「なあ、結局のところ提橋先輩を神の奇跡で助けるとかはできないわけ?」
その日の夜、僕は改めてオットーに提橋先輩の病状について聞き出していた。別にオットーも情報の出し惜しみをしていたわけではないが、なにぶん昨日は茫然自失の状態だった。そのため、細かい部分はよく覚えていないし疑問に思った部分の質問もできていなかった。そして、もちろん一番気になるのはこのことである。
「ああ、うむ。まあ、儂も昔はちょっとした病気くらいパパっとやって終わりだったのじゃが…」
「今はダメってこと?」
「やはり信仰が足りんしのう…それに、あの女性個体の体質はなかなか厄介なようじゃし…」
いまいち的を射ない回答ではあるが、つまり無理ということだろう。まあ、オットーが治せるのであれば番にするのはやめろだのなんだの言わないだろうから、そうなのだろうとは思っていたが。
「…仮に信仰が足りれば治すことはできそう?」
「分からん。力を振り絞れば何とかなりそうにも思うし、何ともならなそうにも思えるのう」
「参考にならない…」
「神の奇跡とはそんなものじゃよ」
けろりと言い放つオットー。別に神様なんだからどうにかしろというつもりはないが、神の沽券に関わるとかそういう考えはないのだろうか。じっとりとオットーを睨み付けるものの、全く堪えた様子もない。こういった多神教の神様的存在はえてして放埓で大雑把と相場が決まっているものだが、オットーの場合もそうなのだろう。まあ、そもそも寿命も生い立ちも違う彼らを人間と同じ尺度で測るのが間違いなのかもしれないが。
「はあ…じゃあ、とりあえず力を取り戻せるように頑張るとして。例えば、どうすれば力が戻るの?いっぱい楽器を演奏して、あとはお供え物でもすればいい?」
ヴァイオリンに上げるお供え物ってなんだよって感じだが。
「ん?…そうじゃな、確かに楽器を弾けば力は溜まるが、ただ単に弾いても存在を保つくらいの力しか溜まらんと思うよ」
「ふうん、それは、演奏の質が悪いとか?」
「いや、そこは儂の来歴の問題じゃな。儂は元々神木の精であって、楽器になったのはずっと後年の話じゃ。だから、楽器の精として演奏を供物にされても、本来の姿として扱われるほどには力が溜まらんのじゃよ」
「なるほど」
確かに、オットーとしてもいまだ神木の精としての意識が強いみたいだし、楽器として扱われても自分への捧げものといった感じがしないのかもしれない。それはちょっと諦めが悪い気もするが、まあ元々人間より気が長いであろう神様にとっては数百年なんてあっという間だろうし。気持ちの整理をつけるのにはまだまだ時間がかかるということなんだろう。
「あとは、精神的な問題じゃな。より精神的に高みにあるほどに供物としての価値が高まるんじゃ」
「精神的高み、ねえ…」
なんだか難しそうな話だ。
「つまり、信仰心を持って演奏すれば良いってこと?」
「そうじゃな。他には、没我の領域に至るほど集中しているとよいぞ」
「没我…なるほど」
ちょっと分かってきた。集中、とだけ言うとピンとこないが、要するにシャーマンのトランス状態みたいなものだろう。余計な雑念が入らない分、供え物としての質が高まるということかもしれない。
「まあ、今のお主の演奏では全く話にならんがのう」
「うっせ、分かってるよ」
練習だから、というのもあるが、ここ数年あまり楽器に触ってこなかったことで演奏の腕前も鈍化し、なおのこと演奏に集中できていない。ちょっと前に部内で行われた小規模の演奏会に出た時もそんな感じで、自分の至らなさに気を取られてとても集中できるような状態ではなかったのだ。
「じゃあ、お供え物とかは?そっちなら神木として扱って奉げられると思うけど」
「ふむ。まあ、供物というのも悪くはないが…おぬしには勧められんな」
「なんで?今の時代ならいろいろ簡単に用意できるけど」
ネットとかで。
なんて思っていたのだが、オットーは「しょうがないやつめ」みたいな表情で首を振る。ちょっとイラっとした。
「供物などというのは本来神への感謝を形にしたものじゃ。物だけを山と積んだところで心がこもらなければ何の意味もない」
「ああ、なるほど。つまり信仰心が足りないと」
「そういうことじゃ」
