王書   作:につけ丸

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088:因果の収束点

 瞬間、感じたのは灼熱と衝撃だった。ふくらはぎに受けた衝撃が肉体を引っ張って、勢いを殺しきれず無様に山道を転がった。斜面を転がって泥まみれになりながら足を見れば、一本の矢が突き刺さっていた。

 

「んぬぁあ!」

 

 もう何度目になるか、突き刺さった矢を気合いで引き抜く。馬鹿みたいな痛みに涙が出そうになる。だが、血が出るより早く傷口に火が点って治癒され痛みも消えた。

 これも見慣れた光景と感覚だった。

 

「不滅の火か、神殺しも面倒なことをしてくれる。その火がある限りそなたはどんな目に遭おうが死にはせぬ。……これもモイライどもの仕業か?」

 

 木の枝で立ったままチェリーを見下ろすのはアテナだった。手には弓矢が握られ、矢を放った下手人はアテナであった

 こうして嬲られ続けて、どれくらい時間が流れたか。瞳は夜闇を狩る猛禽のそれで、地を這う鼠の気分を思い知らされる。

 

「しかし仮初の不滅を手に入れたとはいえ、よく粘る。刻限までそなたを磔にし、余裕をもって古の《蛇》を得ようと思案していたが上手くいかぬものだ。フフ、戦女神たるアテナが直々に褒めてやろう」

 

 完全に狩人気取りね、圧倒的な上位者になぶられる獲物の気持ちを食ませられながらアテナを睨めつけ、彼女はふたたび駆け出した。

 息が切れる。もう時間の感覚も曖昧だが、一時間以上走り続けている確信はあった。

 

「愚かよな。潔く敗北を認めれば、痛苦など無縁に居られたというのに……親兄弟同胞たちや街とともに石の骸となり、仮初の死を受け入れれば全ての苦痛から解放され、悩む必要もなかったであろうに」

 

 食い縛った口から血が滲んだ。

 あの女神様にとって自分の言が侮辱や挑発に値するなどと思いもしないだろう。それどころか声をかけているだけで褒美に等しい、とすら考えていそうだ。

 屈辱と怒りに耐えていると、そろそろか、とアテナが呟いた。

 

 瞬く星明かりが次々と光を失っていく……ふと気づいた。夜が影を伸ばし闇が濃い深夜だったから見えなかった。

 木々に止まるフクロウが、茂みに潜む蛇が、アテナの御前にて頭を垂れている。戦士が凱旋する花道にして崇高なる儀式の祭壇を形づくる。これは真なるアテナの復活を予感した眷属の礼なのだ。

 十二時が近い。奔走し続けて時間の感覚を失っていたが、もう終わりの刻限はすぐそこに来てしまった。

 眷属と刻限に応えてアテナの満腔より湧き上がるは、鬼気と歓喜。それらは視認できるほどの圧力を伴い、しかしチェリーにとっては死の予兆に他ならなかった。

 自分には祐一から贈られた不滅の火があるはず。

 だと言うのに冥府への黄泉路をひた走っている感覚に陥ってしまう。だと言うのにドイツの黒い森を走っている感覚に陥ってしまう。

 

 焦燥感に焼かれる。恐怖が背筋で息を吐く。精神が削れると体力の消耗も倍するのものとなる。走っていた足が覚束なって、息が絶え絶えにふらつく。

 それは油断で──ふと、足首に鋭い痛み。

 

 蛇だ。

 

 皮を貫き、肉を押し退けて……牙が突き立てられていた。毒蛇が動きの鈍った少女という獲物を食んだのだ。

 畜生ッ、と悪態をつきながら毒蛇を蹴って、手当する暇もなくふたたび駆け出す。だが上手くいかない……足に尋常ではない熱が生じている。痛覚が消えていく。果てには転げて、地面に叩きつけられた。

 

「無様よな……さて、戯れは終わりだ。妾の見出した匣としての役目を果たせ。疾くその心の臓を差し出すといい」

「絶対、に、嫌!」

「愚かな。自然の理にも従わず、妾の言葉にも逆らうとは……人の愚かさと傲慢はここまで(うずたか)く積もったか。もはや慈悲はみせぬ……妾が真なるアテナとなった暁には、人の世の終焉を望もう」

