「そもそも、なんで今更出てきたの?」
あの後数分ないしは十数分経って、ようやく僕も落ち着いてヴァイオリンの精――オットーに話しかけることができるようになった。いや、正直今もまだヴァイオリンの精というのは半信半疑だけど。ただでさえヴァイオリンの精なんて信じられないというのに、彼は全く「らしくない」のだ。妖精というよりは小人みたいだし。おっさんだし。オットーがヴァイオリンの精らしいところなんて、ふよふよと浮いていることと光ることくらいだ。そんな思いも込めて、彼がいきなり現れた理由を聞く。なにせ、このヴァイオリンとも長い付き合いだ。幼少のころは子供用の楽器を使っていたからそのころからの相棒というわけではないが、それでも一年二年の時間でもない。今までだって、こうやって姿を現す機会はいくらでもあったと思うのだが…
『儂からすると今更、というよりはようやくだがの。こうして姿を維持するだけの力がなかなか集まらなくてのぉ…』
そう言って、オットーは軽くため息をつく。姿を維持する力。あまりなじみのない言葉だが、妖精と言うものは出てくるだけで何らかの力がいるものなのだろうか?
「その、姿を維持する力って?」
『ああ、そうか。人間はそういうものと無縁じゃからな。羨ましい…』
もう一度ため息をつくオットー。辛気臭い。
『まあ、儂らみたいなのはもともと観念的な存在じゃからの。本来は実体を持っていないんじゃ』
「実体がない……というと、幽霊みたいな?」
『いや、さすがに幽霊と一緒にされるのは…』
オットーが嫌そうな顔をする。
『とにかく。もともと実体がないから、こうして姿を現すのにもそれなりの力を必要とするわけじゃ』
「ふむ…その力っていうのは、どうやると増えるもんなの?」
『まあ、それは自分がどういう存在であるかによるんじゃが。儂の場合は音楽に関する存在じゃから、依り代であるこのヴァイオリンでいい音楽をたくさん演奏してもらう。それに尽きるの』
そう言って、オットーはケースに収められたヴァイオリンを指す。なるほど、それはいかにもヴァイオリンの精らしい。それに、今になって姿を現したのは、最近僕がヴァイオリンの練習を熱心にするようになったからか。以前に姿を現す力すら失ったのは、しばらくディーラーのもとで売り物として置かれていたからだろう。
「なるほど。じゃあ、これからも積極的に演奏したほうがいいのかな?頻度はどれくらい?」
『…まあ、恐らく今の半分くらいの頻度で弾いてもらえば何とか。それでとりあえずは姿を維持することくらいはできるかの』
「了解。それなら、しばらくは問題なく維持できそうだね」
最近は提橋先輩に憧れてことさら熱心に練習しているが、それ以前も全く弾かなかったわけではない。というか、そうでもなければ音楽サークルには入らない。だから今の半分、二日に一回程度の練習であれば、多少熱が冷めたところで難なく続けられるだろう。まあ、このおっさんの妖精の姿を維持するためというのは若干やる気を削がれる感じはするが。とはいえ、折角相棒たるヴァイオリンの精が姿を現したわけだから、少しくらいは頑張ってみてもいいかもしれない。
「ところで、姿を維持するくらいってことは、もっと力があれば何かできるってこと?」
『む、そこに気づくか。ぼーっと聞いているようで、案外しっかり聞いていたのじゃな』
「いやまあ、こんなびっくり現象だから気になるし」
オットーの言葉に素直な気持ちを返す。生まれてきてこのかた妖精や付喪神みたいなものを見たことはない。当たり前だ。だから、そんな未知との邂逅で貴重な本人からの情報を聞き流すなんてできっこない。まあ、多少混乱が残っていてぼーっとしていた部分はあったが。それでも、彼の言葉をしっかり自分の中に取り入れようという気持ちはある。できる限り、オットーの言葉を理解しようと努めてはいた。
