フクロウ。
古代では冥界と現世を渡る力を持つともされる夜空の支配者だ。現在ではイギリスやイタリアをはじめとする国々で、日本でいう猿のような愛嬌のあるポジションを獲得し、プラスイメージのあるフクロウだがはじめからそうであった訳ではない。
暗闇のなかを自在に滑空し、奇声を発する異形のフクロウは、その生態が詳らかになる以前は世界的に見ても災いを連想させる凶鳥であった。
しかし不吉さだけではなく知恵の女神アテナの聖鳥として知恵の聖鳥としての側面も備えており、聖と凶を同時に備えるのは蛇もまた同じである。
「──ねぇ! 今! その! 説! 明! いる!?」
「ぼくのありがたい講釈にそんなケチをつける人は初めてだね」
「うっさい! ペラペラ喋る余裕あるなら逃げ道考えなさいよ!」
賑やかなチェリーたちだが、そこそこピンチだった。後ろを振り返れば夜空を覆い尽くす雲霞と評していいフクロウの大軍が迫っていた。
まるでイナゴの大軍じみていて、チェリーはビアンキの乗る車椅子の取手を掴んで一目散に逃げ出していた。ベルゲンは港町で坂が多い。道路もモザイクが多く、決して進みやすい道ではない。
でも、四の五の言ってる場合じゃないでしょ! 親から貰った脚で懸命に走った。短距離走スタイルでトロールから逃げ切った女傑といえど、ビアンキの助勢をしながら空を飛ぶフクロウを振り切るのは至難の技だった。
チェリーも体力自慢ではあるが、どこかのイランの熱波降り注ぐ荒野を一日中走り回れる体力バカほどではないのだ。
「ビアンキって言ったっけ! アンタ、魔術師でしょ、あれどうにか出来ないの?」
「無茶言わないでほしいな。まつろわぬ神に比べるのも烏滸がましいとはいえ、あれらは神の使い。非力な人間じゃとてもじゃないが太刀打ちできないさ」
「偉そうに言うなバカ!」
あーもー! と頭を掻き回したい衝動に駆られながら肩越しに後ろを見れば、凶鳥の軍勢はさらに距離を詰めていた。一際目を引くのは身の丈十メートルはありそうなフクロウ。巨大フクロウが先行し、鋭く長大な嘴が目に入って。頬が引き攣るのが分かった。
ドォルンドォルン!
軽快なエンジン音が鳴り響いたのも、その時だった。
「──どおりゃああああッ!」
フクロウの横合いからバイクが飛来した。まぶたが仰け反るように目を剥いたチェリーを尻目に、中空で棹立ちになったバイクはけたたましいエンジン音を吹かし巨大フクロウに突貫した。
濁った悲鳴を下敷きに着地したバイクからスキール音が轟く。地面に叩きつけられバウンドし転がっていくフクロウに構わずバイクはチェリーたちに横付けしてきた。
「オッス! 遅れてすまん!」
「遅い! いっつもいっつもアンタは遅いのよ!」
「そういうなよ。これでもお前の親父さんからバイク借りてかっ飛ばしてきたんだぜ」
あっはっはと笑う祐一に半眼をくれつつ、後方を見ればフクロウが距離をとっていた。まるで何かを恐れるように。……距離をとるというより、後退っている?
