提琴神楽 ~神さま、どうかあの人を~   作:塩崎廻音

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第一話 ヴァイオリンの精と言ったら美女だと相場が決まっている

 夜半、ことりと部屋の隅から音がした気がして目が覚めた。

 体を起こして音のした方を見る。参考書やマンガ、それにゲームなんかが転がる部屋の隅には、直方体のちょっと大きな箱が置いてある。ヴァイオリンのケースだ。もちろんケースだけではなくて中身もちゃんと入っている。母親の趣味で小さいころに始めたヴァイオリンであったが、僕は大学生となった今でも趣味として続けていた。自分の感情を音で表現するというのがなんだか性に合っていたのだ。中学高校では管弦楽部に入っていたし、大学でも室内楽のサークルに入って演奏を続けている。その長い音楽生活を共に過ごしてきたこのヴァイオリンは、言うなれば人生の相棒だ。

 暗がりに目を凝らして、そんな相棒が置かれている部屋の隅をじっと見つめる。窓から入ってくる月明かりのおかげで、暗いと言えど部屋の中を見渡すことはできる。目を凝らしてことりという音の原因は何かと探ってみる。だが、残念ながらそれらしいものは見当たらない。いやむしろ、心当たりが多すぎる。僕は基本的に片づけが苦手なので、部屋には雑多なものが散らばって折り重なっている。そのどれかがバランスを崩して床に落ちたとして、それが一体そこらへんに転がっている物のうちのどれであるのか、分かる人間がいるだろうか?

 ぼんやりとした頭でそんなことを考えているうちに、急に自分の無益な行動がバカらしくなる。大体、部屋の隅から音がしたからなんだというのだ。そもそもの話、学生の多いこのアパートでは上下左右の部屋から物が落ちる音や騒ぎ声が聞こえるのはいつものことだ。今日だって隣の隣くらいの部屋からときどき笑い声が聞こえる。うるさい。だったら、ちょっとことりと音が鳴ったくらいで今さら気にする必要もないじゃないか!

 そこまで思い至った僕は、音のことは忘れて寝てしまうことにした。昨日の夜に期限直前の課題を徹夜で終わらせたため、今は非常に眠いのだ。そう思って音がしていた方に背を向けて布団に潜ると、すぐに睡魔が襲ってくる。背後から抗議するようにもう一度ことりという音がした気がするが、今度はそれを無視して眠りに入る。ただ、ネズミでもいるなら面倒だから、明日帰ってきてから調べてみようか。そんなことを思いながら、僕は心地のいい眠りに落ちていった。

 

***

 

「それはあれですよ、妖精さんが居たんじゃないですか?ほら、シルキーとかブラウニーとか言うやつ」

 次の日、いつものように部室に寄った僕は何とはなしに昨日の夜の事を部室にいた後輩の女の子、如月さんに話してみた。別に大した理由はない。適当に雑談をしているうちに「そうだ、何か面白い話をしてください!」という無茶ぶりをされたので、そう言えばと思い当たったそれを口にしただけだ。ただ、どう考えても何の面白味もないその話に、意外にも彼女は乗ってきた。まだ午前中なのに部室に来ているあたり、余程暇を持て余していたのだろう。僕もそうだし。

「妖精って……西洋のお屋敷ならともかく、学生街のボロアパートには似合わないんじゃない?」

「なるほど確かに。先輩は賢いですね」

「…その言い方はバカにされてる気がするなあ」

「いやいや、バカになんてしてないですよ。気のせいです気のせい」

「そう?…ならいいけど」

「ご理解いただけて幸いです」

「うむ。で、妖精じゃないなら、なんだと思う?」

「おっとぉ、むむむ、なんでしょう……あ、それなら座敷童はどうでしょうか?」

「座敷童」

「はい。家の奥座敷に住み着くと噂の」

「伝承は噂とは違うと思うけど……まあ、座敷童なら居てもおかしくないかな」

「じゃあ決定で」

 そう言って、彼女はころころと笑う。その笑顔に、僕もつられて笑てしまう。愚にもつかない会話であるが、彼女はとても楽しそうだ。本当は部室に来たのは楽器を練習するためであったのだが、こうも楽しそうにされるとなかなか切り出せない。別に三度の飯より楽器の練習が好き、なんて言うつもりは無いのだが、今の僕には色々と頑張りたい理由があるのだ。とはいえ、いつまでもこうしていても仕方ない。意を決してヴァイオリンの練習を始めたいと如月さんに伝えようとしたのだが――