 

 もう何度目になるか、神の言霊を振り払う。その様子を興味深そうに眺めながらアテナが左手を差し出した。そこから闇が生まれ、蛇の形を成して、少女に取り憑く……それでも死なない。死ねない。振り払うことも出来ず、冷気と毒を浴び続けた。

 死毒が頬を紫に変色させていく。吐く息は青い。指先から黒ずんだ皮膚が剥がれて腐臭を吐く。

 

 

「お、愚か、愚かって!」

 

 それでもなお、彼女は気丈だった。

 

「そんなんだから、あなたは、人間()()()に足元をすくわれるんでしょうね!」

 

 青い息を吐きながら嘲弄する声を掲げる。アテナは一切の反応を見せなかったが構うものか、反応しないならそれはそれでいい。

 

「アタシが今までただ逃げてるだけだと思ってた? だったらお笑いね、知恵の女神なんて看板も名前負けもいいとこじゃないッ」

「ほう……?」

「だって、アタシの考えを見通してたなら戯れなんてしない筈よ!」

「──愚かさも過ぎれば不遜だな」

 

 傲岸にのたまう少女にアテナが背後から急襲した。

 避けれたのは、反射だったのか、直感だのか、それとも運命だったのか。だが確実に言えることは、チェリーは女神の一撃を()()()()()

 それこそ未来へ到る条件のひとつ。

 宣誓の因果はまだ残っているか、アテナは舌打ちした。

 

「そなたの企てだと? 非力なそなたに出来ることなどたかが知れているだろう。それに考え違いをするな。そなたにまだ息があるのも妾が戯れに生かしているのと、宣誓の影響という望外の幸運ゆえ」

「……」

「そうやって妾を挑発し、未曾有の危機に己を突き落とすことで神殺しめを権能で呼ぶつもりだったか? 

 しかし、彼奴は来ぬよ。妾と祖父サトゥルヌスは盟を結び、彼奴のもとに死神が向かったのだ……逃げおおすことなど如何に神殺しであろうと難事。死とは決して逃れられぬものなれば」

 

 耳を貸すな。

 言葉を吐けば悟られる。

 顔を見せれば気取られる。

 今はただひたすらに前に進め。

 

 ──ぴぃん。

 

 転がり、泥だらけになった先……違和感を覚えた。まるで世界が張り詰め、異界に迷い込んだかのような感覚。

 時間の感覚が曖昧になって、アテナの気配が消失する。走っているのか、動いているのか、存在しているのかすら曖昧になって、朦朧とする意識のなかでチェリーは()()()()()を幻視した。のっそりと影から這い出してきた人物は、チェリーに目を合わせゆったりと語りかけた。

 

『チェリー・U・ヒルト。誇るが良い』

 

 人物は闇色の襤褸をたなびかせる老人だった。サトゥルヌスが現れた……チェリーは最初そう思った。

 ただ、おかしい。違和感と確信があった。

 眼前に現れた老人は、サトゥルヌスであってサトゥルヌスではない。そんな違和感と確信があった。

 それにアテナの言を信じるならばサトゥルヌスは祐一のもとへ言ったはず……なら眼前の人影はサトゥルヌスではないのだろう。

 確証はないが確信だった。

 

「誰、あなた?」

 

 誰何の声に答えず、その老人は低く笑って少女に賞賛を贈った。静かでゆったりとした挙措で手を叩いて拍手を送った。不可解さと不気味さが拭えず、チェリーは尻込みしそうになった。

 

『チェリー・U・ヒルトよ。未だ何者かも定まらぬ、何者でもない、運命を知らぬ少女よ。此処までたどり着いたお前は、()()が初めてだ。そしてお前の人生に於いて、此処こそが最大の分水嶺』

 

 サトゥルヌスの姿をした老人は拍手を止め、チェリーに危害を加えることも無く、泰然と佇んで静かに語りかけるのみだった。

 

『だが』

 

 あれはサトゥルヌスではない。少なくともチェリーの見たサトゥルヌスではない。

 ではなんだろう。疑問を覚え、途端、霊視が降りた。

 

