夜風を切って戦場から離れる。既視感のある狼の毛に捕まりながら、戦いへ赴いた相棒へ思いを馳せた。
勝てるだろうか、あいつは。強さを信じていない訳じゃなく、敵の強さを目の当たりにして唇を噛んだ。
──オオオオオオォォォンンッ!
───GYAAAAAAAAA!
────Arrrrrrrrrrrrrrrrrrr!
凄まじい大咆哮が背中に叩きつけられ慌てて振り返った途端、顔が盛大にひきつった。なにせウルリーケンの山を舞台として
猪。蛇。巨人。
どれも五十メートルは下らない巨躯を誇り、噛みつき牙を立て刃を振るい、覇を競い合って、山一つが崩壊に向かっていた。
「アイツ、大丈夫なんでしょうね……。死なないとは思うケド……」
○〇●
目が合った。
辺り一面が灰色に染まる。灰とは石の色。石は死と停滞。
神話においてアテナは蛇の魔物であるメドゥサの討伐を頼み、加護を與える立場であった。英雄ペルセウスによって刈り取られたメドゥサの首はアイギスに埋められ武勇の象徴となった。
しかしこの逸話こそアテナとメドゥサの絆の証。かつて古き時代……北アフリカからギリシャへ招聘される以前の時代、アテナとメドゥサは同一の神であったという。
その悪名高きメドゥサの瞳を初撃で切ってきたのだ。
「乱戦での定石を知っているか神殺し。一番弱いものを狙うこと。あなたが如何に人の身でありながら我が同胞を弑逆を為し、権能を簒奪しようと所詮は定命の人の子……不死なる我らに敵う道理はない」
世界を支えた巨人アトラスですら石へと変える邪視が祐一を襲う。手の甲が石になり、手を起点として全身にまで呪詛が食指を伸ばす。
「それはどうかな」
手を振る。それだけで石は剥がれその下からつるりとした新しい皮膚が顔をだした。神殺しとして"それなり"の戦歴を辿ってきた彼は自身の特異な肉体の使い方というものを熟知している。だからこれくらいの芸当できて当然だった。
「あらゆる呪詛、魔術を拒む、"全てを与えられた魔女"に与えられた肉体。……あなたたちに呪詛や言霊で命を刈り取るには体内へ送り込まねば駄目か。矛を交えるのは数百年ぶりになるが厄介さは変わらないらしい」
「あんたは不死じゃない俺らを見下すけど、定命ってのも悪かないぜ? 上手くいきゃあ弱くてもあんたらみたいに永い時間をダラダラ生きて見下してくる奴らをぶっ殺せるんだからな」
自慢の瞳を受けても小動ぎもせず軽口を叩く祐一に女神としての沽券に関わるのか目を細め顔をしかめた。サトゥルヌスも邪視の圏内に入っていたが纏う衣がいささか変色した程度で実体には何ら影響を及ぼしてはいない……サトゥルヌスはアトラスと同じ
「まこと忌々しく穢らわしい! ここに集ったものの悉くが妾の導いた英雄らを喰らい尽くす魑魅どもか!」
「ふん、言ってろ。あんたのターンは終わりだぜ……。今度は俺の剣を味わっていけ──よッ!」
夜闇が時を追うごとに深くなる中、剣戟の火花で垣間見えた。両腕から繰り出される刃。鋼すら容易く断ち切る一閃と雄牛を宿した怪力に、さしものアテナもその苛烈さに気圧され気味になった。
「くっ……なんと荒々しく激烈な剣筋! そして我が同胞ヘラクレスにすら匹敵する膂力!」
しかし闘神アテナもさるもの。如何なる武技の妙か、牡牛を載せた一撃に、つかの間押し出されたものの大鎌で受け切った。逸話に残るギガントマキアでシチリア島を投げつけたという膂力は並ではない。
「妾にも引けを取らぬこの恐るべき大力も権能のひとつか。若くともその齢でこれほど技量を練り上げたとなれば権能の数も一つや二つではあるまい?」
「さぁてね」
飄々と嘯く宿敵に、アテナイの守護女神は猛々しく笑った。血と狂乱を好む軍神アレスと違い、知略を好み野蛮な武は好まぬといえど、戦女神であることに変わりない。
挑まれれば喜んで矢で返そう、勇ましい兵がいるならば戦いにも興じよう。それが戦神でありまつろわぬ身である彼女のスタンスだった。
戦女神であり英雄を導く相を有するアテナだが、捻くれ曲った性根をもつ神殺しらにしては、珍しく真っ当な戦士に傾いている筈の祐一に好意を抱けない要素があった。