あとは、現代にはいろいろとファンタジー知識が氾濫しているというのもあるかもしれない。なにせ、こういうランプの精だとか付喪神だとかは、大抵何か特別な能力を持っていると相場が決まっているのだ。ただ単に光って飛ぶだけなんてそんな半端な存在ではないだろうと最初から思っていた。
『まあ、儂も昔は色々とできたんだがのう…今となっては信仰も失い、出来ることなぞほとんど……』
「あれ、信仰?それって、妖精というよりは神様みたいな…」
『おや、言ってなかったか?儂はもともと神木の精。まあ、一種の神だからの』
「聞いてない」
衝撃の事実再び。って言うか、さっきと言っていることが違う。
「…さっきはヴァイオリンの精だって言ってなかった?」
『別に嘘はついとらんよ。昔は神だったというだけじゃ』
ほらみい、そう言って、オットーはもう一度ケースに収められたヴァイオリンを指す。
『このヴァイオリンの表面の板と、あとは魂柱。そこに使われておる木は、もともと山奥の少数部族で神木として崇められていた儂の本体だったんじゃ』
「ヴァイオリンに使われる木って……なんだっけ、樫?」
『一般的なものが何かは知らん。儂は松の一種じゃな』
オットーの言葉を受けて、軽くヴァイオリンの材質を調べる。適当な印象で樫とか言ってみたが、通常ヴァイオリンの材質は表面が唐檜と呼ばれる松、裏面が楓らしい。オットーは松の一種らしいから、唐檜なのだろう。そして、そう聞くとなるほどオットーの見た目にも合点がいく。ヴァイオリンの精というよりは、松の神木の精。松の神様だというのならおっさんの見た目も納得だ。やたら小さいのは、力を失って姿を維持するのに手いっぱいだからだろうか。
「…つまり、オットーの本体である神木が切り倒されて、それを材料にしてこのヴァイオリンが作られたと?」
『そうじゃ。全く彼奴ら、仮にも神である儂を何だと思って…』
ぶつくさと、オットーは誰に聞かせるでもなく文句をこぼす。まあ、無理もない。神木ということはその部族でも大切に扱われていたはずだし、神の一柱としての自負もあったのだろう。それが、こうして他の木と一緒くたに切り倒されてただ楽器の材料として扱われる。人間である身の僕ではピンとこないが、それは大層屈辱的なことなのだろう。
『…あのへぼ職人め!神木たる儂をこんな半端な楽器にするとは!!』
「そっちか」
思わず突っ込みを入れてしまう。いやだって、切り倒されて楽器にされたことを恨んでいるのかと思えば。確かにこの楽器はアマチュアならそこそこ、程度の大したことはない楽器ではあるのだが。いい楽器になったら満足だったのだろうか?
「…いやほら、木としては立派でも楽器に向かなかったのかもしれないし」
『この儂、オットーといえば並みいる松の中でも一際大きくスプル族の富の象徴として崇められていたものを…!』
聞いちゃいない。まあ、どうせ楽器にされるならせめて名器になりたかったということだろうか?どことなく単純そうなオットーのことだから、名ヴァイオリンとして名を馳せていたらそれで満足していた可能性はある。ただ、どこかの本で読んだ話によるとヴァイオリンの材料として有用な木というのは日の当たらない寒い谷間などの過酷な環境を生き延びたものらしい。神木というからにはオットーは日当たりのいい場所ですくすくのびのびと育ったのだろうから、どのみちいい楽器にはならなかっただろう。というのは、言わぬが花か。
「…ほらほら、なっちゃったもんは仕方がないんだから。それで、神木ってことは何か神の奇跡とか起こせるの?」
『むぅ……まあ、かつて神木として崇められていたころは信徒たちに色々な奇跡を授けてやったが…』
「おお、すごいじゃん。例えばどんな?」
『そうさな、豊穣神のまねごとをして田畑の収穫を増やしたり森の実りを豊かにしたり、あとは病気の快復などもやっていたな。じゃから、儂を崇めれば飢えも病死も無縁の健やかな生活を送れるわけだ』
「おおう、思ったよりもすごい…ちなみに、今は?」
