提琴神楽 ~神さま、どうかあの人を~   作:塩崎廻音

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第三話 人生って単純だけど単純じゃないよね

 僕にとって、人生はいつもどこかつまらないものだった。別にこれといった不満があったわけではない。両親にはきちんと愛してもらっていたし、金銭的な理由で夢をあきらめたこともない。受験で躓き続けて何年も浪人、なんてこともなく、傍から見れば順風満帆の人生だといっていいだろう。つまらない人生、なんて僕が口に出してしまえば烈火のごとく怒る人もいるかもしれない。それくらいには恵まれた人生で、幸せな日々ではあった。

 ただ、僕が強欲なのか、それとも人生の幸福度と楽しさは別物なのか。何一つ不自由のない生活を送っていながらも、僕は自分の人生に物足りなさを感じていた。こうじゃない。僕の人生は、これだけのものじゃない。そんな思いが絶えず僕の中でくすぶり続けていた。その思いは良い高校良い大学に入っても全く収まらず、むしろ時間が経つにつれて強まっていくようにさえ感じられた。

 でも、その一方で、その物足りなさをどうしたら拭い去ることができるのかということは全く分からない。勉強にもっと打ち込む?目標がない。趣味に全精力を注ぐ?そこまで熱中している趣味はない。じゃあ、友達と一緒に遊びまわる?いや、友人がいないわけではないがいつも一緒にいたい程ではない。そうやって、一つ一つの可能性をつぶしていくことで、ようやく僕は一つの結論に至った。なるほど、僕は全く自分の人生に全力を出していなかったんだ。だから、いつもどこか物足りないように感じていたんだ。

 その結論に至った後も、僕の人生は別に代わり映えしなかった。それも当然のことで、全力で生きていなかったことに気づいたからと言って全力で生きることができるようになったら苦労はない。やるべきことをやるだけなら意思の力でどうにでもなるが、やる気を出すことはどんなに意思を振り絞っても不可能だ。全力で生きるというのも同じこと。全力で生きる、というのは行動ではなく心の持ちようである。ただ積極的に勉学や趣味に精を出すことが全力なのではない。全身全霊をもってすべての物事に当たるのが全力で生きるということなのだ。だから、それに気づいても僕の人生はちっとも変わらない。むしろ、自分が全力でないことに気づいてしまった分、余計に日々が息苦しくなってしまったくらいだ。その頃の僕は、日々を相当に鬱々と過ごしていた気がする。正直、あまりどんな日常を過ごしていたのか覚えていないくらいだけど。

 そんなある日、僕は提橋先輩に出会った。

 あの日のことは今でも鮮明に覚えている。二年目ということで大学生活にもすっかり慣れ、いつの間にか惰性で授業を受けるようになっている自分に気づいて暗澹たる気持ちになっていた、夏のある日。学園祭で賑わうキャンパスを不貞腐れたような気持で通り過ぎていた僕は、中庭の中央でラヴェルの弦楽四重奏を弾く音楽サークルの集団に心を奪われた。弦楽四重奏なんてものは本来野外でやるものではない。「室内楽」の名の通り、本来は貴族が自分の館で演奏させた小規模な音楽形式。学園祭のさなかに野外で演奏しても、音が散ってしまってほとんど聞こえないだろう。その演奏も、演奏者の前に置かれたマイクで何とか音を拾っているものの、それでも大した音量にはならない。聴衆もあまり集まっておらず、企画としては失敗もいいとことだったのだと思う。