納得。今更オットーが神ではないと言うつもりはないが、さりとて信仰する気も起きない。自分のヴァイオリンに憑いた精であるということもあるし、オットーがやけに頼りないというのもあるし。あと、こうして実体を持って出てきてしまったあたりも神として信仰する気が起きない理由の一つになっている気もする。神や魔というのは、見えないほうがいろいろと想像の余地があって畏れ多く思えるものだ。
「…だったら、お供え物はやめにしとくかな」
「ふん、不信心者はそうしておれ」
「不信心者って」
むしろオットーの存在を受け入れているあたり信心者に近いと思うのが。「科学教」信者だったら幻覚だとかトリックだとか言うだろうし。
「まあ、いずれにしろしばらくは楽器の練習とかして様子見かな…」
「それでも良かろう。とはいえ、多少演奏の質を上げたところで気休めにならんがの」
「はいはい」
最後まで余計なことを言ってくるオットーを適当にあしらい、ベッドに倒れこむ。もともと大して期待していたわけでもないが、やはりオットーに提橋先輩を救ってもらうというのは難しそうだ。だがそうなってくると、僕にできそうなことはほとんどない。いい医者や治療法を探すなんてことは流石にもうやっているだろうし、ただの大学生が伝手も知識もなく探せるものなんて高が知れている。他に出来ることと言ったらもう神に祈ることくらいだが、肝心の神様がこの体たらくである。いや、オットー以外に祈ってもいいのだけど。
そんな事をぼんやりと考えていたら、スマホにいつの間にかメッセージが届いていたことに気が付いた。普段あまり他人とのやり取りをしないので、全体連絡ならともかく自分あてのメッセージが届くことはちょっと珍しい。だから、大方サークルの全体連絡だろう。そう思ってメッセージに目を通す。
「…神社?」
要件は今週末に一緒に神社に行かないかというもの。もちろん全体連絡ではない。珍しいことに、個人からの連絡であった。しかも、そのメッセージの送信者は――
「あれ、え?提橋先輩?」
それは思いもよらない人からの連絡であった。珍しいとはいえメッセージが届くことはもちろんあるが、それは大抵同期の男か如月さんから。提橋先輩とは連絡先こそ交換しているものの、今までメッセージが送られてきたことは一度もなかった。もちろん、僕から送ったことも。だから、予想外の人からの連絡にちょっと面食らってしまう。ついでに言うと要件もまた予想外だ。送られてきたメッセージの履歴を見ると、明日何駅かとなりの駅の近くにある神社でお祭りがあるからみんなで行ってみようというもの。寡聞にして知らなかったが、そこそこ有名な祭りであるらしい。
まあ、僕としては断る理由もないのですぐさまOKの返事を出す。今日の昼くらいまでは提橋先輩に会うのも気が進まないなんて思っていたが、いざ会ってみるとそんな思いはすっかり吹き飛ばされてしまった。それに、ここで一度断ったとしても部室で顔を合わせた時に誘われればあれよあれよと押し切られていつの間にか参加が決定しているのは目に見える。遠慮というものが中々通じない人なのだ、彼女は。
「しかし、神社ねえ…」
思わずふっと笑ってしまう。何と言うか、多趣味な提橋先輩らしいチョイスである。多分、何かの本を読んでいた時に名前が出てきて、調べてみたら近かったから気になったとかその辺りではないだろうか。前もそんな理由で小旅行を企画していたということを、部室で駄弁っていた先輩から聞いた覚えがある。今回はすぐ近くということもあって事前準備も必要ない。だったら、自分一人で行くよりも大勢で行ったほうが楽しいじゃない!そんな風に考える提橋先輩の姿が目に浮かぶようである。
まあ僕も有名な祭りと言われれば興味が湧かないわけではない。ちょっと調べてみると、祭りと言っても夏祭りとかの屋台が出るタイプのお祭りというよりは神輿で近所を練り歩いたり神社で奉納の舞を舞ったりするタイプの祭りであるらしい。中でも奉納の神楽はこの地域に代々伝わるもので、近くに流れる川の氾濫を荒ぶる神と見立て、それを鎮めるために人柱を捧げる様子に見立てた舞であるのだとか。ローカルな神社の神楽であるだけに、ほかの地域とはちょっと違った形式の舞と音楽らしい。そう聞くと俄然その神楽のことが気になってくる。日本人というのは総じて「特別」に弱いのだ。
「…ちょっと、楽しみかも」