『まあ、もう信徒もおらんしのぅ……お主を一種の信徒と考えて…』
そう言うと、オットーは何やらむにゃむにゃと唱え始める。しばらくその様子を見守っていると、やがて唱え終わったオットーはくわと目を見開いて、その手の先から柔らかな光を放った。
『傷よ、癒えよ!』
オットーのその言葉とともに、放たれた光が僕の右の人差し指に収束する。先ほど、カバンを漁っていた際に軽く切ってしまった指だ。その光が収まると、それまで指からズキズキと発していた痛みが淡雪のように消え去ったことに気付く。
「え、もしかして?」
その指に張っていた絆創膏をはがして切ってしまった部分を見ると、切り傷が跡形もなく消えていることに気付く。さすがに、自然治癒ではこんな短時間に傷まで消えたりはしない。間違いなく、オットーが起こした奇跡の力によるものだ。
『はぁ、はぁ……どうじゃ?驚いたか?』
息も絶え絶え、といった感じでオットーがそう尋ねてくる。そういえば、ようやく姿を維持するだけの力が溜まったなどと言っていた。そんなぎりぎりの状況で奇跡の力を発揮すれば、また姿を維持できなくなるのではないだろうか。そう思ってオットーのほうを見ると、案の定その姿はわずかに透明になっており背後のヴァイオリンケースが透けて見える。なんだか、放っておくと消えそうだ。
「いやまあ、結構驚いたけど……大丈夫?消えそうだけど…」
『ふ、案ずるな……いや、やっぱダメじゃ、消えそう…』
一度は格好をつけたオットーであったが、すぐに情けない声を出す。やっぱダメか。
『うぐぅ…そうじゃ、今の奇跡はどうじゃ?この奇跡でお主が信徒になれば、姿を保つくらいの力は…』
「…いやそれ、本人の前で言ったらダメなんじゃ」
『ええい、うるさい。それで、どうなんじゃ?儂を信仰する気になるか?』
「え?う~ん…」
考え込む。確かに、この奇跡の力はすごい。今はちょっとした切り傷が治るくらいだが、それだって状況次第では非常にありがたい力だ。例えばこれが本番前に指先を切ったとなれば、指の痛みで到底いい演奏なんかできない。いや、演奏会に限らず小さな切り傷や打ち身が大きな邪魔になることなんていくらでもあるだろう。それを防げるというだけでもありがたいのに、おそらくオットーの力が戻るほどにもっと大きな奇跡を望むこともできる。そう考えると、彼のことを信仰してもいいのではないかという気にはなる。今まではそれほど信仰というものに向き合ってこなかったが、それは具体的な神の存在を信じられなかったから。こうして神様が現れたのなら、それを信仰することにさほどの抵抗はない。ただ、一つ気になるのは――
「――ヴァイオリンの精らしく、音楽に関係する奇跡とかは…?」
僕の言葉に、オットーがびしりと固まる。思わず口にしてしまった言葉だが、言ってしまってからマズかったかなと思う。そもそも、元が神木の精であるオットーに音楽関連の奇跡が起こせるかは微妙だ。さっき例に挙げていなかったから最初から無理だったのかもしれない。さらに、仮にもともとできたとしても、今はその奇跡を起こすだけの力が残っていないという可能性もある。いずれにしろ、折角なけなしの力で奇跡を見せてもらったところにこの返しはちょっと非情すぎた気がする。とはいえ、言ってしまった言葉をなかったことにできるわけもなし。それこそ、奇跡の力が必要だ。
『……』
オットーは固まったまま徐々にその姿を透明化させ、やがて虚空に消えてしまった。どうしよう、別に論破しようとか思ってあの言葉を言ったのではなかったのだが、思った以上に突き刺さってしまったらしい。違うんだ。つい思い浮かんだ言葉が口からぽろっと零れ落ちただけなんだ。いや、言い訳になってないけど。
