空が昼間のように明るくなった。衝撃波と熱波が光源から吹き荒れ、太陽さながらの……いや太陽そのものを彷彿とさせる巨大な引力が、彼女らを光のもとへ引き寄せんと手ぐすねを引く。
「祖父殿と神殺しか。派手なことだ」
木々や大気が浮き上がろうとアテナとチェリーは地面から離れることは無かった……引力など、どうということは無い。重力とはもともと地母神の司る力の一つなのだから。
妾もはじめるとしよう、という言葉を置き去りに暗夜の森を颿る二条の銀光となった。アテナの疾走に遅れもみせず追随するチェリーは人間離れしている。筋繊維や靭帯、神経回路に至るまで人間のそれとは隔絶している。
「くっ……邪ッ魔!」
だが元は人間だ。走るたびに木々や岩に激突する。正直、オーバースペックといっていい体を持て余し気味だった。
神の肉体と人間の思考。とんでもないギャップに振り回されるのは必定だった。
挙動が大振りになりがちだと言うのに、森の中という繊細な動作を求められる戦場。地の利は相手に譲る形となった。
それでもチェリーは奮起した。石ころを蹴りあげ、アテナへ投擲する。木の枝を渡っていたアテナの着地地点へ、寸分違わず。
「路傍の石を死へと変えたか」
アテナがただの石を手ずから振り払った。手の甲には霜焼けがおり、死を宿したものだと如実に語っていた。
女神の足が止まったのを見計らい、一気に跳躍。シックルを振り下ろす。容易く大鎌に防がれつつ、別の木の幹へ着地。さらにふたたび跳躍。圧倒的な身体能力に任せて三次元的な躍動を見せた。
「おお。その太刀筋、妾のものとも違うな」
「…………」
少女の会心の一振りが女神の髪を拐う。興味深そうに彼女の攻勢を睥睨しながら、アテナは血を流した。傷口が塞がる気配はない。
ハルパーとは大地の太母神ガイアから授かった不死殺しの魔法の剣。それを同じ地母神であるアテナが防ぎ切れることは無い。
「あなたは苛烈さを宿している……知恵や守護に傾く妾より、狂奔や蛮勇に寄る軍神アレス、妾の系譜であれば大地を血に染めた女神アナトに近いな」
「…………」
武に静動があるとしたらアテナは静だ。その比類なき知略で敵の急所を見極め、苛烈な逆襲の一撃にて屠るのだ。
しかしチェリーは完全な動だった。アテナの言葉通り、かつて夫を殺され怒りのまま人間を虐殺し、血の海を創り出したアナトに近しい。
アテナの血痕を頬へ血化粧としながら、アテナの言葉に耳も貸さず肉薄した。黙々と攻勢を仕掛けてくるチェリーに、アテナは違和感を覚えた。
「ふむ? 先刻から黙り込み……らしくないではないか」
「…………」
「先程までの威勢はどうした。妾に挑みかかる愚を今さら悟り、妾自らの賞賛に打ち震えて声すらでぬか?」
首を振った。細い枝の上でふたりとも絶妙なバランス感覚で鍔迫り合いをしながら、それでも言葉を交わし合う余裕があった。
コミックや映画によくある展開で、一度戦えば相手がどんな人となりをしているのか考え方をしているのか朧気ながら理解出来る、なんてものがある。
アテナとチェリーにも似たような感覚は存在し、しかし、鍔迫り合った刃の交感は酷く正確だった。
「アテナ。あなたの深い悲しみを感じるわ」
黙り込んだのは今度はアテナだった。
「言葉で誤魔化さないでよ。この触れ合った刃から伝わってくるの……ゴルゴネイオンを失い、夢を叶えられなくなったあなたの悲しみが」
「…………」
目を細め、瞳孔が縦に割れるのを見逃さなかった。肩が震え出している。感情の発露だ。