週末のことを思い浮かべて、心躍らせる。ちょっと変わった舞とはどんな感じなのだろうか。川の氾濫に見立てた荒ぶる神に奉納するから、舞も荒っぽかったりするのだろうか?それとも、生贄を捧げる舞だからそうでもないのだろうか。それに、神楽ということは雅楽の一種であるはずなので、そちらもどんな音楽になっているのか気になる。笛、太鼓などはあるだろうが、その他のいろいろな和楽器はそれくらい使われるのだろうか。そんなことを考えるうちに、僕はすっかりそのお祭りに行くことが楽しみになっていた。でも、彼女の誘いに普通に乗り気になっていた僕は、ちょっと浮かれて重要なことを一つ失念していたのだ。
提橋先輩は空気を読まないタイプであり、その上結構なお節介焼きであるということを。
***
「…なんでお前がいるんだよ」
「げ…」
週末、神社にほど近い駅の改札前に集合ということで指定された時間の十分前くらいに向かってみると、集合場所には小和田の姿があった。そこでようやく気付いたのだが、この前の僕と小和田の言い合いを見た提橋先輩がいらぬ気をまわして仲直りの機会に、と両方を呼んだのだろう。多分、普段声をかけない僕にまで誘いが来たのはそのためである。そうと分かっていれば来なかった、と言いたいところだが、提橋先輩に目を点けられた以上結局は来ることになった気はする。いずれにせよ、もう来てしまったし会ってしまったのだからどうしようもない。
さらに悪いことに、提橋先輩が他に声をかけているだろう音楽サークルの面々は待ち合わせ時間にルーズな人が多い。友人同士であるという甘えもあるのだろうが、指定された時間ちょうどに来れば良い方で、大体は十分から十五分くらい遅れてやってくる。提橋先輩は時間の無駄を気にするほうなので遅れては来ないだろうが、彼女の場合は大体時間きっかりに来る。そんなわけで、あと十分弱の時間を僕と小和田だけで過ごさなくてはならないことになる。どんな針の筵だ。だったら見なかったふりをすれば良い、と言いたいところなのだが…
「おい、挨拶もなしか。無視すんな」
「…これはまた随分なご挨拶で。お元気そうでなにより」
「うぜえ。お前の顔を見たら元気じゃなくなったよ」
「はは、そりゃめでたい」
「…ヘラヘラすんな。おめでたい奴だな」
とまあ、僕のことは無視すればいいものを、小和田はいちいち突っかかって来てはこうして腹を立てるわけである。それに、僕のほうも悪態をつかれれば言い返さずにはいられない質であるため、どうしても毎回言い合いになってしまうのだ。我ながら始末に負えないことこの上ないのだが、もう何度も同じパターンを繰り返しているのでこの流れがすっかり定着してしまっている。
休日の駅前でにらみ合う、男二人。
そして、その二人にひかえめに声をかける女性が一人。
「…えっと、こんにちは」
「ん、え?あれ、如月さん?」
「はい、如月です」
「…いつの間にそこに?」
「今着たとこです」
いつの間にか僕たちの近くに来ていたらしい如月さんが、そう声をかけてきた。あからさまに睨み合いをしていた僕たちに声をかけてくるとはなかなかの度胸である。この前も硬直してしまった空気を解そうとしてくれていたし、恐らく気を遣ってくれての行動なのだろう。実際、僕もこのままにらみ合いを続けるのはしんどいので、如月さんが間に入ってくれるととても助かる。そう思っていると、如月さんはすっと僕を軽く押しのけて小和田との間に割り込み、さっきまでの言い争いなど見なかったかのようなにこやかな笑顔で挨拶をやり直した。
「では、改めて。こんにちは、神楽先輩、小和田先輩」
「あ、うん。こんにちは、如月さん」
「…おう」
「お二人も提橋先輩に呼ばれて来たんでしょうか?」
「まあ一応。そういえば、他に誰が来るかは聞いてないんだけど、如月さんは知ってる?」
「いえ、私も聞いていないです」
「ふうん…誰が来るんだろうね…」
如月さんの返答を聞き、そんな疑問が口に出る。サークルに入って二年目とはいえ、一年目はほとんど幽霊状態だったのでサークルのメンバーとの面識はほとんどない。入った当初から部室によく行っていたらしい如月さんの方がサークル内の友好関係は広いくらいだ。そんなわけで、今日のこのイベントにだれが来るのかは気になるところではあった。できれば、それなりに話したことがある人だと良いんだけど…
「小和田先輩は何か聞いてます?」
「…いや、俺も特には」
如月さんは小和田にも質問するが、小和田も特には聞いていないようだ。
「むう、誰が来るんでしょうね。提橋先輩は色々な人と仲がいいので絞り込めないです…」
