「企みは上手く運んだか祖父殿」
「ふむ?」
祐一たちが遁走したあと、二柱のまつろわぬ神は争うことも追うこともせず呑気にも話し合っていた。逃げた者など何時でもゆるりと狩りに行けるとでも言うように。
「祖父殿。あなたは究極的にいえばゴルゴネイオンは必要ないのであろう? 古の《蛇》は、アテナである妾を初めとした古の太母神に連なる系譜には大きな意味をもち、古の己に至るための道標ではあるが……結局のところ、それだけだ。サトゥルヌスであるあなたにはなんの必要もない」
「浅薄だな。確かにそなたの言は正しいやもしれぬ……しかし、古の《蛇》を質としてそなたを従えてもよいし、鋼として蛇を喰らい滋養としてもよい。使い道など腐るほどある」
「しかし、あなたの目論見の成就にはまったく
「!」
「ふん……もう猿芝居も止めよ祖父殿。興が冷める」
サトゥルヌスの驚愕にアテナは冷たい視線を向けた。
「あなたは時の権能を獲た
返答はない。返答はない……が、弧を描く口元をみれば誰もがサトゥルヌスの本心を分かろう、というものだった。
「あなたの企ての深いところは知らぬし、興味もないが、どうやらあの神殺しに執心しているらしい。神殺しと古の《蛇》を求めるあなたと妾は手を組むにさしたる障害はないと考えるが……如何か?」
○◎●
追ってこない。
後方に意識を向け、神様や神獣らのセンサーといっていい神殺しの身体が反応せず、ふたつの強大な気配が同じ所にとどまっているのに不審な顔を浮かべた。
だが、今は丁度良かった。どうせ逃げても追いつかれるし逃げ切ったところで状況は好転しないだろう。何処かで迎え討たなければならず……それに相棒へも告げなければいけないことがあった。
「ちょっと雰囲気変わったかお前?」
気休め程度だが身を潜められる木陰で、やっとチェリーを下ろした。
運ばれている間、周囲を見渡して常になく黙り込んでいた彼女はどうしてだろう……暗澹たる状況だというのに瞳には意志があった。
祐一の言葉にやっと瞬きをしたチェリーは、少しだけ苦笑いを残して、でも真っ直ぐに祐一へ目を合わせてきた。
「守りたかったもの全部失っちゃったんだもの、雰囲気のひとつやふたつ変わるわよ。……それより答えて、みんなは元に戻るの?」
祐一は答えなかった。目を逸らすのに失敗したように深く瞑目した彼を見れば答えはわかった。
「黙ってるのはうなづいてるようなものよ。……でもアンタの口から聞きたいわ、だって巻き込んだのアンタでしょ」
穏やかだけど厳しい言葉だった。糾弾はされたことがあっても、優しく問い掛けられるのは初めてで……ぐぅの音も出ないな、と目を開けて小さくうなづいた。
「……その通りだ。俺はアテナの呪詛を解く方法を知らない。俺の太陽の眼は、対抗はできるけど解呪はできないし使えそうな知恵の剣も奪われてる。……現状、手立てがない。情けないことだがな」
チェリーは頷くだけだった。ただ、喉が低く鳴ったのを聞き逃さなかった。
彼女の胸中はいかばかりか。ベルゲンだけではなく……でも、現状を、彼女に伝えなければならない。彼女が置かれている現状を。
彼女と目線を合わせて瞳を覗き込んだ。
「チェリー、落ち着いて聞いてくれ」
今度こそ真正面からチェリーの瞳と向かい合った。
「俺たちが今まで探してたゴルゴネイオンは……実は。お前の中に、ある。それも……お前の、
「心臓、に」
「ああ」
彼女は少し驚いて事実を確かめるように胸元へ手を置いた。彼女の脈動を続けるその部分に、探し求めていたゴルゴネイオンがあるなどと祐一自身信じられない。
でも彼女はどこか得心がいったのか、うなづいていた。
「うん、なんとなく判るわ。ちょっと前から……かな? そうね、ゴルゴネイオンを拾った夜からだった。鼓動を打つたびに違和感があったから」