 あれは彼の神に酷似した闇。

 死の結晶。

 命を刈り取る者。

 そして生を刈り取り、死を與えるがゆえに、()()()に現れる者。

 そして分岐点そのものがあの死神なのだ。

 

『この先に待ち受ける未来に安住はなく、安眠など望むべくもないと知れ』

 

『早々に夢敗れ、己が変わり果てた骸を荒野に打ち捨てるのみと知れ』

 

 サトゥルヌスの姿をした"なにか"が抱擁をするようにかいなを大きく広げた。呼応するように闇色の襤褸が体積を増していき、陰翳を揺らめかせる。

 襤褸のなかでスクリーンに映し出された映画さながらに未来が描かれはじめた。それはいくつかの情景。でもそのどれもが己の死を示していた。

 腹に鉛玉をぶち込まれて死ぬ。首をナイフで掻き切られて死ぬ。体を唐竹割りにされる。

 どれもが無残な亡骸を晒して、これから突き進む路の末路に、ろくなものはないのだとどうしようもなく語っていた。

 それでも進むのか、と言外に問うているのだこの老人は。

 

『畏怖れば喰われるぞ』

 

 一歩を、踏み出す。

 

『観れば盲るぞ』

 

 一歩を、踏み出す。

 

『聴けば腐るぞ』

 

 一歩を、踏み出す。

 

『触れれば死ぬぞ』

 

 一歩を、踏み固める。

 

 反響する言霊と暗澹たる未来を、時間を引き伸ばしてまで延々と見せられる。観客席でベルトに羽交い締めになって、頭を固定され、眼球をこじ開けられ、決して目を逸らせない。

 それでも少女は踏み進んだ、恐怖を蹴散らして蹴飛ばして──死神に手を伸ばした。

 

「黙れッ、アタシはそれでもッ」

 

 暗澹たる未来? 

 安住? 

 安眠? 

 

 ──知ったことか! 

 

 今、この時。故郷は石の骸となっいて、親も友人も悉く仮初の死を獲ている。今更、自分に待ち受ける試練がなんだというんだ。そんなもので翻させれると思うな。決死とは死を覚悟した先のものを言うのだ! 

 

『ならば死を賜う神たる余が祝福しよう』

 

 笑うように。

 

『ならば生を刈る神たる余が認めよう』

 

 嘆くように。

 

『余は死の象徴。死が濃密であればあるほど、生は輝きを増す。深淵に咲く一筋の光の如くに』

 

『一夜の担い手よ。──余がそなたの生を一等輝かせん』

 

 闇がほどけて本来の姿を現す。

 夜に隠れていた一振の刃を少女は見つけ出し、掴み取った。余人にとっては、絶望……。

 

「従えッ──ハルパー!」

 

 少女にとっては──希望を! 

 

 祐一に切り飛ばされ吹き飛んでいた死の具現を、彼女は求め、掴み叫んだ。

 刃が大きく湾曲し、剣よりも鎌に近く……それ故に神話においては不死の神々ですら効力を発揮すると謳われる死の象徴。そしてハルパーはその装いをこれまでより異にしていた。

 大人の背丈ほどはあった大鎌(サイズ)は、刃渡り三十センチ程のシックルへと変じていた。

 

 チェリーは今までハルパーを見つけるために奔走していた。祐一がサトゥルヌスを切り飛ばした際、飛んでいくハルパーを見たのだ。

 祐一に背負われサトゥルヌスから逃れる際、不自然なまでに無言を貫いたのも戻るための道を覚えるためだった。

 逃げ道ではなく活路を。

 まつろわぬ神々への対抗手段は限りなく少ない。だから彼女は急転直下を続ける苦境のなかで、彼女はひたすら状況整理に務めた。

 神ですら無視しえない武具が飛び交う戦場……だからこそ、人である自分にもいつか手にするチャンスが訪れると確信して。

 元の持ち主であるサトゥルヌスが拾うかどうかは賭けだった。それでも賭けに勝った。ハルパーは手の中にある。

 