「前回誰が来たとかは知ってる?」
「いえ、私もお呼ばれしたのは初めてで」
「なるほど…実はサークルのほとんどの人に声がかかってたりしてね」
「え、でもそうだとしたらもう何人か来ててもおかしくないんじゃ?」
「いやどうだろう、このサークル時間にルーズだし」
「確かに…」
如月さんと二人、今日のメンバーの予想をする。と言っても、提橋先輩が来れば分かることなので推測に大して意味はない。ただ、三人で共通の話題にもなり特に言い争いの種にもならなそうな話題として手ごろだったというだけだ。とはいえ、僕と如月さんは互いに提橋先輩に呼ばれるのは初めてで、多分小和田も同じ。そういう意味では、提橋先輩の恒例イベントがどんなメンバーで行われているものなのか、というのは興味がないわけではなかった。何せ、如月さんも言った通り提橋先輩の友好関係は広い。その中でもいつも声がかかる相手というのは特別仲がいい相手であるのだろう。
「日比谷先輩は来るんじゃない?何回も一緒に演奏してるって話だし、仲が良さそう」
「…どうでしょう、日比谷先輩は演奏会以外では部室にも近寄らないので」
「あ、そうなんだ。じゃあ微妙かな。…大須賀先輩は別の大学だしねえ」
「あの人も演奏会だけのゲストらしいですもんね。あとは、私にお声がかかったということは胡桃君も呼ばれている気がしますが」
「確かに。僕の代だと、って考えてみたけど大体幽霊だからなあ…」
ちらり、と大和田の方に目をやるが特に補足もない。というか、僕と会話にならないように無視しているのか。
「あはは…うちの代も、私と胡桃君以外は大体そうですね」
如月さんが苦笑いしながらそう言う。
書類上の所属人数こそ多いものの頻繁にサークルに来る部員が少ないというのはこのサークルの最近のお決まりらしい。まあ、部室に来てもほかの部員は駄弁っているだけなので来る意義が見いだせないというのはその状況に無関係ではないだろう。さらに、下手に提橋先輩などの名奏者が所属しているせいで演奏会の質自体はちょっと高く、ぬるーく楽器を演奏したいだけの人間にとっては若干敷居が高い。帯に短し襷に長しというか、ちょっと中途半端なのだ。大して真面目に練習しなくてもそこそこの演奏ができる如月さんや小和田のようなタイプには居心地がいいのかもしれないが。僕は練習しないとすぐに腕が錆びつくタイプなので提橋先輩に憧れなかったら今も幽霊だったと思う。ちょっと練習したくらいで真面目扱いされるのは鬱陶しいのだ。
さておき、幽霊が多い分選択肢は限られるのだが、そうなると逆に候補が上がってこない。
「となると、いよいよ誰が呼ばれてるのか分からないね」
「ですね。実はサークル外のご友人も呼ばれてるとか?」
「おおう、ちょっとありそう。それは勘弁かなあ…その場合多分来るのは先輩だろうし」
「確かに、それは辛いです」
言って、如月さんと笑いあう。実際のところ、結構ありえる話ではあるのだ。提橋先輩は初対面の人間相手に物怖じするタイプでもない上に他人も同じようなものだと思っている節がある。幽霊状態だったせいでサークル内に知り合いという知り合いもいない状態であることを知っているにも関わらず僕と小和田を組ませてきたのもそういう性格が故のこと。今日も、「友達の輪が広がるといいね!」くらいのノリで見知らぬ先輩を沢山連れてくる可能性は大いに考えられた。もしそうなったら…小和田とすら停戦してこの三人で固まることになるかもしれない。ふと横を見ると、小和田も同じような結論に至ったのか苦々しい表情をしている。
「あるいは逆に、今回はこの三人だけとか」
「いやあ、それはないんじゃない?だって、あの提橋先輩だよ?」
「まあ、そうですよね」
如月さんの推測を半ば反射的に否定してしまったが、彼女もあまり真剣にその可能性を考えていたわけではないらしい。特に気にする様子もなく、ケラケラと笑いながら僕の否定意見を受け入れる。
「提橋先輩ってその辺わりと容赦ないですよね。本人がコミュ力ある分他人にも同じレベルを要求するというか…」
「あ、如月さんもそう思うんだ。如月さんは結構人と仲良くなるのが得意な感じだからどっちかというと提橋先輩側かなって思ってたんだけど」
実際、僕がサークルに割と馴染んでいるのも如月さんが積極的に関りを持ってくれた部分が大きいし。