「多分、そうだな。アテナが言うにはその夜にゴルゴネイオンを埋め込まれたらしい」
「そう……だったらあの時ね。ビアンキに意識を奪われて倒れちゃった時に……アタシのなかにゴルゴネイオンは埋まっていったのね」
「…………」
「あの日から変な感覚はあったの。……ペンダントが奪われたからかなって思ってけど……ゴルゴネイオンがあったからなのね」
ゴルゴネイオンの所在を確信して、彼女は訊ねた。
「取り出す方法は?」
すぐには答えられなかった。彼女を取り巻く現状は、強い意志が売りの祐一でさえ多くの決意と思慮を要した。
『娘。古の蛇はおぬしの心の臓と深く……』
「叢雲」
割って入るように叢雲が説明し、祐一はそれを声で制止した。意図は察していた。酷薄な真実を、叢雲が代弁しようとしたのだろう。
でも許さなかった。これは自分の役目だ、と祐一は唇を引き結んだ。
「……ゴルゴネイオンはお前の心臓と一体化しちまってる。取り出すには、心臓ごと抜き出すしかねぇ」
「要するに、ゴルゴネイオンを取り出すには心臓ごと……つまり取り出したらアタシは死ぬってことね」
祐一は肯定するように俯き、そして首を振った。
「それだけじゃない。俺たちは今晩、三人の誰かがゴルゴネイオンを
「どういうこと?」
「そういう契約なんだよ。あの夜、サトゥルヌスとアテナと俺、俺たち三人はゴルゴネイオンを奪い合っても絶対にゴルゴネイオンを手に入れられない運命を察知してしまった。今となっちゃぁ……何が真実だったのかも分かんねぇけど、でも、だからそれを覆すため……俺たちが必ず誰かの元へ渡るよう仕向けるため、結果を固定して因果を歪めたんだ」
気づかない内に言葉が長くなって、意味は迂遠なものになった。彼女に真実を語るのを厭うよに口は滑った。
でもチェリーの瞳に理解の色が浮かんでいて、正確に理解出来ているのだろうと上唇を噛んだ。
「つまり、ゴルゴネイオンはアタシの元から必ず離れる、のね。アンタがそんな顔してるってことは、心臓も一緒に」
「ああ……そうだ」
過去が呪わしかった。
軽々に神の企てた契約になど乗るべきではなかったと切歯扼腕する……でも全ては遅きに失した。
全てはあの夜には決まっていて、結果を定めたあの夜には、彼女の終わりも定めらていたのだ。
俺はこの子を殺したも同然だ、言い訳はしないが……祐一は己への怨嗟を止めらなかった。まつろわぬ神への糾弾はそのまま自分に返ってきた。祐一もまた彼女殺しの共犯なのだ。
「避けられないの?」
「すまん。俺には方法が見つけられねぇ……一度歪めた因果をそう何度も歪められるとも思えない。神だったらなにか方法は知ってるかもしれないが……奴らが手伝ってくれるはずもない」
淡々と、彼女は問い続けた。
「時間は?」
「今夜の零時」
余命はもう半日もなく暗澹、といってあまりある惨状に、しかし、彼女は絶望などしなかった。
「そ。だったら……アタシはアタシを貫くだけよ」
「怖く、ないのか?」
「怖いわよ、当たり前じゃない。なんでって思いもするし、ふざけんなって怒りたいわよ」
当然でしょ、と呆れたようにいうチェリーには悲壮感など感じられなくて運命を受け入れて、それでも、最後の最後まで足掻き続けるという決死の意志を瞳に宿していた。
彼女の瞳は澄んでいる。……けれど祐一をもってしても、呑み込まんばかりの意志が燃え盛っていた。指で祐一の胸板を数度叩いて、綺麗に笑った。
「でもね。アタシにはもう護るものも、縋るものもないから。だから、アタシはアタシのやりたいことを好きな様にやるだけよ」
あくまで気ままに、どこまでも自分勝手で奔放に、それでも自分を見失わないくらいに。
決死とは死を覚悟した先にあるものをいう。けれどチェリーはそれを帯びてもなお、これまでの日常や夜と変わらない態度で臨んだ。