「離したまえ」
訝しんでいるとビアンキの常にない真剣な言葉が飛んできた。チェリーは自分でも不思議だったのだが、素直にしたがって車椅子の取手を離してしまい、後からハッとなった。祐一もバイクを止めた。
「アンタどうするつもり?」
「少しばかり思うところがあってね。受け取りたまえ」
投函の術で呼んだらしい鞄を投げてきた。ずっしりとした重さに落としそうになったが何とか受け取る。
ジッパーを開けて見れば呻きそうになった。黒々とした銃器で溢れていたのだ。
「魔術師は呪力を失えば能無しになってしまうからね、気休め程度の対策さ。セーフティはそこだ、外せば撃てる」
「外せば撃てる……ってそんな問題じゃなくて!」
車椅子から立ち上がったビアンキは背後に迫るフクロウへ、手を伸ばした。もう距離はあまりない。祐一の登場で、進行速度は格段に下がったとはいえ前進しているのには変わりないのだ。
「鳥は地磁気を感じる能力があると言われていてね……天空の支配者であるフクロウといえども、あれらは地母神の使いだ。ならば大地とは切り離せない関係にある」
決然としたビアンキの言葉が何を意味するのかチェリーには分からなかった。ただ、大地が蠕動する錯覚を覚えて……直後、フクロウの群れが大きく割れた。
「それにぼくは恩を受けた。ぼくは人の正道をはずれた魔道の輩といえども、人の心までは手放していないつもりでね……足は折っても、引っ張るのは死んでもごめんなのさ」
止める隙もなく車椅子に腰をどっかと下ろし、車椅子は独りでに動き出した。ビアンキが離れ、それを追うように多くのフクロウが後を追った。
「ビ、ビアンキ某……!」
祐一は正直、状況が掴めてなかったが決死の覚悟を見せる男が好きだったのでちょっぴり好感度が上がった。
チェリーは心配そうな視線を送った。色々と気に入らないやつではあるが死んで欲しいとまでは思わない。
「ねぇ、あいつ大丈夫なの?」
『あの者はひたすら逃げの一手を打つ心づもりだった。あの手の輩は早々死にはせん』
「一応ラグナも付いていかせたし大丈夫だろ」
「ふーん」
よく分からないが、大丈夫そうだ。祐一の言葉はともかく叢雲の言葉は一本筋が通っていて信じてもいい気持ちになった。
「…………あれ、ムラクモはどこにいるの? 姿が見えないけど」
『オレは祐一の佩く刀剣。故に祐一の中に眠り、祐一自身が鞘なのだ』
解説、と視線を送れば祐一は肩を竦めた。
「まあ、普段は身体んなかにしまってるってこと」
「……アンタって大概愉快な身体してるわね」
「うるせぇよ」
などといういっている間にフクロウは目前まで迫っていた。
「残りのヤツらが迫ってきた、後ろに乗ってくれ」
祐一が言うので渋々、乗り込み肩に手を置いた。ヘルメットを探したが、ない。
休日になると父の後ろに乗って親子デートしていたので愛用のヘルメットがあるはずなのだが……キョロキョロと座席付近を見回していると、急発進によるGで首がもげそうになった。
きゃああああああ! と尋常ではない加速に悲鳴をあげる。肩に置いていた手をたまらず腰に回した。
視界に入るすべてが置き去りになる加速……体感だが100km/hは優に越えている。ギネスに申請を出せば通りそうな加速度、乗りなれているはずのバイクが異次元のマシンかと錯覚した。
「う、うちのバイクが……魔改造されてる……!?」
「俺が乗り物に乗ったらだいたいこうなるんだよなぁ……」
「元凶はアンタか」
非常事態なので大目に見るが……愛車が寝盗られたとあって心中穏やかではないチェリーだった。彼女の密かな野望は免許を取って父からこのバイクを受け継ぐことである。
「バイクの調子とかもわかるんだぜ。よく手入れされてるけどタンデムステップとクッションが擦れてんな、いっつも重いもんを載っけてるみた……ぐはぁ!」
気がつけばレバーブローを打ち込んでいた。ミラー越しに訴えかけてくる祐一に、なにか、と素晴らしい笑顔を向ければ、ナンデモナイデスという言葉が聞こえた。よろしい。