そのあともしばらく色々とヴァイオリンケースに語りかけてみたけど、オットーは出てこなかった。まあ、どうも力が限界だったみたいだからできるだけヴァイオリンを弾くようにしていたらまたひょっこりと現れるかもしれないけど。あるいは、お供え物でもしてみたら力が溜まるのかな?ただ、今は供えられるような手ごろなものはない。明日スーパーでお菓子でも買ってこようか。そんあことを思いつつ、やっぱりヴァイオリンの中に引っ込んでへそを曲げているような気がするあのおっさん精霊に、僕はしばらく謝り続けた。傍から見たら何事かと思いそうだな、この光景。
***
次の日も、僕はいつもと同じように部室へと向かった。もちろん楽器の練習をするためだ。ちょっと前までは部室に行ってもほかの部員と雑談やらゲームやらをして終わっていたのに、最近の自分の熱心さに我ながらちょっと驚く。まあ、提橋先輩という憧れができたことが、いい方向に作用したのだと思っておこう。それに、昨日消えてしまったオットーのために楽器の演奏をしてやらなければならないというのもある。おっさんのために頑張るという構図は何ともやる気が削がれるものだが、迂闊に口を滑らせて彼を傷つけてしまったのは僕の失態である。まあ少しくらいはその償いをしてやらなればなるまい。
そこまで考えて、自分の順応性の高さに笑ってしまう。普通だったら、昨日のあれは夢であったのか、とか幻覚を見るなんてどうしよう、とか思うものだと思う。多分。ヴァイオリンの精だなんて、出来の悪い夢のような話だ。それだというのに、自分はオットーのことは完全に受け入れて、しかもそのオットーのために楽器を弾こうなどと考えている。前々から自分は新しい環境に適応するのが得意だな、などと思ってはいたが、いやはやここまでとは。
「ま、そんなことは良くって。それよりも場所取り場所取り…」
などと独り言ちながら部室の前に行くと、これまたいつも通り楽器を練習している部員は一人もいない。部室前の廊下はがらんとしたものだ。まあ、これはこれで心置きなく練習できるわけで、都合がいいといえばその通りなのだが…
――いや、良いのかそれで?音楽サークルとして?
ちょっと前までは同じ穴のムジナだった自分が言うのもなんだが。仮にも音楽サークルを名乗るのであれば、楽器を練習する人間の一人や二人くらいはいたほうがいいのではないのだろうか?あ、僕と提橋先輩で二人ですか。だが、音楽というのは個人でできるものではない。ソナタなんかは個人で演奏するものもあるが、それだって星のようにある数多の作品の中のごく一部の話。それに、音楽というのは複数の人間の感受性を縒り合わせて演奏するから豊かな音楽性を発揮できるのであって、一人の達人だけが頑張ったところで大した演奏にはならないのだ!
「…でもまあ、今更か」
心の中で憤るも、それも今更の話。もっと言えば、それをわかっていながらも怠けていた自分に言える義理もなし。とりあえず、今の僕には自分の練習をしっかりやることくらいしかできない。あわよくば、それを見たほかの部員たちが「いっちょやってみるか!」と一念発起してくれれば文句なしだけど。例えば如月さんあたりが。
そこまで考えて、ぶるりと身を震わせる。最近めっきり寒くなってきた秋の廊下は、そろそろ暖房の一つでも欲しいと思うくらいには冷え込んでいる。一応まだ我慢できる範疇ではあるが、それでもだいぶやる気をそがれる気温なのは間違いない。部員たちが部室にこもって雑談に終始するのもむべなるかな、といった感じではある。僕だって提橋先輩やオットーといった事情がなければまずは部室に逃げ込んでいただろう。
「ストーブの一つでも置ければねぇ…」
切実に。特にこれからの時期は。だが、我々は共用部である廊下の一部を勝手に拝借して練習している身であって、その辺はあまりわがままが言えない、というのはサークル代表や提橋先輩から聞いている。消防法の観点から言っても廊下にストーブのような邪魔者を置けないし、そもそも共用部の廊下にサークルの備品を置くと部室等の管理者によって撤去されてしまうとのこと。あるいは、練習ごとに部室からストーブを取り出して終わったら片付ける、というやり方ならぎりぎり見逃されるかもしれないが、そもそも持ち運びの聞くような電気ストーブで暖を取ろうとすれば、必然的にストーブに近寄ることになる。木製の楽器は温度と湿度の変化に弱いので、ストーブの近くで弾くなど言語道断だ。そんなわけで、僕らは凍えながらでもストーブなしで練習するしかないのだ。