「ユーイチ、アタシは今夜死ぬわ。だったらこの命は、ベルゲンを救うために使って」
「そんな顔しないで、それアタシの使い道だって捨てたモンじゃないわよ? ゴルゴネイオンをアテナとサトゥルヌスが奪いに来るっていうなら、引っ掻き回せるわ」
「ね。これがアタシたちの結んだ本来の契約だったでしょ? アタシが逃げて、アンタが狩る。これまでと何も変わらないわ?」
「そして、だから、必ず勝って──この三つ巴に。できるなら……ベルゲンを救ってあげてね」
言葉の間、チェリーは笑っていた。なんてことはないように。だけど祐一には理解る……彼女がどれだけ決意の下にその言葉を紡いでいるのか。まだ人間だった頃の自分に、彼女が重なった。
死なせたくない。
祐一はここに至って認めた。彼女は戦士であると。
女だとか、非力だとか、関係ない。これほどの心の強さをもつ者などどれほどいるだろうか。
この土壇場でこれだけの覚悟と意志を保てる者など自分は知らなかった。故郷を奪われれば自分ですら怪しいだろう。
一時の短い間の相棒。
仲間でも味方でもないけれど、共に轡を並べた戦友として、死なせたくはなかった。
──
そして祐一の脳裏にひとつの策が閃いた。いや、策と言っていいのかも疑わしい……でも彼女を数刻生きながらさせる一つの手段。
「だったら、せめて
握っていた拳を開く。手品のように手のひらに火が瞬いた。淡い火は、光となって彼の手のひらで漂い続ける。弱々しくとも決して消えず翳らない光だ。
「これは?」
「俺が冥府から持ち帰った光で、火の宿った松明さ。生命の象徴。不滅の証。この火が燃えている限り、お前は死なない」
これこそ死を恐れながらも立ち上がった戦友に贈る祝福だった。かつて己自身が、盟友から贈られたように。
ごめんパルヴェーズ、ラグナ。俺はお前たちが贈ってくれた祝福を手放すよ……。
『ミスラの松明』もヒューペルボレアで持ち帰った《火》も……どれもが自分を語り、形作る上で大切なものばかりだ。
でもそれを手放し、贈ってでも彼女には、数秒でも長く生き長らえて欲しかった。
そんな大層なものの割にはちょっと頼りないわね、クスクスと笑って……すぐに瞳に怜悧な知恵の光を宿らせた。
「死なない……か。でも裏があるんでしょ? そんな美味しい話、あるわけないもの」
「お前の賢さが羨ましいな。でもちょっと残酷だと思うよ……。
ああ、そうだ。この火が消えない限りお前は死なないが、この火が消えればお前は死ぬ」
「何時?」
「明朝。多分、朝日が登れば消えるはずだ……太陽は世に二つもないから」
「上等じゃない。アタシの寿命は12時に終わるのが定めだったんでしょ? だったら十分どころか上の上よ」
からりと笑って、チェリーは手を差し出した。
こんな方法でしか彼女を延命できない自分が悔しかった。忸怩たる思いを抱え、うつむき謝罪の言葉を口にしようとして、唇に指を添えられた。
「いらないわ」
小さく首を横に振った。
「それに、それ言ったら、きっと怒るわ。怒ったアタシはアンタに協力もしないで勝手に逃げて、勝手に野垂れ死ぬわよ?」
「そりゃあ……困るなぁ」
「だったら頼んなさいよ。アタシはアンタの仲間でも味方でもないけど」
「ああ、今日まではお前は俺の相棒だ」
「ずっと痼だったのよ。対等な関係だっていってもアンタに寄りかかったままで……だけど今度はアンタが頼んなさい。アンタはサトゥルヌスと因縁があるみたいだし、アタシはアテナに用があるわ。だったら……」
「ああ、わかってる」
「うん。アンタがサトゥルヌスを倒す間、アタシはアテナを引き付けてあげる」
光が彼女の腕を通って、ゴルゴネイオンのある心臓で留まった。たとえ因果によって彼女からゴルゴネイオンが喪われても、明朝まで心臓の役割を果たす。
いつかのようにタッチを交わし、二人は真反対の方向へ走り出した。