「決定って、いや良いけど……それで、如月さん――」

「でも座敷童かぁ…先輩、座敷童って、その家にいる限りは幸運が訪れ続ける、そういう言い伝えでしたよね?」

「えっ?ああ、うん。確か」

「あとは、居なくなるとその家が不運に襲われるとか」

「そうらしいね」

「なるほど……ところで先輩、話は変わるんですが、その座敷童、うちに引き取っても良いですか?」

「全く変わってないし話の流れに悪意を感じる」

「いやだなあ、そんなことないですよ。ほら、私の目を見てください!嘘をついているように見えますか?」

 じっと、如月さんが僕の目を見つめてくる。思わず、彼女の眼を見つめ返してしまう。すっかり彼女のペースだ。

「見える」

「そんな、ひどい!こんなにも愛しているのに!」

「意味が分からないし如月さんは好きな人に意地悪するタイプでしょ」

「…バレたか」

 そう言って、如月さんは悪戯っぽく笑う。その笑顔は彼女によく似あっていて魅力的だが、その笑顔を見るときというのは彼女から悪戯かなにかを仕掛けられている時なので始末に悪い。今回はまあ、ちょっとした軽口で済んだけど。

「じゃあ、これ以上何かされる前に退散しようかな?楽器も練習したいし…」

「ああ、先輩!お待ちを、わたくしめにもう一度チャンスをぉ!」

「ダメ」

 何やら芝居がかった仕草で縋り付いてくる如月さんを引きはがすと、ヴァイオリンケースを手に取って廊下に出る。別に部室の中で練習してもいいのだが、如月さんがいる状況で部室に残っていると何かと邪魔されそうな気がする。その点、さすがに彼女も廊下にまでついてくる気はないようなので一安心だ。

 

 廊下の端に置かれているパイプ椅子を取り出して、適当な場所に陣取る。最近は少しずつ肌寒くなってきたとはいえ、まだ本格的な冬になったわけではない。あまり寒いと指がかじかんで練習にならないのだが、今日はまだ大丈夫そうだ。そう思って、取り出したヴァイオリンを調弦して基礎練習を始める。音階、分散和音、和音音階。もちろんメトロノームに合わせて弾くことを忘れてはならない。趣味程度に楽器を弾いている人間だと基礎練習をここまでまじめにやる人間は少ない。たいていの場合は今演奏会を控えている曲を練習するだけというのが多い。そもそも、僕だって本来は結構な怠け者で、こんなにまじめに頑張るタイプではない。ちょっと前までは楽器をケースから取り出すのさえ週に数回程度だったくらいだ。

 ただ、最近は自分でも不思議に思うほどに音楽に対して熱心になっていた。怠け者な僕でもちょっと頑張ってみようか、なんて思う理由があるのだ。

「あれ、神楽君。もう来てたんだ」

 基礎練習を続けていると、その「理由」が階段を昇ってきた。

 提橋琴音。僕と同じヴァイオリン弾きの、いっこ上の先輩だ。

 彼女は、一言でいえば非常に精力的な人である。学業、サークル活動のどちらにも全力で取り組んでいて、自己研鑽にも余念がない。成績は常にA判定。さらに、勉強の過程で気になったことを積極的に調べているみたいで、「横道」の知識も豊富だったりする。ヴァイオリンの演奏技術は既にとても素晴らしいが、かといって基礎練習をおろそかにはしない。さらに、合奏の練習でも積極的に自分の意見を出してくれるので、他人の演奏技術の成長にも一役買っている。また、大変な読書家でもあるようで、空き時間に彼女の姿を見かけるとたいてい何かの本を読んでいる。その分野は様々で、しばしば「本で読んだことなんだけど」を枕詞に始まる彼女の雑学知識は並大抵のものではない。たまに、彼女と自分が同じ大学に通っているのが不思議に思えてくることもある。

 文武両道、眉目秀麗、そしてなにより周りの人間を圧倒するような熱意。怠け者を自認する僕にとって、彼女のその生きることへの情熱はまぶしくて仕方がない。僕にはないものをすべて持っているかのように思える彼女は、僕にとっての憧れだった。

