らしておるのだ」

「俺たちが手に入れられない? 運命なんてもので? 馬鹿な」

 

 アテナの言葉を一蹴しようと言葉をぶつけるが、アテナは呆れたように肩をすくめるだけだった。

 

「ではあなたの手からゴルゴネイオンが喪われた理由はなんとする。あなたはそれほど間抜けた男ではないと妾は見るが?」

「……」

「異論はないようだな。妾もまたオリュンポス十二神に名を連ねる姫女神にして地母を司り秩序をもたらす者。

 ……だが、その運命の繰り糸に沿うことだけは到底認められぬ。ゴルゴネイオンは半身なれば、それを取り戻すことこそ何事にも代え難き使命。ゆえにモイライどもの紡いだ糸であろうと敢然と抗いたいのだ」

「まつろわぬ神のアンタが、ね。だけど忘れてないか? 俺はゴルゴネイオンなんて危なっかしいものを葬るのも目的の一つなんだぜ?」

 

 ゴルゴネイオンは多くの神具のなかでも高位の枠に入るだろう。不朽不滅にして闇と大地を統べるアテナの半身であり、女神を更なる高みに至らしめる権威を持っているのだから。

 

「アンタの半身だっていう不朽不滅のとんでもない代物が永遠に消え去るかも知れないって言うんだ。俺としてはそのまま手出しせずに放っておきたいね」

「ほう。このような事態を招いたのはそなたであるというのにか? それにどうやら当代の神殺しは運命に唯々諾々と恭順するのが好みと見える」

 

 アテナの挑発に激発して飛び出さなかったのは、ひとえに戦士として鉄火場をくぐり抜け、忍耐と経験を積んだからだろう。

 運命や因果やらに人生を狂わされてきた祐一だ。運命に踊らされるのを酷く嫌い、隙あらば反抗しようとするのが彼の性分といってよかった。

 こめかみに青筋を浮かべながらもなんとか舌打ちだけに押しとどめる事ができた。

 

「チッ……で、それは分かったがどうすんだ? 当然、策はあるんだろ」

「うむ。妾は智慧と加護を與る女神であり、同時に多くの戦士や英雄を導いてきた戦女神。妾に信仰を捧げ、宣誓する者たちには格別の加護と誉れ高い勝利を与えてきた。ゆえに妾は宣誓による悲願の成就も職掌としているのだ……妾はこの権能にて覆そうと思案する」

「なに? 宣誓と成就の権能で?」

「……なんと、得心したぞ。アテナよ、そなた因果を逆転させようというのか。原因から結果を生むのではなく、結果を縛りつけ原因を歪ませようと企んでおるのか」

 

 宣誓。

 古来より戦場において戦士たちは勝利と名誉を獲るため神に使命の告白とそれの成就を誓った。そのアテナが誓いの神としての権能を行使するという。

 ただし常道の方法では意味がない。オリュンポスの姫女神であるアテナの権威と力によって、原因ではなく結果を先に確定してしまおうというのだ。そうすれば如何に運命であっても覆せない。どのような過程であれ、行き着く先は同じ場所に帰結するのだから。

 これにはサトゥルヌスも驚嘆した。時という運命に近しいものを司る彼だから驚きは一入だった。

 

「《運命》という巨大な潮流を覆すことは容易ではないが、しかし、妾のみではなく重ねてここに集うそなたらも合力すれば不可能ではないと思案する」

「合力? まさか俺たちに、力を合わせて運命を覆しましょう、とでも言うつもりか」

「左様。この場に集うものらは悉くが並では収まらぬ。まつろわぬ神であり三海に名を轟かせた妾と、かつては神王であった祖父殿、荒ぶる神殺しの獣たるそなた。我ら三名が合力すれば如何に《運命》であろうと覆ると言っているのだ」

 

 ここに至っては余興どころではない、と察した。アテナは一撃必殺の策でもって運命に風穴を開けんとしていた。しかしながら智謀縦横たるまつろわぬアテナの提案である。まつろわぬ神に完全な信を置けるはずもない祐一は、鋭い目をさらに眇めて口を手のひらで覆い隠した。だが悩んだのは祐一だけだった。

 

「よかろう。アテナよ、余はそなたの余興に乗るとしよう」

 

 即決即断が心情の祐一を差し置いて最初の同意を示したのは意外にもサトゥルヌスだった。彼の胸中にいかなる策謀が張り巡らされているのかは見通せない。

 しかし彼もまた時の神としての眼力からなにかを読みといたのかアテナに賛同していた。

 