○◎●
サトゥルヌスは識っていた。
現在から伸びる無数の未来のなかで、多くの場面でこの先に祐一が待っていることを。
木々を抜い、悠々と歩く。
横溢した闘気と、苛烈な死の気配が、草木を枯らしそれだけで死の大地が生まれた。
サトゥルヌスは賭けに出ていた。
時の神サトゥルヌス。あらゆる時は己であり、全ての時間軸に存在する彼は擬似的な全知ともいえる。広大無比な時に横たわる己。
しかし全にして一。過去と未来が全ならば現在という概念が唯一無二なもの。……つまり時に遍在するサトゥルヌスだからこそ唯一無二の現在には"必ず"存在しなければならない。
故にサトゥルヌスは未来を知り、求める未来があろうとも一足飛びに辿り着くことを許されず、全てを知った身でありながら、未だ"たどり着きたい未来"への途上にあった。
つまりサトゥルヌスは全ての未来と過去を知りえながら、望む未来を選び取らなければいけない立場にあった。
「我求るわ──の未来」
無数に遍満する未来。次々に到来する選択肢。
あらゆる未来を見通し、あらゆる知恵を駆使し、サトゥルヌスは
選んだ、とはいっても未来は無数にありそれこそ蝶の羽ばたきひとつで別の未来に置き換わる可能性もあって……実際、望まない未来へ進んだ己がいた事もサトゥルヌスは知っていた。
ゆえに、賭け。
あらゆる根回しと、無限の試行錯誤と、暗躍の果てにサトゥルヌスはこの先に待ち受ける未来を望み、勝ち取れる権利を得た。
ローマのサトゥルヌス神殿に降り立ったのも、ゴルゴネイオンを奪いアテナを誘引したのも、ベルゲンを決戦の地としたのも、因果を歪める宣誓すらも、すべては仕込みであり同時に賭けだった。
現状上手く進んでいるといっても良かった。
祐一は無知のまま望む方向へ突き進み、ベルゲンは石と変わり、アテナとの話は付いた。
もうすぐだ。逸る気持ちを抑え──唐突に開けた場所へ出た。
いや、木々が切り倒されていて闘技場とされた場所だった……これも何度か"観た"未来で。
その中心でひとり佇むのは剣を佩く少年だった。月なき夜気の満つる場所であっても、彼の紅い眼は鬼火のごとく光を放った。
サトゥルヌスは時の神であり、同時に、死の神でもある。それは冥府より《闇を持ち帰った者》となり決定づけられた。
だからこそ、闇があれば光があるように宿敵は《光》を獲た。
だからこそ、対極をなす《光》の存在を感じ取れた。
だからこそ、祐一が《光》を持っていないことを感じ取れた。
「そなた……もしや《光》を捨て去ったのか」
サトゥルヌスは咽喉を震わせて問いかけた。だが喉を絞って出た言葉は、かすれ声になってしまっていた。
それでも宿敵の耳には届いたようで、気づいたか、と困ったように頬をかいた。
「捨てた訳じゃないけどな……。ああ、手放したよ。ヒューペルボレアで手に入れてあの《火》は、相棒に贈った」
欲していたあんたには悪いことしたなサトゥルヌス。と微苦笑する少年。
サトゥルヌスは震えた。怒りではない──
この未来こそ全知であり、総てが既知と化したなかで己が欲した世界だった。瞳から溢れ出した滂沱の涙は、頬を伝って白く豊かな髭を湿らせた。
驚く祐一に構わず、大地を揺るがす歓喜の声をあげた。
「あの《光》を手放したかッ! 木下祐一よ!!」
瞠目した祐一がまたたいたあと、瞳に剣呑な光を宿すと獣が唸るような声を発した。
「……まさか今から奪おうってのか。アイツに贈った《光》を……ッ」
「馬鹿なッ、そのような
理解が出来ず訝しむ祐一を一蹴しつつサトゥルヌスは胸を逸らして叫んだ。
ああ、我が宿敵よ。知らぬならば応えよう。望むならば教えよう。
我らに枷られた"永劫の宿業"を……神殺しであるそなたとまつろわぬ神である余ですら逃れえぬ──今は消え去った宿業を!
