王書   作:につけ丸

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076:契約

 帰りついたのはもう空も白み始めたころだった。路地裏で寒さに震えながら飛び起き、急いで帰ったのだが結局こんな時間になってしまった。

 帰り際、ショーウィンドウで顔を写してはたかれた頬を覗いた。よっぽど力加減がうまかったのか、痕は残っていなくて、今だけは安心した。

 予想通り玄関にはカンカンに怒った父と母が立っていて、アタシが悪い訳じゃないのに……と悶々としながら事情を説明する訳にはいかず、探し物をして遅くなったと誤魔化しベットへ飛び込んだ。

 寝つきは最悪だった。それでもなんとか眠りについて、翌朝。

 昨晩の無理が祟ったのか起きてみれば、酷い体調不良に襲われていた。

 

「端的にいって最悪ね。こんなに憂鬱な朝は久しぶりだわ……」

 

 寝癖のついた髪を乱暴に掻きながらうなだれ、キッと目付きを鋭くした。

 あれもこれも昨夜もケチがつき始めたのはあの不思議な銀の少女とであってからだ、と憤懣やるかたなしと顔を顰めて──銀の少女なんて出会ったっけ? 

 うんうんと首をかしげて、おかしなことが続くなぁ……と手早く朝の準備を終えリビングに向かった。

 

「おはようチェリー」

「今日も一段と綺麗だな我が娘よ!」

 

 着替えてリビングに向かえば、両親がいつものように迎えてくれた。昨晩はこっ酷く怒られたはずだが、ちょっと諍いがあっても一晩明ければいつも通り、それがヒルト家のスタイルだ。

 母は少しのほほんとした雰囲気がある女性で、父は少し暑苦しいきらいのあるビジネスマン。

 母はスラリとして背も高く、父もまたノルウェーの平均身長を超えてガタイも良い。……というかヴァイキングと言われても納得出来る体躯だ。

 結婚の経緯は家の意向、というやつだったが元々親戚関係だったことも手伝って夫婦仲は極めて良好だ。娘のチェリーが辟易するくらいには。

 

「おはよ〜」

 

 黒髪を揺らしてぐでーんと椅子に座ると両親も席に着いた。

 

「ちょっとチェリー……あなた顔色悪いわよ。今日は学校休んでおく?」

「うぅん大丈夫。でもブルーベリーのジュースちょーだい」

 

 机に倒れかかるように手を差し出す。いつもならコーヒーなのだが、カフェインが体調の悪い身体のトドメになりそうでブルーベリーのとろみのあるジュースを口に運んだ。ジュースというよりスープに近いが、体調の悪いときや風邪気味にはこれが効くのだ。

 うん、ちょっと元気になった。朝の活力をえて心のなかで握り拳を作った。

 ふと向かい座る父を見ると新聞を読みながら難しい顔を浮かべていた。どうやら朝刊の一面を飾るなにかがあったようだ。

 

「ふぅーむ……物騒な事件があったのものだな」

「物騒な事件? なにかあったの?」

「ああ。昨晩、ベルゲン郊外で大きなガス爆発が起きたそうだよ。どうにもその辺りはしばらく立ち入り禁止らしい。ここからも近いからなぁ……チェリーちゃん、出歩く時は注意しなさい」

「ん、分かったわ」

 

 チェリーが頷くと、彼女の父ルーカスは考え込むように顎に手をあてさらに唸りはじめた。

 

「しかし先週も南のほう……イタリアからデンマーク辺りで大規模な災害が連続して起きている。もしかするとこの国にも"来て"いるのかもしれないな」

「どうやらそうみたいですよ。そのせいで霊脈が大きく荒れているらしくて、ルンドもオスロも蜂の巣をつついたような騒ぎらしいですから」

「身も凍るような恐ろしい話だな。もしかするとこの街にも訪れているかも知れないのか……」

「? なんの話?」

 

 主語を抜いた父と母の話についていけず小首を傾げてしまう。それに常になく難しい顔をしている両親に驚きもした。

 いつもなら柔らかな笑みを絶やさない二人なのだ、珍事といってもいい出来事に困惑を隠せなかった。

 

「ああ、いやなんでもないよ。あれらやあの方々に遭うことなんて早々ない……それこそ雷に打たれるくらいの確率だからな」

「そうね、気にしなくていいわ。でも……そういえばチェリー、あなた昨夜はベルゲンを駆け回っていたんだってね。娘の帰りが遅いとパパやママは心配なの、今日は早く帰ってきてちょうだい」

「え──。そんなこと言われたって。昨日の落し物を探すつづきをしなくちゃいけないのに……。だから見つからなかったら今日も遅くなっちゃうかも」

「だったらパパも探そう。ひとりよりふたりの方が断然いい」

「あら、ママも手伝うわよ。それにチェリー、あなたは今日は体調を崩してるじゃない。無理しちゃだめよ」

「もう、いいってば。だって失くしちゃったのは私のせいだもの、それくらいしなくちゃ」

 

 手で制止ながら断固拒否した。なにせ魔術師といざこざがあったなどバレれば大事になるのは間違いない。

 何としても隠し通さねば……チェリーには変な使命感が芽生えていた。

 

「大丈夫よママ、今日はスクールも早く終わるし、陽もあるからちょっと探せば見つかるわよ」

「そうなの? その……日本人の男の子が落としたっていうメダルだったかしら」

「うん。だからすぐ見つかると思うの」

 

 ふんす、と安心させるように握りこぶしを構えた。

 