「いやあ、私もあそこまでじゃないですよ。私は同じサークルだとかの口実があるならともかく、ただの友達の友達とかが相手だと躊躇っちゃう部分はありますし」
「まあ、そうだよね。その辺やっぱり提橋先輩は流石って感じだけど」
「ですね。私には真似できそうにないです。こういうのも、高嶺の花って言うんでしょうか?」
そんな風に如月さんと笑い合っていると、それまで沈黙を保っていた、というか半ばこちらを無視していた小和田が急に話しかけてきた。
「――おい、お前ら。勝手なこと言ってんじゃねえぞ…」
小和田の言葉に込められた怒りに、思わず如月さんと一緒にびくりと固まってしまう。今の一連のやり取りで小和田が怒りを感じるポイントが分からない。確かに、ちょっと提橋先輩の性格を揶揄したような物言いになってしまったのは確かだが、僕たちのどちらも提橋先輩に対して悪意を持っているわけではないのは全ての会話を聞いていた小和田にはわかるはずだ。だったら、小和田は一体何に対して怒っているというのだろうか。
「一体何に怒ってるのさ、小和田」
「…お前らみたいな奴がそうやって突き放すから、あの人はいつまでも寂しい思いをするんだ」
「突き放すって…いや、それだけじゃ何のことだか分からん」
「別にお前に理解を求めようなんてしてねえよ」
「…はあ?」
そう言って、小和田は苛立たし気に舌打ちすると視線を僕から切る。一体、何が何やら。何か提橋先輩を傷つけるようなことを言ってしまったのであれば改めなくてはならないが、肝心の情報が得られなければどうしようもない。
「…えっと、小和田先輩。せめて、何が悪いのかだけでも…」
同じように思ったのか、如月さんも小和田に話しかける。でも、やはり事情を話す気がないのか、小和田はむっつりと黙り込んだままだ。しばし、沈黙が続く。このままでは埒が明かないと思ってもう一度小和田を問いただすべく口を開こうとした瞬間、いっそ場違いなほどに明るい声が僕たちに向かってかけられた。
「やあやあ、みんな早いね!…ってあれ、また喧嘩?だめだよ、もう」
気づけばもう集合時間きっかり。にこやかな表情の提橋先輩が改札口から出て僕たちの後ろまで近づいてきていた。にらみ合うよにして沈黙する僕たちを見た提橋先輩は瞬時に大体の事情を察したようで、僕の両肩を軽く引いて小和田から引きはがすと、すいっと三人の中心くらいに割り込みこちらを振り向いてにっこり笑った。
「こんにちは、三人とも。今日は私の誘いに乗って集まってくれてありがとう!」
「…え、あれ?もしかして、今日のメンバーってこの四人ですか?」
「そ。いい機会だから、サークルの下級生メンバーと親睦を深めようと思って」
「はあ…あれ、だとすると、胡桃君は?」
「いやあ、それが、彼の連絡先知らなくって」
「…言っていただければ、私から伝えましたけど」
「そうだよね。私も今朝如月さんなら知ってるかもって気づいてさ。でも、流石にそれじゃ遅いじゃない?」
「ええ、まあ確かに…」
提橋先輩の言葉に、如月さんが苦笑いする。提橋先輩の性格からして意図的に胡桃君を呼ばなかったわけではないだろうと思う。胡桃君は真面目な男だが、その真面目さはどちらかというと本業である勉学に向けられていて、サークルにはそれほど顔を出さない。演奏会には積極的に出演しているみたいだが普段は顔を見ないし連絡先も知らないレアキャラ、というのがサークルのほとんどの人の認識らしい。もちろん、僕も彼の連絡先など知らない。次の演奏会で一緒に弾くから、と一度顔合わせをしただけだ。
「だから胡桃君と遊ぶのはまた今度として。今日はこの四人でお祭りに行こうと思います」
いえ~い、なんて、テンション高めに騒ぎ出す提橋先輩。僕は正直ちょっといきなりそのテンションには付いていけない。如月さんはそういうのはお手の物で、提橋先輩と一緒にキャッキャとはしゃいでいる。さすがだ。
「じゃ、行こっか。今から行けばちょうど神楽が始まる時間くらいにつくと思うし」
「あ、そうだ、神楽!私、神楽なんて見るの初めてで…」
「そうだよね、普通見る機会なんてないよね。だから楽しんでもらえるんじゃないかって」
「はい。私も楽しみです!」
楽しそうにこの後の予定を話す二人を横目に、ふと、ちらりと小和田の方に視線を向ける。その表情は先程までと同じように憮然としており、とても今日のお祭りを楽しみにしているようには見えない。
――やっぱ、さっきのことが原因だよね?