「ヒューペルボレアにおいて我ら二人は、"光と闇"を持ち帰った。
そなたは《光を持ち帰った者》として、余は《闇を持ち帰った者》……そして神々ですら死を齎す冥府より獲得した強大な力は、我らを"果てなき闘争"に誘った」
不死である神すら死を与える冥府。その聖域から力を持ち帰ったならばそれに準じる力を獲るのも然り。それは
どれも比類なき力でまつろわぬ神や神殺しである彼らですら多大な恩恵と影響を受けることができた。
しかしサトゥルヌスはそれを歓迎しなかった。
「光あるところに闇はあり。そして、逆もまた然り。時の司たる余は現在という唯一無二の概念に縛り付けられ、その上で、現在とは相克たるそなたのいる時間軸……」
祐一の眼前にサトゥルヌスが立った。完全な間合いに入ってなお、二人は戦わなかった。
争い合うべき老人と少年の対峙は、本来ならば間隙すらなく殺し合うのが定めだった。さながら出会えば反撥する永久磁石のように。
サトゥルヌスの告白が祐一の衝動を抑えこませた。今までなら顔を合わせれば殺さずにはいられない、そんな衝動が心を占めたのに。
「我らは陰陽。決して離れられず、決して終わらず、決して滅びぬ。それを表すように完全なる不死と化した余に呼応し、そなたも無欠なる不滅を獲得してしまった」
「俺が、アンタのような不滅を……?」
「左様……──判るかッ!? 光と闇は反撥しあい、争うもの……そして我らは決して
不死と不滅による永劫続く、終わりなき戦い。
まるでゾロアスター教の神話にあるアフラ・マズダーとアンリマユの戦いのように、祐一とサトゥルヌスは陥ったのだ。冥府という深淵にて、比類なき力と蘇りを果たしたものたちが支払うべき代償こそがこれ。
つまり彼らの戦いは──
「──未来永劫、終わらぬものとなったのだ!」
そして多くの時間軸において祐一は《光》を手放さなかった。
神具である『ミスラの松明』は友から贈られ、逝ってしまった友のよすがであったから。《光》はどん底に落とされながらも答えを見出し示した"救世"への決意の証だったから。
……そして、もうひとつの理由から決して手放す訳にはいかなかった。
サトゥルヌスもまた己に科した使命や妄執を振り払うことは自己の否定に繋がり《闇》手放すなど出来ず……故に彼らは永劫戦い続けた。どこまでも続く手口のない無限螺旋にいたる未来が
だが、そこへは至らなかった。
サトゥルヌスがそれを良しとしなかった。あらゆる可能性を鑑み、見出し、思考し、冥府の呪いを覆したのだ。
そして《光》が喪われた今、サトゥルヌスはひとつの事が許されるようになった。
「そなたが《光》を手放したならば、余もまた《闇》を手放そう……」
襤褸を羽織ったサトゥルヌスの巨体から、底冷えする冷気に包まれた《闇》が漏れだす。黒と紫の集合体は、風にゆらされ弾けて流れてどこかへ消えた。
光がなければ闇は生まれない。ならば。
「宿業は、ここに、消え去った」
感無量であった。
誰もが理解できない……全知である彼のみが知り得る歓喜に打ち震えた。
祐一は呆然とその姿を見送った。
「不可解だと、思っていたんだ……。冥府から黄泉帰ったあんたは強くて、俺の寝首を掻くことくらいやってのけると思ってた」
遍在する時はサトゥルヌスならば、と祐一は何度も疑問に思った。まつろわぬ神を憎めども侮りはしない彼だからこそ、サトゥルヌスへの警戒は一入だった。
「宣誓をやった夜、腹をかっさばかれた時だって『雄羊』じゃ生き残れるか怪しいくらいの死毒で、死ななかったのは正直おかしいって思ってた」
サトゥルヌスの神具『ハルパー』は、太陽神であり農耕神サトゥルヌスが死んだことによって生まれた。神を蘇らせるなんてとんでもない代物だった『サトゥルナリアの冠』が反転したような神具。
だからこそ『
それは死の象徴と言ってもよく、不死や蘇りの権能があろうと無為に返すほど強力なものであった。その神具によって致命打を受けたのならば。
「でも違うんだな……。あんただけじゃなくて俺まで死ななく……いや、死ねなくなっていたのか」
祐一は少しだけ項垂れて、そしてサトゥルヌスに対して畏敬の念を抱いた。
「俺たちは死ねない。片方が生きている限り死ねず、決着は付かない。使命に燃えるあんたにとっては地獄のような状況。そして……」
祐一は唇を噛んだ。
「そして、サトゥルヌス。あんたは俺と決着をつける為だけに……この場所に到る為だけに……」
気圧されそうになった。
サトゥルヌスという宿敵の大きさに。