「ああ……忌々しいその瞳。堪らぬな……冷たい冥府の女王たる妾を光の下へさらけ出し、辱める光明の瞳。抉りとって闇で穢し永久の牢獄へ送ってしまいたくなる」
ポセイドンとは仇敵である、と神話内では語られてはいるもののアテナ自身は海を嫌ったことはない。生命を生み出す海は大地と関わりが深いために。
闇を統べ、冥府を領域とし、フクロウの女王たるアテナが真に嫌うのは太陽。眩い天空の玉座こそ彼女の天敵であった。
アテナへ更なる苦痛を強いるため聖句を唱えようと喉咽を湿らせた瞬間だった、首元にチリチリとした焼け付く感覚を覚えたのは。
鍔迫り合いを放棄し、横転するように身体を倒せば、サトゥルヌスのハルパーが首のあった場所を駆け抜けていった。
ぬら、と背筋を生温かな水が這う感覚が伝わった。
手に触れれば鮮血が流れ出して、サトゥルヌスの一撃をその身に受けたのだと遅まきながら悟った。深手だ。実体験をもとにするなら頚椎にまで達している……。
「嘘だろ、俺が致命傷を避けられなかった……?」
瞠目しながら呟き、直後、思い出したように負傷のダメージが襲った。頚椎は聞くまでもなく人体の主要基幹だ。いかにカンピオーネという人外、非常識の権化と言えどそこを斬られたとなれば……。
脳から伸びる糸が全て寸断された。力が抜ける。重心がぶれる。意識を保てているのが不思議なほど。地の底からは重力が手を伸ばし、絡めとる腕を増やしては、地面に倒れ伏せと声高に叫んでいる。
「なるほど、全知とは……これほどか。智慧の女神の妾ですら避けえぬ」
かの女神もまた傷を負っていた。頸動脈から赤い血がとめどなく溢れだし、肩まで伸びる銀月の髪を染めあげている。
神殺しと地母神、誰もが彼も一筋縄ではいかない強かな戦の徒どもだというのに、ただの一撃で致命傷を負わされた。恥でも、不覚でもなく、兵どもの強かさを一蹴してしまうサトゥルヌスの武にやられたのだ。
そんな折にあっても木下祐一は膝を屈さず、背を曲げず、直立不動を崩さなかった。眼光は一心に怨敵へ注がれたまま。烈火とは、彼を指し彼を為す言葉に他ならない。
そんな折にあっても女神アテナは凄絶な美しさを誇った。銀髪が血に染まる様子は銀月が赤い月に変わる姿を連想させ、血化粧という言葉があるようにアテナの白皙の面差しに朱が混ざり、艶やかさを備えた。
「我こそ光を持ち帰りし者。闇に沈もうと日はまた昇る」
祐一が聖句を唱える。少女の献身のおかげで先刻までなら手すら出せなかった新たな可能性を掴みとった。彼の内に宿る。太陽の神性が活性化をはじめる。
……これは輝く瞳とは違う、火と光を源とする力。ひとつの権能とも言うべき神具の"力"を掌握した証左であった。
頚椎の傷が沸点に達するほど熱を帯び、滴り落ちる血液が火へと変わる。揺らめく火は全身まで燎原のごとく広がり、一陣の烈風が吹いた。
少年の爪先の一片まで燃え盛っていた火が掻き消える。
炎のなかから少年が踏み出た。残ったのは少年の遺灰ではなく、まるで健在な戦士のすがただった。
いま彼を苛めるものは奈落の澱……そして彼もまた奈落より光を持ち帰っていた。
ミスラの火。一切の不浄を焼き、光明をもたらす火であった。敵対者を塵も遺さず焼き尽くし、同盟者には生命を與える火によって、不死鳥がごとく身を焼きあらたな肉体を得て、祐一は戦場に立った。
アテナもまた、傷は塞がっていた。不死なる女神は首を切り落とされようが死ぬことは無い。そもそも冥府という同源の神だからこそ、サトゥルヌスの呪詛など心地よいそよ風程度にしか感知していない。
「二兎どころか、一兎も獲れぬか」
「そうそう上手くいかれちゃ、俺の積み上げてきた武功に武勇が泣くんでね」
「それよりもだ祖父殿よ。あなたの呪詛を我が身に受けて悟ったぞ……あなたは贄としたな? 我が古の同胞オプスを喰らい復活したのだな? だからあなたは嘗ての輝かしい過去から掛け離れた姿となったか」
サトゥルヌスは無言だった。しかし沈黙こそが何よりの肯定であった。アテナは空を仰いで嘆いた。