「はッ忘れていた! まさかその男の子が一目惚れしてチェリーちゃんの気を惹くためにわざと落としたんじゃないだろうな!? おのれ、かわいい娘をどこともしれない馬の骨に近づける訳には行かん!」

「もうパパったら、そんなんじゃないわ。色恋どころか今度会ったら、鼻っ面へし折ってやるつもりよ!」

 

 胸を張り握り拳を作ったチェリーは猛々しく笑い「なら大丈夫か! ガッハッハッハ!」と父は豪快に笑った。魔術師ビアンキ某をぶん殴るのは決定事項だったが、落し物をしてめんどくさい状況を作ったユーイチと名乗った少年にも一言申さねば気が済まなくなっていた。

 母の心配はどこへやら、ストレスを怒りに変えて虚空にシャドウボクシングし、我が娘の荒っぽさに少し心配になって母ルイセは額を抑えてしまった。

 

「あなたの頑固さと気の強さはどこから引っ張ってきたのかしらね……」

「ママが、っていうかうちの家系の女性陣がのほほんとしすぎなの。アタシが割を食って()()()としてるだけ」

 

 ヒルト家の本家では優秀な魔女を輩出してきたという家系だからか、それとも生来の気性か、目の前の母や祖母を含めた縁戚にある女性一同はおおよそどこか浮世離れしていて、マイペースなきらいがあった。男性陣は熱血漢というか野性味溢れる者が多いのだが。

 チェリーの気性は男女のそれを入れ替えたようで、とは申せ、彼女の気の強さと頑固さはヒルト家全体を見ても群を抜いていた。

 

「……チェリー。もう何度も言っているけど、探し物も言いけれどペンダントは肌身離さず持っておいてちょうだいね」

「え?」

「え、じゃないわよ。あなたに物心ついた頃からずっと言ってるでしょう? あのペンダントはあなたの魔女としての素養を抑える役目を持っているの、失くしでもしたら大変よ。最悪、立てなくなるくらい体調を崩しちゃうんだから……」

 

 冷や汗をかきながら胸元に手を当てて──ない。昨日まで首から下げていたペンダントが影も形もない。どうやら昨夜落としたか、件の魔術師に盗まれたのかも知れない。

 

「あはは〜…………ちゃんとあるわよママ〜」

 

 目を逸らしながら「うんうん」頷いて、逃げるように家を出た。

 そんなぁ……。空を見上げながらため息をついた。尋ね人の男の子に魔術師、落し物のメダルに加えて、なくなったペンダント。

 さらに増えた心配のタネにガックリと肩を落とした。

 

 

 チェリーの通う学校は山の麓にあった。

 ベルゲンの中心部からはすこし離れていて、観光客が訪れることも、ベルゲン急行の騒がしさも届かない、閑かな場所だった。

 春を迎えたこの時期、北欧の厳しい寒さもどこかへ去って暖かくなりはじめると山は緑の活気をすこしだけ取り戻す。

 青と緑が調和して、そうすると体感的な涼しさではなくて目で見る涼しさを感じとることができた。

 チェリーは毎年見れるこの景色を気に入っていた。

 それに緑の自然のなかに埋もれるようなオレンジと赤を混ぜたような校舎はどこか御伽噺めいていて、それもお気に入りの風景だった。

 校門をくぐって教室へ向かうと声をかけられた。

 

「やっほ。久しぶりだね」

「あらリヴ。帰ってきてたのね」

 

 級友で幼なじみのリヴだった。

 帰ってきた、というのも少し前までノルウェーは復活祭(イースター)で学校も合わせるように休校だったのだ。

 日本では馴染みがないがノルウェーを含めたキリスト教圏では重要な祭事で、休日や大型連休となることが多い。日本でいうGWみたいなものだ。

 

「うん。まあまあな休暇だったかな」

「リヴは北のトロムソに行ってたんだっけ」

「スキーをやりにね。記録更新した、イェイ」

 

 トロムソはノルウェー北部にある街で、シーズンにはスキー客で賑わう日本でいう小樽のような旅行地だった。

 金髪をかきあげながら眠たげな目でサムズアップする級友がいつも通りでチェリーは笑顔になった。ちょっとだけ気だるげな雰囲気あるリヴだが暗い性格ではなかった。

 

「それにしても旅行から帰ってきても相変わらずね。リヴが革のジャケット以外を着ているの見たことがないわ」

 

 暗くはないが物臭ではあった。十年ほど友達をやっているチェリーだが、リヴの服装はパイロットが着ていそうな革のジャケットばかりで他の服装を見たことは少ない。チェリーの言葉にリヴは癖のない綺麗な金髪を掻き「着慣れてるからね、防水もしてるし」とうそぶいた。

 雨の街であるベルゲンではいつ降るか分からない雨に怯えなくてすむ効率のいい装備で、物臭な彼女は愛用していた。

 

「"悪い天気なんて存在しない、あるのは悪い服装だけ"って諺にもあるじゃん。雨に備えていればベルゲンの雨なんて怖くないのだ」

「そうはいっても4月に入るくらいからずっと雨なんて降ってないじゃない」

「そーなんだよね。いつもなら雨ばっかりなのに。不思議だよね」

「不思議だよね、じゃなくて着飾ったら? っていってるのよ。もう、ものぐさなんだから」

「へっへっへ」

 

 見てくれは整っているのに本人がこんな調子だから宝の持ち腐れもいいところだ。いつかショッピングに引っ張って着せ替え人形にするのがチェリーの密かな野望であった。

 

「悪いの? 具合」

 