「ねぇ、どこまで行く気?」
「街を抜ける。厄介なフクロウを振り切らなくちゃいけないからな」
祐一の言葉に後方を見やった。驚くことにフクロウはまだ後ろにつけていた。
スピードメーターは振り切れているし速度も200km/hは下らないはず。それでもフクロウを引き剥がせない。ビアンキのいっていた神使という言葉が脳裏をよぎった。
「強さは雑魚って言ってもいいけど数が多すぎる。ビアンキ某が数を減らしてくれたとはいえ、増え続けてるしなぁ」
「雑魚って……」
本当だろうか。祐一に疑わしげな瞳を向けつつ焦りを感じられない彼を見てとって、判断に困った。
本当に雑魚であるなら一掃してしまえばいいものを、何故そうしないのかわからなかった。それは昨晩のトロールの時だって同じで……。
『まだ彼奴の呪縛は祓えぬか』
呪縛? 唐突に言葉を差し込んだ叢雲に首をかしげた。言葉の意味を考えるなら、本来の力を封じられている、なんてことになるのだろうか。
そういえば昨日、祐一は言っていた。太陽光を浴びながら"傷を癒す"と。
「アンタ、もしかして……万全じゃないの? どこか怪我してるのね……まだ傷が治ってない昨日言ってたものね」
断定的な言葉に、祐一は苦笑で返した。
「大丈夫なのよね」
「心配すんな、いつもの事だ。絶好のコンディションや万全の体勢で戦うってのはなかなか出来ないもんなんだよ」
祐一は戦歴を振り返りながら苦笑を続けた。
ヤマトタケル戦は策に嵌り、まともな精神状態ではいられなかった。その後も『戦士』の化身を奪われて以降、祐一のなかで万全や完全の文字は消えてしまった。
スロヴァキアの天使戦では初手から呪力を目減りされるデバフ、サトゥルヌス戦では記憶喪失真っ盛り。万全を期した戦いなどチンギス・ハーン以来ない。
いや、デバフかかりすぎでは……。祐一は己の戦歴を思い返しつつ遠い目になった。
なおカンピオーネは神と相対した時点で様々な恩恵を受けられているので、そんな考えを持っているのは祐一くらいだが本人に自覚はない。
「どうにか元を叩けりゃいいが……」
「あれじゃないの、フクロウの出処って。……というか今夜の歪み?」
フロイエン山の頂きを指差した。祐一は訝しみながらそちらへ目を向けると──最初、山頂から噴煙が立ち上っているのかと錯覚した。
けれど、違う。
あの夜闇を塗りつぶす黒より黒い煙は噴煙ではない。更にいえば煙ですらなかった。
煙かと見紛うほど密集したフクロウがフロイエン山と雲までの空を埋めつくしているのだ。まるで洞窟に潜む蝙蝠が、逢魔が時に天空を覆い尽くすがごとく。
「しっかし、よく気づいたな」
「変って感じしない? "見えないけど見える川"が地面のなかを流れてて、なんかあそこだけ通りが悪いっていうか、吹き溜まってる感じがしたの」
もしかして地脈のことを言っているのか……? と祐一は眉をひそめた。覚えがあった。かつてヤマトタケルの魔の手を振り切った逃走経路こそ地脈の流れだったのだから。
地脈の存在を、無意識ながらチェリーは第六感的な感覚で捉えているのかもしれない。破格だな、コイツは。呪術に纏わる知識なんて皆無だが、経験からチェリーの異常さを悟った。
「また増えてきたんですけどー!」
難しい顔を浮かべる祐一に、相棒はいっそ能天気と言っていいほどあっけらかんとした声を張り上げた。
祐一は悩むのを放り投げる理由ができたと思考を切り替え、サイドバックを叩いた。
「さっき銃貰っただろ、ぶっぱなせよ!」
「無茶言うわね全く!」
ガサゴソと銃を取り出し、構えた。
実は銃を持つのははじめてではない。ノルウェーでは毎年九月になると狩猟が解禁されるので、父に連れられ一通り銃の扱いを教わっていた。
的を狙う必要はない。
的が多すぎてセーフティを外して引き金を引けば、あとは必ずどこかへ命中するのだから。
