王書   作:につけ丸

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099:最初の約束

 叢雲(落し物)したから倒れてた場所に案内してもらっていい? 

 

 そんな一言から古民家を出て、散策ははじまった。障子の窓からも見えていたが外は一面のクソ緑だった。

 深山幽谷としたなんとも神韻縹渺とした外観が一望できる──つまり死ぬほど山奥だった。

 

「祐一くんが倒れてたのは石上(いそのかみ)の滝壺って場所でね。ここからそんなに離れてないんだけど山に慣れてない人には辛い道なんだ~」

 

「へー」

 

「恵那は山ごもりで慣れてるから、まかせて!」

 

「あ、でも俺だって……」

 

 ざぁぁ。ざぁぁ。ぎぃぃ、ばたん! 

 ちちち! カサカサ! アォーン! 

 ホーホケキョ! 

 ミーン! ミンミン! 

 ツクツクボウシツクツクボウシ! 

 

 うん。素直にお願いしよう。

 祐一は黙って専門家を頼った。

 

「行こ!」

 

 どうも登山初心者かなにかと思われて気を使ってくれているのか、恵那が手を差し出してきた。「おー」といってお願いする。

 重ねた先輩の手は、意外と鍛えられたしなやかな手だった。

 

 

(やっぱファールスやベルゲンと全然違うなぁ)

 

 ざくざく。

 その険しい山道を踏み入っていくと生き物のかき鳴らす鳴き声で満ちた生命の世界が待っていた。

 人里離れた山奥だが森閑とした空気はどこにもない。

 岩を砕いたような大地のイランや凍土のノルウェーとでは土台が違う。大きな水源もあり、ケヤキやスギなどという馴染み深い木々が軒を連ねている。

 手つかずの大自然というやつだ。

 当然、周囲に人はほぼやってこない。

 

「……あ、刺草(イラクサ)だ。触っちゃダメだよ」

 

「ホントだ」

 

 刺草(イラクサ)をさっと避ける。

 人間時代はあれに触れて蕁麻疹ができてしまった。

 カンピオーネの肉体に効果があるかは知らないが。

 山に踏み入った瞬間から万事こんな調子だ。

 

「地元の山はまだ人に寄り添っていたんだなぁ」っと実感できる厳しい場所だった。

少なからずカエンタケすら目に入ったときは顔が引きつったし、近くに熊の気配も感じる。

 正直、慣れていない人間は踏み入ってはいけない禁足地だ。

 ”霊山”と恵那は言ったがその通りだ。人が気安く踏み入れたらすぐさま飲み込んでしまう領域。

 山に妖怪化け物がひそむ逸話は多いが山は山と言うだけで人を容易く殺せす危険区域でもある。

 聖域として相応しすぎて七人くらいカンピオーネで争わせても良さそうなほど。まさに神聖を標榜するに相応しい。

 

「しっかし凄い所に飛んだなぁ。検討もつかん……先輩、本当にこんな山奥にいたんですか?」

 

「うん。ここって昔っから修業場所で有名なんだー。奥秩父の深い山の中だし、修行中の行者くらいしか立ち入らない場所なのに制服着て倒れてる人がいて焦ったよ」

 

「あっ、その節はどうもお世話になりました……」

 

「はい。お世話しました!」

 

 祐一のなにを気に入ったのか。

 恵那が握った祐一の手をぶんぶん振って全身で喜びを表現している。

 ハツラツな恵那に振り回されながら、そういえば女の子の手など握ったことがない事を思い出す。それと朝起きた淫靡な人肌のぬくもりも。

 うぐ。初心な祐一は邪念を振りはらうように首を振って顎を撫でた。

 

「てか秩父なのかここ……。秩父か……うーん、鉱山しか知らない……」

 