逆縁という成り立ちから殺し合うことを宿命付けられた神殺しとまつろわぬ神が出会えば戦いが始まるのは必定……そして神々の間にもまた大地母神と『鋼』の武神には因縁がある。
だがその総てを相手取るという戦いは戦女神アテナをしてもそうそう出会えないものだった。
「死と時を司る神にまで転落した祖父殿と、若くとも抜け目ない神殺しか。冥府と大地を統べる心は悉く打倒せよと叫び、しかし、闘いと智慧の心は矛を交える機会に歓喜と悦楽を覚えてもいる。悩ましいものだ」
「好きモンだなあんた」
「ふん、あなたが言うか神殺し」
三者とも口の端に弧を描きながら夜闇を駆ける。途中、林に入り木々を縫った。それだけで幹が裂け、枝葉は枯れ落ち、荒涼とした野だけが残った。周囲に光源はなく、光が生まれようと冥府の闇が刈り取る。月光すら振り切る疾駆のなかで鉄の打ち合う音と火花だけが超常のものたちがぶつかり合ったよすがだった。
ウルリーケンの山はもう原型を留めるので精一杯だった。おそらく異界から現実に帰還しようとその影響から逃れられるか疑問を抱くほど。だがまつろわぬ神と神殺しという巨人たち戦いによる余波は甚大なものとなって当然だった。
そして同時に幸運でもあった。
視線を動かせばベルゲンがあり、比喩抜きに視線ひとつで街を滅ぼせる超越者たちが殴り合っていながら未だ形が残っている時点でもう奇跡だった。
きん。きん。きん。
常人では闇の中で蠢く気配すら読み取れない暗闇を、山猿さながらの軽捷さではね回り、豪の速度で干戈を交える。ウルリーケンがまだ形を保っていられるのは、権能ではなく迫撃が主体だからだろう。
だが規模が小さいからといって温い訳ではない。闇の女神と死の神がいるだけで濃い夜と闇を呼び込む。闇と夜は視界を奪い、ならば例え無明であっても見通せる夜目を持たねば戦闘の資格無し。直ちに闇に潜むものの手が迫り絶命に至るだろう。
太陽の瞳、邪視、冥府の闇……各々が権能を保有し、劣悪な状況下でも戦いは成立していた。
女神の大鎌が防壁となり、剣の一振が空間を詰め、死が首を撥ねんと忍びより躙り寄る。戦いは次第に膠着状態へ推移していった。鉄の一振が、闇の蠢きが、澱の蠕動が、陣地の取り合いはじめる。
前哨戦でありながら前哨戦ではない全力の死闘。迫撃戦における全ての手札を叩きつけて仇敵どもより先んじて一手を繰り出そうと鎬を削った。
アテナは戦女神であり守護女神の名に恥じぬ戦いぶりで不用意に攻め込まず防衛を主体とし、攻め込まれると強烈な逆襲を返した。
祐一は逆に縦横無尽に振舞った。化身は『鳳』、速度ではなく副次的に獲られる軽捷さに焦点を当て、猿や猫さながらの動きでひとつ所には決して留まることはない。気がつけば急襲し、気がつけば撤退し、気がつけば切られている……速さでもなく、早さでもなく、捷さでもって翻弄した。
それらを加味しても異様なのはサトゥルヌスだった。まず何より、無傷である。何も攻撃を受けていない。神殺しと戦女神アテナを前にしてそれを為すとはどれほどのことか。
擬似的なれど全知というアドバンテージは凄まじいの一言だ……祐一の釐の太刀すらかいくぐり予測不可能の挙動すら機先を制される。アテナという難攻不落の要害すら容易く抜かれ、反撃の一手さえ見切られる。
まるで手のひらの上で踊らされている感覚。指が欠け、瞼が裂けた。右耳が機能を止め、八重歯が折れた。
劣勢である。敗色濃厚である。
だが、"相手が全知だから"……それだけで敗北を喫する彼らだろうか?
……否。そうでなければ神話に謳われていない。
……否。そうでなければ神など殺してはいない。
一呼吸で神速域へ到達し、サトゥルヌスへ肉薄する。黒曜一閃。すり足で挙動を悟らせない歩法で懐に飛び込むと横薙ぎの一刀を繰り出した。
そして時を置かず後方からアテナの一矢が飛来した。何十、何百と打ち合いながらはじめて祐一とアテナの一打が噛み合ったことを意味した。
必中の二撃でさえサトゥルヌスはよく応えた。半身を逸らして矢を躱し、その流れのままハルパーの柄で剣を払う。
凌がれた。必中だろうがなんだろうが、剣の一振が裾を
当たった……なぜ?