「天意、《運命》ね。…………ま、俺もそういうのに抗うのは嫌いじゃないぜ」

 

 祐一も思うところはあったが、己の過失が原因であったし、それに運命に抗うという謳い文句に興味を引かれた。

 それだけではなくゴルゴネイオンは特級の神具だ。現時点ですら自分を含めた超越者が三人も雁首を揃えている有り様、手をこまねていれば鼻のきく神々や同族が参戦をしてくるかもしれなかった。

 

 祐一もまた決断した。場にいる全員が肯定を示した。あとは為すべきことを為すのみ。

 アテナは満足したように大きく頷き、天を仰いだ。その手には蛇を模した大盾が掲げていた。

 

「妾は天地神明あらゆる森羅万象に布告しよう。

 この北欧の地にてあくる新月の夜、古の蛇にして勝者の栄冠たるゴルゴネイオンは妾ら三者のいずれかの手に渡り、敗者は悉く滅び去ると。

 我が名はアテナ。ゼウスの娘にしてアテナイの守護者。永遠の処女。

 ここに誓う。新月の夜、アテナはふたたび古きアテナとならん!」

 

 サトゥルヌスが、天を仰いだ。その手には夜闇すら塗りつぶす漆黒の鎌を掲げていた。

 

「余はサトゥルヌス。敗北し貶められ、恥辱の淵にある古の神王。

 余は誓おう。アテナイの戦女神も、光明と勝利の神殺しも、力及ばず余がもたらす死と時によって鏖殺されると。勝利と冠を贄として復権を果たすと!」

 

 祐一が、天を仰いだ。その手には美しき波紋たなびく黒の湾刀を掲げていた。

 

「俺は木下祐一。常勝不敗を目指すもの! 救世を望まれたもの! 

 俺は誓うぞ! このベルゲンで好き勝手しようとするアンタらを悉く討ち滅ぼし、ゴルゴネイオンを葬りさってやるってな」

 

 風。風が吹いた。

 高き所から地表へと天下った颶風は木々を揺らし、地を抉りながら、彼らの元へと馳せ参じた。風は雄々しき宣誓をその身に乗せると、再び天空へ吹きあれ、最後には四方八方へ身を割いては遍満した。

 

 運命を覆す宣誓が世を覆った。誓いを司る神アテナが天地万物へ、ゴルゴネイオンは誰かの手に渡ると布告した。それを強大な神であるサトゥルヌスと神殺したる木下祐一が連名し、原因や過程を無視して"新月の夜にこのベルゲンにて、ゴルゴネイオンは彼らの誰かが勝ち取り、敗者は滅びる"という結果は()()された。

 祐一が口約束で決闘を画策し、二柱が集ったところまではよかった……が、その目論みは失敗に終わってしまった。

 しかしアテナの余興によってもはや今夜のような結果は二度とありえない。新月の夜、避けようもない必然としてベルゲンは戦場と化すだろう。

 宣誓が終われば用はなかった。神々は闇へ溶けて、早々にその場を辞した。

 

「新月……って言うと今日から一週間後か」

 

 自分以外誰もいなくなった広場で、下弦を湛えた月から微光を浴び、決戦の時刻を悟った。

 

「しっかしクソっ、不味ったぜ……」

 

 苛立ちのままにそばに立っていた街頭を叩きつける。

 神とカンピオーネの戦いは人類にとってあまりにも被害が大きすぎる。なんの保証もなくまつろわぬ神と戦えば、街は壊滅し人は死ぬ。祐一はこれまでの経験則で結論づけていたし、まつろわぬ神という存在を全く信用していなかった。

 ゴルゴネイオンはまつろわぬ神を縛るキーアイテムだった……だからこそ唯我独尊を地で行く神々でさえ祐一の言い分をある程度聞き入れた。

 

 ……こうして人の居ない場所を選んだと言うのに無駄に終わってしまった。 

 痛恨を舐めつつ、だが、ここで後悔しながら手をこまねいてる事こそ最も唾棄すべき行為だった。

 祐一もまた夜に染まるベルゲンへ走り出した。

 

 

 ○◎●

 

 

「見れば見るほど素晴らしい呪具……いや、神具だな。

 噎せかえるほどの濃い大地の気配だ、もしかするとローマの連中が何者かによって奪われたと大騒ぎしていると噂のゴルゴネイオン。そう見て間違いないだろう」

 