「良いところだよっ、それに秩父は恵那の地元なんだー。この霊山も恵那の庭だし今は七月だから秋の七草がそろそろ咲くんだ。(はぎ)の花でしょ、尾花(おばな)でしょ、(くず)の花でしょ、撫子(なでしこ)女郎花(おみなえし)藤袴(ふじばかま)、それに桔梗(ききょう)! あとは……恵那しか知らない秘湯もあるんだよ!」

 

「へー」

 

(たしかにチェリーが地元(うち)の山登るとか言い出したら手くらい握ってやるか)

 

 なんで手を握ってくれるのか謎だったが分かった。

 そう。よくよく思えば、秘密基地に友達が来たら道案内をするのは当然だ。

 もしチェリーがはるばるベルゲンからやってきたら道案内を買って出ることだろう。

 ただ。思い浮かぶあれのイメージは、差し出した手を鼻で笑って己の道を往くか、騎士の口付けを許す女王のように不遜なイメージしか浮かばなかった。

 

「あれで同族らしいしな。はは」

 

「同族?」

 

「んにゃ、なんでもないなんでもない」

 

「そ、そう? ……ね、それで祐一くんはなんでこんな場所にいたの? この辺りはよく知ってるから言えるけど遭難した人でもここまで辿り着くまでに野垂れ死んじゃうよ?」

 

 不思議そうにたずねてくる。

 

「ここにいた理由かぁ。……その説明をする前に今の銀河の状況を理解する必要がある。少し長くなる……なんてことはなくて、兄ちゃんたちが喧嘩安売りしててお買い得だったから……。それでちょっと喧嘩してたらこんなトコに……」

 

「喧嘩してて樹海にいるのおかしくないかなァ」

 

「いいじゃんいいじゃん。で、先輩はどうして?」

 

 何故こんな場所にいるのか。いや、それを言ったら恵那もだ。

 こんな深山で女子高生を見た日には物の怪でも化けているのかと疑うだろう。

 祐一の視線に気づいたのか、恵那が胸を叩いた。くっ、熾烈な視線誘導によりスリム体型なのに不釣り合いに大きい胸部に視線が向かってしまう。

 

「恵那は巫女だからね。神様を奉る神職だもん。身体を綺麗にしててなきゃいけないんだけど、街なかはやっぱり俗世の穢ればっかりだからね。こうして山ごもりしなきゃなんだー」

 

 たはは、と笑いながら右手を握って先導してくれる。

 神職に就いてるらしく神職ゆえに穢れは厳禁だ。そのため世俗の穢れを落とすため人里離れた山に籠っているのだとか。 

 あ、高校生ってもう働けるんだいいなぁバイトさん? なのかな?

 さっさと自立して自由の身になりたい祐一は感心した。自由の身とはいうがこの世で一番自由なのはカンピオーネである。

 

(だからか。先輩、けっこう”動ける”人だよな)

 

 恵那の白魚さながらの細腕を見る。

 恵那は巫女というが手のひらには花顔柳腰とした彼女に似合わない分厚い”剣ダコ”があった。おそらく純粋な巫女じゃない。

 祐一も一応、剣士の端くれだ。 恵那から相当な技量を感じ取れる。

 師エイルほどではないがエオやムインは軽く凌駕しているだろう。 

 

「……てかさ。俺が倒れてたってところに剣落ちてなかった? 俺の落とし物って剣なんだよ、叢雲って言うんだけど」

 

「剣? うーん、見てないかな……祐一くんが倒れてたところは滝壺なんだけど水の中にも剣が沈んでる様子はなかったよ」

 

「そっかァ」

 

(まあアイツは鉄だから流されるなんて事も無いだろうしなぁ。でもどこいったんだアイツ?)