弾がなくなるまで打ち、群れが少しだけ怯んだ。だが少しだけ。大した牽制にもならず、フクロウはついに祐一たちを捉えた。
弾切れの銃の引き金にかけた指が強ばり、びっしりと背中に汗をかくチェリーだったが、予想に反して怪我ひとつ負うことはなかった。
祐一が神懸りなハンドル操作で、フクロウの避け続けたのだ。豪雨のごとく迫り来るフクロウを変態じみた挙動で捌ききった。
「わ、わ、ひゃぃやあああああぁぁ!」
「しっかりつかまってろ! あと喋んな、噛むぞ!」
そういうならもっと丁寧に! ……と声を荒らげる余裕もない。グッと腕に力を込め、背中に額を当てて堪える体勢になった。
重力のかかり方が逆さまになったり浮遊感を覚えた気がしたが、あまり考えない方がいいのだろう。
少しすると三次元軌道も収まって、顔をあげた。フクロウはもう追いつけないほど後方にいた。
現在、フロイエン頂上に走るケーブルカーの線路を進んでいるようだ。線路上をバイク免許でやらされる一本橋の要領で疾走する。しかしタイヤと線路が磁石でくっついているかのような凄まじい安定感だ。
ホッと安堵の息を吐く。
「上手いものね。そういえばアンタ、いつバイク免許の取ったのよ」
「俺はまだ14だから免許取ってねぇよ」
「え?」
街を抜け、フロイエン山へと快走を続ける彼らだったが、頂上に近づくほどふたたび鈍足になった。フクロウの軍勢が再びやってきたのだ。
今度は頂上からやってきた軍勢で……数はもはや壁さながら。そこに至り、ついに祐一は剣を抜いた。
一閃がきらめくたびに刀身の長さを完全に無視した場所で斬撃が起きた。それを数度繰り返せばフクロウは瞬く間にすり潰され、姿を消す。
直感だが、一匹一匹が昨夜のトロールより脅威が上に思える。神使とビアンキがいっていたから、格が違うのだろう。
ではそれを鎧袖一触する祐一は何者なのか?
先刻耳にしたとある称号の名前がチラついて仕方ない。黙りこんでいたが首を振る。
ここで考えても仕方なかったし、だからといってベルゲンの脅威は変わりない。
「今度の歪みってやつは一体なにかしら……フクロウの親玉?」
「んにゃ……」
言葉を切って視線を頂上へ。フクロウが密集し、とぐろをを巻くひとつの影を垣間見た。蜥蜴よりも蛇に近く、イメージによくあるような翼はない。そして手足もない。
だがそれも些細な問題だろう。全長はおそらく五十メートルはくだらない長大な巨躯を前には、強靭で流麗な鱗の前には、ぞろりと生え揃った牙の間から吹き上がる毒と火の前には、地球上のあらゆる生物が平伏すだろうから。
その種であるというだけで神獣に列せられる空想の産物。翼も手足もなく、だが、ひと目でわかる猛威。あれこそ──
「──ドラゴンだ」
○
『彼の目は
どこか馬を思わせる爬虫類の頭部と長大な蛇の胴。牙から火を吹き出す、炎の目を眼窩に嵌め込んだ典型的なドラゴンに、右手に握った叢雲が蠢動している……というかワクワクしている。
顔があればニッコニコだろう相棒に呆れながら、今夜の歪みをあらためて確認した。
黒煙さながらのフクロウから伸びる無数の眼光、眼光、眼光。だが一際凄まじい圧力を放つのは、やはり竜の眼光だ。
古代日本において目の表現に"カガチ"という言葉が使われ、カガチとは蛇の異称ともいわれる。メドゥサがそうであるように蛇の目を恐れるのは東西共通の恐怖なのだろう。
そして竜の片方の目に埋まっていた。古の《蛇》……ベルゲンを騒がす元凶たる神具が。
フロイエン山の頂きで悠然と地上と彼らを見下ろす竜。その視線に晒されながら、チェリーはずっと肌に触れていた気配が強まっているのを感じた。つまりは、知恵と死の気配を。ダヴィド・ビアンキの語ったように、ある意味でフクロウと似通った相をドラゴンは従えるのだ。
「ヒューペルボレアで戦って以来だなぁ」
「戦った事があんのね……」
呆れながら相槌をうつ。彼の武勇伝にもう驚くのはやめた。