「はい。今日は講義が少ない日なので。むしろ先輩がこの時間に来るほうが珍しいですね?」

「ああ、うん。講義がいっこ休講になっちゃって。時間が空いちゃったから、楽器の練習でもしておこうかなって」

 そう言って、彼女は困ったように苦笑する。僕だったら休講になれば何も考えずに喜ぶところだが、彼女にとってはそうでもないらしい。こういうところでも彼女との差を感じてしまう。

「…先輩は、休講になって喜んだりしないんですね」

「うん?まあねえ。もともと勉強するつもりで予定していたのにいきなりぽっかり空いちゃうと、時間を無駄にしているような気分になるじゃない?」

「おおう…いや、多分普通は降って湧いた休みに喜ぶだけですって。…なんというか、先輩は勤勉ですねえ」

「いやいや、単に忙しないだけだよ。なんだかんだ、私って面倒くさがりだし」

 面倒くさがり。怠けないウサギのような彼女を表すには似つかわしくない言葉だ。彼女を面倒くさがりだというのなら怠け者のカメである僕は一体何になるのだろうか?

「…先輩が面倒くさがりなら、僕はもはや動かない死体ですよ」

「あは、なにそれ。それじゃただの死体じゃない」

 そう言って、先輩は愉快そうに笑う。本当に楽しそうだ。そのままひとしきり笑った彼女は、僕にどこか優しげな眼を向ける。

「そんなに卑下しなくても。今日だってそうやって楽器の練習してるじゃない」

「えっと、まあ、それくらいは…」

 少し居心地の悪い気分になる。僕が楽器の練習をよくするようになったのは、彼女に憧れて、という下心があってのものだからだ。それを褒められるとどうにも座りが悪い。

「最近頑張ってるもんね。あ、もしかして、好きな人でもできたり?」

――あなたですよ。

 悪戯っぽく笑う彼女にもしそう言ったら、一体どんな顔をするのだろうか。驚くのか、照れるのか、それとも「あらそう」なんて軽く流してしまうのか?不思議なことに提橋先輩には彼氏はいないらしい。聞いた話によると、しばしば先輩同期後輩のいろいろな男から告白を受けるらしいが、恋愛だけはする気がないからと断っているらしい。となると、良い反応は得られなさそうだ。

 いやまあ、僕はそもそも人としての憧れなのか恋愛的な意味での憧れなのか自分でもよくわかっていないのだけど。だから、少なくとも今は彼女に告白するつもりは全くないのだが。

「いや、ちょっと思うところがあっただけで……」

「あ、や、し、い、なぁ!ほらほら、お姉さんに話してみな?」

「お姉さんって……それに嫌ですよ。先輩に話したら三日後にはサークル中に広がってそうですし」

「えぇ?そんなことしないよ。こう見えて結構口は堅いほうだよ?」

「いや、戸舘先輩の恋愛相談サークル中で言いふらしたじゃないですか。戸舘先輩半泣きでしたよ」

 あの痛ましい事件は今年の夏合宿のあたり。合宿の飲み会で戸舘先輩は迂闊にもこのいかにも口の軽そうな提橋先輩に恋愛相談をしてしまったらしい。そして次の日、黙っていてほしいと頼まれたにもかかわらず「彼の背中を押すためだから」と言いふらす提橋先輩のせいで、戸舘先輩の恋愛事情はサークル全体の知るところとなった。もちろん大半の人間は聞かなかったふりをしていたのだけど、一部のお調子者がそれを聞いて大暴走。最終的には周りの後押しもあって恋は成就したものの、その過程でさんざんに揶揄われた戸舘先輩は相当大変だったみたいだ。

「あは……えっと、それは、ほら。退路を断ったほうがうまくいきそうじゃない?彼って。実際うまくいったし」

「それはそうですけど。でも、そういうことは僕の話も先輩に話したら広まる可能性があるってことですよね?」

「おぉ?ということは、やっぱりそういう話なんだね。いいこと聞いちゃった」

「うげ」

 にんまりと楽しそうに笑う提橋先輩。今のは完全に失敗だった。適当にはぐらかしていればそのうちあきらめてくれたかもしれないのに、餌を与えてしまった。

「……まあ、そうかもしれませんけど。でも、そういうのは自分で頑張るので」

「お、いいねいいね。ちゃんと自分から動くつもりなんだ。あ、でも、のんびり屋さんの君に任せるとなぁ…」

「いやいや、自分のペースでやりますから」

「…そう言うけど。人生って、思っているよりも短いんだよ?」

 そう言って、提橋先輩は苦笑する。

「…まあ、確かにそうなのかもしれないですけど。でも、らしくないですよねその言葉。いつも前向きなのに」

「ん~?そーでもないよ。ほら、私だってもう歳だし」

「歳って……このまえ成人式に出たばっかりだって言ってましたよね?」

「そうだけどさ…」

 煮え切らない様子の提橋先輩。そんなところもらしくない。どうしたんだろう、体調でも悪いのだろうか?