 そうやって密かに燃えていると、隠していた具合の悪さを看破された。どこか間抜けた雰囲気の彼女だが、そういった機微の嗅覚は人一倍だった。

 

「……まあね。昨日無理しちゃって、それが祟ったみたい」

「あいやお大事に。じゃあ学祭の準備には来れなさそう?」

「あ、忘れてた」

 

 基本的に行事なんてものがない学校なのだが、学校の設立とイースターの時期も近いこともあってこの時期になると小規模な学祭が催された。

 お祭り好きな性質のチェリーはいつも音頭をとるポジションで、率先して駆け回るのが毎年のことだったが……僅々のなんやかんやですっかり忘れていた。

 

「しょうがないなぁチェリーくんは。BKBのコーヒー一杯で変わってあげるよん」

「BKBって……ここら辺で一番高いカフェじゃない。一杯50クローネよ50クローネ*1

「わたしの人件費は高いのだ。わっはっは」

「あーもう、この子は。ここぞとばかりに足元見て……」

 

 そんなこんなで高級コーヒーを奢らされる約束をしつつ、彼女たちは教室へ入っていった。

 

 一時限、二時限……チェリーの体調は好転することはなかった。それどころか時間がすぎるほど身体は負荷を増していき、時間感覚が鈍化していった。

 あと一時限を乗り越えれば学校も終わる……。移動教室で席を立とうとしたとき、気が抜けてしまったのか足がもつれて倒れこみそうになった。

 

「いい加減にしな」

 

 予想した衝撃はこなくて、誰かに支えられていた。顔をあげるとあまり見ないすこしだけ苛立った表情で見下ろすリヴがいた。そうして強く手を引かれて、教室から連れ出された。

 

「あ、授業が……」

「言ってる場合?」

 

 じろりと睨まれてさしものチェリーも押し黙った。

 あとは保健室のベッドに寝かされて安静にしてろというありがたいお言葉と強めのデコピンを受けて、チェリーはやっとあきらめた。

 

「なにやってるんだろ」

 

 情けない自分を見せないために空回ってしまった自分にボヤいて目を閉じた。

 

 

 

 ○〇●

 

 瞼をたたく照明の光がチラチラとうるさい。

 目が覚めても変わらない気だるさに辟易しつつ、鉛でも釣りさがっているような重い瞼をやっとこさ開いた。

 どうやら学校の一室にある簡素なベッドに寝かされているようだ。

 基本的にヨーロッパの学校に保健室や保健医はいない。具合が悪くなれば家に帰るよう促されるし、それ以上なら救急車を呼ぶのが一般的だからだ。

 家に帰るのも少し眠れば治ると固辞し、救急車を呼ぶのも忍びなかったチェリーはベッドを貸してもらい結局……

 

「夜になっちゃった、か」

 

 カーテンからのぞく外は真っ暗だった。

 カチ、カチ、カチ、と時間を刻む秒針の針だけが耳に届いて、いつも騒がしい学校の喧騒はどこにもなかった。

 目線をずらすと枕元に「dum(ばか)」と走り書きされた紙とシーベリーの飴がひとつ置いてあった。リヴの字だった。

 ちょっと意地張りすぎたかな、と困ったように胸まで伸びる毛先をいじりながら俯いた。ただ、まなじりは下がっていた。

 ここでジッとしていても仕方がない。

 飴玉を口になかに放り込んで起き上がる。立てかけてあった白のシンプルなカーディガンを羽織ってのそのそとドアへ向かい外へ出た。白濁としたリノリウムが続く廊下には誰もいなかった。

 

「あ。バッグ、取りに行かなくちゃ」

 

 リヴに連れられて教室を抜け出したから荷物はロッカーに置いたままだ。帰るには荷物を取りに行かなくてはいけなかった。

 きっと、それがひとつの分岐点だったのだろう。

 

 校舎は血の流れと骨の軋む音が聞こえるくらい(しず)かだった。廊下に照明は灯っていなくて月明かりだけが光源だった。でも不思議と月から届くあわい光だけで事足りた。

 チェリーの教室はさっきまで眠っていた部屋とおなじ一階にあって、反対側の校舎にあった。少しだけ距離を感じながら夜という見慣れない学校の表情をのぞき歩いた。少しだけ、澱んでいた気分が晴れた気がして──

 

 ──くちゃ。くちゃ。

 

 粘ついた音が耳朶を打った。

 足が無意識に速度を落とし、自分から出す物音を最小限に抑えた。

 なにかに勘づいた訳でもない。

 なにかに思い至った訳でもない。

 けれど、ただひたすらに悪い予感がうなじと背筋を這っていた。

 引き返そう。そうすべきだったけど何故か足は、後ろへ向くことも、立ち止まることもなかった。きっと好奇心が恐怖をクレバスに覆いかぶさった雪のように隠しきってしまったのだ。

 

 ──くちゃ。くちゃ。

 

 咀嚼音だ。

 歩を進めるたびに濡れそぼった音が鮮明になって、あるところで唐突に理解した。

 なにか得体の知れない者が水気のある食べ物を砕いているのだ。恐怖もある、不安もある、葛藤もある。でも好奇心は止まらなかった。

 痛いくらい握りしめていた拳に今更気づいて手首を擦ってゆっくりと開く。温度のない壁に手をついて曲がり角の先から聞こえる音源を……見た。

 

「───────」

 

 声をあげなかったのは奇跡に近かった。廊下の先は──"赤"だった。

 壁と床にぶよぶよとしたピンク色の塊がこびりついて、波打つ赤の上に猛禽の羽が散乱していて揺れていた。まるで鶏舎の屠畜場。鶏糞と獣臭、そして鉄錆びた熱の篭もった空気に思わず口を塞いだ。