 ダヴィド・ビアンキはひどく上機嫌だった。

 なにせ先刻、彼にとって目も眩みそうなほど良い逸品が手に入ったのだ。逸品とは、ゴルゴネイオン。古の()を空に翳しながらビアンキは満足そうに頷いた。

 彼の手にゴルゴネイオンが巡り巡ってきた経緯は昨夜チェリーから奪ったからで、大した労もなくこれほどの逸品に巡り会えたと無邪気に喜んでいた。

 ゴルゴネイオンと断じたのも少しばかり小耳に挟んだ噂があったからだ。イタリアのカラブリア州にある海岸に打ち上げられたという神具を、何処かのまつろわぬ神が強奪したという珍事件。ローマのみならずイタリア全土の魔術結社が崇め奉る王の不在に行われた強奪事件は、管理に持て余していたローマ魔術結社の懸命な箝口の努力もむなしくのまたたく間に広がりこんな辺境にいるビアンキの耳にも届いていた。

 そして今、自分の手の中にある神具は、まさに件のゴルゴネイオンかと見紛うほどの力を宿していた。かつては『地』の位を極め、最高位の魔女と呼び声高いルクレチア・ゾラにすら見込まれた彼だ。神具が大地に属するものであり、尋常のものでは無いと看破するのは容易かった。

 だからこそビアンキも思い至ったのだ……これはゴルゴネイオンではないか、と。

 

「なぜこれがこの地にあり、あの小娘が持っていたのかは謎のままだが……ぼくの元に巡ってきたのもなにかの縁だろう」

 

 愉快だった。

 これほどの力を秘めた逸品があれば、己の復権と矜恃の復活も円滑に行われるだろう。それだけではない。イタリアを逃げだす羽目になった元凶である、東方の神殺しに復讐出来るかもしれない。

 その未来を夢想すると背と腰から羽が生えるようでビアンキの思考は天まで浮き上がった。いままで堪えていた屈辱が、にやけへと変わって止まらずそびやかすように肩を震わせた。

 

「ふふ……フフフ…………ハハハ、ハハハッ! ついにぼくにも運が回ってきたぞォ……! どうせローマの連中が持っていても持ちあぐねて、あの愚かな王に渡す事になったに違いない。ならばいっそぼくの元で有効活用するのがこの呪具も幸せだろう。

 さぁて、どうする。これを依り代に大地に属する竜を喚びだし使役するもよし、神秘を調べあげ独自の至高の術式を生み出す礎としてもよし、なんでもできるぞ。……ふふふ、やはりぼくの手にゴルゴネイオンがある方が活用できる!」

「うむ、それには同意しよう。()()()にその大地に属する神具があれば、大いに役立てることが出来ると」

「───」

 

 声は唐突で、ひどく厳かなものだった。そして声は"死"に満ちていた。ビアンキは後方からやってきた空気の振動が耳に入った直後、全身の血が凝固したと錯覚して立ち竦んだ。

 声とは魔術において重要な意味をもつ。

 魔術を行使する際にも口訣や詠唱という工程は必須であり、重要な意味合いを秘めているのは魔道を齧ったものであれば理解できるだろう。

 専門が地相術であり本領からいささか離れているビアンキといえど魔術の造詣は深い。一定の理解はあって、だからこそ声の主が尋常のものではない事は瞬時のうちに看破できた。

 声の方へ振り向いた瞬間、ビアンキはもう生を諦めた。真実、魔術で心を覆っていなければ心はベッキリと折れていただろう。そこで死を迎えなかった事こそ彼が一流に準ずる技量をもっている何よりの証左となった。

 なんのことはない。ただ、奈落の淵があったのだ。

 

「ま、『まつろわぬ神』ぃ……!」

 

 奈落の淵は人のかたちをしていて襤褸を纏い大鎌をもった老人であった。けれどただの老人であるはずがない。異形である、根源的な恐怖を呼び起こす死に満ち満ちた老神である、一目見れば限りなき不吉と避けようもない死を賜う使者である。名を──サトゥルヌスと呼ぶ。

 かち合わぬ歯がカチカチと音をかき鳴らす。股に生暖かい温度を感じながら、無意識に視線を巡らせた。地相術師である彼は、長年脳細胞と手足に染み込ませた動作で地相を読もうとした。そこに必ずや血路があると信じたのだ。

 だがおかしかった。地相はあまりにも野放図でデタラメを描いていたのだ……まるで異界にでも迷い込んだか、天変地異が起きたあとのように。ビアンキはすぐさま眼前のまつろわぬ神によるものだと確信し、ふたたび絶望した。か細い蜘蛛の糸は無残にも断ち切られていたのだから。窮余の一策と縋っていたものが砂上の楼閣のごとく消え去ったならば、人はどうするだろう。