アテナはまつろわぬ神だ。それも上位に位置する強さを備えた……なら、自尊心が強さに直結する女神様が、人間などという矮小な存在にすべてを奪われ、挑発されて黙っていられるだろうか。
「言い訳はしないけれど、それでもアタシはあなたから大切なものを奪ってしまった。あなたの半身で、至るべき道さえも」
「──囀るなよォ小娘ッ!」
アテナはついに嚇怒の咆哮を上げた。
「妾の過去を盗み見だけでも罷り通らぬというのにその挙句、我が赤心をはかるか!? チェリー・U・ヒルト、貴様はどれほど罪を重ねれば気が済むのだ!」
絡みついたハルパーを大鎌で薙ぎ払い、少女の言霊を忌々しげに踏み潰す。危険だ。この少女の言霊は如何なる障壁があろうとも、きっとそれこそアイギスがあろうとも、容易く入り混んでくる。
「でもアタシは、
わかるの、と目線だけで言葉にした。アテナは顔を小さく仰け反ぞらせたあと深く俯き……小刻みに肩を震わせた。屈辱に打ち震えるように、嗚咽を堪えるように。
「そうだ……あなたの語るように妾は哀絶に暮れている……。真なるアテナに至るための標を。そして、比喩ではなく半身をもがれたのだがら」
「そうよ……あなたがベルゲンでやった事はアタシの半身をもいだに等しいこと。血を別けた親を食い殺される気持ち、あなたも分かるでしょ?」
アテナの小さな身体から放たれた激情によって前髪が揺れる。木々がざわめく。怒りに打ち震えている。かの知恵を司り静謐を好むアテナが!
「あなたの半身もがれただと!? 罪を重ねるのも大概にせよ……貴様と妾が対等とでものたまい、妾を愚弄するかッ!」
「違うわッ、怒るなら怒りなさいよ! 復讐を望むなら復讐をしなさいよ! 悔しくないわけないわッ、ただの人間に使命を奪われて、言い様に弄ばれて! 神様に日常をぶち壊されたアタシですらそうなんだから!」
「貴様はなにがしたい……なにが目的だ! 人である貴様と対等に闘うことで、三海に覇を唱えた妾を貶め、闇と冥府の女王である妾を恥辱に塗れさせるのが狙いか!?」
「いいえ」
アテナの言葉をチェリーは退けた。アテナとチェリーは二体同心。分かたれていようと同源だ。
近くに居るだけでその胸襟は窺い知ることが出来た。それでもアテナが質問を繰り返すのは、少女の意志を拒むが故。だから。
「アタシはただ潰し合いたいだけ……アナタの怒りも誇りも全部叩き潰したいだけ!
だから全部アタシが受け止めてやる。アタシもあなたには遠慮しない。アタシは意気消沈したあなたに勝っても納得しない!」
だからチェリーは女神に言葉を叩きつけた。目を逸らし、前も見ない臆病者へ。傲岸に立つしか己を律しきれない半端者へ。
「──全力で、潰し合いましょう」
土俵に上がって来いと。
悪鬼顕現。しかし向かい合う両者のどちらが悪鬼だったのか、激情を孕んだ烈風が吹き荒れ、天が真っ二つに割れていく。
「小娘がァ──ッ!」
五指を伸ばし引っ掻く技も権威もあったものではない、なりふり構わない一撃。だがシチリア島を投げつけた膂力を誇るアテナならば無視できないものとなる。
側頭部を狙った攻撃に、両腕をL字型にクロスさせ衝撃。容易く空へ吹き飛ばされ、天地が逆さまになった所へ──追撃。
アテナの豪快なかかと落としがチェリーの腹部に突き刺さる。地面に叩きつけられ……それでも彼女は死んでいなかった。それどころか意識すら保ち、アテナを睨んだ。内臓が傷ついたのか口元から血が滲み出た。血を拭って地面に飛ばす。血の一滴を核として一匹の神獣を生み出す。
「行くわよリンノルム……ベルゲンの子よ!」
──GYAAAAAAAAAAAAAAA!