 でも死骸を晒すのは鶏ではなくて、夜を領域とする"梟"だった。

 そしてなによりも。

 やはりなによりも目に付いたのは、廊下の真ん中に座り込む大きな影だった。

 

 影は、捕食者だった。

 梟を喰らう口元は真っ赤に染まっていて、フクロウを握りつぶす手もまた赤だった。口に手……捕食者は人の形をしていた。人並みの体躯を持っていた。

 でも、人ではなかった。

 人外は顔中に銀色の剛毛を生やし、筋骨逞しき四肢にも同じような銀毛が生えていた。

 チェリーは眼前の人外に当てはまる言葉を持ち得ていた。それはヨーロッパに広く知られた怪異、ノルウェーに於いては──狼男(ウールヴヘジン)。そう呼ばれるもの。

 疑問や絶望はあとだった、生存と逃亡を成功させなければならなかった。自分の体調不良も目的もなにもかも吹き飛んで、気取られないことを祈りながらゆっくりと来た道を引き返した。

 

 

 

 

 

「……! かはっ……!」

 

 水中から浮き上がって空気を求めるように胸をかき抱いて肺に溜まりきった空気を吐き出す。

 そもそもどうして気付かなかったのか……あたりを見渡せば人っ子ひとりいないではないか。まったくの無音の世界。自分の心音と息遣いしか存在せず、いくら下校時間をすぎた学校とはいえ異常の一言に尽きた。チェリーは今更になって異常さを認識した。

 そしてこれまでの常識をひっくり返す、とびっきりの異常……いいや、あれは怪異だ。廊下で見たものの姿は、脳裏にこびりついて瞼を閉じても離れることはなかった。

 普段見慣れた廊下。日常の一部だからこそ、そこに居座っていた怪異がおぞましい。

 

 でも生きている。恐怖が安堵に代わると、体調を正しく認識できるようになった。コンディションは最悪なのに、なんでもやれるという全能感があった。

 どんな脳内麻薬が出ているのか身を焦がす全能感は凄まじいの一言に尽きた。

 心臓が鼓動を打つたびに身体が跳ねて、血管を裂かんばかりに血が暴れだしている。脳髄から脊髄をなぞる微弱な生体電磁パルスが致死の電流に思えた。

 

「あれは人狼ではなく……恐るべき大王の軍勢の戦士。征服神の切り取られた一側面……。征服神であり天より遣わされた意志の示現……大王とは天より来たりて覇を為す草原の王者……」

 

 口から漏れ出すのは理解不能な言葉の羅列。なにかの知識を口ずさむたびに、さらに体調は急降下して頭痛が加速度的に増していった。

 壁に寄りかかるように歩かなければ、すぐさま立ち止まって昏々と意識を失ったに違いない。

 猫背になりながら何とか這うように校舎から抜け出した。ドアを出て、オレンジ色の外壁に身を預けながら一歩ずつ校門を目指した。

 気力はすでに削れ切っていた。最後の一歩。チェリーが朦朧とする意識のなか気力を振り絞って、足を踏み出し──

 

 ──むんず。

 

()()()()()()()

 

 

「……………………………………………………」

 

 

 意識に空白が生まれて、ちら……と頭を抑えていた手をズラして足元を見れば、どうやら倒れ込んでいた少年の顔を踏んずけていたようだ。

 ちょっと意味が分からない……。

 認めたくはなかったが、さっきまで確かに存在していた恐ろしい非日常をぶち壊された思いだった。

 これまでの頭痛とは別の頭痛が訪れて、若干痙攣しているのに気がついたチェリーはススっ……と時を巻き戻したような挙措で足を引っ込めた。

 

「痛ってて……」

 

 けれど手遅れだったようだ……呻きながら足蹴にしてしまった少年は目を覚ました。

 

「ンだよぉ、手荒い起こし方だな……こんな起こされ方、ムインやエオのいた王国以来じゃないか……」

「あ」

「? お、君はどこかであったな……チェリーっていったっけ?」

 

 少年が起き上がって目を合わさると、果たしてそれは既知の人物だった。特徴的な目の色をした赤色の瞳の少年。そしてチェリーの尋ね人のひとり。

 たしか名前を木下祐一といっていた。

 

「う、く……」

 

 と、そこが限界だった。

 頭痛が暴風さながらに脳で荒れ狂って、視界が白に染まった。力が抜けきった身体が祐一へ倒れかかるように崩れた。

 当の祐一はというと、死から目覚めると目の前に既知の少女がいて、いきなり倒れかかってきたという状況に……

 

「………………俺こういうときどうしたらいいか分からないの…………」

 

 正直意味がわからず泣きが入っていた。

 残念ながら対女性クソ雑魚魔王には荷が重かったようで挙動不審になっていた。

 

『おぬしは仮にも王であろう。おなごの1人や2人で心乱されるとは情けないのぉ』

「なんだよ叢雲ぉ、俺が女慣れしてないからってイジんなよ……

『くっくっく』

 

 憮然としつつ、とりあえずチェリーを横にしてブレザーを脱いで枕にした。

 

 まだ忍び笑いをもらしている叢雲に構わず、あたりを見渡した。夜の、学校……のようだが何かがおかしい。

 

「ここ何処だ? ていうか何でこの子が?」

『それより祐一。おぬし、身体に違和はないか』

 

 辺りをキョロキョロと見渡していると叢雲に体調の有無を問われた。こちらは『雄羊』で全快しているのだ、元気に決まって……

 

