王書   作:につけ丸

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黄昏の決意

 神々を包み隠す異界のベールは消え去り、人類はその日知ることになる。自分たちがあずかり知らぬうちに北欧の地でいったい何が起きていたのかを。

 

 ──三つ巴の終焉。

 ──新たなる王の存在。

 ──二人の少年少女の結末。

 

 この日を境に運命の潮流は否応なしに勢いを増していく。神殺しとは嵐の目。それが異次元から現れた変わり種ならばなおのこと。

 異なる文明同士が接触し、犠牲を伴いながらも世界は進み続けていく。その故事に倣うように、異次元より解き放たれた神殺しの『獣』が騒乱を呼ぶ。

 

 

 

 

 

 ○〇●

 

 己に科せられた定めも、己に秘められた真実も知らずにチェリーは苛立ちを覚えながら一日を終えようとしていた。

 新月の夜。今夜こそ決戦である、というのに彼女は安穏と日常を送っていた。昨晩、異界に巻き込まれなかったのは祐一がなにかしたからだろう、と安易に思い込んで。

 あいつ、まさかアタシを追い出すつもり? 異界化したかどうかなど彼女には判断できず、だから除け者されたのだと思い込んでいた。ほっぽり出しすならただじゃおかないわよ、と祐一に対する怒りを深めていた。

 少し未来の彼女が振り返って、なんて幸せな勘違いだったのかと笑いたくなるほどだった。

 一日の授業が終わり、日が傾き始めたころ。騒乱の波は彼女に辿り着いた。

 それはホームルームが行われている時……ドアが勢いよく開かられ黒髪の少年、祐一が転がり込んできたのだから。

 

「──チェリー! 無事か!」

 

 大声で叫んだ彼にクラスの全員の視線が集まった。

 誰もが動きを止めた教室でガタ、と音を響かせ立ち上がったチェリーが憤懣やるからなしというように怒気を募らせた。

 

「あ、アンタなんで学校に……てか、アタシを困らせるための嫌がらせでもしようっての!」

「違う、そうじゃない!」

 

 あまりの剣幕に二の句を継げなくなった。

 みんな動けなかった。教師も生徒も。彼の満腔から横溢する闘気と覇気が場を支配し尽くしていた。

 ツカツカと大股でチェリー歩み寄った祐一が焦りを交えて真実を語った。

 

「あのメダルの場所が……ゴルゴネイオンの在り処が判ったんだ。ゴルゴネイオンは()()()()()()()()

「ちょ!? ここでそんな話……って嘘、そんなわけないじゃない」

「いや、間違いなくお前が持っている」

 

 異界化や歪みは誤認によって生まれていた。ならば正しい認識こそそれらを防ぐ術になる。

 さらに言葉を尽くそうとして……だがその途中で誰かが彼の胸ぐらを掴んだ。

 

「何しに来たの」

「リヴ!」

 

 チェリーを庇うように金髪の少女が踏み入った。話の邪魔だ、祐一は仕方なしにチェリーを連れて校舎からの脱出を選択した。

 

「すまん、構ってられん……はなれるぞ」

「ちょ、ちょっと……」

 

 リヴを強引に振り払った祐一に手を引っぱられて千鳥足になりながら足をもつれさせた。

 状況がさっぱり呑み込めていなかったチェリーはリヴへ手を伸ばして。リヴもその手を掴もうとして──

 

 ──()()()()()()()()

 

「え?」

 

 人も、時も、光も。あらゆるものが停止し、仮初の死が訪れた。

 石。石。石。

 瞬きの時間を挟んだ間に、生を謳歌していた世界が一転、石の世界へと変貌していた。学校や地面だけではない。生あるものどころか無機有機の別無く……人も、木々も、風さえも……視界に入るすべてが石へと変わっていた。空を滑空していた鳥が地面に叩き付けられ四散し、くぐもった音を鳴らす。