だが相対する二人の戦の申し子は眉を顰め、訝しんだ。喜びではなく違和感を抱いていた。
これまでの戦闘で、サトゥルヌスがここまでの隙と接近を許したのは初めて……亡霊じみた動きで柳のように祐一の柔剛もアテナの智慧も受け流してきた。
戦女神の智慧が、神殺しの直感が、チャンスを嗅ぎとった。
──サトゥルヌス自身の"武"はそれほどじゃねぇ。
──全知とはいえ紛い物。完全なる未来予知ではないと見た。
彼の神は強い。それは間違いない。だが『鋼』の神性はにわか仕込みで、アダマスの鎌と謳われるハルパーを得たことで獲得した、しかし片手間で獲た神性でしかない。
これまで矛を交えた『鋼』の鋭さに比べると一歩劣る程度で、ヤマトタケルらならば歩法や身のこなしで躱せる攻撃も、時の神による未来視で確実に避けている……ならばそこに付け入る隙がある。
そして全知も不完全。
時間であり、時間の存在する場所に遍在するサトゥルヌス……しかし無限遠に広がる過去未来とは違い、現在という唯一無二の概念には必ず存在せねばならない縛りがある。ならば。
泰然とするサトゥルヌスを向こうに置いて、自然とアテナと祐一は肩を並べる形になった。この場で一番の大敵はサトゥルヌス。
死地で垣間見えた弱く儚い光明、しかし賭けるには、十分。体勢を立て直し、期せずして彼らは同時に切先をサトゥルヌスへ向けていた。
言葉すら交わすことはなく、悟った事も思った事も別──だが為すことは合致していた。
先んじたのはアテナ。託宣の女神として最良の霊視に導かれ戦神の心が囁くままに大鎌を振るう。祐一も呼応するように踏み出し、死域へ至った。相乗りする形で一閃を抜き放ち──完璧な息を合わせた二条の雲耀がサトゥルヌスを捉える。
「疾ッ」
「ふゥ──!」
さしものサトゥルヌスも避けきれない。二双の刃に首を断たれ、致命傷を負った。
アテナは霊視による未来視。祐一はそれに追随する形で一撃を放つ。それは如何に全ての時そのものであり全ての時を知る全知であろうと回避不可能な攻撃だった。
だが冥府そのものを宿す彼の神は、終わらない。裂かれたそばから修復され、刹那の後には無傷を誇った。
「恐ろしいな。そなたらの二振りの刃に、我が根源までもが撥ねられた未来もあった……」
「やはりな。あなたは全知に近い存在ではあるが、あくまで近い存在でしかない。全能でもなく未来を選び取れる訳でもない。……あなたの未来視はいくつもある未来の可能性から、より確実なものを選び見ているに過ぎないのだろう?」
「うむ、そなたの申す通りだ。余は唯一無二の現在からいくつも枝分かれする未来を観ることしかできぬ」
「全能に近いまつろわぬ神と可能性の化け物である神殺し。両者が揃い、同時に剣を振るえば、それだけであなたの見える未来は無限遠に広がり読めなくなるのは道理よな? あなたが斬られたのが何よりの証拠だ」
「余は全知全能ではない故。フフ……流石は音に聞くアテナよ。見事だ」
そして未来の見えなくなったサトゥルヌスはアテナと祐一の攻撃に対応出来ない。地母神を贄にしたとはいえ、黄泉帰りの
勝機は見えた。アテナは傲岸に笑い、逆転されたサトゥルヌスも陰気に口の端で弧を描いた。
しかしそこで待ったをかける者がいた。
「盛り上がってるトコすまねぇな。アテナさんよ、あんたとの共闘はこれっきりだ」
「ほう?」
「さっきのサトゥルヌスの言葉を信じるわけじゃねぇが……あんたと共闘してサトゥルヌスを倒したとあっちゃぁ、先輩に胸を張れないんでね……。まあ、あの人ならゴミ箱から拾った勝利でも、勝ちは勝ちって言うんだろうけど」
叢雲の切先を下ろし、地面へ向けながら呟いた。
「それに何よりサトゥルヌスと決着を付けるのは、
──それが俺を宿敵と認め、相対してくれたサトゥルヌスへの礼儀だ」
アテナはその言葉に興を削がれたように鼻を鳴らした。ただ、どこか拗ねている様子にも似ていて彼女の持つ英雄を導く性がそうさせるんだろうか、とふと思った。
「ふん。真面目だな、のちのち苦労しよう……それに誤解するな神殺し、もとよりそのつもりだ。あなたがたのような獅子を食い殺しかねん『獣』など身中においてはおけぬよ」
「木下祐一よ。余もそなたの心遣い嬉しく思う。だが思い上がりだ、今のそなたが余に勝てるなどと!」