 ハルパーを手に入れると、手のひらに激痛が生まれた。

 本来ならば冥府の冷気が凝縮され、死の具現ともいえるそれに触れれば定命である人など瞬く間に生を終えるはず。神々ですら当たり所が悪ければ死するのだ、当然の理。

 しかしチェリーは躊躇いもせず恐れることなく、触れ、握り、そして構えた。アテナへ向けて。

 

「アタシが今、どんな目に遭っても死なないっていったのはあなたよ!」

 

 心臓から沸き立つ不滅の火が、滅相の冷気と拮抗している。ヒューペルボレアという異界から持ち去られた火でもって、ハルパーの冷気を押さえつけた。

 祐一も、アテナも、誰も立ち向かうなどと考えてはいなかった。零時になるまでの時間稼ぎをしてくれれば、足掻く姿を見せてくれれば、それで御の字だと……そう思っていた。

 だがチェリーは違った。どんな理不尽が襲ってこようが抗うために走った。まつろわぬ神に敢然と立ちはだかった。

 

「ほう、ハルパーか。先刻まで気配を見せなかったが……そなたの手に顕れたか。なるほど、我が祖父の鎌であれば妾をあるいは傷つけれるやもしれぬな。

 しかし闘神アテナに剣一本で挑みかかるつもりか? 如何なる戦士も憚った蛮勇にも劣る愚の極みだぞ?」

 

 アテナの嘲笑を、彼女も笑い飛ばした。

 

「いいえ! アタシは──()()()()っ」

「企みがある、というわけか。しかし娘、その見事なる意気も意地も意志も無為に終わる。全ては遅きに失した……」

 

 暗夜の森のなかでアテナの眼光が満月さながらに浮かび上がる。闇はいっそう濃くなり、夜気が朝焼けの霧さながらに辺りに満ちる。銀月の髪がうねり蛇のごとくのたうった。

 異界の源は夜と蛇。

 祐一との出会い以降、常に這い回っていた気配を纏う女神は今夜の"異界の主(歪み)"に思えた。

 

『獣』の眷属──ウルフへドナー

 

 御伽の魔物──一つ眼トロール

 

 土地の神獣──リンノルム

 

 白熊王──ヴァレモン

 

 そしてまつろわぬ神──女神アテナ。

 

 ああ、確かに段階を踏んでいる。歪みの根源ともいえる。全ての元凶だ。物語の終着に蓋をする怪物だ。

 だが神獣からまつろわぬ神とは一足飛びに飛躍しすぎではないか。

 強大な冥府の気配にチェリーは後ずさりそうになった。

 

「刻限は来たれり。神殺しも祖父もこの場には居らず運命は妾を選んだ。──我、ゴルゴネイオンを得たり!!!」

 

 人など歯牙にもかけないと傲岸に宣告した。

 

「──()()()()()()!」

 

 それを阻んだのは誰であろうチェリーだった。ハルパーをアテナへ向け、まつろわぬアテナが何するものぞと声を張った。

 

「アテナ。あんたに……いいえユーイチにだって、ずっと言ってやりたいことがあったわ。

 あんたたちってホント舐めてるわよね。まつろわぬ神とかカンピオーネとか、出会ってからみぃーんな言ってることが一緒なのよ。口を揃えて人間がとか、死ぬぞとか、関わるなとか、諦めろとか……」

 

 大いなる存在を前に人に許された対抗手段など少ない。そしてそのひとつは"言葉"なんていう武器ですらない概念で。

 チェリーは億さず、躊躇うことなく嘯いた。

 言霊は偉大だ、神様を前にしても勇気を取り戻してくれる。この窮状では減らず口だって大いなる言霊だった。言霊は鼓舞だった。

 

 シックルとなったハルパーを大きく大上段に構えた。

 

 始めよう! 

 

 乾坤一擲、起死回生の一手を! 

 

 気取られるな、口を回せ! 

 

 

 思う存分侮ってくれ──!!! 