「別に普通………………いや、めちゃくちゃ怠いな? というか今にも死にそうだ……なんだこれオェ」

『何故自覚がないのだ……』

 

 堪らず地面に身を投げ出した。拳を作ろうとするが力が入らない。死を得た筋肉が硬直するように抵抗力を憶えた。

 

「『雄羊』を使ったんだぞ……。俺は1度死んで生き返ったはずじゃ……?」

 

『雄羊』を行使すれば必ず完治する。過去一度もなかった現象に祐一は戸惑いを覚えた。

 

『おそらくサトゥルヌスによる死を受けたからであろう』

 

 言われて服を剥いだ。腹部を見れば、バッサリとサトゥルヌスに切り裂かれた痕が残っていた。痕は蠕動を繰り返し、呪いの如く全身に伸びていた。

 呪痕、と言うべきか。

 

「うえ、気持ち悪……。護堂さんが言ってた闇を持ち帰りしサトゥルヌスの、冥府よりも深い死ってやつか」

『彼の王も申していた通り、彼奴は死そのものとなった。おぬしは先刻"死"を植え付けられたのではないか。かつて農耕神であった彼奴がおぬしに種を植え付けたように』

 

 叢雲の考察を聞きながら苦々しい顔を作った。化身でも無力化できない濃密な死とは恐れ入る。

 小一時間唸りながら呪力を練った。そうでもしなければ波涛のごとく迫るサトゥルヌスの死から抵抗できそうになかった。

 けれど、どれだけ呪力の壁で阻んでもちっとも良くならない。悪化するばかりだ。臍を噛みながら、それでも祐一にはひとつの解決手段があった。

 サトゥルヌスの死に唯一抗えるのは、同じく冥府より持ち帰った──光。古来より闇を払う篝火こそが唯一絶対の鍵なのだ。

 

「牡牛を喰らう聖別のゆらめきよ。我を焚べよう、聖餐としよう。我が一切の不浄を打ち払いたまえ」

 

 呪句を口ずさむと右腕から青白い火が熾って腹部へ伸びた。腹部の傷を沿うように熱を感じる。治癒されていく快楽を受け取りながら、死が遠ざかっていくのを感じた。

 そのまま暫くすると彼の息遣いも落ち着いたものへと変わった。だが祐一は首を振った。

 

「ちっ、ダメだな」

 

死にはしなくなったが本調子には程遠い。化身たちも応えてくれない。

 

「不味いな」

『オレの見立てでも今のおぬしは人の範疇に収まる程度の厄介さしか感じぬ。権能は一時使えぬものと考えた方がよかろう』

「てぇと……当分戦うのはやめた方がいいか」

 

 苦虫を噛み潰したように渋面をつくり唸った。サトゥルヌスとの戦いは終始祐一が押しているように思えたが、サトゥルヌスの策略だったのかもしれない。充分有り得る。やつは時の神で、望めば全知に等しい存在にも成れるのだから。

 祐一は相対していた宿敵の先見と胆力に唇を噛んだ。

 

『それに祐一よ、あたりを()()みよ』

 

 返事を返す前に、叢雲の真意を汲み取った。

 

「なんだこれ、まるで王国……"幽世"じゃないか」

 

 その呟きに集約されていた。死による倦怠感とは別の……薄ら寒い気配に眉根がよる。

 この場は異界だった。祐一のいう"まるで"という表現も正しく当てはまった。

 現世とも幽世とも異なった雰囲気があたりには漂っていて、蛇の気配が渦巻く夜気に満ちた世界だった。

 

 蛇と夜の気配が巣食う世界。

 そして、そんな神性をもつ者など一柱しかいない。

 

 アテナが近くにいるかもしれない。焦りが死と火の均衡を崩した。

 酷い倦怠感がぶり返してきて「おぉん……」と、のたうち回っていると二つの目と視線が繋がった。

 

 いつの間にか目を覚ましていたらしいチェリーだった。

 彼女は祐一と目が合うと、頭痛に苦しんでいる事実なんてなかったように起き上がって胸を張りニヤリと笑った。

 カッと目を見開いた祐一も身を起こすと、張り合うように腕を組んで胸を反らした。

 

(無理をなさらないことですわお身体に障りましてよ)

(……は? 無理なんてしてないんだが……それよりアンタの顔も真っ青だし横になった方がいいんじゃないか?)

 

 眼力をバチバチ飛ばし合いながら煽り合い──数分後には二人仲良くオェー! していた。

 

 『あ、阿呆かおぬしらは……』

 

 さすがの最源流の鋼も引いていた。

 

 

 祐一にとって呼吸とは一つの術と言ってもいい。

 外気を内にいれ臍下丹田に気を満たす、循環させ代謝を促し体調を戻す……常に繰り返しありふれた呼吸だからこそ、いつ何時であっても行える術だ。

 

「……」

 

 祐一は異界に満ちる外気を内に入れ馴染ませることで抵抗力を得た。みるみる顔色を戻し、一息つく。

 いつの間にか自分も遠いところまで来たなぁ……と遠い目になりつつ、横を見ると必死に立ち上がろうとするチェリーがいた。

 

「俺はズルしただけだから対抗しなくていいって。お前は寝てろ」

「あうっ」

 

 人差し指でおでこをついて身体を倒させた。人から外れた自分と張り合う気概は大したものだと認めるが無理はさせたくはない。

 苦笑いしていると寝転んだチェリーが不貞腐れた顔で祐一の指を払った。

 

