プロローグ程度に読んでいただければと思います。
それでは、始まり始まり〜
傘とケーキとコーヒーと
あの日の午後。
「いらっしゃいませ!」
「あ、ども」
これが俺たちの出会いだった。
「って短!もっと説明することないの!?」
「うるさい虫だな」
「虫って何だよ!?」
「………」
「いや無視はするなよ!」
「虫と無視を掛けたのか…虫にしては高等だが寒いから二度と南極から出てくるんじゃないぞ」
つまらないギャグに喧しい声が非常に不愉快な虫は
「で、その女の子との出会いをもっと詳しく」
「何故お前にそんなことを言わねばならんのか理解に苦しむ、故に黙秘権を行使する」
「ムカつくなおい!いいじゃん友人の色恋沙汰くらい教えてよ〜」
「却下」
申し遅れたが俺の名前は
凛に言うと面倒臭いから回想に留めておくとするが、結局件の女子と関係を持った(変な意味ではない)のは週が明ける前、金曜日のことだった。
「…天気予報士もびっくりの大雨だな」
人の少なくなった教室の窓際の席で俺は呟く。
朝の予報では一日通して晴れも晴れ、天気良好とのことだったのでこの裏切りとも言える仕打ちは少し手厳しい。
「まあ俺は傘持ってるんだがなぁ」
万が一の事態に備えて平時から折りたたみ傘をカバンに忍ばせておいて正解だった。今では雨の中慌てて駆け出す生徒達を見てほくそ笑むほどに余裕と優越感がこの傘から伝わってくるようだ。
「…帰るか」
担任に押し付けられた雑務を渋々済ませれば、皆部活か帰宅かに急ぎ教室からは一部を除いて人気が失われる時間になっていた。午後5時過ぎ、俺は傘をカバンから取り出し必要なものを詰め込んで教室を後にする。凛がいないと静かで落ち着く。
下駄箱に着き、上靴と引き換えにローファーを手に取ると、
「…どうしよう、傘持ってない…」
と声がした。どうやら隣の下駄箱…俺のクラスは2年A組、つまり1年の下駄箱から聞こえてくるようだ。
別に何か興味があったわけでもなく、人助けをしようという気もなく、去り際にたまたまそっちの方向に目を向けてしまった。それが全ての始まりだった。
「…何だあれは」
そこに立っていたのは普通の女子生徒…なのだが、手にした荷物がおかしい。
カバンからはクルクル巻かれた紙類が何本も突き出ており、ジャージが入っているであろう袋をかけ、ファイル等が入っていると思われる手提げ袋を持っている。
一言で言えば大荷物だ。
「…傘ないのか」
気づいた時にはもう声をかけていた。明らかな雨の予報ならスルーしたのかもしれないが、その荷物の多さとこのにわか雨を考慮すればまあ少しくらい助けてやるのも人情だろう。
「…え?あ、はい、でも大丈夫です!走って帰れば…!」
「いやアホかどうがんばっても濡れるだろその荷物」
そう言って俺は自分の荷物と女生徒の荷物を見比べる。しばしの沈黙の後、
「…仕方がない。この傘使え」
黒の折りたたみ傘を差し出した。
俺の方が走りやすい上に紙類を濡らして帰らせるのも俺からすればあまり気持ちのいい所業ではない。
「えっ!?いや大丈夫ですから!突然で申し訳ないですし…」
「いいから使っとけ。損するぞ」
「で、でも…」
「…そのプリント類をズブ濡れにして帰るか、傘借りて大人しく帰るか選べ」
我ながら理不尽な押し付けにも近いお人好しだと思う。
ほんの気まぐれというものではあるが。
「…あっ、じゃあ一緒に入りましょう。それならお互いそんなに濡れなくて済みます!」
「折りたたみだからそんなにでかくねえよ。いいから持ってけ、その代わりちゃんと返せ」
半ば強引に傘を手渡すと、俺は玄関を開けて雨の中へと踏み出す。休まず走ればそんなに長い時間はかからないだろう。
冬であればパーカーを下に着込むためフードが使えるのだがこの時期は生憎正装(に近い格好)のため雨を遮断する術はない。冬ならばそもそも雨の中傘もなく走るなどしない。どう考えても寒すぎる。凛と違ってそこまでアホではない。