 

 相棒がいないと落ち着かない。右腕に重しが無くなったみたいだ。

『ミスラの松明』もそうだったが、自分を構成するパズルのピースを失くしたような感覚に陥る。

 

「叢雲って言うんだ! それだったら恵那の刀も似た名前なんだー」

 

「へぇ、なんていうの?」

 

「剣って名前だけど古い刀でね、”蕨手刀”の一種なんだよ?銘はね──”天叢雲剣”っていうんだ」

 

「おー! 本当に似てるな!」

 

「でしょ! っていうか祐一くんは知ってる?三種の神器の”天叢雲剣”?」

 

「え、まあ、うん。……知ってるっていえば知ってるかな天叢雲剣。ヤマタノオロチから出てきたんだよな」

 

 少しトーンを落とした。

 スサノオやヤマトノタケルが佩いた刀で朝廷権威の象徴。あれを喪ったヤマトノタケルは死ななきゃならなかった、とか。

『戦士』の言霊で口にした焼きごてで烙印されこびりつく知識も。

 そして王国で斬り結んだヤマトノタケルの圧倒的な剣筋を思い出す。

 

「よく知ってるね! 日本神話の三貴子速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)が生贄になった櫛名田比売(クシナダヒメ)を助けるために八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を倒し、その尾の中から出てきた太刀”天叢雲剣”。恵那はね、その天叢雲剣を任されてる巫女なんだー。『太刀の媛巫女』って呼ばれてるんだよー」

 

「『太刀の媛巫女』? ”媛巫女”って?」

 

「うーん、言葉にすると難しいけど普通の巫女とはちょっと違う巫女のことかな?」

 

「偉いんだよ~」と、へらへら笑って恵那がいう。

 

 ”媛巫女”とは日本の呪術師界隈を総括する組織”正史編纂委員会”が彼女たちのような血筋が薄まらないよう人間ダビスタをやった結晶──などというこの国の闇を聞かずに済んだようだ。

 魔女といっていたテスラや神祖ニニアンみたいな感じかなぁ。ああ、あとチェリー。

 祐一は過去に出会ったなんとなく似たような雰囲気の魔女たちに当たりをつけた。

 それと、どうやって祐一を古民家まで運んだのか不思議だったが氷解した。なにか術を使ったのだろう……そう思えば祐一を運ぶくらいの膂力があるのかもしれない。

 でもなければ成人男性並の体格である祐一を運ぶのは不可能だ。

 

(天叢雲剣かぁ。叢雲の正式名称だった気がするけど叢雲とは違うだろ。たぶん。世界違うし)

 

 そして引っかかりを華麗にスルーする。

 

「あ、もしかして祐一くんの剣も日本刀?」

 

「日本刀……かな。……たぶん……きっと……maybe……」

 

「あはは。なにそれ。おっかしぃんだ」

 

 日本刀……日本刀だよなアイツ? 

 白くなったり黒くなったり直刀になったり湾刀になったり。

 変幻自在の愛刀が改めて日本刀か聞かれると首を傾げてしまう。

 

「日本刀だと……今、ちょっと日本が大変な時期でね。刀の類が関東一円に持ち込めないんだって」

 

「持ち込めないって。なにかあったのか?」

 

「んー……話していいか分かんないけど。《鋼》って言われてる神様って言って分かる? わかんないよね。物凄く荒っぽい神様たちがいるんだけど、その神様が何柱も出てきてそれでゴタついてるんだって」

 

「《鋼》……?」

 

《鋼》か。

《鋼》か! 

《鋼》の軍神がいるのかッ! この近くにッ! 地母神をまつろわし、己が武勇を以て世に創世をなす一党がいるのか! 