 その中にあって一点、変わらず心臓の鼓動を止めていないのは()()()()()()だけだった。

 

「リヴ?」

 

 手と手が今さら触れ合った。指先に伝わる硬質な感触は、ほんのりと人肌の温度があって……精巧な石の彫刻となった友人を見つめて、触れて、理解できなくて、冷たくなっていって───

 

「い、嫌ぁぁっぁあぁああああああぁぁぁあっ!」

 

 突きつけられた絶望に絶叫をあげた。絶望を撃鉄としたかのように、死の惨状を生み出した元凶が悠然とした足取りで石畳を歩きだす。

 動いているものは数少なく無音に限りなく近かったから、直ぐに気配に気づけた。

 

 誰かが窓の外にいる。歩いている。ここは校舎の二階だというのに。空を踏みしめ、奇妙な足音を鳴らし、ゆうゆうと歩いている。

 

「そんな、うそ、まさか、あの子が……?」

 

 チェリーはその足音の主を知っていた。知遇を得たのは僅々のことで、昨夜出会い、語らったはずの少女だった。

 しかし、その双眸は昨夜とはまるで別のもの。過去ブリッゲンで猛禽の眼光にも見えた瞳は今にして見れば蛇そのものだった。

 頽れてへたり込んだ足が動こうとしない。縋りついた友の石像から離れる気が起きなかった。震えは止まらず、無気力になった。

 

 ぱん。

 

 彼女の頬を、誰かが張った。

 祐一だった。彼はこんな状況でも烈火を宿した瞳を翳らせることなく、前を見ていた。戦士の目だった。

 

「バカ、何やってる! 逃げろ!」

「でも……街が……学校が……友達……リヴがっ!」

「早く行けぇッ! 死にてぇのかッ!!!」

 

 常になく激しい言葉を叩きつけた彼のお陰だろうか、今まで血の流れが止まったかのような足が活力を取り戻した。彼の言霊に従ってチェリーは何ふり構わず学校を駆け抜けた。

 

 あとに残ったのはアテナと祐一だけだった。

 

「あの娘を逃がしたか。古の蛇を奪えば良かったものを。もはや心は折れ、早々に立ちすくむであろう……采配を誤ったな」

「そうか? 中々気骨のある奴だと思うぜ?」

 

 アテナの嘲笑を鼻で笑いながら、叢雲を構えた。

 窓辺に立っていたアテナが素早く後方へ跳躍し、校舎のグラウンドへ降り立つ。祐一もそれを追い、対峙する形となった。

 

「さぁて、ここから先は行き止まりだ……通りたきゃ俺を倒して行きな。あんたにゴルゴネイオンは、いや、俺の相棒は渡さない」

「妾から古の《蛇》を遠ざけるか神殺し。妾から古の《蛇》を遠ざける者はすべて敵、とあなたも知っているはずであろう。

 妾はアテナ。敵対者には微塵の容赦ももってはおらぬ。それに乱戦ならばともかく、一対一の果たし合いであなたが常勝を誇る妾に勝てる道理はない」

「ふん、だからなんだ? 俺があんたと戦わない理由になんのか? それに……俺の目の前で、あんな巫山戯た真似やらかしてくれた礼はしなくちゃなんねぇ」

 

 グラウンドの地面に、祐一を中心として蜘蛛の巣状の罅が生まれた。

 

「タダで済むと、思うなよ」

 

 ただ彼が感情を曝け出しただけで。感情の名は、赫怒であった。

 類まれなる烈火の意志と己が天敵たる赫々たる太陽の輝きがアテナの肌を灼く。

 周囲の死の大地と化した世界を眺め、去り際の相棒の顔を思い出した。気丈でいつも自信満々で笑っている彼女の、絶望に染まった顔など見たくはなかった。

 そして、アテナに対する想いをひとつだけ強くした。

 

 ──()()()()

 

 強かな戦士との真っ向勝負。沸き上がる喜悦のままにアテナは雄々しく笑った。

 