ケースから楽器を取り出し、調弦する。冬は楽器も冷えるので、ただでさえ寒い廊下でひんやりとした楽器を触ることになる。冷たい。とはいえ、金属ほど冷たくなっているわけでもないのでその辺は努めて無視する。そして、調弦が終わればいつものように基礎練習を始める。音階、分散和音、和音音階。もちろんメトロノームに合わせて弾くことを忘れてはならない。基礎練習というのは楽器演奏の基盤であり奥義でもある、と僕は思う。どんなに高度な技巧的難曲であっても、基礎練習の範疇を離れた技術というのはそれほど使われていない。それぞれの技巧が素早く複雑に絡み合っているがゆえに難しい、というものがほとんどだ。少なくとも、アマチュアが触れるような曲では。だから、基礎練習を究めればどんな曲だって弾きこなすことができるはず。というのは、僕が高校生のころからの持論だった。問題は、基礎練習を究めればそれはもうプロになれるだけの腕前だということだが。
とはいえ、そんな持論があるために僕は基礎練習がそんなに嫌いではない。まあ、嫌いではないというだけでそれなりに面倒なものだとは思っているので、最近まではそれほど熱心にこなしていたわけではなかったのだが。だけど、今は違う。優雅に、のびやかに、難しいはずの曲を何でもないかのように演奏する提橋先輩の姿が脳裏によぎる。僕も彼女のようになりたい。その一念が生来怠けものであったはずの僕の背を押して、こうしていまだに面倒だと思っている基礎練習を行わせている。かち、かち。一定のテンポで鳴るメトロノームをじっと睨み、正確なテンポで音階を刻む。テンポだけでなく、音程も、音質も重要。音楽は技術ではないが、とはいえ技術がなければ満足な音楽は作れない。だから、こうして地道に自らの技術力を高める。かち、かち。
「…ああ、くそ!全然だめだ!」
あまりに至らない自分の腕前に、思わず苛立ちの声を上げる。弾けば弾くほどにどんどん自分の欠点が浮き彫りになってくる。音程の不安定さ、運指の遅さ、そして音質の悪さ。ちょっと前までは気にならなかったそれらが気になって気になって仕方ない。もしかして、前よりも下手になっているのではないか。そんな思いがとめどなく溢れ、不甲斐なさに歯噛みする。ただでさえちょっとやそっとうまくなったくらいでは提橋先輩に追いつくことはできないのに、下手になってしまっては尚更どうしようもない。苛立ちが腹の底から込み上げる。その気持ちを吐息にのせ、深く深呼吸する。苛立ちのままがむしゃらに弾いても上達は見込めない。ここはいったん落ち着いて、冷静に自分の演奏の悪いところを分析しなくてはならない。しばし瞑目した後、開いた眼でメトロノームを見つめる。かち、かち。もう一度集中しなおして、メトロノームが刻む規則的なテンポに合わせて音階を弾きなおす。かち、かち。
頭に思い描くのは提橋先輩の演奏。音程も音色もまちまちな僕の演奏と違って、彼女の演奏は非常になめらかで心地いい。こと楽器の演奏に関して言えば才能うんぬんより反復練習がものをいう。それも当然のことで、楽器の演奏などというものは人間の生来の能力とは無関係の動きによって行われるものだ。ヴァイオリンの弓をどんな力加減で動かせばいい音が出るか、などというものは人間の生存能力に全く関りがない。当然、生まれつきヴァイオリンの演奏が達者な人間など一人もいない。高名なヴァイオリニストであるサラサーテなどは、自身を天才と呼んで持て囃す人間に、長年の練習の末にようやく今の腕前に至った自分を天才などと呼ぶなと返したらしい。歴史に名を残すような名奏者ですらそうなのだから、提橋先輩もきっと気が遠くなるような鍛錬を積んであの演奏能力に至ったのだろう。だから僕も、ちょっと真面目に練習したくらいで上手くなれるとは思っていない。思っていないが…さすがにこうも上手くいかないと挫けそうだ。今も、考え事をしていたせいか音階の最後で弓の動きが乱れて汚い音が出てしまった。