 

 口元を引き結ぶ。そして弧を描いて歪む。焼きごてで捺された烙印さながらの権能達が浮き足立っている。

 それはカンピオーネたる木下祐一も同じこと。

 眦が鋭くつり上がり、血に酔う戦士の顔が形成されていく。その言葉を聞くと心が沸き立つ。熱っぽく息を吐いた。

 先日、同族二人と殺し合い、愛刀も無くし、呪力も空っぽ。全力で戦うにはまだ時を要する。

 それなのに鉄臭さに耳鳴りのような血潮が沸き立つ。

 己の野性というのはどうしようもない。

 

「あ──痛いよ、祐一くん」

 

「わ、ごめんごめん!」

 

「ううん! 修行のおかげで痛いのが慣れてるから大丈夫だよ! でも祐一くん力強いんだァ……力で押し負けちゃったの久しぶりかも」

 

 そういえば女人と手を繋いでいるのだった。

 これまで嫌悪感を抱いていた己が宿星のみに固執し、女を凌辱し、隷属させる。そんな彼らの宿痾が乗り移ったように乱暴に扱ってしまったのを反省する。

 加えて黒髪美人の先輩だ。

 う、急に意識しはじめ緊張してきた。

 キョドりはじめた祐一はあたりを見回しながら若木のしなやかな枝を押しのけて──視界がひらけた。

 草木の匂いが立ち消え、水の匂いが鼻腔をつく。

 その場所には朝日にきらめく水面と白い柱しかなかった。滝が崖の上からしとどに流れ込み、川幅は広くて湖のようだ。

 

「──ここだよ。ここが石上(いそのかみ)の滝壺! で、そこに祐一が倒れてたんだー」

 

 恵那が右手で滝を指差しながら日光で輝く滝壺へと導いた。ひょいひょい野猿みたいに石を飛び越えていくから、手を繋いだままの祐一もえっちらおっちら付いていった。

 それから恵那は波の打ち寄せる石ばかりの浅瀬で立ち止まった。

 ごろごろとした岩の転がっている。

 どうやらここで倒れてたらしい。

 たしかに人影じみた血痕がまだ残っている。ルミノール反応を調べれば真っ青に輝くに違いない。

 

 と、そこで不意に恵那が隣に立った。

 器用に沓石くらいの不安定な石に飛び乗った。

 並んで目線を合わせると彼女はへらっと笑いかけてきた。古民家でやったようにおでこで敬礼するみたいに手を当ててくる。

 

「ん? なに?」

 

「や、ちょっとね……やっぱり背、抜かされちゃってたね」

 

「へへ。んー……クラスで背順で並ぶときは結構後ろだったしなぁ」

 

 こうして並ぶと分かる。

 今年で「木下祐一 13→14歳」「清秋院恵那 15→16歳」と二歳差だから二つ年上の先輩なのだが……頭一つ分は低い。

 恵那は160cmあたりで祐一はすでに170cm半ばあたり。

 祐一は年齢のわりにずいぶん高身長だ。性差を考えても恵那の優位は早めに崩れただろう。

 

「あー、俺が中二だから二歳差で、先輩は高一? になるの?」

 

「うん、今は群馬の高校に通ってるんだ。今年で十六だからね。そろそろ縁談が決まっちゃんうんだァ……それか縁があれば東京にいるっていう王様のお妾さんかな?」

 

 祐一の右手をにぎにぎしながら身体を左にかたむけてえきた。

 じぃ~……っと撫子の花びらの瞳で祐一を見つめてくる。

 

「へぇー、名家の人達って大変なんだなぁ」

 

「うん。木下の人達が下野したのはそういう所だと思うな!」

 

「え……?」

 

 大変なんだなぁ(大変なんだなぁ)……で終わってしまう腹芸のできないおそろしく武辺一辺倒な木下祐一は政争の世界では生きられない男である。

 神様に何度も嵌められてきた男は伊達ではない。策謀を剣一本腕一本で切り抜けてきた猪武者である。

 武力はともかく政治力が能力値10を下回ってそうな祐一だ。

 政治の世界に入れば、旭将軍するか董卓ムーヴして一発で朝敵になるのは間違いないだろう。

 そんなやり取りをしていると。

 

 ──ルォォン! 