折角こうして休日に集まっているのだから、小和田にも楽しんでもらったほうがこちらとしても気が楽ではある。ただ、小和田が不機嫌になっている原因がいまいち掴めない以上は、どうにも手の出しようがなかった。小さくため息をつく。何と言うか、つくづく僕と小和田は相性が悪いのだなと実感させられるようだった。
***
小和田隼人が提橋琴音に初めて出会ったのは高校一年の時であった。
桜の花びらが舞う春の校舎で様々な部活動の勧誘責めに会っていた彼であったが、ふと手渡されたチラシの内の一枚に目が留まった。管弦楽部。彼の性格を知る者からは意外だとよく言われるのだが、小和田は小さいころから母の勧めでヴィオラのレッスンに通っていた。小さいころの習い事などというのは大抵親のほうが熱心であり、彼もご多分に漏れずそれほどしっかりと音楽に向き合っているというわけでもなかった。とはいえ、幼少のころからの習慣として日常的に楽器に触れていた彼にとって、やはり楽器を弾くということはそれなりに人生に密着している趣味ではあったのだ。
軽い気持ちで管弦楽部に入った小和田であったが、その管弦楽部自体も活動に対する熱意はそう大したものではなかった。あからさまに練習をさぼる部員こそ多くはないものの、部活の練習時間になっても友人と話し込んでいたり、ちょっと楽器を弾いたと思ったらふらっと近くのコンビニにお菓子を買いに行ったり。基礎練習をせずに好きな曲を弾いて遊んでいるだけの部員が真面目に見えるくらいにはその部活の雰囲気は軽いもので、小和田は内心何度も嘆息したものだった。
尤も、小和田にそれを糾弾するつもりはなかった。彼自身別に熱心に音楽に向き合っていたわけでもない。幼少のころからの習慣で彼らよりは少しだけ真面目に練習していたというだけで、本当に熱心に活動している他の部活の人間からしてみれば遊んでいるようなものである、というのは当時から自覚があった。さらに言えば、仮にそこで自分が声を上げて部活の状況を変えたとして、それで自分に何かの利益があるわけでもなかった。何せ、別にドラマのような青春を送りたくて管弦楽部に入ったわけではないのだ。小和田はただ、適当に楽器を弾いて適当に楽しく毎日を過ごせていれば、それで良かった。
そんなある日、小和田は一人の先輩の存在に気が付いた。いや、気が付いたというのは少し語弊がある。その先輩は部でもちょっと有名な人で、小和田もその先輩の顔と名前は憶えていた。提橋琴音。他の部員が雑談に興じている中で一人熱心に楽器の練習をしている真面目な先輩だ。その熱心さを特に周りに押し付けるわけでもないので、それまでは「物好きな人もいるもんだな」くらいに思ってあまり気に留めていなかった先輩。だが、ある日ふとその提橋先輩の練習風景が目に留まった。何の変哲もない基礎練習を、なぜかやけに楽しそうに演奏するその姿が。
それまで小和田は、その真面目な先輩は周りの部員の怠惰に腹を立てつつも、つまらない基礎練習を難しい顔で一生懸命にこなしているのだろうな、と勝手に想像していた。提橋先輩は「自分たちとは違う」真面目な人間であるから、退屈な楽器の練習なんてものにそんなに精を出せるのだと。だけど、本当は違ったのだ。その先輩は真面目さが理由で熱心に練習をしているのではない。ただ単に何気ない楽器の練習一つ一つが楽しくて仕方ないというだけの話たっだのだ。そう気づいてしまうと、急にその先輩の演奏の一つ一つがキラキラと輝いているように聞こえてきた。楽器の腕前自体はそう大したものではない。アマチュアの中で言えばかなりのものではあるが、なんだかんだ幼少のころから続けているうえにセンスの良さで上達が早かった小和田から見れば特別視するほどのものではない。だが、技術以前の部分、音楽に、音に込められた心の響きが小和田を魅了してやまなかった。
――この人はなんでこんなに楽しそうなんだろう?
一度それが気になってしまうともう止められない。気が付けば、部活のたびに目の端で提橋先輩を追ってしまっている。彼女が何気なく弾く曲の一つ一つに、いつの間にか聴き入ってしまっている。それまでは適当に楽器を弾いて適当に部活仲間と駄弁るために来ていただけの部活に、提橋先輩に会うために来るようになっていった。
ある時、授業が終わり部室に向かった小和田は提橋先輩が彼女の同級生の部活仲間と何やら話しているところを見かけた。小和田が楽器を用意する傍らに聞いたところ、そうやら提橋先輩が一緒に楽器を練習しようとその先輩たちを誘っているようだった。時期的には学内の演奏会が近いタイミングであり、普段はあまり楽器を弾かない部員たちも多少はやる気を見せる時期ではあった。ただ、その先輩たちは特にやる気のないグループであったらしい。琴音は真面目だね、でも私たちは違うから。そんな趣旨のことを言って、その先輩たちは部室の隣にある準備室の中に入っていた。もちろん、楽器を弾くためではなく。