サトゥルヌスの言葉を訝しむなか、祐一の頸を斬った刀身に付着していた神の血が重力に従って地面へ零れ落ちた。
「……遥か極東にて武を鳴らす最源流の一党よ。縁もゆかりも無いが余の武具へと身を窶せ!」
ぐらり。瞬間、地面が大きく揺れ、血の一滴を地面が吸い取ったのを皮切りに大地が盛りあがった。
驚きながらも冷静にあたりを見て、自分を中心に半径数十メートル程の場所で局地的な地震が起きているのだと悟った。
大きく跳躍し、地震の範囲外へ出る。振り返れば地面が巨大な人型をつくって、土砂を払い除けながら這い出ていた。
「なんだありゃ」
『ぬぅ……おそらく
「……え。叢雲、パパになっちゃったん?」
『……すぞ』
「言ってやるな神殺し。強姦とは違った悪趣味極まりない反吐が出るやり方だ、我が同胞の男たちはそういったやり方を好むのだ。どうしようもない」
「あー……そういやあんたにも似たような神話があったな」
「不快だぞ。忌々しい過去を思い出せるな」
話している間にも大地の上昇は終わらない。それどころか明確な形を描き始め、ついには人型を宿して武器を担ぎ──
Arrrrrrrrrrrrrrrrrrr!
巨人の手には二振りの大剣。それを構えて……咆哮激震。祐一とアテナの居る場所へ大剣を振り下ろした。
「闇と不死なる蛇の眷属よ」
「鋭く近寄り難きものよ」
一柱と一人は避ける仕草も止める動作もみせず、言霊を吐き、大剣の一撃を素通しした。轟音と粉塵が撒き散らされ、もうもうと巻き上げられた土の霧が晴れれば、そこに居たのは引き裂かれた肉塊ではなく雄々しく美々しい神獣であった。
とぐろを巻く銀の蛇。
漆黒の毛皮を備える猪。
彼らに呼び出された神獣は人の建てたビルを易々と崩壊せしめてしまう巨人の剣を難なく受け止めた。鱗で、毛皮で。
神とカンピオーネの眷属に相応しき格を備えた三体の神獣が叫ぶ。巨人が再び鉄剣を掲げれば、させじと蛇は長い胴体で足と腹と腕を絡めとり、猪は蛇も巨人も諸共打ち砕かんと吶喊する。まさに怪獣大決戦がはじまった。
「余らの眷属は互角の様子。どうやら千日手に陥ったらしい」
「つまんねぇ方向に流れたなぁ」
しかし幾ばくかの時間が流れても決着のつく気配は見受けられなかった。轟音の鳴り響くウルリーケン山は悲鳴をあげているようだった。
どうするか、と思案しているとアテナが前へ出た。
「ではひとつ妾の御業を御覧に入れよう。『鋼』には蛇殺しの言霊があるように、妾にも許された鏖殺の言霊があるのだ、
──我がパラス・アテナの名のもとに誓おう。我が前に立つ如何なる巨人も骸を晒すと。皮は鎧となり、盾となると」
言霊が放たれた途端、強壮を誇った巨人が苦悶をあげ膝をついた。そして直ぐに息絶えると、分厚い皮膚は剥ぎとられアテナの防具となった。アテナを守護せんと巨人の皮が姿をかえて銀沢の戦衣装と盾となったのだ。
「余の眷属を掠めとったか、抜け目ないことよ」
「チッ! 退け、ラグナ」
形勢の不利を悟った祐一がラグナを送還し、ふたたび三者は向き合った。
こりゃあどうにも……祐一は頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。戦いが始まりそれなりの時が流れたがおそらく一番厄介なサトゥルヌスは無傷で、それに比肩するアテナもパワーアップを果たした。眷属もいる。贔屓目に見ても一番不利なのは祐一だった。
だが勝機は、ある……絶対の
ふと、サトゥルヌスが指を鳴らした。何もかも謎だが、おそらく更なる攻勢を仕掛ける仕草に違いなかった。
「時に木下祐一よ。人の繁栄とは目覚ましいものがあるな、空を股に掛けその指先を宇宙にまで触れてしまった。余がラツィオで農耕を教授した頃より驚くべき進歩よな」
「なんだぁ? こんな時に文明批判か? 進歩する人間は間違ってる、とでも言いたいのか?」
ウン、ウン、とアテナがいいことを言うじゃないかと頷いている気配がしたが見なかったことにした。
「いいや。ただ、宇宙に投げ捨てられたものを活用しようと言うのだ」
ひゅうぅぅ……。
上空から風を切って何かか落ちてくる音が聞こえた。嫌な予感に任せて慌てて飛び退ると、ズズん!