 

 ○◎●

 

 

 黄昏時。

 赤に染まった街を、走り抜ける少女がいた。否、走っているのではない。逃げているのだ。

 歯がカタカタと揺れ、指先は小刻みに震えていた。走っているはずなのに、まるで地面が風船のようで景色がたわんで見えた。

 

 心に刻みつけられた絶望と、海馬に植え付けられた理不尽な記憶が、チェリーを発狂させようと手ぐすねを引いていた。いや、これは防衛本能なのだ。

 正気を保つために狂わなければ、本当に狂ってしまうから。その防衛本能が躁鬱にも似た精神状態に陥れ、必死に平静さを保とうとする思考を阻み続けた。

 

「いやぁ……みんなが……みんなっ」

 

 彼女の逃げる先は自宅だった。いつも歩き慣れた場所が地獄と化している。そんな中を走らなければならない。

 いつも挨拶を交わしていた人が、庭先でいつも尻尾振っていた犬が、ハロウィンでお菓子をくれたお婆さんが、魚を値切ってくれた露天のおじさんが、ギターケースを背負った気のいいお兄さんが……誰も彼も息を止め、死を迎えていた。

 閉ざされている。石と氷の石室にベルゲンが押し込められたかのよう。

 北端の国であり冬は極寒を迎えるこの場所で、つい先ごろ春を迎えた。というのに酷く寒くて仕方がなかった。当然だ、肉体ではなく心が冷え切っているのだから。

 走る度にベルゲンで生きてきた過去を引き裂かれ、それを無視し続ける自分の心までも千切れていく思いだった。

 隣にあったはずの平穏が、雲よりも遠くにあった。見慣れた故郷の街を走っているというのに、無味乾燥とした氷上の世界を走っている感覚に襲われてしまう。

 

 家に辿り着いた。

 総て忘れ去りたかった。ドアをこじ開けて自分の部屋に向かう。

 ベットで毛布に包まって、祐一が総てを解決してくれるのを待とう。それが非力な人間の限界なのだから。

 部屋のリビングに入ってそこから繋がる階段を登ろうとした。そこで足が止まった。階段を一歩だけ登ったところで足が止まった。

 

 窓から入る陽光に照らされてリビングはよく見えた。だから()()もよく見えたのだ。

 

 目を瞑った。正気ではいられなかった。石に変わり果てた母を見てしまえば、狂ってしまうと思ったから。

 指を噛んだ。強く噛みすぎて血が漏れ出た。

 

 ──天にまします我らの父よ。

 ──願わくは、御名をあがめさせ給え。

 ──御国を来たらせ給え。

 ──みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

 

 ──我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

 ──我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。

 ──我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

 ──国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。

 

 ──Amen。

 

 十字を切って祈った。もう縋るものが神様しかなかったから。食事の前のお祈りは欠かさなかった。ミサにも毎週通った。

 それでも全なる父はお救いにならない。

 逃げ、逃げなきゃ……後方から迫る闇をふり払うように逃避の言葉が幾度となく口をついた。

 玄関先で蹴つまづいて転げた。立ち上がろうとしたけど、足が棒に変わったようで、衣服が鉛に変わったようで、指さえ動かせなかった。

 

 このままじゃ、逃げられ…………どこに? 

 

「逃げ、る?」

 

 どこに逃げるというのか、この街を捨てて。

 今までなにを守るために、自分は奔走していたのだったか。

 知らず、もがいていた体は動きを止めていた。ふたたび動き出した時、身体全身が小刻みに震えていた。恐怖でも悲しみからでもない激情はによって。

 拳を砕かんばかりに握りこむ。震えた喉から出てきたのは、乾いた笑い。

 

「う、ふ、ふふ……」

 

 己はこの夜までいったい何をしてきたのか。

 ベルゲンを守る為に奔走してきたのではなかったか。

 そして覚悟は出来ているなどと言っていなかったか。

 