 だが、僕はその演奏に引き寄せられた。もしかしたら、周囲で足を止めて聞いていたもう何人かの聴衆もそうだったのかもしれない。それは、野外で室内楽を弾くというよく言えば意欲的な試みに興味を惹かれたとか、最近手に取ることが少なくなってきたヴァイオリンの演奏を聴いて懐かしさに浸っていたとか、そういうわけではなく。ただひたすらに楽しそうに演奏する彼らが羨ましくて。特に一番ヴァイオリンを担当する女性のひたむきな演奏ぶりに、どうしても心惹かれてならなかったのだ。別に、技術的に特別優れていたわけではない。まあ確かにかなり上手な演奏だとは思ったが、高校時代の演奏会でプロの奏者と共演した経験がある身とすれば、今更衝撃を受けるほどの腕前というわけでもない。ところどころ弾きこみが甘い部分もあるし、音のバランスもいまいちだし、何より野外でなんて演奏しているからいまいちよく聞こえない。聴き惚れる、というにはちょっと問題が多かった。でも、それでも、僕はそんな些細な問題は気にも留めずにその演奏を最後まで聴いてしまった。だって、彼らの、彼女の演奏に技術的な問題なんて関係ない。全身全霊を音に込めて聴衆に届けるその演奏は、それまで聴いたどんな演奏よりも、僕の心を震わせるものだったんだ。多分、本当に心がこもった音楽というものを聴いたのは、それが初めてだったと思う。だから、僕は彼女の演奏に、すっかり心を奪われてしまった。

 曲目がすべて終わった後も、僕はしばらくその場所から動けないままでいた。それは、それまでの小さな悩みがどうでもよくなるほどの、衝撃的な出来事であったのだ。

 ちなみに、その演奏を行ったのが自分が所属している音楽サークルであって彼らは自分の先輩たちであったことに気づいたのは少し後のこと。一応入ってはみたものの真面目に活動する気も起きずに幽霊部員状態だったので、その時になるまでろくに部員の顔も覚えていなかったのだ。もう後輩まで出来ていた頃なのに。しかも、たまに、ごくまれにヴァイオリンを練習するために部室付近の廊下だけ借りていたため、僕のほうは先輩たちから認識されていたという。全くもって申し訳なかった。

 でも、そんなことがあって、僕はこの音楽サークルの活動を再開した。残念なことに大半の部員はそれまでの僕と同じような有様で、部室に来ても遊んでばかりだったのだけど。でも、何人かはそこそこ真面目に楽器演奏に取り組んでいて、それなりの頻度で楽器の練習に来たりする。それに、あの時の演奏で特に印象に残った一番ヴァイオリンの女性――提橋先輩は、僕が知る誰よりもひたむきに音楽に向き合って、いつも全力で練習にも演奏にも取り組んでいる。それはもう、怠け者の自分と比べるのがばからしくなるなるくらい、熱心で、情熱的で、渾身の生き方だ。だから、毎日を全力で生きる、キラキラと輝くような提橋先輩のことを知ったから。怠け者の僕でも彼女のようになりたいと、僕は彼女に憧れたんだ。

 

 目を開けると、外はまだ薄暗かった。枕元の時計を見やると、薄暗い視界の向こうにぼんやりと文字盤が見える。時刻は午前五時。一限の講義に出ると考えてもまだ余裕のある時間。いつもより少し早めに目が覚めてしまった。もうひと眠りしようかと考えたところで、視界の端にヴァイオリンケースが映った。その瞬間、俄かに頭をよぎるのは昨日のオットーのあの言葉。

――あの女性個体、あまり先が長くないようじゃな。

 その瞬間、一気に目が覚める。同時に襲い掛かってくるのは、吐き気のような強い悲しみの感情。受け入れ難い、夢であれと望む心とは裏腹に、頭の中の理性を司る部分はあの出来事がどうしようもない事実であることを訴えてくる。あるいは、オットーあの言葉が質の悪い冗談だったら良かった。だけど、あのタイミングで彼が冗談を言う意味はない。それに、あの言葉が真実であるとすると最近の提橋先輩が見せる暗い表情の意味も説明がつく。あの後、オットーは呆然とする僕に構わずいくつかの補足情報を口にした。おそらくは生まれつきの体質であること、一、二年でどうこうと言うものではないがあと十年は生きられないだろうということ、そして、恐らくその体質ないしは病状を治す術が無いだろうということ。多分、提橋先輩もそのことを分かっているんだと思う。だから、命の刻限がどんどん近づいていることを嫌でも意識して、ああして時々辛そうにしていたのだろう。もう歳だし、と彼女は言った。あれは彼女くらいの年齢の女性が戯れに口にする言葉ではなく、偽りない彼女の本心なのだろう。オットーの言葉を信じるのであれば、彼女の人生はもうとっくに折り返し地点を過ぎている。