 

 木陰から一匹の猪が這い出てきた──ラグナだ。

 

「……ごめん。迂闊だった」

 

 恵那が鋭く言い放って祐一を後ろに追いやった。

 臨戦態勢だ。顔が決死を浮かべている。能天気そうな恵那と打って変わった姿に驚く。

 だが恵那にとって事態はそれほど緊迫していた。

 

「離れて。それからそこの茂みに隠れて逃げて。音は立てちゃダメ。あれはね神獣……しかも相当高位の一角だよ」

 

 ラグナは呪術師や巫女の秘技を収めた者から見れば『神獣』以外の何者でもない。

 優れた巫女であり血統書付きの高貴な出身として術士の英才教育を終了し、それなのに、なにを間違ったのか自然児として成長した名家・清秋院直系の恵那。

 実は清秋院恵那は人類でも上から数えた方が早い実力者だ。

 現時点の人類最強ランキングでは9位までが不動(カンピオーネ)だが、それでも10位に入るチャンスがある。

 巫女としても剣士としても優れる彼女は、あの『猪』の強大さを嗅ぎとっていた。その神威を見紛うことはありえない。

 

 ──そんな”聖騎士”の位階に匹敵する恵那ですら死を覚悟する。

 

 あの漆黒の猪はただの猪というには大いに語弊がある。

 異様すぎる。全高だけで2メートルはある。ちょうど道路を走る車のヴォクシーと同じサイズ。

 そんな巨大な──漆黒の『猪』が突如として出てきたのだ。

 

「ちはやぶる宇治の渡に棹取りに──」

 

 いつにまにか木刀が手にあった。刃を柳に構えながら剣気が生ずる。

 達人になると獲物を選ばないと言う。

 恵那もその領域に踏入りつつあるようだ。木刀でも熊くらいなら斬り伏せてしまえそうだ。

 死線を予感してたまらない神獣に一矢報いようと──

 

「──あ、こいつは大丈夫なんだ」

 

「けむ人し我が……え?」

 

「友達っていうか家族かな? ラグナっていうんだ」

 

 ──るぉん♪ るぉん♪ 

 

 祐一がラグナのもとに歩み寄って背中をわしゃわしゃする。

 漆黒の『猪』──ラグナも嫌がるどころか機嫌良さそうに尻尾を振った。

 

「えぇっ!?」

 

 人類でも最高峰の才能を所持する戦士が己を生涯磨き上げつづけて、やっと辿り着く境地。そうまでしてやっと抵抗可能な猛威が神獣だ。

 そんな化け物へと、見知った年下の幼なじみ疑惑の少年が駆け寄ったのだ。

 例えばバンダレ・アッバースで暴れた『駱駝』

 例えばベルゲンの歪みとして現れたリンノルムや白熊王ヴァレモン。

 あれらに知り合いが近づいたら、立場が逆なら祐一だって焦る。

 次に瞬間には血煙になっててもおかしくない。普通に恐怖映像である。

 

「どこ行ってたんだよ寂しかったんだぞ〜! おらおら!」

 

「わーっ! そんな雑に触ったらダメ! その子、怒っちゃうよっ!」

 

「先輩も触ってみなよ! 首元の毛並みをわしゃわしゃしたら気持ちいんだって。こいつの毛皮めちゃくちゃ綺麗なんだぜ」

 

 極稀に、だがたまに現れるのだ。

 神に選ばれる、ないし、神に愛された人間が。

 恵那もとある神格に見出されたその内の一人だが、祐一もそうらしい。彼は恐るべき容貌魁偉なる『猪』に愛されていた。

 神の愛し子だったらしい。

 

「ほらほら!」

 

「え──わ、ほんと。つやっつやで綺麗だね!」

 

 恵那は手を引っ張られてぐぃぐぃ『猪』のもとへ近づき、眼前に立った。

 意外にも『猪』は大人しい。さわさわ。好奇心に負けてしまった。

 まさか神獣をペット感覚で触れた覚えなんてない恵那は『猪』……もといラグナの毛並みに驚いた。

 