数多のものを失いながらも雄々しいその姿に。
そのすべてが己との決着のためであると理解して。
死と時の神。
そうとも、字面にすればなんと手強そうで、強大に思えるだろう。だがサトゥルヌスは元々、神王であり、太陽神ですらあったのだ。
敗北し凋落し零落し、また喪い奪われたその果てで、彼は最後に残った死の神性すら捨て去ったのだ。
すべては前座に過ぎない筈の祐一と──ただ一度の決着をつけるために。
「何故だ」
祐一は問いかけた。
「なんであんたは俺にここまでできる? あんたの目的は、護堂さんで、その先にいる白蓮王だったはずだろう。やろうと思えば一足飛びに挑めたはずだ。それなのに」
祐一の疑問にサトゥルヌスは不自然なほど穏やかな声音で返した。加えて出来の悪い生徒に、ものを教えるような表情も浮かべて。
「違うのだ木下祐一。余がもしも"時"としての神性を獲得せねば、そうしていたやもしれぬ……」
「時?」
「そうだ。時の神性を有した余が、全知にも匹敵する知識を得る運びとなったのはそなたも知っている通りであろう。……そしていくつもある一つの未来で、そなたに
サトゥルヌスが指先を祐一の額に伸ばした。彼の神の手は大きく、指は長大であった。望めば一息に屠ることも叶う節くれだった指を、祐一は避けることをせず向き合った。
「かつて辿るはずだった未来で、そなたは語った。余とそなたは光と闇などという力を獲る以前から、同じ場所に居るのだと。
それまでの余は、そなたの言うように草薙護堂や麗しき神殺しへの打倒を阻む前座としてしか捉えおらなんだ」
それは何度か経験した、霊視の感覚だった。でも頭痛や祐一に不利になものは一切現れなかった。
額に当てられた指からひとつの情念がなだれ込んでくる。
これは……サトゥルヌスの記憶。いや"過去"のサトゥルヌス記憶か。
眼前に立つ"今"のサトゥルヌスより、より無知だった頃の記憶。彼にとっての原記憶なのだ。
太陽神にはもはや至れぬ身なれど、使命は完遂するという烈火の決意。麗しき黒髪の神殺しへの慕情にも似た殺意と、草薙護堂への絶対の敵意。
星の終焉と創成には、凄まじいエネルギーを要するという。それが感情へ変換されたかのごとく、サトゥルヌスの使命への激情と本道に立ち帰れぬ失意は深かった。
そして祐一という神殺しを占める感情は酷く小さかった。
額に当てられた指から、感情のみならず、ひとつの情景がなだれ込んできた。
それはベルゲンで。月のない夜で。月光が必要ない夜でもあった。
ベルゲンは燃えていた。
人など顧みぬ超常の戦いの舞台となって絶命していた。神と神殺しの戦いが終わらない。しかしそれに巻き込まれる世界は甚大な被害を被る。彼らは災厄であった。
「そなたと戦い、戦いの果てにこの地は灰塵と化した。何も残らなかった。人も、瓦礫も、自然も。
それでも決着はつかず、余は早々に見切りをつけ、そなたの元を去ろうとした。そなたを後回しにし未だ未熟であろう草薙護堂の下へ向かおうとしたのだ……しかし……」
燃える街。瓦礫の山に囲まれたなかで、不自然に傷もなく身綺麗な少年と老人が対峙していた。互いに不死で不滅。傷を負うわけがなく、災厄を齎すだけの存在と成り果てていた。
サトゥルヌスは無言で背を向けた。ヒューペルボレアでは欲さずにはいられない太陽の欠片をもつ者だが今では無価値の存在だったから。
荒い息遣いだけが響く荒野で、瞑目を解いた少年が口を開いた。サトゥルヌスは時と死であり闇をも掌握する神。逃げを打たれると追う手段がない。
だがきっとその時間軸の自分に、打算があった訳じゃないのだろう。
『逃げるのかよ……』
サトゥルヌスの足が止まった。
『ベルゲンを焼いてまで戦ったのに。そして俺とお前は同じ場所で《光》と《闇》を持ち帰った、対といってもいい存在じゃないか。それなのに決着がつかないからって理由だけで』
それでも、足が止まっただけで振り向きもせず、心はまだ草薙護堂と麗しき神殺しへ向いていた。
けれど……祐一は焦りもせず、ただ、語りかけるように呟いた。わからず屋を諭すような声音ががらりと変わる。
『なぁおい、サトゥルヌス!』
いい加減気づけよ、と苛立ちを隠さず呟いた。烈火の瞳を迸らせて、背を向けるサトゥルヌスに"逃げるな"と思念を乗せて。
『
サトゥルヌスが振り返った。驚愕と屈辱で彩られた表情を刻んで。
『──だって言うのに、お前は逃げるのか!?』
祐一はついに叫んだ。
『あんたは俺を前座だという! ああ、それもいい……勝手にしろ──だけどなぁ!