「はあ、本当にダメダメだ…」
ため息を一つ。がっくりと肩を落とす。ここまでひどいと頑張る気力もうせてくるというもの。だって、たかが音階練習一つでこのざまでは、演奏会でいい演奏をすることなど到底できない。そんな思いが我知らず口から零れ落ちた結果の言葉であったが、意外にも後ろのほうからその言葉への返答があった。
「いやいや、ちょっとずつだけど上手くなってるって」
「うおっ!」
予想外の声に、思わずびくりと体が跳ねる。素早く後ろを振り返ると、そこには提橋先輩の姿。講義のあとだったのか、トートバッグとヴァイオリンケースを肩から下げて、「こんにちは、神楽君」なんて、にっこりと笑いながらひらひらと手を振っている。そのにこやかな笑顔に一瞬見とれるが、すぐにさっきまでのひどい演奏を聞かれていたことに思い至り恥ずかしくなってしまう。
「…えっと、こんにちは。今の聞かれてたんですね。ひどい演奏でお恥ずかしい」
「あは、そんなに謙遜しなくっても。君の練習してるとこはずっと見てたけど、前よりずっとうまくなってるじゃない」
「……そうでしょうか。今の音階も、最後に油断してひどいものでしたし」
提橋先輩の言葉にちょっと嬉しく思う反面やはり恥ずかしさを感じる。今までのひどい演奏を聞かれていたのか。いやまあ、最近は特に同じ時間に練習する機会も多かったし、そもそも同じサークルの人間に演奏を聴かれているというのは当たり前の話ではあるのだけど。勝手に自分程度の腕前の奏者には全く関心がないだろうと決めつけていた。でも、提橋先輩は思っていたよりずっとしっかり僕の練習風景を見ていたようで。
「いやいや、それは気にしすぎ。最後はちょっと惜しかったけど、その前は結構いい音してたよ?」
「そうでしょうか?最近は前より下手になっている気しかしなくて…」
「いやぁ、それはたぶん耳が肥えたからそう思うだけじゃないかな。ちょっと前より絶対に上手くなってるよ」
「…そうなんでしょうか」
提橋先輩の言葉に素直にうなずけない。演奏技術でも音楽のセンスでも自分をずっと上回る提橋先輩の言葉を信じるべきなのだろうが、とはいえ自分の演奏のひどさは身に染みている。提橋先輩も単なる慰めのつもりかもしれない、などと思い始めると、どうしても彼女の言葉を額面通りに受け取れないでいた。
「もう、ネガティブなんだから。……頑張り屋さんなのはいいけど、あんまり後ろ向きになっても仕方ないよ?」
そう言って、提橋先輩は僕の両肩をつかんで譜面台のほうを向かせてくる。何事かと思って頭だけ彼女の方向に振り返るが、「ほら、前を向いて。楽器を構えて」と言われてしまう。仕方なく譜面台に向き合いヴァイオリンを構えると、提橋先輩はそっと両手を僕の肩に置いた。
「さ、暗いことは考えないで、もう一度音階を弾いてみて?大丈夫、うまく弾けるから」
肩に置かれた提橋先輩の手からじんわりと熱が伝わり、両肩がぽかぽかと温まる。それにつれて、肩から余計な力が抜けていくように感じた。ゆっくりと弓を構え、言われたとおりに音階を弾きなおす。音程、音色、テンポ、そのすべてに気を配り、なめらかで美しい音階の演奏になるように努める。提橋先輩のおかげで変な力みが抜けたためか、先ほどまでよりずっと演奏に集中できている気がする。そのまま音階の演奏を続けると、特に目立った失敗もなく最後まで弾くことができた。それは、最近の停滞が嘘のようなしっかりとした演奏だった。
「あは、やっぱり上手くいった。ね、これなら文句はないでしょ?」
「…今のは、提橋先輩が緊張を解してくれたからです。多分」