「すごいね! 山篭りしたら獣を何匹も〆るけど、ずっといい毛並み! さすが神獣だねー、それにすごい神力を感じるよ」

 

「だろ? シャンプーもリンスもやってないんだぜ〜」

 

「ねね、祐一くんはこんな凄い神獣とどうやって仲良くなったの?」

 

「仲良くなった理由? なんだっけ?」

 

 はぁ? と言う顔をしたラグナが川岸に向かって、角で水をすくい上げた。次いで放り投げる。

 ばしゃん。

 祐一の顔面に水がぶち当たった。

 

「おぉ! 湖で遊んだんだったなぁ!」

 

 ヴァン湖での一幕を思い出し、祐一もスラックスの裾をまくって駆け出す。

 お返しで清涼な水をすくってラグナに放つ。水遊びなのだが神獣と魔王の掛け合いなので時折、パァンパァンと破裂する異様な音が聞こえる。

 ウォータージェットが乱れ飛ぶ水遊び。

 明らかに人が入り込んではいけないが、恵那がうずうずとその様子を見ていた。

 

「先輩もやろうぜ!」

 

「うん!」

 

 それに気づいた祐一が一声かけ、するとたまらなくなったように駆け出した。

 しばし、水の跳ねる音が止むことはなかった。

 

 滝壺に下る水が飛沫になって白く煙る。

 むせかえるほどの水の匂い漂う滝壺で水遊びした少年少女は小休止していた。

 二人ともびしょ濡れだ。

 祐一はいつものブレザー姿だが、恵那はいつの間にかベストを脱いで身軽な格好。

 ネクタイに白シャツとスカートだけ。

 放課後に大雨にでも降られたような出で立ちだった。

 

「あはは。祐一くんもブレザー脱げばいいのに」

 

「や、こいつはあんま脱ぎたくねぇんだ。旅してずっと着てるし、前にレプラコーンの職人に鍛えてもらったからすぐに綺麗になる、か、ら…………はわわっ」

 

 ベージュのベストを脱いでずぶ濡れの先輩は危険だった。

 清冽な滝壺に清らかな乙女あり。ただし爛漫だった。

 水気を含んで頬に張り付いた綺麗な黒髪。

 へにゃっと笑った華やかな(かんばせ)

 水を含んだスカートを絞ろうと引っ張ったせいで垣間見える健康的な太もも。

 象牙の肌を水滴が珠となっておちる。

 ひまわりの丘を吹き抜ける涼風のようでいて、旬の野菜をそのまま齧ってるのが似合いの純真な乙女。

 

 しかし身体つきは凶悪だった。

 特に危険なのは上半身、びしょびしょの白シャツだ。ネクタイが乗っかるレベルで巨大なおっぱいが張り出しているのがよく見える。

 それだけではない。

 半透明になった白シャツの薄衣にできた影。

 強烈にメリハリのついた身体のラインが浮かび上がってしまっている。

 薄衣の影の先──あれの中身をついさっき、垣間見てしまった。

 目の良い祐一だから詳細で膨大な視覚データを脳に伝達してしまう。視神経が急激稼働し、ニューロンは異常行動を起こしシナプスが弾けた。

 祐一の眼球よりも軽い脳ミソへと刻みつけられていくッッッ!!!