その前座さえ踏み越えられないあんたが、護堂さんに挑んでも結果は見えてるだろう!』
『──俺からの勝負に逃げた"腑抜け"のあんたが……未熟だろうが、四肢をもがれていようが、勝てるほど……草薙護堂っていう戦士が甘くはないのはあんたがよく知ってるだろうが!』
その言葉がサトゥルヌスの楔となり、祐一との絆となった。冥府より持ち帰った力は、己の過去を語る。
それだけではなく過去と決別するために、同じ場所に立っていた者を降すことこそ真の決別となる。
そう思えばこそ、彼らが《光》と《闇》を手放さない最大の理由だった。
「そなたを降さず草薙護堂と相対した時点で負け。一点でも非を抱え、曇った余に使命を全うできる道理なし。ああ、まったく腹立たしいほど道理よな……」
光と闇。サトゥルヌスと祐一は、決着はつくことはない……しかし、つけなければならない。なぜならそうしなければ我らは一歩も前には進めないから。無限螺旋に囚われたままだから。
「決着はつけねばならず、しかし、我らは対。どのような因果が加わろうが決着はつかぬ。……だからこそ《光》と《闇》は捨てねばならなかった」
「でも」
「フ、すべてを知っていればそなたは手放したか? いいや、手放さぬ。無知であろうと既知であろうと関係はない。余の策謀なくば手放さなかったであろう?あれはそなたに取って代わりのない……逝った友が遺した絆の証。余にとっての太陽に等しい宝物なのだから」
「……。ああ」
「故に慎重を喫した……思考が及ばぬようアテナを巻き込み、チェリー・U・ヒルトを巻き込み、異界と偽りのゴルゴネイオンとそなたらの絆を絡め──そして
「………………」
「全能ならぬ全知とはなんと不自由なのか!
その叫びは、嘆きであり歓喜であった。果てなき途上で足踏みをしなければならなかったサトゥルヌスの大願成就のための一歩。
「今この時ッ──
「故にこそ我らは真の決着をつけることができるッ!
草薙護堂も素晴らしき宿敵であった、麗しき神殺しも思慕にも似た殺意を覚えた。しかし余はそなたとの宿業を望もう」
祐一は震えた。これほどの武者震いは初めてだった。
輝かしき太陽神であった過去を消され、かつては神王であった栄光すら奪われ、復権の道筋すら失い、妻を贄と捧げ、得たはずの死すら捨て去って……。
言葉もない、飾らずにいうならそれしか言葉が見つからない。
それでもなお、かの神は折れることなく宿敵との死闘を望んだ。使命に身を燃やすことを選んだ。
数多に備えていたはずの神性は、もはや時と『鋼』しか残らず、最後に残った神性である時を司る武神として、敢然と立ちはだかった。
サトゥルヌスが胸を反らして叫ぶ。悲願を果たそうと。
「──
祐一は戦士として最大の誉れを覚えた。
鳴々、眼前の宿敵のなんと雄々しく美しいことか。
サトゥルヌスの比類なき決意と、それを一心に受ける幸運な己に感慨が溢れた。
応えねば。この宿敵に。全身全霊をもって。
「時の神サトゥルヌスよ……あんたの執念と武を競えあえる幸運に感謝しよう……」
「誇り高き敗者の王サトゥルヌスよ。あなたの気高き敗北に、常勝を望む俺は敬意を払おう」
「そして我が最高の宿敵よ! 俺は誓おう──我が全身全霊をもって、貴様を殺すッ!」
──我ら求めるはただ一度の決着。
ウルスラグナ「ズッ友だょ……!!!!!!」
チンギス・ハーン「家族になろうよ!!!!!!」
ヤマトタケル「滅茶苦茶痛めつけ絶望を与えれば答えが見つかるかも……」
天叢雲剣「半身との心中に付き合って!!!!!」
トルコの天使「那由多の時を掛けようが久遠の果てにいる君に辿り着く!!!!!!」
New→サトゥルヌス「我らの永劫続く終わりなき戦いに決着をぉぉおおおお!!!!!!」
やったね祐一くん!『鋼』の激重勢がまた増えたよ!