竜といっても東西での違いは周知の通りだろう。これは東洋と西洋でも姿かたちのよく似た"蛇"の影響を受けていると考えられる。
かつては東西どちらも脱皮を繰り返し、"死と再生"を循環させる蛇は神秘さと絶対性から信仰の対象となった。
西洋ではキリスト教文化に教化されたことで人祖アダムとイヴを唆し、楽園を追放される理由の一端をになった罪深いものたちの一党と認識される。どの時代においても一貫して蛇は天使に踏みつけられる姿で描かれ、英雄譚での討伐対象になる格好の悪役だ。
対する東洋において蛇の地位は高い。蛇は田はたを荒らす鼠を喰らい、古代の人々は田はたを守る神と考えた。東洋の田とは多くが稲作であり、水との関係が切り離せないもので、田はたを守る蛇神は水神と結びつけられていった。
そうして時代が下りすがたの似た龍と習合すると、龍は水と関わりが深い威厳のある姿で描かれた。
東洋においても時代がくだり謎多き蛇への理解が進むと、絶対性が薄れ、征服神話が生まれる……氾濫する河川を荒ぶる大蛇に例えたヤマタノオロチなどだ。
しかし征服神話はいくつかあるものの、水を司る蛇や龍は依然として重要な地位は変わらなかった。
これに対して西洋では逆に狼とともに森林を開墾する邪魔者でしかなくなり、征服するべき悪へとその地位は落ち、そのまま悪の象徴となった。
西洋においては討伐され征服されるべきドラゴン。そして西洋のドラゴンにも種類がある。
メジャーなのは四肢と翼を生やす蜥蜴のドラゴン。聖ゲオルギオスが討伐した悪竜や、ウェールズの旗に描かれるドラゴンたち。
そしてもうひとつが、ワームやサーペント、リントヴルムなどと呼称される手足のない蛇に近い姿をした竜。ノルウェーで
『滾るぞ! 黄泉と大地を舞う梟の気配にまぎれておったが悟ったぞ──大地と火に属する蛇か! 此処で会ったが百年目! 怨敵調伏・外道覆滅の時ぞ、我が武勲のひとつとなるがいい!』
唐突に叢雲が叫んで、チェリーの表情筋が引き攣った。
「な、うわぁ……なんか叢雲のテンション高いんだケド……」
「『鋼』つってな、ああいうドラゴンとか竜蛇を倒すのが生業なんだよ、叢雲は」
「物騒ね……」
蛇を討伐する『鋼』、蛇、そして叢雲。それらの単語郡は聞き覚えがあった……というか先刻図書館で見知った言葉だ。スサノオという日本の神が、暴れ回る八俣の大蛇を討伐した逸話。首を切り落とした大蛇の尾からは一本の鉄剣が見つけたという。名を──
「
表情は見えない。だが彼の背が少し強ばったのを見逃さなかった。それもすぐに雲散霧消し、肩越しにみえる祐一の目は頂上のリンノルムに向けられていた。
リンノルムはベルゲンを見下ろし、体を小刻みに動かし蠕動運動を繰り返した。まるで蛇が、脱皮を果たすように。
その傍からフロイエン山の頂上が赤く染まっていく……かつて北欧全域で用いられていた古ノルド語で
身震いするほど溶岩が飛び散り、フクロウごと山の中腹へ落ちていった。時間をかければ溶岩の砲弾はベルゲンに落ちるまでになるだろう。
「やるしかねぇか。あの竜を倒さなきゃベルゲンがお陀仏になっちまう」
「──ダメ」
待ったをかけたのは誰であろう、チェリーだった。今日までずっとベルゲンを守るといって憚らなかった彼女が祐一の袖をとって首を振っている。
バイクを止め、振り返る。少しばかり苛立たしげに彼女へ言い募った。
「ダメ、って……ここで止めなきゃあのドラゴンはベルゲンを壊しちまうだろ。お前の街だって傷つくんだぞ?」
「それでもダメ……ダメなのよ」
「いい加減にしろ、何がダメなのかハッキリ言え!」
叩きつけられた言葉に反発するようにチェリーは顔をあげ、祐一を睨んだ。
「アンタこそ分からないの! 街を傷つけたくないなら尚更……倒しちゃダメなのよ! あの子を傷つけたら街も傷つく……だって、あの子がベルゲンなんだから……」
「あの子?」