小和田は、何が違うもんか、提橋先輩だって楽しくて弾いているだけなんだ、とその先輩たちを怒鳴りつけてやりたいと思った。そして、一人取り残された提橋先輩を慰めてやりたいとも。だが、小和田と彼女との間にこれといった接点はない。同じ部活の仲間ではあるが、学年も楽器も違う提橋先輩とは会話したことすらほとんどなかった。だから、そんなことをしたとしても余計なおせっかいの自己満足でしかないことは分かっていた。だから、まずは自分が受け皿になるんだ、彼女の味方になってやるんだ。そう思って、より一層楽器の練習に精を出すことにした。そんな自分を見て、提橋先輩が「頑張ってるね」と声をかけてくれるのが何よりも嬉しかった。
ただ、それでも提橋先輩が時折寂しそうにしているのは、彼女が部活を引退するまで変わらなかったけど。
***
「さっき、やっぱり小和田君と喧嘩してたの?」
神社へ向かう道すがら、すいと何気ない動作で僕の隣に移動してきた提橋先輩は、少し声を潜めてそう聞いてきた。そして、ちらりと小和田のほうに視線を向ける。その小和田はというと、やたらハイテンションな如月さんにつかまって質問責めにされている。なんでも父親が神社やなんかのマニアらしく、いつもその知識を聞かされてきた小和田は神社仏閣の類にだいぶ詳しくなってしまったらしい。提橋先輩の説明に反応したことでその知識の深さを披露してしまった小和田は、すっかり如月さんに目をつけられてしまった。先ほどからかれこれ五分以上、次々と質問を投げかける如月さんの勢いにげんなりといった様相である。そんなわけで、今の小和田にこちらの様子を伺うような余裕はない。そのうちに、さっきの駅前の睨み合いの原因を聞きだしておこうという魂胆なのだろう。何と言うか、お節介焼きの提橋先輩らしい感じだ。
「…まあ、喧嘩というかなんというか。僕にもちょっと掴み切れていないんですが」
先ほどの小和田の様子を思い出しながらそう返す。喧嘩というには一方的に小和田が怒って終わりだし、かといってこちらに明確な非があるわけでもなし。僕としては小和田がいきなり勝手に怒ってきただけのように感じる出来事であったのだ。
「ただなんか、小和田の気に食わないことを言ってしまったみたいで…」
「なるほどね。まあ、小和田君って昔からちょっと自己完結しちゃうところがあるから…」
僕の言葉に、提橋先輩は苦笑いする。どうも、提橋先輩にも似たような経験があるようだ。
「誤解されやすい人だから、もうちょっと自分の気持ちを口に出したほうがいいと思うんだけどね」
「ああ、まあ確かに。でもそれ、本人に言ってあげないと意味がないんじゃないですか?」
「…まあ、そうなんだけどね」
いまいち煮え切らない感じの提橋先輩。
「何か心配事でも?」
「ううん、そういうわけじゃないの。ただ、他人のことにあれこれ口出しするのって、ちょっとお節介焼きみたいじゃない?」
――…「みたい」じゃなくて。
口元まで出かかった言葉を飲み込む。まあちょっと、お節介焼きに自覚がないのかとは思ってしまったけど。今日のこのメンバーも僕と小和田の仲をどうにかできないかという思惑がありそうな気がするし。なんて、そんな内心の気持ちが伝わってしまったらしく、提橋先輩はジトっとした目で僕のほうを睨み付けてくる。
「…何か言いたいことが?」
「いえ、何も」
いつにない提橋先輩の圧力に咄嗟の言い訳が口をついて出る。あまりにも白々しい物言いではあったが、提橋先輩はふっと表情を緩めて苦笑いする。まあ、本気で怒ったわけではないのだろう。
「もう。…まあ、確かに私って他人のやることにちょっと口出ししちゃうところはあるんだけど」
「ちょっと」
「…あは。神楽君、口は災いのもとって小学校で習わなかったかな?」
今度は思わず口を出てしまった言葉に、再び提橋先輩の視線の圧力が増す。失言だ。ただ、正直に言えば彼女の「ちょっと」という言葉に大きな違和感を感じたのは確かだけど。戸舘先輩の恋愛相談とか。
「えっと、ほらその、提橋先輩って親しみやすいというか、話しやすいというか、揶揄いやすいというか…」
「本音がこぼれ出てるよ、神楽君」
「おっといけない」
「…ふんだ。どうせ私は他人の世話ばっかり焼く親戚のおばさんですよ」
唇を尖らせツンとそっぽを向く提橋先輩。かわいい。全体的に大人びている印象ではあるが、こういう仕草が妙に似合う人でもあるのだ。
「そこまで言ってないのに…。ほら、提橋先輩。そんなに拗ねないでくださいって」
「別に拗ねてないわ」
「…そんなむくれていると可愛い顔が…いや、可愛いのはそのままですが」
「知ってる」
提橋先輩は自覚がある美人である。
「…まあ、冗談はこの辺にしておいて」
「あ、冗談だったんですね」
「沈黙は金」
じっとりとした視線。余計なことを言うなと釘を刺されてしまった。
「…それで。小和田君がもうちょっと気持ちを口にしたほうがいいと思うのは本音だけど、他人があれこれ言うのは余計なお世話でしょう?」
「えっと、サークルの先輩ならそんなに気を遣わずに言ってしまっても…」