「もう、やっぱり頑固だ」
そう言って、提橋先輩は苦笑する。それにつられて僕も笑ってしまう。とっさに言い訳するような言葉が出てしまったが、確かに先輩の言う通りちょっとずつ上達できているということは実感できた。さっきまでの苛立ちも嘘のように消え、さあもうひと頑張りするかという気にもなってきた。
「…ありがとうございます。もうちょっと、頑張ってみます」
「うん、前向きになれば、意外と大体のことは上手くいから」
大体は。そう言って、提橋先輩はパイプ椅子を一つ取り、廊下の逆サイドに歩いていく。最近の定位置、廊下の突き当りでヴァイオリンケースを開けると、教本や楽譜を取り出して自分の演奏を始める。その美しい音色に聴き惚れていたい気もするが、そんなことをして自分の練習を疎かにしてはいられない。せっかく先輩おかげでやる気が漲っているのだ。
「よし、頑張るか」
そう口に出して、改めて自分の練習に没入する。廊下を吹き抜ける涼やかな秋の風を感じながら、僕は基礎練習を再開した。
***
『なるほど、あれがお主の番というわけか』
「番て…」
その夜。家に帰ってヴァイオリンケースをいつもの定位置に置くと、オットーが当たり前のような顔をしてケースの中から現れた。まるで昨日の夜には何もなかったとでも言うように。まあ、僕としても失言を混ぜ返されないのは願ったりだが。などと思っていたら、この発言。姿はなくとも周りは見えるのか。まあ、ヴァイオリンの精とくればそんなものかもしれないが。と言うか、番だなんて普通人間には使わない言葉だろうに。そういえばヴァイオリンの材料に使う木は百年の乾燥を経る必要があると聞いたことがあるし、今の常識はあまり知らないのかな?とも思ったが、昔だって人間に番なんて言葉は使わなかったんじゃないかと思う。伴侶とか、そのあたりだろう。
「いやそもそも、提橋先輩はそういう相手じゃないんだけど」
『む?だが、おぬしはあの雌性個体に特別な情念を抱いているようではなかったか?』
「…分かるんだ、そういうの」
『まあの。儂は神木として生命を司る役割がある。生殖も権限の範疇じゃ』
「生殖て」
何と言うか、つくづく趣がない奴だ。いやまあ、本体が植物である神木の精からしてみれば人間の感性なんてよく分からんものだろうし、ずれた理解や言葉遣いになるのも無理はないのかもしれないが。なんにせよ、いちいち突っ込みを入れると変に疲れそうだ。
「いやまあ、別に提橋先輩と恋人同士になりたいとかそういうわけでは…」
『交尾と雄牛?』
「こ・い・び・と!」
なんだこいつ。ヴァイオリンの精として人間世界を渡ってきたとは思えない語彙だな、本当。いや、恋人なんて言い方は日本のしかも最近の言葉だから知らないのも当たり前なのかもしれないが。
「…つまり、あれだ。思い人ではないってこと」
『むぅ…今どきの人間の言うことは分かりづらいな…』
「え、そう?」
腕を組み首を傾げてむうむうとうなるオットー。そんなに難解なことを言ったつもりはないのだが。
『あれか、思慕はすれど思いを隠すのが良いという…』
「時代が違う」
『うむぅ…?』
オットーはますます首を傾げる。宙に浮いているため倒れる心配もないオットーは、どんどん横に傾いていくとやがてくるりと一回転する。なんだそれ。ただ、いまだに得心がいったわけではないらしく、元の角度に戻った後もうなっている。
「いや、単に憧れているけど思慕はしていないってだけだよ」
『ふむ。お主はあれだ、小胆者なのだな』
「…別に、恥ずかしがってごまかしているわけでは…」
『良い、良い。分かっておる』
分かってない。絶対に分かってない。そう思ってオットーの顔をにらみつけるのだが、やけに自信満々にふんぞり返るそのさまを見ていると、もしかして自覚していないだけで自分は提橋先輩に恋をしているのではなかろうかという気持ちになってくる。なにせ、元は神木の精であり百年以上も前からこの世に生きている存在である。何十年も生きていない人間の心のうちなど、無意識の底までお見通しなのかもしれない。