大地が盛り上がって蛇の神獣が推参した。チェリーの血肉から生み出されベルゲンから生まれた蛇は、アテナにも危害を及ぼす。アテナに追随する影を喰らい始める。影とは闇の女王たるアテナの化身にしてそのもの。偽りのアテナが生み出した蛇が真のアテナを大口で喰らい尽くしていく姿はウロボロスと例えてもいい。
鋭い牙を尖らせ口を開ける大蛇を鼻で笑った。神獣の牙は盛しい仔犬が噛み付いてくるとの変わらない。
「貴様はこのアテナと同一と叫び……それは逆もまた然りだぞ」
手を掲げた途端、蛇が割れる。頭部の真ん中から亀裂が入り、裂けていく。制御権を奪われているのだ……偽りのアテナであるチェリーが生み出した蛇の眷属なら、本物のアテナが奪い去れぬ道理はない。
双頭の蛇となった大蛇が喰らい合い、雄叫びを上げながら暴れ回り、噴煙が舞う。夜と煙を切り払ってチェリーが飛び出してくる。シックルを全力で振り下ろし、アテナの頭蓋を叩き割らんと肉薄した。
「侮りだなチェリー・U・ヒルト」
だがそれは悪手だった。闇はアテナの領域ならば奇襲はありえず、武において彼女に並ぶ者はいない。容易く打ち払られ、アテナは蹴りを叩き込みとリンノルムを完全に支配下に置いた。
──その瞬間、大地が蠕動した。
アテナとチェリーの動きが止まる。振動の発生源は揺れている地面ではなく──二人は天を見上げて、女神は嘆声をあげ、チェリーは硬直した。
夜空は消えていた。北欧の地など身震いひとつですり潰されそうなほどの蛇の鱗に取って代わられていた。あれはなんだ。あれもアテナの仕業なのか、と訝しんだが当のアテナは薄く笑うだけだった。
「ほう……あれは……」
何やら得心したアテナと置いてけぼりのチェリーを尻目に、空の異変は拡大を続け、呼応して大地が腕を振り上げ、
大地がうねり続け、土砂の荒波は絶叫する60度と恐れられる海域の猛威と変わらない。実際、大地と奈落が領域であり地中を自由に行き来できる彼女たちにとって海そのものだった。
いけ。空に現れた怪物がなにかは知らないが、チェリーはアテナへの攻撃をやめなかった。地中に潜行し土砂を操って、同じく地中に入ったアテナを押し潰す。馬鹿げた質量の津波が小柄なアテナを四散せんと迫り、「去ね」アテナの言霊ひとつで掻き消えた。
お次はアテナによる矢の雨だった。一つ一つの鏃が死の結晶となり、チェリーでもあれに触れればただでは済まない。
アテナとチェリーが戯れている間にも直上の戦いは終わりを迎えていた。一条の閃光が、人身蛇尾の怪物に突き刺さり、鬼気迫る様子で押し返し始めたのだ。
さしものアテナも手を止め、喉を鳴らして感嘆した。
「あれを押し戻すとは……あれの一騎駆けは見事なものだ。しかし打ち捨てられた空に満ちる神力を捨て置くには惜しいな」
人から外れた少女の瞳が、空に蟠る
「ヒュドラー……」
知っている。自分はあれを知っている。《蛇》の叡智が語りかけてくる。"怪物"テュポーンの子にしてヘラクレスを苦しめた不死の蛇。
「アテナや妾らの系譜とは異なる力だ。そなたには干渉できまい」
アテナの言う通りだ。古の《蛇》とは全く別の系譜からなるヒュドラーに、抵抗できない。
ヒュドラーの口腔から毒霧が噴出し、木々を溶かしながら辺り一面に広がる。裡から湧き上がる火で何とか死を堰き止めつつ──脳裏に閃きが散った。
そうだ、何故気づかなかったのか。最初からこうすれば良かったのだ!