 ヴァイオリンケースから視線を話すように、逆方向に寝返りを打つ。ヴァイオリンケースを見ていれば、また提橋先輩のことが頭に浮かんでしまう。今はそれがどうしようもなく辛かった。。

 かち、かち。早朝の暗く静かな部屋に時計の秒針の音が鳴り響く。時間が不可逆に過ぎ去っていく音。無視しようと思えば思うほど、その音は轟音のように頭の中に鳴り響く。周りの部屋の生活音も聞こえないような早朝だからこそ、唯一聞こえるその音に意識が吸い寄せられていく。メトロノームと同じような、規則的で無機質な音。かち、かち。

――前向きになれば、意外と大体のことは上手くいから。

 不意に、提橋先輩の言葉が頭に思い浮かぶ。昨日の練習の時に、最後に言われた言葉。ついつい後ろ向きになりがちな僕の背中を押すように、彼女が発した言葉。その言葉が、悲嘆に沈んだ僕の精神に小さな火をつける。昨日オットーの言葉を聞いてから、僕は提橋先輩をいずれ失うことへの悲しみに打ちのめされて、起き上がる気力も起きないほどだった。そして、今もまだ僕の心はその悲しみに沈んでいる。だけど、その一方で、提橋先輩の言葉が、彼女の思い出の一つ一つが、心の奥底から僕の背を押しているように感じた。一番つらい思いをしているのは提橋先輩本人であるはずなのに、彼女はそんなことはおくびにも出さない。いや、むしろほかの誰よりもずっと人生を謳歌しているようでさえある。それはきっと、自分の運命を知っているからこその懸命さなのだろうけど。でも、そんな彼女に憧れておきながら、どうして僕だけが悲しみなどに打ちのめされて時間を無駄にしていられようか!

「…ま、泣いてばかりじゃいられないよね」

 軽く目を閉じ、提橋先輩の笑顔を思い浮かべる。桜のような彼女の笑みを思い出すと、僕の口も自然と弧を描く。僕が憧れたあの人に顔向けできないような情けない生き方はごめんだ。だって、カチカチと進む時間を俯いて過ごしたところで、一生彼女の横には並び立てない。そう思い、ぐわっとベッドから起き上がって体を解す。この時期の朝はもうかなり肌寒くて布団から出る気が失せることこの上ないが、その億劫さを務めて無視して布団を跳ね除ける。一旦そうしてしまえばあとはすんなりと動けるもので、床に落ちていたリモコンを手に取りエアコンの電源を入れ、部屋の隅のカバンから昨日の講義で使った参考書を取り出して机に並べる。朝ごはんにするのもまだちょっと早いように思えるので、ご飯を作る前にちょっと昨日の講義の復習をしようと思ったのだ。多分、提橋先輩だったらこうすると思うから。

「…まだちょっと寒いけど…ま、ひと頑張りするか!」

 両頬を軽くたたいて自分に活を入れる。ついでにケトルでお湯を沸かしてコーヒーも淹れる。大学までは近いから、一限の時間に間に合うようにと考えてもまだ三時間以上余裕で使える。それだけ時間があれば、講義の復習くらい余裕だ。頑張れば予習までできる。ここで復習と予習を終わらせれば、講義の後には心置きなく楽器の練習ができる。また一歩、提橋先輩に近づける。そんな風に考えながら、僕は一冊目の参考書を開いて復習を開始した。

 

***

 

 講義のあと、部室棟を訪れる。今日ももちろん楽器を練習するため。今日は天気がとてもいいので、秋が深まってきたとはいえ気温はそこそこ高い。湿度の低い秋冬は湿気に弱い楽器に優しい季節であることを考えれば、今日は絶好の楽器日和である。多分。とりあえず、寒さで指がかじかんで練習にならないという事態は避けられそうである。であれば、きっちり練習して少しでも演奏の腕前を高めておこう。幸いというべきか、サークルの部員には練習熱心な人間は少ないので、練習場所を独占してじっくり練習できるはずだ。そう思って部室に向かったのだが、予想外にも楽器の音が聞こえてくる。しかもそれは、ヴァイオリンとは違った低くて穏やかな音。チェロの音色だった。

――え、提橋先輩意外にここで練習する人いるの?