「アタシだっていつも通りなら……。今はペンダントをなくしちゃってちょっとだけ体調を崩しているだけよ」

「ん、ペンダントってこれか?」

 

 祐一の言葉に目を瞬かせていると彼は懐から黄褐色のペンデュラムを取り出した。間違いない。見慣れたペンダントだった。受け取った彼女は早速首に下げた。すると見違えるほど血色が改善した。

 

「……あなたが拾ってくれたのね。というか拾ってたなら早く返しなさいよ」

「ごめん忘れてた」

「アンタねェ……」

 

 頭をかいてたははと笑う彼に、憤懣やるかたないと肩をいからせたが直ぐに首を振った。

 

「色々言いたいことはあるけど、でも最初は……ありがと、そして、ごめんなさい。情けないところを見せたわね」

「気にすんなって」

 

 手をひらひらと振って、なんてことないと微笑っていた。気負いのない態度に少しだけ肩から力が抜けた。

 

「あ、そういや君。これくらいのメダルを見なかったか? 蛇の意匠が彫ってあるやつで、どうも君と別れてから無くしたみたいでな」

 

 祐一から質問が飛んできた。蛇の意匠を象ったメダル、と聞けば思い当たるのはひとつで、けれど、手元にはもうなかった。

 

「それは……ごめんなさい。あなたと別れたあと拾ったんだけど……」

「なくした、か?」

「ええ。なくしたというより盗られちゃったんだけどね」

 

 ビアンキと名乗ったいけ好かない魔術師を思い浮かべながら、そう言えばと彼に確認しなければいけないことを思い出した。

 

「ねぇ。あなたも"魔術師"ってのなんでしょ?」

「あー……まぁそんなもんだな」

「やっぱり。最初は気づかなかったけど、あなたから感じる気配は昨晩会ったビアンキって魔術師と似てるもの」

「ビアンキ?」

「ええ。アタシからメダルを盗った魔術師よ」

「盗った……魔術師……ははーん、なるほどわかったぞ。あの時"違う"って言ってたのはそういう事か。……でも君も魔術なんてもの知ってたんだな。なんというか、君からはこっち側の独特な臭いがしないからさ」

「日が浅いんだし仕方ないわ。魔術師なんて言葉を知ったのも先週あたりじゃないかしら?」

「さいで……」

 

 そこでチェリーは申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 

「あのメダル大切なものだったんでしょ? ビアンキって魔術師探すのよね、良かったら手伝わせてくれないかしら。アタシにも責任があるもの」

「ん、いや気にしなくていいよ。きっと、あのメダルはあの夜に失くしてしまう《運命》だったんだ」

 

 運命、ゴルゴネイオン……。 

 強調されたわけでもない、ありふれた単語が、いやに耳に残った。問いかけたが、はぐらかしそれ以上は語るつもりはないらしい。

 ま、イイケド。チェリーは嘆息し、ちょっと身を乗り出して彼と目を合わせた。

 

「で、あなたはこんな所に倒れて何やってたのよ? 詳しくは知らないけど、ここって"オカシイ"の。だからこそ、こんな所で吞気に眠ってたあなたが不思議で堪らないわ」

「まあなんだ。信じろとは言えないけど、ちょっと死んでた」

「…………まぁ……いいわ」

 

 まともな答えが返ってくる期待はしてなかったが、予想の斜め上をいく回答に思考がフリーズしてしまった。

 死んだ、なんて彼が言うものだからキョロキョロと辺りを見渡して、この不気味な空間を見やった。夜気に満ちた世界を。

 

「……ここってまさか天国ってワケじゃないんでしょ?」

「違うと思うぞ。胸に手を当ててみな、動いてるだろ」

「……たしかに」

「正直、ここが一体何なのかは俺にもよく分からん!」

 

 叢雲ェもんわかる? と彼はどこから取り出したのか白い長刀を取り出した。あまりに突飛なことに目を白黒させているのと、声が聞こえたのは同時だった。

 

『さて。しかし異界などというものは得てして"歪み"から生まれるものだ』

「歪み?」

『応。世界は枝葉のごとく別れることがある……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「矛盾っていうと?んなもんあったっけ」

『心当たりがあろう? アテナやサトゥルヌスとおぬしが合力したではないか』

「むむ、たしかに……」

『定められた運命を覆しでもすれば"歪み"は生まれるとは思わんか。偽のゴルゴネイオンとやらも、おそらく、この異界が生まれたのも"歪み"によるものだろう』

「ははあ。おれたちが余計なことしちまったのはなんとなーく分かったわ」

 

 ため息をついていると肩を叩かれた。

 

「で、結局ここから出れるの? 出れないの?」

 

 チェリーが憮然とした膨れっ面を作っていた。

 

「話の半分もわかってないけど、アタシ達が入り込んだって言うんなら入口があるんでしょ。入れたのなら出口もあるんじゃないの?」

「やー……ここに迷い込むのも初めてだし……」

「そうなの……?」

『だがこの異界は"歪み"を核として発生している。少なくとも(歪み)を排除してしまえば、消滅するだろう』

 

 ふぅんと祐一がいつもの分かったのどうか分からない相槌を打った。

 

「……ちょっと。軽く流してたけど、もしかしてこの声ってその剣から出てるの? 腹話術じゃなくて?」

「おお。俺の相棒で叢雲ってんだ」

「ムァークォ? 変な名前ね」

(オレ)も永い生を歩んできたが変な名前などと名を誹られたのは初めてだ……』

「わ、ホントに会話できるんだ。インテリジェンスソードってやつね。チェリーよ、よろしく」

 