何かが降ってきた。地上に突き刺さった"それ"は独特なフォルムをもつ未来的な……具体的に言うなら衛星軌道上をせっせと回っているよう物体で……つまり
目を点にした祐一はそのまま上空へ視線を向けて、空はいくつもの赤い点で煌めいていた──成層圏を抜けてくる大小さまざまなデブリの弾雨によって。
「人類のバカヤロ──!」
すべてのデブリは祐一とアテナ目掛けて落下しており、しかも落としているのは時の神。高速で駆け回り、類稀な直感を持つ祐一でさえデブリの雨は捕捉した。
「やはり行き過ぎた文明など……!」
デブリの雨で眷属が滅ぼされ、何やら憤懣やるかたなしで世界を滅ぼしてしまいそうな気配を撒き散らす女神が見えたが、何も見えなかった。こちらはこちらで手一杯なのだ。
「禍福あざなえる縄の如し、なれど土星を司り不吉の象徴たる余の訪れは凶兆の前触れ。すべての縄は禍に転ずると知れ」
呪いの言葉が吐かれ不幸が襲う。先の戦いで刀を振りました折に切り倒した木の切株に足を取られて、盛大にすっ転んだ。悪因悪果。些細な悪因であれサトゥルヌスの権能で、最悪の結果と化す。
「加減ってもんを知らねぇのかサトゥルヌスゥ!」
大地と背中合わせになりながらデブリの豪雨を捌く。成層圏で赤熱され飛来するデブリは、カンピオーネの身体でさえ容易く穿った。構えた腕に刺さり肉と骨を焼く、踏ん張った腿を裂く、髪と頭部の皮膚が持っていかれる。
「無駄だ、これくらいの傷……我こそ《光を持ち帰りし者》闇に沈もうと日はまた昇る」
腕が、腿が、傷ついていた全ての箇所から火の手が上がる。血を焼き、皮を燃やして、だが森羅万象に逆らうように傷は塞がった。
「ヒューペルボレアの冥府のなかで持ち帰った光か。余が持ち帰れず、《闇を持ち帰った者》である余ではありとあらゆる未来で手に入れることの叶わぬ、いにしえの盟主であった頃の火……」
「ああ、この不滅の火こそあんたと対等に戦い、対抗出来る唯一の手段。こいつがある限りそう易々と不覚を取らねぇぜ」
「……ヒューペルボレア……光と闇……不滅に……ほう、なるほど」
アテナが何やら得心し、サトゥルヌスが目を眇めたが、結局、両者とも何もアクションを起こさなかった。
いつの間にやらデブリの雨は止んでいた。時間は戦闘開始から数時間が経過し、それでもなお誰もが無傷という異様な状況。この場に集った超越者どもは不死に連なるもので、それに準ずる力を有するものばかり。当然といえば当然だった。
「だが埒が明かぬのも事実……ならば余はそなたらの討滅に動こう。光明と火によって余の打倒を試みるならば真なる闇を開帳しよう。深く昏い大地の奥底……冥府にて番たる地母神オプスを贄とし持ち帰った闇の本領を開陳しよう」
来るぞ。祐一は背を低くして構えた。
来るぞ来るぞ来るぞ! サトゥルヌスの全開が来るぞ! 強烈な悪寒そうさせるのだ。
サトゥルヌスが手を掲げた。指先から正体不明の闇色の球体が生まれて……いや、違う。あれは。なんだ。見覚えがある。
「先刻の衛生落としは余の真髄たる御業のほんの手遊び程度でしかない……では我が力の源泉とはなにか?