 意外な事態にちょっと驚く。このサークルには何人か熱心な部員がいるが、そういう人はたいてい自宅に防音室があったり別の大学の学生で自分の大学の部室を使ったりと、ここで練習することは稀。ここに来るとしても、演奏会前の合奏練習で集まって練習する場合というのがほとんど。というのも、この大学はあまり音楽サークルに優しくないので練習のための場所としてはそんなに環境がよろしくないのだ。僕だって場所があるなら廊下じゃなくてちゃんとした練習室を使いたい。

 さておき。

 そんなわけで、部室の周辺で提橋先輩以外の人が楽器を練習している姿はこの二年弱で数回しか見たことがないし、ここで練習している人がいるという話を聞いたこともない。まあ、一年目はほぼ幽霊だったから見逃していただけかもしれないんだけど。そんなわけで、僕は物珍しさを覚えながら部室へ向かう階段を上がっていった。一体どんな人なんだろうか。僕と同じ幽霊部員が最近復帰した?あるいは、何かの用事で部室に来た先輩がついでに楽器に触っている?ちょっぴりワクワクしながら部室前の廊下にたどり着いて…

「…なんだ、如月さんか」

「え?…あ、ちょっと、なんだとは何ですか!ひどいですよ!」

 如月さんだった。よく知っている顔だった。がっかり。

 がっくりとあからさまに肩を落とした僕の様子に、如月さんは抗議の声を上げる。ごめんね。期待外れの気持ちがつい態度に出ちゃった。

「いやあ、珍しく僕でも提橋先輩でもない人が楽器弾いてるから、誰かと思って期待しちゃって」

「……それはそれは、がっかりさせちゃってすみませんね!」

「ごめんごめん」

 そう言ってむくれる如月さんに、軽く手を合わせて謝る。まあ、如月さんも本気で気分を害したわけではないようで、すぐに軽く笑って「まあいいですけど」と言うと会話を続ける。

「まあ確かに、私がここで楽器を練習してるのが珍しいというのは自覚してます」

「だよね。僕も最近よく練習してるけど、如月さんが練習してるのはみたことないし」

「…いやまあ、先輩が良く来るようになる前もたま~に練習してたんですよ?」

 たま~に。もう一度、念を押すように如月さんが呟く。多分、本当にたまにだったんだろう。探るように視線を向けるとすぐに目を逸らされたし。なんだかちょっと後ろめたそうだし。