 悪びれた様子もなく気安い態度で日本の名だたる神刀と会話をするチェリーに肝が太いなぁ……と眺めていた。

 

「あ、そうだ。チェリーはここを探索してたんだろう? なにか歪みってやつに心当たりはないか? さっきまで寝てた俺よりかは詳しいだろ」

「探索ってほど大したものじゃないわよ。帰ろうとしただけだし……でもそうね。いたわ。人の姿をした狼の化け物がね」

「狼?」

「ええ。おとぎ話や空想にしか出てこないような……歪みなんてものが何か知らないけど、きっと歪みがあるっていうならアレじゃないかしら? 勘だけど」

「ほーん。ま、闇雲に突っ走しらずにすみそうだ」

「ね、あなたに付いていってもいい? 下手に一人になるより固まった方が良いと思うし……アタシだってあのメダルを無くしちゃった責任があるもの、手伝いたいわ」

 

 本当に肝が太いな、と苦笑した。

 

「いいや、付いてこないでくれ」

「どうして?」

 

 訝しんで吐いた言葉には自分でも驚くほど険が篭もっていた。それでも彼は一切の変化を見せなかった。

 

「下手に関わると君が()()()()に目を付けられちまう。そうなったらアンタが困るだろ?」

 

 追いうちのように白い剣も意を揃えた。

 

『娘、祐一の忠告に従っておけ。おぬしの(かんなぎ)としての素養はオレから観ても優秀を超え、もはや異様なものだ。……まつろわぬ神と出会えば、貪られ滋養とされるか、巫女という隷属を強いられるであろう』

「……そんなにか?」

『是だ。娘の首飾りは巧妙に隠されてはいるが、"鋼"の神性を帯びておる。大地とは天敵の神性をな。おそらく娘の、人の身には過ぎた才を抑えるのではなく殺すためのものだろう……才を殺すことで生まれる不調よりも、才があることで生まれる不調の方が、上回るほどのな』

「まつろわぬ神に出会ったらヤバそうだな……」

 

「──ユーイチ」

 

 静かだが怒りを孕んだ声に一人と一本は口を閉ざした。

 

「アンタたち、なにか勘違いしてないかしら? アタシが"異界"なんていう場所にいる時点でもう巻き込まれているって……そう思わない?」

「そりゃあ……」

「いいえ、間違いなくそうよ。アタシが出会った校舎の怪物はね、これまでの人生で見たこともない狼の怪物だったのよ。

 恐ろしかったわ……ええ、認めましょう。ママが昔、話してくれた狂った狼の毛皮をまとった戦士(ベルセルク)さながらで、心臓を掴まれたみたいに竦みあがったわ。だからアタシは情けなく逃げ出した」

 

 チェリーは大きく鼻を鳴らした。

 

「でもこれはいいわ。納得したげる。あのまま見つかっていたら爪に肌は裂かれて、牙に首を砕かれていたに決まってるわ」

 

 祐一の鼻っ面を指をさす。

 

「でも命を落とす()()()()()()? バカね、そんなこと言ってたら何も始まらないじゃない。

 まともじゃない運命に巻き込まれる()()()()()()? だからなに? アタシはまだ訪れてもいない未来に怖がったりしないわ」

 

 赤色の烈火の如き双眸を見据えた。負けず劣らずの苛烈な意志を宿した瞳でもって。

 

「それにねアタシはメダルを無くした、でも、だから責任を取るんじゃないわ……責任を取らせなさい。思う存分巻き込みなさいよ」

 

 言い切った彼女に祐一はそれでもと首を振った。

 

「つってもなぁ、ここはチェリーの故郷なんだろ?」

「それこそ、アンタはそうするの?」

 

 どうだとばかりに鼻を鳴らすチェリーに、祐一はというとクツクツと肩を揺らして笑い始めた。それを言われたら引き下がれない。

 

「分かったよ。なら巻き込ませてもらうぞ」

『おい、祐一!』

「……チェリー、俺がお前とあった日に"人を追ってる"って言ったの覚えてるか? んでさ、そいつがこのベルゲンにいるんだ」

「人探しにアタシにも手伝えっていうの?」

「そ、話が早くて助かる。……そいつはベルゲンのどこかに身を潜めていて簡単には探し出せないんだ」

「……そこで地理にも詳しいアタシを? いいえ、それだけじゃないわね。アンタたちがさっき言ってたわね。アタシは才能があるから、そいつらに見つかりでもしたら()()()()って……つまり、アタシに釣り出す"生き餌"になれ。そう言ってるワケ?」

「人聞き悪すぎるよなぁ……。で、どうする?」

 

 祐一にとっても不思議なのだが、このチェリーという少女に張り合ってきたら張り合い返してしまいたくなる捻れた好意を抱いていた。

 打てば響く、というより打てば殴り返してくる彼女に敵愾心にも似た感情を向けてしまっていたのだ。

 だから"コイツはどこまで付いてこれるのだろう"という興味が尽きなかった。そんな感情を下敷きにしていたから、挑発を吐きながら犬歯を剥いて笑っていた。

 

「アタシはあんた達(魔術師たち)の界隈に入って日が浅いからわからないけど、それって怪物が人を襲ったり、街を壊したりもできるんでしょ?」

「下手すりゃヨーロッパは消し飛ぶな」

 

 実際、消し飛んでいる世界から来た。

 

「……要するに放っておいたらベルゲン(アタシの街)で好き勝手するってことじゃない」

「まあな」

「そ、ならいいわ。上等よ。あなたがいう"そいつ"ってのにアタシが狙われてあげてもいいわ。でもその後はどうするのよ」

「心配すんなって。俺がくる」

「ふぅん……。ちょっと頼りないケド……いいわ、巻き込まれてあげる」

 

 祐一をまた指差すとまとめるように言った

 

「アタシは逃げる、アンタはさっさと助けにくる。シンプルでいいじゃない」

 

 シンプルでいいじゃない。とチェリーは愉快げに肩を揺らした。そこに臆した様子はない。神殺しの威嚇を前にしてさえ、自分を貫く人間なんてどれほどいるだろう? 