言葉もなく彼女は指で中空を差した。その震える指の先には、リンノルムがいた。
「何言ってるんだ……あのドラゴンが、ベルゲン?」
「そうよ……。いたい、いたい、くるしいって泣いてるじゃない聞こえないの!?」
「お、おい!」
ヒステリックな叫びとともに頭を抱えるようにうずくまった。いや、いや、と駄々をこねる赤子のように彼女は地面に膝をついてしまった。
ただならぬ様子に祐一はバイクを降りて、彼女の背をさする。
「なんなんだ……?叢雲わかるか?」
『応。あの蛇は大地の地脈が凝り固まり形となったもの。あれを斬れば、この地は死の大地と化すだろう』
「……叢雲サン……? キミさっき斬ろうとかなんとか言ってたよネ……?」
『己最源流之鋼也! 故蛇見敵蛇即斬必定世倣!』
「バカ!」
物騒な叢雲も右腕に収納しながら、地脈を俯瞰した。ヤマトタケルの追撃から逃れる折にみた、雄渾な大地の命脈が河川さながらに張り巡らされている。
地脈の血管。ベルゲンをベルゲンとする、人では見ることの適わない大動脈だ。
どうやら地脈はフロイエン山を源とするようで、呪力に似た土地の精気が吹き上がって、それがベルゲンの街に流れこんで
だが今は、歪んでいる。
正常に運行されるべき流れが、フロイエン山を取り巻く部分を中心に、流れが堰き止められ澱んだように黒ずんでいる。澱み黒ずんだ塊こそ、蛇の神獣だった。
神獣を殺せば間違いなくベルゲンに甚大な被害を及ぼすだろう、最悪滅ぶかもしれない。
どうする、祐一は苦々しい顔を作った。
木下祐一は神殺しだ。それ以上でもそれ以下でもない。騒乱と厄災ぼ運び手……つまりは破壊者で、創造も出来なければ、維持も出来ない闘争の獣。
ベルゲンに被害を出さないためには、彼自身が動かない事が一番の正解だった。
「ちくしょうっ……──ん?」
懊悩している間に、うずくまり瞑目するチェリーに異変が起きているのに気づいた。
才気縦横……とはいえ、ただの少女であるはずのチェリー。しかし彼女を取り巻く光景は異様なものへと様変わりしていた。
「アイツ、なにやってやがんだ? 大地の精気を吸ってるのか……?」
地脈の黒ずんだ澱を総て己が引き受けると言わんばかりに全方位から地脈の力を裡へと流し込んでいく。まるで湖の水底に穴が開いたように力が少女の胸へ向かった。
澱みは流れとなり、流れは勢いを増す。堰き止められた呪力が渦を作り、少女は渦の中心にいた。
膝をついた彼女は手を組んで堪えるな姿勢を取った。まるで祈祷。荒ぶる神に贄となった巫女が、寛恕を乞い願うような。
だがそれは姿だけ。どこにそんな容量があるのか……フロイエン山に満ち満ちる大地の精気を飲み込まんとしていた。
『……およそ人の成せる所業ではない』
叢雲の呟いた一言が静寂に包まれる夜闇に響いた。
○〇●
うずくまり悲観しながら、頭の片隅では思考を止めてはいなかった。あの子を助ける方法はないか、ベルゲンそのものであるあの子を癒せないか。
知識も、知恵も、彼女には微笑まずただ空転する思考だけが勢いを増していく。自分だけでは何も出来ない……非力な人間としての限界が、チェリーの願いを阻んだ。
そして隣にいる祐一では駄目だった。
彼は生粋の破壊者……破壊し殺し尽くすことでしか解決手段を持たない獣だ。
神獣を傷つけることはベルゲンそのものを刃で切り刻むことと同義。圧倒的な武威を誇る彼だが、現状彼用いた解決手段はなかった。
アタシが……、アタシに何とか出来ないの?
誰もが口々にする豊かだという己に秘められた魔女の才。母曰く、魔女とはかつて大地の化身だった竜蛇を奉る聖なる巫女だったらしい。
しかし蛇の零落によって、かつて存在していたと思われる蛇巫のように、嫌悪と排斥に晒され魔女と呼ばれるに到った。
であればこそ大地の子たるリンノルムを救うのは魔女であり巫女にも成りうる自分しかいないのだ。
決意した──その時だった。
──…………か?