『なあに儂に任せておけば万事解決。何せ元は神木の精だからの!』
いや、これ違うな。単に力が戻ってきて気が大きくなってるだけだ。こんな阿呆みたいなやつに心の内を読まれたんだとしたらショックで寝込むわ。
「オットー、別に自分のことは自分で何とかするから」
『おや?お主、なかなか良い心がけだの。関心関心』
「…うっせ」
やけに得意げなオットーの様子がちょっと癪に障る。いやだって、一応は僕の演奏のおかげで姿を現すだけの力が溜まったわけなのに、妙に上から目線。少しは僕に感謝の言葉でも寄越したらどうなのか。いや、今更殊勝な態度をとられてもそれはそれで鬱陶しいのかもしれないが。
『なるほど…いやしかし、あの雌性個体に思いを向けているのか…』
「…せめて、雌性個体じゃなくて女性って言わない?」
『む?今はそう言うのか』
「今というか、まあ、とにかく」
『ふむ、まあよかろう。その女性個体じゃが』
まだちょっと変な感じだが、もう訂正する気にもならない。ここで話の腰を折って文句を言われても面倒だし。
「提橋先輩が、何か?」
『うむ。あの個体を番にするのはやめたほうがいいぞい』
「…は?」
意外な言葉。オットーが僕の恋愛事情に口を挟むというのはちょっと予想していなかった。人間のうちの誰が誰と結ばれようと、オットーには関係のないことだと思っていた。だから、彼にとって僕の憧れの感情は気にすることでもないのだと。ただ、考えてみれば最初にこの話題を振ったのはオットーだ。彼が僕の恋愛事情に無関心なら、そもそも提橋先輩のことなんて腕のいい奏者というほかには気にも留めないはず。
「え、なに?提橋先輩に何か文句でもあるの?」
『文句ではないが…そうじゃな、どこから話したらいいか…』
考え込むオットー。そんなオットーを僕は睨みつけた。彼の言葉は受け入れられない。だって、提橋先輩でダメだというのなら、一体だれが適当だというのか?あんなにひたむきで、情熱的で、人生を力いっぱい生きている女性、他にはいないだろう。彼女よりも輝いている人間なんて、一人として知らない。そう思いつつも、心の中には嫌な予感が立ち込めていた。脳裏によぎるのは、時々彼女が見せる寂しげな笑顔。彼女のイメージと合わないその笑顔が、今は妙に頭から離れなかった。
『ふむ、そうじゃな。儂が神木の精で生命を司るということはもう話したな』
「聞いた。昨日の夜に切り傷を直したのもっその力でしょ?」
『そうじゃ。まあ、今となっては生命の象徴たるあの巨木の本体を失って、以前ほどの力はないが…』
「…それで、その生命を司る力が何か?」
『ん?まあ、慌てるでない。一つずつ説明するわい』
そう言って、オットーは一息をつく。だが僕は、心中の嫌な予感に駆り立てられ、彼のペースに付き合うだけの余裕がない。
「…オットー、話の続きを」
『全く、忙しないのう。そんなに急がずとも逃げたりはせんよ』
「オットー…!」
『分かった分かった。全く…』
そう言って、オットーはため息をつく。
『生命を司る力というのは、別に傷や病を治すというだけのものではない』
「…例えば、子作りの支援とか?」
『それもある。じゃが今回問題になるのは、もっと単純で根本的な部分。命そのものに関することじゃ』
ドキリ、と心臓が跳ねる。生命を司る精が口を出す、命そのものに関する提橋先輩の問題。嫌な予感が止まらない。どくどくと心臓が脈打つ音が妙にうるさく耳に響き、オットーの言葉が頭にぐわんと反響して聞こえる。その先の言葉を、聞きたくない。でも、オットーはそんな僕の内心を知ってか知らずか。それまでと全く変わらない口調で、その決定的な言葉を口にした。
『あの女性個体、あまり先が長くないようじゃな』
窓から吹き込んだ冷たい風が体を突き刺す。
オットーが口にしたそれは、残酷なほどに悲劇的な事実であった。