「まあ、そうなんだけど。ただ、他人の生き方に口を出すのって、私はちょっと烏滸がましいと思うの」
「烏滸がましい…」
「…別に、他の人の悪いところを注意するのが不遜だなんて言うつもりはないんだけどね。でも、小和田君のそれは迷惑になるって程でもないし」
そう言って、提橋先輩はあいまいに笑う。彼女自身、その理屈に何か絶対の自信があるとかそういうわけでもないのだろう。どちらかというと好みの問題のような話で、他人のやり方を否定するような意図はないのだ。
「そもそも、人の在り方を赤の他人が変えようだなんて土台無理な話だと思うし」
「でもそこは、尊敬すべき先輩である提橋先輩から言われれば、多少は改めるんじゃないですか?」
「…ためなのよ、それじゃ」
提橋先輩は、何かを思い出すように軽く空を仰ぐ。そして、数秒の沈黙の後に再び口を開いた。
「高校の部活の時の経験なんだけどね。いくら口で言って他人を動かそうとしても、なかなか上手くいかないの。私はただみんなで楽しく音楽をやりたかっただけなんだけどね」
「それは…」
「ううん、良いの。その時は、私がちょっと強引すぎただけだし」
提橋先輩は寂しげな笑みを浮かべる。多分、最後まで彼女の望みは叶わなかったということなのだろう。
「あ、でも、その時小和田君だけはちょっと一生懸命になってくれてね。別に何か声をかけたわけでもなかったんだけど」
「多分、提橋先輩が頑張るところを見て感化されたんだと思います」
「うん、そうだね。自分で言うのはちょっと面映ゆいけど、私もそうだと思う。それだけが高校時代の成果かなぁ」
「…ひょっとして、だから小和田のことを気にかけているんですか?」
「あ、それは別。単に私がお節介焼きのおばさんだってだけ」
「ちょっと、そのネタ引っ張らないでくださいよ」
「ごめんごめん。でも、元はと言えば神楽君が悪いんだよ?」
提橋先輩が悪戯な笑みを浮かべる。
「うりうり。悪いことを言うのはこの口かな?」
「…ちょっと先輩。頬を抓まないで。くすぐったいです」
「ふふ、知らんなあ」
にやにやと、本当に楽しそうに提橋先輩は笑う。なおも僕の頬を抓んでくる彼女の手と格闘するが、するすると器用に動きまわる彼女の手を捉え切れない。結局、なされるがままにすることにした。
「お、ようやく観念した」
「…できればやめて欲しいんですが」
「じゃあできない」
「……で、小和田のことは?」
「あ、そうだった」
先ほどまでの会話の流れをようやく思い出したらしい提橋先輩はようやく手を引っ込めてくれた。
「まあ、やっぱり仲良しなのが一番だからね。神楽君には、小和田君と仲良しになれるよう頑張ってもらいたいかなって」
「仲良し」
「そ。神楽君だって、いつまでも小和田君と喧嘩ばっかりしてるのは嫌でしょう?」
すい、と提橋先輩が僕の瞳を覗き込んでくる。思わず、視線を逸らしてしまった。
「…まあ、演奏会もありますしいつまでも相性が悪いとかは言ってられないのはありますけど」
「うん。そうでしょう?」
「でも、それってさっきの他人のやり方に口出しするのはってことに反するんじゃ…?」
「それは……そうなんだけど」
ちょっと視線を逸らしたあ提橋先輩が恥ずかしそうに頬をかく。別に論破するつもりでも揚げ足取りをするつもりでもないのだが、話の流れでちょっと気になってしまったのだ。
「…まあその、神楽君ならいいかなって」
「え…?」
もじもじと視線を逸らしたままの提橋先輩の言葉に、ドキリと心臓が跳ねる。今の言葉は、一体どういう…?彼女の真意を問おううとしたのだが、逸らした視線の先に目的地を見つけた提橋先輩が一拍早く口を開いた。
「あ、あれあれ!あの神社だよ!」
提橋先輩の指差す先には今日の目的地である神社の鳥居がある。お祭りということで神社に続く道には沢山ののぼりが設置されているし、鳥居の左右にも大きな提灯が下げられている。有名なお祭りということもあって神社の中は既に人でごった返しになっている。一応、混雑する前にということで早めに集まったはずなのだが、これでもまだ出遅れていたらしい。
「さ、早くいくよ!」
提橋先輩に背中を押されつつ、僕たちは神社へと向かう。僕としては今の提橋先輩の言葉の意図も気になったところではあるが、この強引な感じは彼女自身ごまかしにかかっているということだろう。多分、今聞いても答えてくれないと思う。それに、気になることには気になるが別に絶対に知りたいというほどでもない。何より、実際に神社にたどり着いてその祭りの喧騒を目にすると、これからの出来事に対するワクワクでそんな些末な疑問は心の片隅へと追いやられて行ってしまった。
「ほらほら、駆け足!」
「ちょっと先輩、押さないでください」
――ま、なんにせよ今は無粋か。
だんだん僕の背を押すこと自体が楽しくなってきたらしい提橋先輩のはじけるような笑顔を見てそう思った。別に提橋先輩を問い詰めるのは今じゃなくてもいいし。まずは、今日のこのお祭りを目いっぱい楽しもう。