「…まあ私のことはいいのよ。それより神楽君。君の恋愛話、私に預けてみてよ!大丈夫、恋愛相談には慣れているから!」

「いや、結構です。こういうのは、自分でやることに意味があるので」

「でも、第三者の意見って参考になるものよ?岡目八目って言うし」

「大丈夫です。いざとなれば友達にでも相談するので」

 そもそも相手が先輩本人だし。

 そもそも恋愛かどうかも分かってないし。

「…あは、振られちゃったか。でも、それだけ意思が固いなら口出しするのも無粋かなぁ」

 そう言って、先輩は僕から離れる。廊下の端に置かれたもう一つのパイプ椅子をもって、自分の練習場所を探して。

「まあでも、心変わりしたらいつでも言ってね!力になるから!」

「ありがとうございます。お世話にならないよに頑張ります」

「…もうっ!頑固者!」

 べっ、と舌を出してそう言った提橋先輩は、完全にこちらに背を向けて自分の練習に入る。まあ、あそこまで頑なに拒んでしまったのはちょっと申し訳ないが、別に先輩も起こっているとかいうわけではないだろう。多分、単なるポーズだ。もちろん、全く気にしてないというわけでもないだろうが、一方でそんなに深刻なものでもない。ただ、次の機会にはちょっと丁寧に対応しようか。

 そんな風に思って、僕も自分の練習に移る。今の僕に必要なのは提橋先輩からの好感情ではなく自分を高める時間である。今までの人生がさぼり気味だった分、今は頑張らなくてはならない。

 しばらくそうやって練習していると、同じく練習を始めた先輩の弾くヴァイオリンの音色が廊下の反対から聞こえてくる。僕の弾くヴァイオリンとは大違いの、力強くも澄んだ音色。数秒聞いただけでも自分との実力差がはっきりと浮き彫りになり、正直ちょっと耳に痛い。ただ、こうやって目標の音を間近に聞くことができるのは幸運といえば幸運ではある。実力差を突き付けられるのはプライド的にはあれなのかもしれないが、元から僕のプライドなんてあってないようなもの。だったら、ちんけなプライドを守ろうとするよりは彼女の演奏をたくさん聞いて少しでもそれに近づこうとあがくほうが余程有意義といったものだ。

 とはいえ、ちょっと実力差が開きすぎて目標として掲げる以上の意義が得られない。何をどう変えればいいのかが全く分からないのだ。いっそ、提橋先輩に教えてもらえればいいのかもしれないが、さすがに憧れの人にそこまでの迷惑をかける気にはなれない。

――どうしたもんかね。

 心の中で思い悩むが、そうそう解決策が出るわけもなく。結局その後は悩みでろくに集中もできずに、その日の練習は終わってしまった。

 

***

 

「うへえ、疲れた…」

 家に戻り、ヴァイオリンケースとカバンを部屋の隅に置いてヘッドに倒れ伏す。疲れたとは口にしたが肉体的な疲れというよりは精神的な疲れが強い。あの後ヴァイオリンの練習を続けたのだが、提橋先輩が近くで練習していることを意識してしまっていまいち集中できなかった。自分と比べて圧倒的に上手い彼女の演奏を間近で聞くと自分の演奏の拙さが余計に気になってしまうのだ。それに、そんな自分の演奏を提橋先輩に聞かれていると思うと、自分の至らなさに対する恥ずかしさのようなものまでこみあげてきて、とてもとても練習に集中できたものではなかった。次の授業があった提橋先輩は一時間もすると練習をやめて部室棟を出て行ったが、最後に「頑張ってね」と声をかけられたことも今日ばかりは逆効果。その後も未練がましく練習を続けてはいたものの、自分の至らなさに嫌気がさすだけで大して成果も上がらなかった。