 

 ふと王国でエイルに教えてもらった美しい女人の姿を象った妖精(シー)の話を思い出した。

 遍歴の騎士を惑わし、精をむさぼり破滅に(いざな)い妖しき女。

 恵那は旅の男を水底へと引き込み翻弄する魔性を秘めていた。

 

「祐一くん? どうしたの?」

 

「あ、いえなんでもないッス……」

 

 スゥー……。歯の間から息を吐くような声を出しつつ目を逸らす。

 

 と──その先に奇妙な”剣”を見かけた。

 いや、本当に”剣”だったのかちょっと自信がない。

 滝壺に落ちる狭霧のせいで玄妙な雰囲気漂う滝。その裏にある崖に洞窟でもあるのだろうか。

 その先でなにか煌めくものを見た。

 

「先輩、あれって剣なの? なんかめちゃくちゃ不思議な形してるのな……」

 

 チラっと見えた不思議な形状をした剣。両刃の刃の途中から枝みたいに刃が何本も伸びていた。

 ありゃあ俺じゃ振れねぇな……などと思案していると。

 

「えぇっ!? 石上(いそのかみ)のあの御神体見えちゃったの! すっごく格の高い神剣なんだよ!?」

 

 飛び上がったように恵那が大きな声をあげた。

 

「あ、やべ」

 

 見たらヤバいものだったっぽい。さっきの艶っぽい先輩ほどじゃないだろうが。

 完全掌握した『輝く瞳(Mittron glaukopis)』は色々と見えすぎる。もともと目の良かった祐一だが、物質界だけでなく精神的なもの……霊視に近い真似事もできるようになるくらいだ。

 祐一が殺めた天使”見えぬものなし”メタトロンの面目躍如といったところか。

 

「…………はぁー、なんだかガックリしちゃったァ……」

 

 ただ。

 神獣に愛され、姿すら見せない神剣を見れた。それも年下の子に。

 天衣無縫な笑顔が曇っていく。

 恵那だって容姿、才能、血筋、と。天から二物も三物も与えられて娘だ。

 しかし、だから十になる前から修行を始めなければならなかった。恵那も才気縦横と評して良かった。

 だが”傍からみた”祐一ほど異常ではない。

 ホントは祐一くんこんなに強かったんだァ、とか、あんなに修行しても追い抜かれるんだ、とか、もっと遊べたじゃん、とか。

 恵まれた彼女にとって慣れない感情がお腹のなかでぐるぐる回っている。

 なかなか折り合いがつけられない。

 

「二、三年前に来た時は雲隠れしちゃって姿も見せてくれなかったんだよ? ずぅぅーっと、ここで結跏趺坐しながら祝詞だって暗唱したのにさ」

 

 肩を落とし意気消沈して恵那が岩場に座り込んだ。小石をローファーで蹴り始めた。

 いじけたように口を尖らせ、身体を揺らすすがたは子どもっぽい。でも何より恵那にある哀切の心情を伝えてくれる。

 なんか悪いことしちゃったな。祐一は頭をかいて申し訳なさそうな顔をした。 

 

「むー……お役目に後悔はないし才能第一の世界だもん、しょうがないよね……。でもたまに羨ましくなるんだァ、恵那も普通の女子高生みたいに遊んでみたかったなって」

 

 祐一くんともお別れしなくて済んだしね、小さく付け加える。

 修行もしなくちゃなんだけど恵那の通う学校って遊ぶ暇ないんだー、軍隊みたいだもん」愚痴りながら止まらなくなった。

 

「しまった。こんな話するはずじゃなかったのに」恵那は思った。

 久しぶりにあった昔の友だちと昔を懐かしみたかった。たまに顔を出す心の奥底の気持ちなんてさらけ出すつもりはなかった。

 でも止まらない。

 目が熱い。肺が痛い。喉の奥が熱い。

 舌の根に熱くて苦いものが迫り上がってくる。

 ちいさく吐息を吐く。夏シャツの袖を目の端に当てた。

 

「……って言っても困っちゃうよねアハハ」

 

 昔、遊んでいた木下祐一という少年は嘘がつけない子だった。

 すぐ表情に出る。

 誤魔化せない。

 だから言葉に窮したらさっきみたいな話は苦手ですぐ目を背けるはずだ。

 

 あ、でも()()時は……。

 恵那は幼少のころの記憶を引っ張り出し──。

 

「じゃあさ、神様なんていない世界を作ってやるよ!」

 