わかるか木下祐一、アテナよ……大地の底、冥府の淵で獲得した力。奈落の澱の逃れえぬ枷にして万物が持ちうる力だ」
……光が、消えていく。
夜の数少ない光源だった月光が、消えていく。光源から放射され四散していくはずの光がサトゥルヌスという一点に収奪され収束していく。
指先に現れた球体は肥大化し、サトゥルヌスを中心に闇の渦が生じる。否、生まれているのではなく光が食い散らかされているだけなのだ。
──シュバルツシルトの闇。
事象の地平面の先に、光すら蹂躙される領域があるという。生命活動など望むべくもない真なる暗黒。物理法則しか蠢くこと赦されぬ万物の澱にして檻の奥に。
「奈落の底から伸びる引力……それが祖父殿の闇と死の根源。そなたら人の子らの言葉を借りるならば
「っざけんじゃねぇ……! 重力? そんな生易しいものであってたまるか……ありゃあ
かつて太陽神であったサトゥルヌスが凋落し、大地の神となった。
大地の神は復権を誓いながら夢破れ、しかし未だ諦めることを知らぬ。妻を喰らい、光輝の道を閉ざされようと。
故に到りて、ひとつの扉を開け放った。新たなる玉座の獲得。
ベルゲンに三柱が揃ってより前哨戦は何度かあった。しかし三つ巴の形で本格的な戦いは今夜が初めて。
特にアテナと祐一はほぼ顔見せ程度で、まともに武器権能を手にとるのは初めてだ。矛を交え、被せていた薄衣を取り払って手札の見せ合えば、やはり一筋縄ではいかぬと確信を覚えた。
だが祐一とサトゥルヌスは何度も殺し合っている。だのに全知以外にもこれほどの奥の手を隠していたとは。
祐一はサトゥルヌスの秘めた力を察せられなかった己が不覚に歯噛みした。サトゥルヌスは猫を被っていた……強力なカードもひた隠し、性格も偽っていた。感情的で思慮が浅く、しかし使命に一途なのだと偽っていたのだ。
以前の欺瞞に満ちたサトゥルヌスだって強大ではあった。しかしどこかに必ず隙があって、そこに付け入ることが出来た。
だが今はどうだ?
隙など見出せない。打倒できるビジョンが浮かばない。直感がささやき見せるビジョンで骸を晒しているのは己だった。歯噛みする祐一を尻目にサトゥルヌスが動く。
重力嵐が──吹き荒れる。
一息に生命を摘み取られなかったのは一重にカンピオーネの対抗力ゆえだった。そうでなければ、今、眼前に広がる光景のように……ベルゲンを囲む七つの山のように空へ浮き上がり、重力の渦のなかで藻掻いていたに違いない。
だが、これは、ジリ貧だぞッ! 叢雲を地面に突き刺し、身も世もなく地面に縋りつく。軋むような異音が轟きはじめた異界が悲鳴をあげてるのだ。硝子細工の擦れる音に似た音とともに月の浮かぶ夜空が割れる。
地にへばりつくしかない祐一と違い、重力の乱気流に晒されようとアテナは立っていた。先刻、巨人の皮で作った闇色の盾を頭上に浮遊させ、盾を頂点としてアテナの小柄な体躯を囲むように結界が編まれていた。
中にいるアテナは外界の影響などに微塵も干渉されず髪の一本も揺り動かされることはない。
守護女神として崇められた彼女にとって防衛こそ本領でありこれくらいのこと為せて当然なのだ。
「《救世の神刀》すら阻む草薙護堂の《黒の劔》かつてヒューペルボレアで余を嬲った大法を参考にさせてもらった」
闇の引力によって集められた土砂や木々がゆっくりと形を生して、巨大な黒腕となった。変化する合間にも腕には木々が折り重なり、腕自体が強力な重力を有しているにだと言外に語っていた。
そして巨人の腕の使い道なんてひとつしか思い浮かばなかった。
「おいおい嘘だろ……」
大きく振り上げられた腕は敵の居る場所へ振り下ろされる。轟音のあとに肉体を粉微塵にされたかと錯覚する衝撃が襲った。
事実、耐えきれない程の衝撃が体のなかで暴れた。左腕が拉げ、肘から先の感覚が消失する。絶叫をあげる暇もなく咽喉に冷たい金属の感触が割って入ってきて、言霊を吐き出せない。頭蓋が砕ける。足の爪先が鼻先と出会った。
それでも死なない、全身が燃え上がって新たなる生命を贈られる。中空に投げ出され、敵の追撃はすぐにやってきた。
二振り目の巨腕にふたたび捉えられ肉体が四散する。圧迫され肺から押し出された空気が口から出るよりさきに咽喉から漏れ出た。