「まあ、地道にやるしかないってのはその通りなんだけど」

 ベッドに突っ伏したまま独り言ちる。楽器に限らず物事の鍛錬というのはすぐに成果の出るものではない。一説によると一万時間の法則というものがあるらしく、その道を究めるためには最低で一万時間の鍛錬が必要と言われているのだ。まあ、自分の場合は一流の演奏者になるまでは望んでいないわけだが、それでもちょっと十時間や百時間練習したくらいで成果が上がるようなら苦労はない。それに、その程度で到達できるようなものに憧れたりはしない。とはいえ、最近の頑張りのわりにうまくいっていないと感じるのも事実。いや、多分実際には少しずつ上達はしているのだろうけど…

「やめやめ。悩んでも仕方ない」

 ごろりと転がってベッドの枕元に転がっている漫画に手を伸ばす。最近読んでいるシリーズ物の本で、異世界に飛ばされた主人公が現地の妖精や幻獣たちと絆を育み邪悪な帝国の支配に抗うというもの。物語の筋としてはひねりのない王道ものだが、登場する妖精や幻獣たちが良くデザインされているので見ごたえがある。最初は表紙買いだったものの読み進めるうちに普通にはまり込んでしまった一作だった。新刊が今週の頭に出たばかりでさっそく読もうと買ってきたのだが、ここ何日か課題の提出やサークルの練習に気を取られて読むのを忘れていたのだ。

 漫画の続きを読むと、主人公が自分の屋敷に何かの気配があることに気づき、その原因を調査するところであった。帝国との戦争の中で注意すべきは戦場での勝敗だけではない。屋敷に潜む気配が暗殺者のものであれば一大事だ。そんなわけで主人公たちは注意深く屋敷の中を探索する。しかし、偶然見つけた隠し部屋の中にも人影は見当たらない。

「ありゃ、違うのか」

 今回の話のクライマックスだと思っていた隠し部屋が肩透かしに終わり、少々驚く。もしかして、何かの気配というのは思い違いだったのか?そう思って読み進めていくと、一行がキッチンに集合したところでその気配の正体が姿を現した。家事妖精ブラウニー。帝国との戦いで屋敷を開けがちな主人公の一向に変わって掃除や修繕を行っていた妖精が、屋敷に潜む気配の主だった。結局、その妖精に正式に屋敷の保守を頼むことで物語は落着した。

「へえ、珍しい」

 今までとは少し違う物語の動きに関心する。もう単行本で何巻にもなる長編であるが、いまだに新しいストーリーの作り方を試しているわけだ。こういった向上心はすごいと思う。一つの結果を出しても満足せずに更なる上達を目指す。僕も見習わなくてはならない。

 そんなことを考えていると、ふと一つ思い出した。

――そういえば、昨日のあの音…

 部屋の隅に目を向ける。そこには、積み重ねられた漫画や参考書、あとはカバンとヴァイオリンケース。確か昨日の夜中、あのあたりからことりという音がしたはずだ。如月さんに話したら「シルキーとかブラウニーとか?」なんて言っていたが、本当に何かいたりするのだろうか。まさか妖精がいるとは思わないが、ネズミの一匹でもいたら面倒だ。そう思って、僕はベッドから体を起こして昨日音がしたあたりに近づいて行った。

「…っても、何があるわけでもないんだけど」

 モノだけは大量に転がっているが、別に特別なものが置いてあるわけではない。ついでに言えば、ネズミのエサになるような食べ物が放置されたりもしていない。片づけは苦手であるが、最初の年に黒くて素早い虫に懲りてからはそういうものが転がらないように気を付けているのだ。だから、想定の一つとしてネズミを挙げてはみたものの、そのネズミがその辺に現れるような心当たりは全くなかった。あるいは、忘れているだけで貰い物のお菓子なんかを置いたままにしているのだろうか?そう思って、部屋の隅の漫画をどけてその下を見てみる。しかし、特にお菓子も食べ物の見つからない。

「…やっぱり気のせい?もしくは漫画か何かが落ちただけ?」

 とはいえ、今見てみても漫画の山が崩れたような気配はない。まあ、近くに置いているヴァイオリンケースとカバンを手に取るときに、無意識に崩れていた漫画の山を直したりしたのかもしれないが。ちょっと釈然としない気持ちを抱えつつも、持ち上げた漫画を元に戻す。実際のところ、これだけものが散乱しているとちょっとどれかが動いたところで気づきようもない。面倒くさがって本棚を買わないでいたが、これだけ漫画の山ができてしまったのならそろそろ観念して整理すべきだろうか。