 

 

「ふん、アタシにそんなの関係ないわ。運命や因果なんて知ったこっちゃない。アタシはアタシの好きな様にやるだけよっ」

 

 チェリーは振りかぶったまま大きく大地を踏み込んだ。窮鼠猫を噛むという故事のごとく、泣きの一撃にアテナは慈心を見せた。

 愚かな人間の足掻きを受け止めようと、動き止め、手を掲げ──それこそ活路が拓けた瞬間だった。

 

「人だからとか女だからとかそんなのどうだっていい───()()()()()()()!」

 

 そのままハルパーを振り降ろした。──()()()()()

 

 

 

 

 ○〇●

 

 祐一とサトゥルヌスがヒューペルボレアの冥府の谷から持ち出した《光》と《闇》。それは相克する属性でありながら、どちらか一方が生き残ればまた片方も生き残るという永続性を備えていた。

 ゆえにサトゥルヌスは幾つもの策略をもって祐一から《光》を引き剥がさねばならず、引き剥がしたあとは彼自身も《闇》を捨て去った。

 

 永劫の戦いすら可能にさせる両翼一対の力。

 しかし、勝ち取った彼らはそれらを捨て去り──では手放された《光》と《闇》はどこへいったのだろうか? 

 

 霞のごとく消えたのか? 風に溶けて消えたのか? 

 いいや、そうでは無い。

《光》は消えたわけではなく贈られた──少女の延命として。《光》があれば《闇》もあるように、《闇》もまた捨て去られたあとも存在し続けた。

 

 ではどこへ消えたのか? 

 あるではないか"死の具現"と称され冥府の闇を宿すにふさわしい器が。ヒューペルボレアでサトゥルヌスが死を迎える事で顕現した神具が。

 サトゥルヌスが不死ならば祐一も不滅。そして祐一が『ミスラの松明』を持っていたように、対となるサトゥルヌスも神具を持ちさった。

 己の死によって形作られた死の結晶を神話において──『ハルパー』と呼ぶ。

 

 そして────。

 アテナが恋焦がれて追い求めた半身にして神具は、一体どこにある? アテナはなにを匣とし、今の今まで追っていたのか。

 そう、彼女の心臓にこそ、古の《蛇》にしてゴルゴネイオンは在る。

 

 サトゥルヌスの死骸が変異した──『ハルパー』

 木下祐一の冥府から持ち帰った──『ミスラの火』

 アテナの半身にして原初への標榜──『ゴルゴネイオン』

 

 そのすべての不朽不滅の神具たちが彼女に収束した。

 チェリー自身はただ巻き込まれただけだ。一体誰が、舞台のど真ん中に彼女が躍り出てくるだろうと考えただろう。

 それに彼女自身に、深い考えがあった訳ではない。ただ単純に、奪われてアテナを喜ばすより、手元にあるとんでもないもの同士ぶつかり合わせてぶっ壊してやろう。それくらいの考えだった。

 守るものがなくなってやけっぱち気味だった彼女は「どうせ死なないし、やるだけやってみよう。死なないなら自殺じゃない、だったら教義にも反してないし〜」くらいの軽い気持ちで行動を起こした。

 

「ぐ、ぅくううう……!」

 

 当然、チェリーは自身の人生史上最大の激痛に見舞われた。彼女のなかでは……これもまた当然だが……激烈な変化が起こっていたのだから。

 不滅を與える神具と、死の具現である神具が打ち合わさったのだ。神であろうが不死だろうが問答無用で死を與えるハルパーは十全に力を発揮し死をもたらした。ゴルゴネイオンが堪らずひび割れ、死毒の進撃はそれに止まらずゴルゴネイオンを内包し一体化していた少女をも飲み込もうとした。

 しかし死毒を阻むものがあった。祐一の贈った不滅の火。不滅を與える終わりなき蘇りを為さしめる神具であった。

 不滅の《光》は《闇》の跳梁を良しとせず、苛烈に燃え上がった。

 ただの人間の胎内で《光》と《闇》の戦場となったのだ。それは太陽と夜という天空の終わりなき闘いにも等しい。

 当然、激変する肉体は瞬く間に死に向かった。

 内臓を蹂躙し、筋繊維を断裂させ、血を沸騰させ、皮膚を壊死させ、髪を引き裂いた。

 だが、死ねない。死んでいるのに蘇らされる。循環する夜と昼のように彼女は生死を繰り返した。

 まさに生き地獄。ただの人の身では、高位神具の鎬合いに耐えきれない。繰り返される生と死に、肉体は消し飛んでもおかしくない。精神の崩壊は間近にせまっていた。

 