「……え」

 

 見上げた先にあったのはどこまでも真っ直ぐなお日様(おひさま)色の目。 

 快心の笑みに秘されたギラギラした燃え上がる烈火の双眸。数多の英雄好漢たちと交わって灯った焔の宿る瞳が告げている。

 表情を誤魔化せない彼の瞳が嘘偽りなく本心を語っていた。

 神様のいる世界からの解放を。

 

「そしたら先輩も山に籠らなくていいじゃん! お役目ってやつも吹き飛ぶんじゃねぇか? 街にも気兼ねなく遊びにいけるって!」

 

「あ──」

 

 あれは戦士の目だった。

 これは戦士の誓いだった。

 矢のような強い眼差しだった。矢が少女の心を正鵠に射った。

 

(そうだな。本当に神様のいない世界が作れるなら)

 

 祐一は言霊にしてやっと、自分の願いが輪郭を得ていく気がした。

 護堂さんが語っていたまつろわぬ神を鏖殺した世界ではないが──神話から抜け出した神様なんて、いない世界の方がきっと正しい。

 サトゥルヌスは神様のいなかった様を”異様”だと言った。

 でも祐一には、()()()よりウルスラグナが顕れるまで神様なんていなかった数ヶ月前の世界の方がずっと正しく思えた。

 

 ──人に仇なす神様もいない。

 ──人が神を殺すこともない。

 ──カンピオーネは生まれない。

 ──神の奸計や野望に巻き込まれることもない。

 ──人は安息を得る。人は歩き出せる。

 ──祐一が友とひたすら殺し合うこともない。

 

 そんな世界のほうが百倍も十万倍も気持ちがいい。

 

 そうだ。

 

 死すべきものは死んでいなければ。

 

 神は故郷(神話)に帰らなければ。

 

 魔王は人に戻らねば。

 

 

 きっと。それが一番いい。

 

 

 想いは決まった。

 目指すべき場所も決まった。

 誓いも樹てた。

 あとはただひたすら進むのみ。

 

 驚愕して呆けて、祐一を見つめつくす恵那にサムズアップする。

 

「ほんと?」

 

「応。男に二言はねぇよ……俺が辿り着く”不可知の未来”ってのはそんな場所なんだよ」

 

「──じゃ! 約束だね!」

 

 濡れ髪もそのままに、反照する光を背にしながら。

 金色の光をあびて屈託ない笑顔が返ってくる。拳をつくって小指を差し出してきた。

 何をしたいのか、訊かずとも分かった。

 祐一もそれに倣って小指を差し出す。

 

 二本の小指が交わった。

 それから言霊を結びあげはじめた。

 

「「指切りげんまん」」

 

「「嘘ついたら」」

 

「「針千本飲~ます!」」

 

 子どもみたいに約束のわらべうたを唄い合う。

 神から簒奪した聖句を謳い、鍛え上げた声で。

 神を崇め奉り祝詞を詠い、磨き抜いた声で。

 幼きころの自由さと気楽さを喪った喉でそれでも奏でる。過去をなぞるような褪せたあの日の追体験。

 

「「指切った!」」

 

 いたずらっぽく、わんぱくに、指を離す。

 忘れていた約束を忘れないために──もう一度、宣誓する。

 

(……思い出した。そう、だったんだな)

 

 途端、起きた神殺しになって久しぶりの閃輝暗点(マイグレイン・オーラ)と偏頭痛。

 歯車のような糸車が、視界に滲む。

 目が霞み、視界に蜃気楼さながらのイメージが乱れ飛ぶ。祐一のまぶたに灼き付いた”秘憶”が呼び覚まされていく。

 

 地下に降り注ぐ雄渾な流れ。

 白い柱を作る滝。

 朽ちた古城。

 緑色の髪

 

 ああ。

 そういえば昔、誰かとこんな約束をしたんだった。

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