――あは、本棚を買いたがらないのは神楽君らしいかも。でも、いちいち漫画の山から探すのはそれこそ面倒じゃないかな?時間も無駄になるし。

 提橋先輩がこの光景を見たらそんなことを言うんだろうな。ふと、そう思う。別にあの人は合理主義者というわけでもないが、時間の無駄というものをやけに嫌っている印象がある。彼女からすれば、ちょっとの手間を惜しんで逆に時間を無駄にするなんていうのは信じられないくらい嫌なものだろう。

「…じゃなくって」

 思考が脇道にそれた。今は、昨日聞こえたことりという音の原因を探っていたのだった。ただ、漫画や参考書の山が崩れたのでないとすれば、音の出どころの候補は自ずから限られてくる。漫画や参考書以外で部屋の隅に置かれているもの。つまり、いつも使っているカバンか、ヴァイオリンケース。

「いやでも、あり得るか?」

 とりあえずカバンの中を漁りながら、そう独り言ちる。カバンの中には筆箱やら参考書やらと色々なものが入ってはいるが、別にその辺の漫画の山とは違って折り重なっているわけでもない。カバンの中で何かが落ちた、なんてことはないはずだ。あるいは例えば何かのきっかけでカバンが揺れたり倒れたりしたとしても、「ことり」なんて硬質な音がするはずはない。そう思いつつもカバンの中をがさがさと探るが、やはり音の原因になるようなものは見当たらなかった。

「――っ痛!」

 そればかりか、中に入っていた本の淵で指の横を切ってしまった。民間伝承に関する本。図書館でふと目について借りてきたものだ。別に神話や昔話の類に強いこだわりがあるわけではないが、漫画やアニメでたびたび耳にするそれらについて全く興味がないわけでもない。せっかく目に留まったのだから一度くらいは読んでみても面白いか。そんな軽い気持ちで借りた本であったが、まさかこんな仕打ちを受けるとは……いや、僕の不注意なんだけど。じんわりと血がにじむ指を見て、ため息を一つ。全くついてない。紙で指を切ったことは何度かあるが、かといって早々よく起きるような現象でもない。それに、この鋭い傷から流れてくる痛みはじくじくとしてなかなか無視できない。指先の感覚は鋭敏というから、それも原因の一つだろうか。

「いてて……」

 そんなどうでもいいことを考えていたらいよいよ傷口が痛み始めて、血もそれなりににじんできてしまった。放っておいても仕方ないので、とりあえずは水道で傷口を洗って絆創膏でも貼っておくことにする。一応、一人暮らしを始めてからはちょっとした怪我の備えくらいはしているのだ。傷口を洗い、絆創膏を張り。まだちょっとズキズキするが、それでも応急処置をしておけばだいぶ気は楽になる。そんなわけで、先ほどの捜索の続きをすることにした。

「とは言っても、あとは一つだけど」

 残る可能性はヴァイオリンケース。ただ、開けてみる前から見つかる可能性はまずないことは分かっている。なにせ、このヴァイオリンケースは置物ではない。今日だって部室にもっていって、ヴァイオリンの練習をしてきたわけだ。当然、その時もこのケースは開けて、中のヴァイオリンを取り出している。そりゃ確かにケースの中をまじまじと観察したわけではないが、見慣れないものが入っていれば流石に気づくはずだ。

「これでネズミとか入ってたら泣くけど」

 ほんとに。ショックとか、いろいろで。

 とはいえ、本気でそんなものが入っているとは露ほども思わず。なんの気負いもせずにがばっとケースを開ける。

 すると。

『やっと気づいたか、坊主』

「…?!」

 思いがけないその言葉に、思わず後ろに飛び退る。

 ケースの中から現れたのは、手のひら大の光の球体。それがふよふよと僕の眼前にまで浮き上がり、そう語りかけてくる。いや、語りかけている、と言えるのだろうか?その言葉は耳から入ってくるというよりは脳に直接投げかけられているかのようで、何を言われているかははっきりと理解できるのに、それがどういう音なのかが全く分からない。聞こえない。若いのか年寄りなのか、男か女かもわからない。幻聴ですらもう少し具体的な音に聞こえるだろう。それは、ふよふよと浮かぶ光の球という目の前の光景と合わせて、あきれるほどに非現実的な現象であった。そんな非現実的な事象に脳がマヒして何も考えられない。床の上にしりもちをついた態勢のまま、僕はぼんやりとその光の球を眺め続けていた。