 

「うわぁぁあああああ!!!」

 

 恥も外聞もなく色を失って半狂乱になりながら駆け出した。ビアンキは逃げたのだ。彼自身気づかなかったが頭髪はいつの間にか色素が抜けて白髪頭へと様変わりしていて、整っていた容姿は十年も二十年も老け込んでしまっていた。

 

「膝を折れ」

 

 厳かな囁き声。静かだが不思議とよく透る声は目に見えずとも確実な力を宿してビアンキに作用した。足から今生において聞いたこともないような怪音が鳴り響き、そのまま地面にすがりつく事となった。

 

「あがぁっ……! だ、誰かぁ……助けて!」

 

 痛みからかビアンキは諦めていた生にしがみついた。無様にもがいてもがいて手を伸ばす姿は、足の届かない水中で溺死しかかっているようであり整っていた容姿泥まみれ、往時の傲慢ながらも胸を張り輝いていた姿は見る影もなく、尊厳は打ち捨てられていた。

 死神の歩みは止まらない。逃れられぬ死は目前に迫っていた。

 どこで間違えたのだ。ビアンキの折れた心に走馬灯が駆け巡った。

 魔道を志し、天の采配によって一介の魔術師よりは優れた才をもっていた。『地』の位を極めた高名な魔女にすら師事を受けていた輝かしい過去。

 しかしいつの間にか肥大した自尊心は際限なく自分の誠実さや真摯さを喰らっていって功名餓鬼に堕ちて行って……最後には絶対に抗ってはならない超越者にまでちょっかいを出しては、築き上げたものの一切を喪う羽目になった。情けなくてこんなはずではと涙に鼻水に止めどなく溢れた。

 

 だが。ビアンキにも運はあった。

 彼にとっての幸運は愚かにもまつろわぬ神に伍する存在に挑み、僅かなりとも彼らの赫怒の片鱗を垣間見たことだろう。

 あまりに愚かしい行いであり、無謀であり、誰もが忌避する愚行。そして生き残った者はさらに少ない。なんの因果か、ビアンキはその枠に当てはまる稀有な人物であった。

 その経験があったからこそ彼はサトゥルヌスと謁見しようと生存し、正気を保つことが出来た。でなければ比喩ではなく奈落そのものをその眼で見たというのに死なずに済んだ説明が付かない。

 

 一度生き残ってしまえば死は少しだけ遠ざかった。山を越えたとも言ってもいい。死を僅かなりとも乗り越えたものは強い、目付きから大いに変わる。

 生への渇望からか、満腔の経絡がカッと大口を開けて気が充溢していた。ビアンキは我知らず、決死の覚悟を決めていた。

 けれども死神は矮小なる人間の極小な変化なぞ一顧だにしなかった。ビアンキの握りしめたメダルのみを注視し、固く握ったビアンキをまるで地虫を払うかのように煩わしいとばかりに死を与えんとした。

 神の裁定には人間は抗えない。不変の順縁であり、ビアンキの覚悟も虚しく、潰えるだけだった。──常であれば。

 

「おっと」

 

 ふと、死神の姿が掻き消えた。少なくともビアンキの目にはそう映った。

 しかし違った。

 掻き消えたのではなく、何者かが突如としてあらわれ遮ったのだ。もう目と鼻の先に迫っていたサトゥルヌスを阻むものの登場……ここに至り、果たして救いの主は現れた。

 ビアンキとサトゥルヌスを挟むようにして立つ人物は、黒いブレザーと黒髪をもった少年だった。その横顔からのぞくのは、恐怖に凍てついた心を溶かしきる太陽さながらの紅い瞳。

 肩越しにみえるまつろわぬ神が酷薄な笑みを浮かべ、その少年もまた応えるように不敵に笑った。

 

「やらせねぇぜサトゥルヌス。誰一人だってアンタには奪わせない。ゴルゴネイオンだってアンタには渡さない」

 

 ああ、まつろわぬ神を前にしても泰然としたその胆力。たとえ神であろうと変わらぬ傲慢さと不遜さ。観相術において一流といってもいい力量をもつビアンキは、その特異な相に覚えがあった。

 かつて一度相対し、彼我の力の差を測れず南欧を追われる理由となったのだから忘れるはずもない。

 善も悪もどちらの運気も深く、そして激烈にため込んだ類稀な相。名称を覇者の相。そしてそれを持ちうる者たちを…………ああ、いや。だがそんなもの、見るまでもなく、悟った。

 

 そうだ、間違いない。

 

 彼こそ────

 

 

「──()()()()()()……」

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