「別に責めてる訳じゃないよ。ただ、何か心境の変化でもあったのかなって」

「……から…」

「え?」

 如月さんは何かを呟いたようだが、声が小さすぎてよく聞こえない。思わず聞き返すと、如月さんは妙ににっこりとした表情を浮かべてこう言った。

「いえ、演奏会も近づいてきましたし。私だってそりゃちょっとは練習しなきゃって思いますよ」

「…ま、確かに。曲が決まった後に弾けませんじゃ困るもんね」

「本当に」

 ふふ、と笑う如月さん。なんだか真意は別のところにありそうな気もするけど、その表情からは心の内は伺えなかった。

「それで、先輩は何しに…って、聞くまでもないですよね」

「まあね。いつも通りだよ」

「愛しの提橋先輩に会いに来たんですよね」

「いや、練習だよ」

「冗談ですよ」

 そう言って、如月さんはけらけらと可笑しそうに笑う。

「…って言うか、愛しの提橋先輩ってなにさ」

「あれ、違いました?最近提橋先輩とばかりお話ししているみたいなので、てっきり」

「いや、単にお互い楽器の練習で一緒になるってだけだから」

 というか、見てたのか。

「ふぅん?まあ、何でもいいですけど。今日は提橋先輩は来ていないですよ、残念ですね。お帰りはあちら」

「だから、練習に来ただけだって」

「またまた」

 そういった如月さんは揶揄うような表情でこちらを見るが、僕が練習のためにここに来たのは偽りのない事実。それに、今日はむしろ提橋先輩と顔を合わせたくないくらいだ。一応立ち直ったというか前向きに考えるようにしただけで、昨日オットーから聞いた事実はまだ僕の心の奥に影を落としている。今の状況で提橋先輩とあったら自分がどうなるのかは分からない。もしかしたら、また悲しみに押しつぶされて練習どころではなくなってしまうかもしれない。それは避けたかった。

 そんなわけで、特に如月さんの言葉に反応を返すこともなく、いつものように廊下の端に置かれたパイプ椅子を手に取る。いつもと違うのは、今日はいつも僕が練習している場所に如月さんが陣取っていること。だから、今日は廊下の逆の端で練習しようかな、と僕は部室の前を通って反対側まで歩いて行った。すると、ちょうど部室の前を通り過ぎるあたりで、がばっと急に部室のドアが開いて中から一人の男が飛び出してきた。急に出てきたため危うくぶつかりそうになるが、ぎりぎりのところで何とか身をかわす。最近同じようなことが何度かあって慣れっこだったため避けることができたが、パイプ椅子で手がふさがったこの状態でぶつかって転べば大けがをしかねない。僕は不用意に飛び出てきた男に文句の言葉を浴びせかけた。

「っと、危な!…おい、小和田。いつも気をつけろって言ってるだろ!」

「悪い悪い…って、なんだ神楽か。良かった」

「良くない。ぶつかりそうになったのは何度目だ。学習しろ」

「はんせーしてるって、カリカリすんなよ」

「怒ってるって言うか……はあ、せめて前方確認くらいはしてって」

「へいへい」

 部室から出てきた男――小和田隼人は悪びれた様子もなく軽い調子で謝罪の言葉を口にする。彼は僕と同じ音楽サークルの同学年の一人で、サークルでも珍しいヴィオラ弾きの奏者だ。ヴァイオリンよりちょっと大きめの弦楽器であるヴィオラは高音部のヴァイオリンと低音部のチェロをつなぐ重要な楽器であるが、いまいち地味であることは否めないので奏者の数が極めて少ない。彼はそんな貴重なヴィオラ奏者の一人であり、さらに持ち前のセンスにより練習嫌いの割にはなかなか悪くない演奏技術を持っているということでサークル内でも有名人だ。良い意味でも、悪い意味でも。

 そして、幸か不幸か次の演奏会で僕は小和田と組んで演奏を行うことになっている。この夏にサークルの活動に本格的に参入した際、提橋先輩からせっかくの同期なんだから一回くらい組んでみたらどうかという提案があった。僕としては、同期といえどあまり人となりを知らない小和田と組むのは正直気が乗らなかったのだが、その時部室にいた他の先輩から特に反対がなかったためになし崩し的に決まってしまった。「まあまあ、経験だと思ってやってみてよ」などと言われると断れないし。しかも、小和田と組むことが決まったと思ったら今度は別の先輩からどうせなら若者編成で演奏してみてはと言う提案が出て、これも反対なしで承認されてしまい。結局、あれよあれよという間に新入部員の如月さんと胡桃君も一緒に演奏することが勝手に決まってしまったわけだ。

 ただ、困ったことに僕と小和田の相性はそれほど良くなかった。険悪な仲、とまではいかないものの、ちょっとした切欠で言い合いになるのは平常運転と言ってもよかった。

「全く真面目クンは頭が固くて困るね」

「…真面目とかどうとかじゃなくて、危ないって話なんだけど」

「別にそれくらい避けりゃいいだろ」

「避けきれなかったら怪我するでしょ。それに、そもそも避けないようにするのが安全ってもんで…」

「ああはいはい。マジメマジメ」

「…こいつ」

 僕の注意もどこ吹く風で、小和田は軽薄にそう答える。別に僕としてもいい年した大学生相手にガミガミと説教をするつもりもないのだが、こうも挑発的な態度をとられると流石に反発心の一つも湧いてくる。どうせ言っても聞きやしないということを理解していながらもついつい口出ししてしまうのは、彼がいちいち突っかかるような言い方をしてくるからであった。そして、小和田が僕を小ばかにするときの定番の煽り文句が一つあった。