──す……か?
悲観と思考の埋没した意識のなかで、割り込むように確かな声が落ちてきた。何故だろうか、聞き覚えがある。
涼やかで玲瓏。だが確かな威厳を備えた声は間断なく囁き掛けてくる。
削れた言霊、穴の空いた言葉。……理由は分かっていた。己が雑念にまみれ至らないからだ。息を整え、心を無へ近づける。
まっさらな紙片さながらに、全てを受け入れる器の如く……今度ははっきりと耳朶に捉えた。
──すくいたいか?
誰を、なんて分かりきっていた。
「ええ、救いたい。当たり前じゃない」
語りかけてくる誰か。名も顔も知らない誰かにチェリーは言い放った。声の先にいる誰かの力を借りれば解決の糸口になる、そんな直感が彼女を導いたのだ。
相手の目的は知らないし、何をさせるのか、何をしたいのか、想像もつかない。でも今この時のみ、利害は一致していた。選択肢は他になく、そして、道は拓けたのだ。
──ならば妾に委ねよ。妾の導くままに大地の祝福を受け取れ。
「受け取ったら……どうなるの?」
──妾の呼びかけに応え、そなたの最奥に眠る蛇が身を起こすだろう。そうすれば妾の眷属にして、賢き蛇の裔たる蛇は、妾たち地母に属する愛子とも呼べる子は、一時、そなたの中で身を横たながら傷を癒すこともできよう。
「いいわ、あの子が助けれるならやってやるわよ──!」
○〇●
大地が鳴動している。だが増大する大地の揺らぎに反して、火山の頂上にいるリンノルムの動きが緩慢になっていく。ゆっくりと巨躯が解け、赤と緑の混じった光の集まりと化していく。
大地の精が根こそぎ奪い取られ……いや、引き込まれているのだ。還るべき場所へ還るように……チェリーという少女の胸のなかへ。
「すげぇ……」
祐一はそれしか言葉が出なかった。なにせチェリーの為そうとしている業は、祐一が手を伸ばしても遥かに届かないものだったから。
神殺し木下祐一。新生してから一年も経過していないものの戦歴はもはや歴戦と評してもいいほどだ。相対し、弑逆した神々はどれも強力な『鋼』と『太陽』ばかり。
だが、地母神に纏わる権能は皆無。そもそも遭遇も数える程しかない。ゆえに鋼の性に引きずられるように竜蛇とは相性が悪く……熱意はあれど術はなく現状、彼は右往左往するしかない。
だからこそ感嘆がもれた。地に愛された者の一人であるチェリーは、祐一にとって不可能な御業を為そうというのだから。
だが。
人の身に過ぎたる才は身を滅ぼすもの。
『不味い、大地へ深く結びつきすぎておる。あれでは大地の精と意思が一体化し、目を覚まさなくなるぞ』
「目覚めなくなる……って嘘だろ、おい、チェリー!」
叢雲の危惧に、祐一は意識を切り替えざるをえなかった。
瞑目をつづけ滝のような汗を流す少女の肩を揺らす。歯を喰いしばり、瞼を強く瞑る彼女は今にも目覚めてしまいそうだったが、眉間のしわが増えるだけでそれ以上の変化はない。
なんとかできねぇのか、拳を握る。ベルゲンも救い、彼女も無事に終わる、そんな未来を掴めないのか。力はあれど、悲劇を振り払えない自分に怒りが沸いた。
……その時だった。
右腕に宿る松明が熱を帯び、またたいた光が彼女の胸元に下がるペンデュラムへ光を灯したのは──。
落ちていく。落ちていく。
声に答えてからずっと墜落する感覚を味わっていた。陽は遥か上空に過ぎ去り、クレバスの陥穽へ足を踏み外したように晦冥の奈落へ。
はじめは転落しているのだと思った……けれど違う。天から大地へ落ちているのではない。それは
蛇は死と再生を這い、梟は大地と冥界を飛翔する。
つまり豊潤な命の大地から、昏い死の待つ奥底へ誘われているのだ。