「逃げるですって? このアタシが? ベルゲンで育ったアタシが、ベルゲンから? パパもママも……リヴも……ブリッゲンの人たちも……クラスのみんなも……石にされたって言うのに?」

 

 長い髪が目元をおおって、ただ髪の合間から覗く口元だけはハッキリと歪に吊り上がっていた。

 顔を上げて、深く息を吸った。肺に空気を満たして、手を振り上げる。

 

「ざっけんじゃないわよ!!!」

 

 大音声を繰り出すとともに拳を地面へ思いっきり叩きつけた。鈍い痛みも、血が滲むのも、かまいやしない。

 ひたすらこの死の充満した世界を、認めるものかと訴えかけた。

 

「神様も救っては下さらなかった……当然よねぇぇ……。──だって神様がこれをやったんだから!」

 

 それで神頼みとは、お笑いだ。チェリーは自嘲気味に肩を揺らした。

 

「いいえ、それ以前に、この街は……このベルゲンは、アタシの縄張りなのよ……アタシが守るって決めていた場所よ! それを見捨てて訳の分からない連中に好き放題させるですって? ──恥を知れ!」

 

 要は彼女はブチ切れていた。理不尽と理解不能のダブルパンチに振り回され、許容範囲を超えたからキレた。ただそれだけ。

 でもそれが良かった。理不尽による怒りが、大いなるものへの恐怖に打ち勝ったのだから。

 ああ、平静さを取り戻す事はもうやめだ。きっと、今、冷静さなんて相応しくない。この騒乱と狂気のなかで冷静さを取り戻すなど、それこそ基地外の行いだろう。

 ならば、激情に身を任せよう。ならば恐怖だって受け入れよう。ならば──怒りのみを心に宿そう。

 一番いけないのは呑まれること。萎えてしまえば、何も出来なくなる。

 心を枯らせばアタシはきっと死ぬのだ。だから絶え間なく押し寄せる波涛に身をゆだねて、意志を切らさぬよう突き進むのみ。

 

「やめてやる」

 

 ひとひらの言葉が風に溶けた。

 

「……やめてやる……やめてやるやめてやるやめてやる! ──振り回されるのは、もうやめるッ!」

 

 それは産声だった。古い己の殻を蹴飛ばして、新たなる強い自分へと生まれ変わった"人間"の産声であった。

 惰弱な色は駆逐され、今は高潔にして強烈な意志があった。

 

「アテナがなによ。サトゥルヌスなんてしらない。カンピオーネだからなに?」

 

「ユーイチは言ってたわよね……ゴルゴネイオンはアタシが持ってるって。それが本当なら……だったら結局、この一週間アタシからゴルゴネイオンを手に入れることも、アタシを殺すことも出来なかった奴らじゃない」

 

 口にしてみると話は単純に思えた。

 本当に彼らが謳われるように神話の軛から外れ、原初の姿に回帰するというのなら一も二もなく自分は死んでいるだろうし、ベルゲンは終焉を迎えているはずだ。

 でも、そうなってはいない。

 ならば彼らのなかにも破ってはならない法や戒律、矜恃があって、彼らもまた不自由な存在なのだろう。

 確かにまつろわぬ神や神殺しも、強力で強大で、人類が総出で殴りかかっても勝ち目のない連中だ。

 だけど、きっとまつろわぬ神も全能ではないし自由でもないのだ。

 

「アンタたちが強くて、アタシなんて歯牙にもかけないって言うんなら、やりようはあるわ……」

 

 例えば、サバンナを闊歩する象が蟻一匹を認識できないのと同じように地を這う人など彼らは認識できない。それが三つ巴などという状況ならば尚更。

 

「見てなさい。アタシに守るものを失わせた報いを受けさせてやる……。

 引っ掻き回して引っ掻き回して、アンタらの企みぶっ壊してやる──!」

 


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