 一瞬か、あるいは数分の時間が経ったのか。あまりの出来事に放心していた僕にはそれはわからない。ただ、いつまでたってもなんの反応も示さない僕に焦れたらしい光の球は、ずい、と僕のほうに近づいてもう一声かけてきた。

『おい、坊主!何か返事を寄越さぬか!』

 その言葉に、はっと我に返る。そうだ、ぼーっとしているわけにはいかない。得体の知れない存在が目の前にいるからと言って、いや、だからこそ冷静に対処になくては命取りだ。まずは、すぐに逃げられるように態勢を整える。しりもちをついていた状態から、足をついて屈んだ状態に。そして、目の前の光の球体をじっと見つめる。こんなおとぎ話の中にしか出てこないようなものであっても、冷静に観察すれば何かヒントが得られるかもしれない。ヴァイオリンケースから出てきた謎の存在。ぴかぴかと光って、ふわふわと宙に浮かんで、言葉を発する。その情報をかみ砕いて、目の前の存在について考える。この、…この――

 いや、なんだこれ?

「…えっと、君、何?」

 思わずその疑問が口をついて出る。昨日如月さんが冗談で言っていたシルキーやら座敷童やらではなさそうだ。そもそも、ヴァイオリンケースから出てきたのだから家にまつわる存在ではなくてヴァイオリンに関係する存在なのだろう。だとすれば、音楽か何かの妖精?いや、それにしては口調がジジ臭い。妖精というのは良くも悪くも子供のような性格であるというのが定番だが…

 そんな考えが頭の中を高速で駆け巡る。だが、一向に答えは思い浮かばない。そもそも、ファンタジーでよく描写されるような存在が現実に現れるというのも変な話ではあるが。そうした混乱した思いに頭を悩ませていると、僕の問いを聞いて少し苛立たし気にチカチカと点滅した光の球体は、またしても頭の中に直接語り掛けるようにこう言ってきた。

『なんと。全く近頃の人間は礼儀がなってないの。挨拶より前に誰何とは…。まあいい、答えてやろう』

 そう言った光の球体は、ふわりと僕から離れて宙に止まる。すると、徐々にその光が収まっていき、中からその正体が姿を現していく。そして、厳かに、自身が何者であるのかを口にする。

『儂はいうなればヴァイオリンの精。まあ、妖精の一種であろうか。まあ、本当はそう名乗るのも少し癪なのだが…』

 そして、光が完全に収まった後に現れたのは、やはり手のひら大の小柄な人型の姿。

 

 ひげ面のおっさんを縦に潰したような、ずんぐりむっくりな小人だった。

 

――違う、そうじゃない。

 思わず口から出そうになったその言葉を、何とか飲み込む。いやだって、違うだろう。ヴァイオリンの妖精が、おっさんて。これは断じて僕の個人的な趣味の問題ではないと思う。だってそもそも、ヴァイオリンというのは女性的な楽器なのだ。音域は高く音色は蠱惑的。そして、その楽器本体も非常に女性的な曲線を描いている。ヴァイオリンをよく知る人に聞けば、十中八九は同意がもらえるはずだ。それに、妖精。確かに一口に妖精といっても色々で、小鬼やトロールだって妖精といえる。とはいえ、音楽にかかわる妖精といえばリャナンシーやセイレーンか?どちらもおっさんの姿という伝承はないはずだ。猛烈にリテイクを要求したい。誰が好き好んでおっさんの妖精と交流しようというのか。

 どうか聞き間違いであってほしい。そんな思いに駆られて、彼にもう一度何者であるかを問うてみる。

「…えっと、ヴァイオリンの精であると?」

『そうじゃ。お前が良く弾いているこのヴァイオリンの精霊。「オットー」と名前で呼んでも構わんぞ!』

 "ヴァイオリンの精"だと長いからな!と、オットーはからからと笑う。見た目だけじゃなくて振る舞いもおっさんらしい。そして、やはり聞き間違いではなかった。勘弁してくれ。いまだに急展開に頭が混乱しつつも、僕はいろいろな意味で頭を抱えていた。

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