 だがチェリーは耐えた。

 なぜなら少女はもうひとつの()()を内包していたが故に。

 

 "死神の鎌"と"光明神の松明"。争い合い、相食む戦いのなかでもうひとつの神具が機能した。つまり古の《蛇》、またの名を、ゴルゴネイオン。

 ゴルゴネイオンは先刻砕けたはず。しかし不朽不滅の神具にとって、それは終焉を意味しなければ機能停止も意味しない。

 密かに修復と再生を繰り返した。そして《光》と《闇》の対決を目の当たりにし、ひとつの結論に至った。

 このままでは宿主は崩壊する、と。

 ……人の身では耐えきれないと判断したゴルゴネイオンは機械的に最適な動作を行った。暴れ回る相反する力に、神代の魔導書にして古き地母神へいたる標たる神具はとある道を示した。

 

 つまりは……

 

『ゴルゴネイオンはその原初ってやつに立ち返れる道具……つまり()()()ってことね』

 

 人の身体で耐えきれないならば──神に近づければ良いのだと。天にて《光》と《闇》が争うならば、それをも支える骨子たる土台(大地)を作ればいいのだと。

 大地は地母神の半身たるゴルゴネイオンの領分である。地母神の半身にして古の《蛇》と謳われるゴルゴネイオンが──生死を結ぶ『死と再生』を冠するのは当然。

 

 それはゴルゴネイオンに刻まれた叡智とゴルゴネイオンが『三位一体』を号する神具であったからこその奇跡。

 

《光》と《闇》を調和させる《蛇》としてゴルゴネイオンは機能した。

 不滅の光()冥府の闇()ゴルゴネイオン(死と再生)の三位一体が少女のなかで形作られたのだ。

 

 それはチェリーの肉体のなかで世界が生まれたにも等しき三つの神具からなる──()()()が織り成した奇跡。

 

 

 破壊と再生を繰り返すチェリーは、人から外れだした。壊死した皮膚の下から瑞々しい肌が、荒れ果てた頭髪は銀光を宿した銀髪が生え揃い、千切れたはずの筋繊維はしなやかで強靭なものへと。

 崩壊した脳は再生をはじめ、神代の記憶が流れ出した。主神から生まれ落ち、母を喰われ……いや、それよりも以前、かつては大地を総べる女王だった女神が英雄たちに敗北した屈辱の記憶が満々と溢れだした。

 

「妾は謳おう……」

 

 微かに残った自意識が自分がなにごとか喋っているのに気が付いた。意識は霞んでいているのに自分の意志とは関係なく明確に謡を口遊む感覚はおぞましい。自分が自分でない何かに乗っ取られる感覚が恐ろしい。

 自分の意識は、脳になくて、まるで魂魄になり果てたように皮膚の上を滑っていた。視覚も支配権を奪われていてなにも見通せない。口ずさむ感覚だけが明確にあって、煩わしい。

 だからチェリーは指のひとつを奪い返した。意地でもこの言葉を止めなければと決めて──指一本を、口に入れて舌を止めた。

 言葉が止まると指を起点にして自分を取り戻しはじめた。吐いた言霊を振り払うために、言霊を叫んだ。

 

「違う……違う! 私はっ、メティスでも、メドゥサでも、アナトでも、アシェラトでも、ネイトでも──ましてやアテナでもないっ!」

 

 言霊が力となる。本来の主は誰だったのか肉体が思い出す。ならば変わり果てた少女の瞳に宿るは人の意志。

 

「妾は、私は、わたしは、アタシはッ──チェリー・U・ヒルトだッ!」

 

 それは今宵限りの一夜の奇跡。

 なんという運命の悪戯か、三柱の超越者が企てた因果改変の宣誓は──たった一人の少女へ帰結した。

《運命》も《因果》も神の記憶もねじ伏せて。ひとりの人間、チェリー・U・ヒルトはまつろわぬアテナと対峙した。

 