「おれは真面目クンに付き合ってるヒマはないから。精々お前はしこしこ楽器弾いて愛しの提橋先輩にアピールでもしとけば?」

「うっさい、どの口で…」

 僕が最近楽器練習を熱心にするようになったことと、それを切欠に提橋先輩とよく話すようになったことを揶揄する言葉。初めてその言葉を言われたときに、提橋先輩に憧れていることは事実であるからと中途半端な反論でごまかしてしまったがために「使える」と判断されたらしい。提橋先輩を引き合いに出した捨て台詞は僕と小和田が言い合いになった時の定番となっていた。まあ尤も、小和田がいつも性懲りもなく提橋先輩について言及しているのは、別に僕に対して効果が文句であるということだけが理由ではなくて…

「大体、俺はお前とつるむ気なんて――」

「――あれ?どうしたの、また喧嘩?だめだよ、仲良くしないと」

「あ、え、さ、提橋先輩!こ、こんにちは!」

 急に登場した提橋先輩に、小和田は面白いように取り乱して返答する。さっきまでの挑発的な態度が嘘のようだ。

「はい、こんにちは。小和田君は元気だね」

「は、はは…まあ、俺は元気だけが取り柄っすから!」

「ふふ、よろしい。元気なのは良いことだ。何につけても健康第一だからね」

「そっすね!俺はこの通りいつもバッチリ元気なもんで!」

「…そっか。それは本当に羨ましい」

 にっこりと微笑む提橋先輩。当たり前と言えば当たり前だが、彼女はいつも通りの様子だ。ただ、事情を知った身からすると、今の何気ない一連の会話にもちょっと思うところがあったりするわけだけど。

――…羨ましい、っていうのは本気だろうな。

 ちくり、と一瞬心に刺すような痛みが走る。いつもの通りの朗らかな笑顔が、どこか痛々しいように感じてしまった。今日のところはまだ気持ちの整理もついていないので、彼女に会うのはできれば避けたかった。今も、何てことはない会話から勝手に彼女の心情を推し量って、必要もないのに心を痛めてしまっているわけだし。ただ、会ってしまった以上は避けるわけにもいかない。提橋先輩はそういった気配に敏感なので、気配を消してフェードアウトしようとしてもすぐに捕まってしまうのだ。夏合宿の飲み会での経験談である。しかも三度。

「その、先輩もいつも元気で、あの、お綺麗です!」

「うん、ありがと。お世辞でも嬉しいかな」

「いや、その、お世辞とかじゃ…」

「あ、ごめん。部室に用があるから、通ってもいい?」

「え?あ、はい」

 小和田の言葉を綺麗に躱すと提橋先輩は彼の横を通って部室の扉へと向かう。途中、パイプ椅子をもって立ち尽くしていた僕に気づいた提橋先輩は、やはりにっこりと微笑んで僕に挨拶をする。

「あ、神楽君も来てたんだね。こんにちは。お元気そうで」

「はい、こんにちは。まあ、日ごろの行いがいいからでしょうか」

「あは、何それ。まあでも、確かに神楽君は頑張り屋さんだもんね。えらいえらい」

 そう言って、提橋先輩はいきなり僕の頭を撫でてくる。正直言って恥ずかしいので勘弁してほしいのだが、楽器にパイプ椅子にと両手がふさがっているため抵抗することもできない。