 

「はは、いいね。アンタ、悪くないよ」

 

 祐一の笑みはもはや獣の威嚇と変わらなかった。

 コイツこんな顔を隠してたのね、と呆れた。もう第一印象にあった柔弱としたイメージはもうどこにもなかった。

 

『やれやれ。厄介なことになったな……まとめるが期間は新月の夜までだ。それまで娘、貴様は逃げ回ることになるのは理解しておるのか?』

 

「新月……じゃあ六日間ね?」

 

「ああ。アンタは逃げる、俺は狩る」

 

 これが前提条件で、二人の交わす契約だった。

 

『敵が襲ってくるのは何時か分からぬぞ。おそらく毎夜、異界に迷い込むことになると踏んでおけ。そして娘、おぬしはその有り余る巫の才によって必ず異界へ誘われるだろう』

「何よ。どっちを選んでも変わんないじゃないの」

『申し出を蹴り、この地を去る選択肢もあると言っておるのだ。この騒乱に首を突っ込めば、死ぬのは必定』

「ベルゲンを捨てて逃げる? 冗談キツいわね、アタシの決心は変わらないわよ」

 

 どこまでも気の強い言葉に、口角を吊り上げて笑った。

 

「じゃ、短い間だけどコンビ結成だな。……よろしく頼むぜ相棒」

「いいわ、やったげる。欲しい未来は自分から歩いて行かなくちゃ辿り着かないもの」

 

 そうしてどちらともなく差し出された手をとった。

 彼の手は冷えた鉄を思わせるほど硬い掌だった。同年代とは思えないほど節くれだっていて、若さを見失うほど戦塵に塗れた手に、彼の自信を裏打ちする正体を垣間見た気がした。少しだけ、唇を噛んでしまう。

 

「で、お前の言ってた狼の怪物ってあれか?」

「えっ」

 

 不意に祐一が指さした。

 自分ではなく肩越しの背後を射抜いていて、慌てて振り向けばさきほど邂逅した狼の怪物が直立していた。

 銀の毛並みは月光に晒され、悟った。

 銀色だと思っていた毛並みはどこか青みを帯びていて、例えるなら蒼銀。蒼さを秘めた狼だったのだと初めて気づいた。

 

『人狼、あるいは狼男か』

 

 化け物を目前にしても祐一はいつも通りの声音で、ともすれば世間話でもするように語り始めた。

 

「エイルが言ってたなぁ、もともと人間ってのは動物の毛皮を被って力を借りようとするって」

「へぇ、詳しいのね?」

「教えられたそばから忘れてたけど……ちょっと思い出した」

 

 祐一は頬をかいていた。

 

狼の毛皮(ウルフへドナー)。象徴となった狼の霊力を得るために毛皮を身につけるようになった。狼のすがたをした狂戦士は現代にいたるまで語り継がれて……」

 

 今度は祐一が訝しむ番だった。チェリーを見れば瞳に光はなく、トランス状態に陥っている様子だった。

 霊視か。

 祐一はかつて自分にも起きた異変を思い出し、ただ、彼女の霊視はとても()()なものだった。自分のような雑で無理やりといった様子はなかった。

 

「あれは決して神々の戦士たるベルセルクじゃない。奈落(タルタロス)より来りて覇を為す──蒼き狼。ベオウルフと蒼き狼は同じく狼、互いに影響しやすく枷を喪っていたあの人狼は伝承におけるベオウルフの狂気に呑まれてしまった」

 

 前評判どおりの巫女の才能。これはまつろわぬ神じゃなくても欲が出てしまう。

 ペンダントによって巫女の才を抑えられてしまっているらしいが、その枷が無くなればどうなるのか。と言ってもペンダントを外せば先刻のように不調に陥るので詮無いことだが気になった。

 

「人狼の根源とは草原と天。そして人間を統べる恐るべき大王(アンゴルモア)の名は──"チンギス・ハーン"」

「ホンモノの霊視ってのはすげぇんだな……」

 

 まさか権能を簒奪した神様まで見抜かれるとは。

 

「でも、ちょっと寝てな。俺も霊視を下ろしたことあるけどスゲェ負荷だったし」

 

 すぐ終わらせて元の場所にもどしてやるよ、と笑った。

 声に促されるように緊張の糸が切れ、くずおれた。

 チェリーが意識を失うの見届けると、背を向けた。只人にとっては恐るべき怪物もとへ、なんの気負いもなく。

 

「すまなかったな……サトゥルヌスにやられて、お前の手綱を離しちまった」

 

 月光に照らされた影が不自然に蠢く。足元から伸びた影が矢のように走り、人狼が飛びずさるより早く、影が人狼を捕らえた。

 

「迎えに来たぞ。……さぁ──帰ってこい」

 

 そこからもう波乱はなかった。人狼は影におおわれ、闇のなかへ帰っていった。

 

「おかえり。いっちょ上がりだ」

 

 祐一の言葉が引き金となったのか、呼応するように空間がねじれ世界はもどってきた。

*1
1クローネはおよそ17円ほど

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