唐突に視界が開けた。
とはいっても暗闇に染まった空間は見通せない。落下と息苦しい感覚が消失し、そう思い至ったのだ。
チェリーはその底で一際濃い闇をまとい、とぐろを巻く
指先も目線も動かせない。当然だ、畏怖すべき祖たる者を前にしたのだ。だから敬い、傅き、彼の者の意のままに従わなければならない。
故に、ひとたび意識を向けられたなら己を差し出しさらけ出し、詳らかにしなければならぬ。己の意思は介在せず、介入は許されぬ。
事実、彼女の茫洋とした目には生気は宿さず、なすがままを由としていた。
彼女は蛇を奉る巫女。蛇を宿す者。
まつろわぬ神は才が絶大であればあるほど人の子を畏怖で縛るもの。少女は抜け出せない闇に囚われた。
──茫。
もたげられた鼻先と額が触れ合う瞬間、胸元から光が弾けた。心に
語りかけてきた者の正体は──翼ある蛇。
『妾の眷属にして、賢き蛇の裔たる、蛇は妾たち地母に属する愛子とも呼べる子』と声の主は語った。竜を眷属とし蛇を裔や愛子と呼びあらわすなら、予想できた姿。そして己にもまた蛇に属する性を秘めている、自覚を獲た。
秘すべき姿を覗き見られた彼の者は、色を失ったように体躯を起き上がらせた。波動を放つかと錯覚するほど怒気を孕んだ咆哮が、小さきものの身を揺るがし──
「──おい! 生きてるか、生きてんなら返事しろ!」
頬をはたかれる鋭い感覚に、意識が急速に鮮明になった。
瞼を開けると祐一が厳しい表情を湛えて、見下ろしていた。
レディを叩くなバカ、と拳を軽く彼の頬に当てた。頬をいじられ変な顔を作った彼は、厳しさをほどいて安堵を浮かべた。
「目、覚めたか」
「ええ、ちょっとだけあの世にいってただけよ。そんな心配することじゃないわ」
胸を反らしてふふんと笑う。
でもすぐに笑みは引っ込め、辺りを見回した。地脈の澱だいぶ薄まり、頂上のリンノルムも活動を止め、巨躯の半分は消失している……それでも、まだ終わっていない。歪みは取り払えていない、ならば為すことを為さねば。
隣の祐一が視線で訴えかけてきた、やれるのかと。
「今度はちゃんとやるわ」
しっかりと頷いて、ふたたび瞑目した。彼の者との邂逅は、多くの知識を自覚もないままチェリーに与えていた。
蛇の本質、死と再生、蛇と鋼の対立、大地の理。
もう間違わない。知識が土台となり知恵が躍動する。大地へ語りかける……我がうちに眠り、休息とせよと。深く、深く、大地へもぐり、澱んだ大地を馴染ませあるべき姿へ戻す。
もう声は聞こえなかった。
ただ、為すべきことを為す。
その一念を以って
『──ほう。
死を。
○〇●
Aaaaa……。
リンノルムが啼いている。生が尽き果て、死を目前にして、断末魔をあげている。
誰も動けなかった。天与の禀質を備える少女も、神殺しも、戦女神も、誰もが死を見届けるしかなかった。"死"が元来、無慈悲なものであるように。
「サトゥルヌス……」
祐一の言葉が虚しく響く。状況は詰んでいた。
死の神が視線を動かした……たったそれだけの身動ぎで、ベルゲンは死んだ。地脈の示現たる蛇とともに。偽りの古の《蛇》とともに。
チェリーは後ずさった。
上手くいくはずだったのに。
すべて解決する未来が指先にかかって、あとは掴むだけだったのに。
強ばったの指を頬に這わせて、痛いほど皮膚に食い込ませた。
たすけて、たすけて、しにたくない、しにたくない。
声が、声が。幼子の痛ましい断末魔が、フロイエン山を満たし、少女は死にゆく故郷の嘆きを余すところなくその身に受けて。
「嫌……いや……いやぁぁああああああああぁぁぁ!」
意識を喪った。