「あ、あのっ!お時間ある時で構わないので、羽沢珈琲店にいらしてください!お礼をさせてほしいんです!」
「気が向いたらな」
セールス目的かと思いきや最後まで律儀な後輩だった。
あんな生真面目な人間、このご時世にいるもんだな…
「冷た…」
春の雨にしては予想以上に冷たかった。もう少し
雨に対する好みを頭の中で巡らせながら、恐らく学校から家までのタイムアタックで久しい自己ベスト更新を果たした俺はさっさとシャワーを浴びることにする。
「…ただいま」
温かいシャワーの前に天然の冷水シャワーを浴びて身震いしながら自宅の玄関を開ける。するとリビングの方から人が現れ、なんとなく間の抜けた声で返事が返ってくる。
「あらおかえりなさい…ってなんでそんなに濡れてるの。結羽、あなた折りたたみ傘持ってなかったの?」
俺の母親…木崎
親のことを自分でこう言うのもなんだが、見た目では不老不死かというくらい若々しい。
そんな母親に今の姿を見られて訝しげに聞かれる。どうやら母親は俺の傘の所在を知っていたようで。
「…色々あった。取り敢えず風呂入る…のと、悪いけどこの後出かけるから帰り遅くなる」
「そうなの。夕飯は用意しておくけどあまり遅くならないようにね。気をつけて行ってきなさい」
風邪を引くのは大変遺憾なので着替えを用意して浴室へ入り、温かな湯をその身に浴びる。その間に頭の中を占めていたのは羽沢珈琲店…あの女生徒が言っていた店。恐らくは喫茶店、それも俺が利用したことがあるような気がする…ここで疑問が一つ浮上する。
「これから家を出るとは言ったが…いつ行くのか指定を受けていない…あとで、とも言われなかったな。いつ行くのが正解なんだ」
冷えた身体を温める中、そればかり考えていたが今更そんなこと言ったって仕方がない。傘もそこで返してくれるということなのだろう。貸した側としては返ってこない前提でいたのだが。傘パクとか言われる窃盗が横行する時代にしっかりと返してくれるのなら嬉しい限りだ。
ひとまず羽沢珈琲店へ向かうことに決め、俺は身体の水気をとり服を着る。
「いってくる」
念には念を入れて普段の服に一枚上着を重ね、財布を持って家を出る。
スマホからイヤホンを引っ張り耳に挿して今度は大きな傘を差す。
本当ならヘッドホンの方が好みなのだが雨の日に出したくないという個人的な理由によって部屋で待機しててもらうことに。イヤホンからシャッフルで音楽を流し入れる。
「さて…」
調べたところ羽沢珈琲店は商店街の一角に店を構えているようだ。デザートと飲み物の相性がとてもよいらしく、そこには実は秘密の協力者がいるんだとか。…火のないところに煙は立たないらしいし、噂が立つ時点でもう秘密ですらないと思うが。
商店街に行けばまあ見つかるだろうということでひとまず歩き続ける。商店街と俺の家は案外近い。羽丘学園──俺が通う私立の共学高校だが──との位置関係で表せば俺の家は商店街と羽丘の間、商店街寄りということになる。
「あれ?ユウくんやっほー!」
「…氷川か」
雨の中歩いていると、前方から紺の傘を差した羽丘の女子生徒に声をかけられる。彼女は氷川日菜、俺と同じクラスの変人だ。変人とはいってもとびきりの天才というおまけステータスつき。
「学校の外で会うなんて珍しいね〜。こんな天気なのにどこ行くの?」
「野暮用でな」
「ふ〜ん…なんかビビッとくる…ついていってもいい?」
「面倒だから却下」
こいつの感覚はよくわからないのだが、直感に優れている人間なので面倒を避けたいときは関わらないのが一番だ。悪いやつというわけではない…と思うのだが。
「ところで氷川はなんで一人で向こうから歩いてきたんだ。大方姉に傘を届けてきたといったところだろうが姉の姿が見当たらないな」
「おねーちゃんならまだやることがあるって。一緒に帰りたかったな〜」