襤褸雑巾になりつつ地面に叩きつけられ、アテナの足元近くに放り出された。
無様だな神殺し、と再生しはじめた鼓膜がなんとか声を拾った。黙れ、と返したかったが顎から下がなくなっていて喋れなかった。
「そなたら両名を一纏めにしてしまおう」
水平だった大地が盛り上がった。祐一たちを取り囲む四辺がサトゥルヌスの意思によってもち上げられ、最後には風呂敷の口布を結ぶように引き絞られた。
捕まった、その悪寒に応えて周囲がどんどん狭まっていく。推し潰そうというのだサトゥルヌスは。ブラックホールを形成するほど莫大な重力でもって。
「これは……山羊と巨神の皮楯すら危ういか」
楯や鎧でも、刀剣や矢などの攻撃から身を守るには一級品だ。とはいえ重力という永続的に全方位から圧壊しようとしてくれ攻撃には分が悪いらしい。
「一蓮托生みたいだぜアテナさんよ」
「ふん、あなたを助ける義理はないが……妾の御業をその特等席で観覧できる栄誉を与えよう」
アテナが手を振った。それだけで奇跡が起きた。
止まる。止まる。止まる。
サトゥルヌスの神力が寸断されアテナの神力が割り込む……これは停滞の呪いだ。冥府から這い出した冷気が万物に霜を降らせ、退化させ、朽ち果てていく。
星の終わりにはいくつか種類があると言われてる。莫大な質量によってブラックホールと化すもの。超新星爆発を起こすもの。そして全ての活動を止め、極寒の白色矮星となるものだ。
活動を起こすエネルギーを総てを使い果たし、冷却し続ける星の終わり。冷たいほど年老いた白き天体。
絶対零度の白き星。古き太母神であったアテナであればこそ、そう言い表すに相応しい。
サトゥルヌスの猛威が崩れ落ちる。眼前を覆っていた重力の壁が停止する。
空間すら歪める物理法則が重力ならば物理法則を停止させる。それが冥府の女王たるアテナの解答であった。
三者はふたたび顔を合わせる形になった。
睨み合うアテナとサトゥルヌスを他所に、対抗できず右往左往する置物に徹していた祐一は思った。
──
アテナの停滞の冷気を火によって振り払いつつ、勝機の到来を予期した。
戦闘開始からどれほど経っただろうか。異界の発生は夜のはじまりに起き、三つ巴が始まって戦闘時間は数時間は経過している。時間が動けば、世界は動く。陰陽は入れ替わる。
故に──
──時は、
東方より曙光が燦めく。
日ノ本にて聖なる方角たる東を背にし、暁を背負って祐一は傲岸に立った。
化身たる『白馬』が嘶き、眼窩に収まる浄眼が朱と紅を濃いものにした。右の手のひらに火が熾り、それを包むように握り締めた。
アテナとサトゥルヌスはそれだけで劣勢を悟った。
天敵。
この時、二柱は本当の意味で理解した。
彼は天敵だ。神殺しだから、という理由ではなく死と闇と冥府という彼彼女らが司る領域の対極こそが眼前の少年なのだと悟ったのだ。
これが夜ならば。闇の領域でならば善戦できたであろう。だが狡猾な神殺しは、ひたすら耐えに耐えた。戦況の天秤が傾き、一気呵成にまつろわぬ神どもを討滅できるその瞬間を狙って。
それが、今だった。太陽が一番力を増す時刻。闇夜を切り裂き、光を齎すのはこの時を置いてほかにないのだから。
朝のお訪れに三つ巴すら耐え切った異界が、食い破られ消滅する。
「退きな。今なら見逃してやる」
場を支配した祐一が低い声で布告した。
「どうせ宣誓で決着はつけられないんだろう? なら太陽が出て異界もなくなった今が落とし所だと、俺は思うぜ」
そして否を唱えるものはこの場にいなかった。
「幕引きか」
「……これ以上の闘争は不死たる妾でも分が悪いか。決戦に響くやもしれぬ。ならばあなたの提案に従おう」
己に絶対の自信があるが故にまつろわぬ神は強大な強さを獲られる……だから太陽が昇ろうと敗けるとは微塵も思わない。
しかし、曙という天敵たる太陽が最も力を増す
「だがゆめゆめ忘れるな神殺し。
今夜の戦は分けただけ。それも妾が譲ったからに過ぎぬ……新月の夜こそそなたが光とともに冥府へ帰る時と思え」
アテナの言葉を最後に彼らは闇に溶けた。太陽に引き裂かれ払われる夜のごとく。
大きく息を吐いた。凌いだ。
勝利の余韻も生き残った感慨などなく、祐一は肩を下ろして地面に倒れ込んだ。