「ヒュドラーにアタシは干渉できない! でも──あなたの力なら
地面に手をついてベルゲンを覆うアテナの神力を──
神力が失われ、石の檻が砕けて人は体温を取り戻す。奪った神力をベルゲンの大地に叩き込んで新たな神獣を呼び出した。
大地を割って
チェリー渾身の、街の解呪と神獣を呼び出す一石二鳥の策だった。
咆哮と咆哮がぶつかり合い、蛇と熊の巨体が激突する。
でもこれが時間稼ぎにしかならない。そして彼女には時間がない。アテナを絶命させうる切り札がないのだ。
「なにか……アテナを倒せる、手立ては……!」
焦燥が体を蝕み始めた頃だった。声が聞こえたのは。
『太陽を探したまえ!』
頭蓋に言葉が届けられた。頭に直接、という訳ではなく大地を踏む足をとおって、青年の声が届いたのだ。
「ビ、ビアンキ……? どうして……」
『ぼくは地の位を極めた魔女を師に持つ。どういう経緯かは知らないが、地母神に連なる者になった君に声を届けるくらいはできる……アテナと戦っているらしい君に助言くらいはできる』
「!」
『冥府と大地に君臨する地母神が、光に弱いのは当然だ。闇を暴き夜を切り裂く光とは──』
「──太陽。知ってるわ。《蛇》が教えてくれる……地母神の多くは天空神や武神によって討ち取られ、武勲や褒美として陵辱されてきた過去があるって』
『そうだ。そ──に──君は──う──陽を持って───』
ビアンキの言葉がかすれ、ハッとして戦況を覗けばこちらの熊が崩れ死骸を晒していた。ヒュドラーは勝どきをあげ、矮小なチェリーに牙を向く。
神獣という人間にとって手足もでない脅威でも、今のチェリーにとっては赤子のような存在だった。不死殺しを冠するハルパーを縦横無尽にふるえば九つの首は吹き飛びヒュドラーは絶命した。
「ヒュドラーすら相手にならぬか。さすがは妾の半身を喰らっただけはあると賞賛しよう」
なれど。アテナが大鎌を構えた。チェリーもハルパーを握る力をぐっと強めた。やはりアテナの首は武器でもって刈り取らねば。
跳躍し、肉薄する。
しかし接近戦で首を狩らんとハルパーを掲げても全てを見透かされる。瞳を交わせば思考が読み取られる。一挙手一投足すべてがアテナの知るところであり……しかしそれは此方も同じ。
まるで未来予知じみた映像がダイレクトに脳へ殴りつけられ、思考の全てがなだれ込んで来るのだ。
入念な打ち合わせをしたかと見紛うほど完璧な動作で、相手の武器を振り払った。人間では目で追えない大きく外れた戦いをしながらまったくの無傷。
まるで剣舞だった。あらかじめ設定された動きをなぞる様にすべてを見透かし、権能でさえも支配権を奪い取った。それは他者が己にとけていくような現象で、いっそ途方もなく官能的で、男を知らない少女とアテナが番のようにすら思えた。
「はぁ、はぁ」
「…………」
スペック上では同等。動けば動くほど馴染む肉体に時間も加勢していると言ってもいい……しかし経験や知恵という確固たる差がチェリーを苦しめた。
それに太陽が昇るまでという絶対の終わりがある以上、時はアテナに味方している。
アテナもそれを看破しているだろう。だがそれを良しとはしなかった。アテナの思考がなだれ込んでくる。
今宵、この娘を絶命させる。己が手で息の根を止める。それが女神アテナに挑んだ大罪への罰と、使命を喪い自棄をとどめた少女への返礼と報いだった。
故に、千日手。
自分たちでは、決着は付かない。少なくとも一夜という息切れを考えなくて良い短期決戦では膠着状態しか望めない。戦闘にのめり込んで、時間の感覚が消失していく。
唐突にチェリーが膝をついた。虚をつかれたアテナの一撃が空振る。
ああ、いつの間にか空が白みはじめている……夜明けが近い。
決着を。
このまま時間切れで勝ち逃げさせてなるものか。
アテナとチェリーの思考は全く別の方向を向きながら、同じ決意を宿した。
──その時だった。
東方の稜線より薔薇色び曙光があらわれたのは。
陽の塊であり極点である太陽だ。冥府と夜の女王アテナも、そして、偽りのアテナであるチェリーも最大の弱点。
だが、故にこそ、千日手を終わらせるもの足りえる。
「………………!」
「………………っ」
二人は合図もなく、咎人を焼き尽くす清めの焔へ身を躍らせた。