「ちょ、ちょっと、先輩…」

「よしよし。じゃあ、私はここに用事があるから」

「…え?あ、はい。それでは」

「じゃね~」

 そのまま、提橋先輩は部室の中へと消えていった。あとに残されるのは提橋先輩のペースに呑まれてボケっと立ち尽くす三人。いつの間にやら如月さんまで練習の手を止めてこちらの様子をうかがっていたようだ。しん、と妙な沈黙が場を支配する。それまでの会話の流れだとか、僕と小和田の確執だとか、そういったものの一切合切が押し流されてしまった感じだった。提橋先輩はあまり空気を読んで行動するタイプではないのでしばしばこういうことがある。もちろん本人に悪気はない。ただ、いろいろとパワフルな人なので自然と周りを巻き込んでしまうだけである。尤も、巻き込まれた方は大変なわけだけど。

「…えと、れ、練習再開~」

 いやに能天気な声でそう言って、如月さんが再びチェロを弾き始める。わざとらしい。わざわざ言う必要もないことを口に出したのは、硬直してしまったような場の空気を少しでも和ませようとしたからだろうか。実際、ちょっとだけだけど場の空気は弛緩したような感じがする。そして、如月さんの言葉につられるように、小和田もゆっくりと口を開いた。

「……良かったな、提橋先輩に撫でてもらえて。毎日楽器弾いて尻尾振った甲斐がありました。ってか?」

 まさかの憎まれ口再び。ただ、さっきの慌てようの後ではもう逆効果な感じしかしないが。

「いやお前マジでどの口で」

「…うっせ」

 呻くようにそう吐き捨て、小和田は階段を下っていく。そういう態度をとられるとなんだか僕が小和田をいじめているような気分になるのでやめてもらいたのだが。でも、そんな僕の内心はいざ知らず、小和田はそれ以上何も言わずに階下へと消えていった。

 僕と小和田との確執は、性格的な相性の悪さ以上に小和田が提橋先輩に懸想しているという理由がある。一応、僕のほうは憧れが先立っている状態であり自覚的な恋愛感情を持っているわけではないので恋敵としていがみ合うつもりはない。ただ、最近よく楽器を練習するようになり、それに伴って彼女ともよく話すようになったというのが小和田にとって気に食わないらしい。そんなわけで何かにつけて僕に食って掛かってくるわけではあるが、そもそも肝心の提橋先輩がどこ吹く風。提橋先輩が新歓コンパで「私は恋愛をする気はありません!」と宣言するのは春の風物詩らしいのだが、小和田はそれに構わず度々提橋先輩にアタックをかけてはすげなく躱されているという。そしてその鬱憤が、最近彼女と仲が良いように見える僕に向かってくるわけだ。勘弁してくれ。ちなみに、小和田が相手にされていないのは本人の問題というよりは提橋先輩が恋愛を避けていることが原因らしい。初めて聞いたときは何事にも積極的な提橋先輩としては珍しいことだと思ったものだが、これも例のことが関係しているのだろうか?

「…いや、いろいろ考えるのはやめよう。うん」

 昨日の夜に知ったばかりの衝撃の事実、小和田との小競り合い、嵐のような提橋先輩の登場と、今日はもうなんだか妙に気疲れしてしまった。あれこれ考えるのは後にして、やることだけやって帰ってしまおう。そんな投げやりな気分になっていた。幸いにして提橋先輩は楽器を持っていなかったから、練習場所がかち合って困るということもなさそうだし、またぞろ部室から出てきて波紋を呼ぶような行動に出ることもないだろう。多分。そもそも問題の小和田はどっか行ったけど。

 はあ、とため息を一つ。そして、パイプ椅子や譜面台なんかの小物を広げて練習を始める。なんかもう、今朝の悲壮感とか、決意とか、その他諸々が遠い過去のように思えてくる。重大な事実を知って、受け入れ、それに立ち向かうための心構えをする。そんな流れではないのだろうか、普通は。だというのに、提橋先輩に振り回されるうちに、すっかりいつも日常に戻ってきてしまった。

――…まあ、それがあの人らしいといえばそうだけど。

 思えば最初に会った時からずっと振り回されっぱなしな気がする。オットーから聞いた悲劇の運命をおくびにも感じさせないパワフルな生き方。そんな彼女だから、僕は憧れたというのはあるのだけれど。

 結局、まだまだ僕は提橋先輩には敵わない。そんなことを再確認した一日であった。

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