 

 

 アテナは呆然と、この有志以来、稀にして奇っ怪なる現象を見ていた。理解は及ばなかった。智慧の神である自身が、忘我するなど何時ぶりだろうか。知恵の女神として生じて以来、途切れることの無い思考と知恵がはじめてぷっつりと切れた。

 

 光と闇と蛇。三つの神具が彼女のなかで溶け合い、絶妙なバランスと不可思議なまでの強固さで結びついてしまっている。事象はすべて正しく認識していて、だが、何故そうなったのか理解に苦しんだ。

 ただ、分かる事がある。……手にするべきゴルゴネイオンはするりと立ち消え、目の前の乙女のなかに消えてしまった。例え眼前の乙女を喰らおうが己は、古きアテナに立ち戻れることはないだろう、と智恵の女神は酷薄な悟りを獲た。

 

 ああ、祖父殿の失意が手に取るようにわかる。失意と虚無が無理やり感情の器に流し込まれ、自死すら視野に入ってくる。アテナの胸中はいかばかりか。彼女の心に浮かび上がったのは、怒りではなかった。

 因果を弄んだ報いだろうか……という過去への嘆きで、ゴルゴネイオンはこの世から消失したのだという虚無。

 しかし女神であり、知恵を司る聡明な彼女は、現実を受け入れた。

 

「クク……アハハハッ」

 

 口から湧き上がったのは怨嗟でも怒号でもなく高笑いだった。童女のように、幼く、甲高い笑い声。ここが深夜の森のなかではなく昼間の公園かと錯覚するほど無邪気な声だった。

 己は狂ってしまったのだろうか。アテナは笑いながら冷徹な頭で奇行にはしった自分を見下ろした。

 ああ、確かに運命は覆せなかった。アテナたる己にはもはや永劫ゴルゴネイオンは訪れぬ。すべては少女……チェリー・U・ヒルトという隠れ潜んでいた特異点に覆された。

 アテナは彼女と出逢い、加護を與えた瞬間から間違えていたのだ。加護を與えないか、あるいは、巫女ではなく愛し子としての加護を与えねばならなかった……その間違いがこの因果を産んだのだ。

 

 だが疑問もあった。

 これが運命という廻る天輪の望んだ結果だろうか? 嘲笑っているのは本当に善因善果悪因悪果を紡ぐ因果の小車なのか? 

 いいや、否だ。

 

「なる……ほど。神も、運命も、因果も、順縁すらも。全てを飛び越えたのは娘……いいや、チェリー・U・ヒルト。()()()であったか」

 

 ならば称えねばなるまい、すべての上を行ったこの少女を。

 賞賛とともに見事であると。

 嚇怒とともに不遜であると。

 

「見事だ、チェリー・U・ヒルト。希臘にて至高の女神たるアテナがあなたに讃辞と憎悪を贈ろう……されど、どれほどあなたが神に近づこうがやはり無意味! 不死なるアテナを弑することなど叶わぬ!」

「さぁどうかしら? アタシのなかの蛇が言ってるわ……今のアタシはゴルゴネイオンによって原初のあなたに近づいた偽物。でも偽物であってもあなた自身なんだってね。だからあなた(本物のアテナ)が為した因果改変の宣誓にだって()()()()()

 なら──いくら不死で他人に殺せないあなたでも、自分の手に掛かったなら話は別なんじゃない?」

 

 愛嬌のある表情で恐ろしいことを言う、堪えきれない喜悦に獰猛な笑みを浮かべた。賢しらに退くこともせず、愚かしく挑みかかってくるならば、全力で相対するのみ。

 

「よろしい。ならばチェリー・U・ヒルトよ、後悔するがいい! かつて妾に挑んだ人間アラクネのごとく、そなたの傲慢も打ち砕いてみせよう!」

 

 

 

 時の神──サトゥルヌス。

 

 神殺し──木下祐一。

 

 戦女神──アテナ。

 

 そして偽りのアテナ──チェリー・U・ヒルト。

 

 すべてのキャストは出揃い、舞台は整った。ベルゲンにて人知れず行われる戦いは最終局面を迎える。





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