氷川…日菜、の方はシスコンというわけではないもののかなりのお姉ちゃんっ子だ。口を開けば大抵「るんっときた」「おねーちゃんが」のどちらかが飛び出す。そのくらいよくわからん感性と妹バカを兼ね備えている。
「残念だったな。まあ家で大人しく姉の帰りを待つことだ」
「そんな言い方しないでよ〜数少ないユウくんの友達だよ?」
「俺が友達が少ないから惨めだ、みたいな言い方をするな。お前も似たようなもんだろうが」
友達が少ないとは失礼だな。一人でも困らないだけだ。
「そういうのを負け惜しみっていうんだよ知ってる?」
「人の心を読むな」
これも直感なのか知らんが俺からすればただのエスパーにほかならない。普段から思考を読まれるなど俺以外の人にとってもたまったものではないだろう。
「いいからもう帰れ。俺もそこまで暇じゃない。じゃあな」
「仕方ないな〜じゃあまた学校でね!」
「はいはい」
思ったより呆気なく台風は過ぎ去っていった。
どうして俺の周りには常識人がいないのか不思議だ。生憎類は友を呼ぶなどという戯言は信用していない。
氷川と別れた後、特に何事も起きずに商店街へと辿り着いた。が、よく訪れるわけでもないのでどこにどの店があるかまでは分からない。よく行くのはやまぶきベーカリーくらいか。母親は精肉店などを利用することも多いらしいが俺の知ったところではない。
「羽沢珈琲店…検索…お、出た」
スマホで検索にかけたところどうやらもうすぐそこらしい。次の十字路のコーナーに店があるそうだ。
傘を持つ手もだるくなってきたので足速に喫茶店を目指す──そこに先程の女子生徒がいることに少し期待をかけながら。
俺はイヤホンを外しドアに手をかける。そのまま開け放つと快いドアベルが雨音を消すように鳴る。その音に反応してテーブルを整えていたウェイトレスがこちらを向き言葉を発する。
「いらっしゃいませ!」
「あ、ども…ってさっきの」
それが、あの女子生徒であることに気づくまで時間はそうかからなかった。
「あ!先程はありがとうございました!おかげで無事帰ることができて…本当に来てくださったんですね」
「…別に。バイト中か」
「いえ!そういうわけでは…お父さん!」
………『お父さん』???
「さっき言っていた方がいらしたんだね。今日はもう大丈夫だから、しっかりお礼を伝えなさい」
『お父さん』という言葉にカウンターにいる男性が答える。もしかして親子でここで働いているのか…?それとも…
「えっと…自己紹介がまだでしたね。私、1年B組の羽沢つぐみです」
案の定。羽沢…ということはマスターの娘さんらしい。普段から家の手伝いとは精の出ること。最初の印象通り生真面目というか。
「羽沢…マスターの娘か。2年の木崎結羽、だ。結ぶ羽根と書いて結羽…女みたいな名前だとか言うなよ」
「い、いえそんなことは!素敵な名前だと思いますっ」
これは褒められてるのか…よくわからないな。それにたとえ褒められたところで名前をつけたのは両親なのだから俺が喜ぶ事でもない。
「あ…えっと、取り敢えず座りましょうか」
そう言って俺をカウンター近くのテーブルに招く。
俺は羽沢の向かいに腰を下ろす。と、俺の傘を手に持った羽沢の父…マスターがこちらへやってきた。
「つぐみ、これ忘れているよ」
「あっ、ありがとうお父さん!結羽先輩、この傘、水気はもうとってあるのでお返しします。本当にありがとうございました!」
「すみません、娘がお世話になったみたいで。ぜひゆっくりしていってください」
親子揃って丁寧なようで。別にそこまで大したことをしたわけでもあるまい。
「いや、大したことでは…傘、どうも。あとマスター、俺この店あまり来たことないんで、マスターのオススメ頼めますか?」
「そうかい、ではそうさせてもらうよ。気に入ってもらえると嬉しい限りだね」
マスターは物腰が大人というか…こう、俺には似合わないのだろうが、職に完全にマッチした姿勢や言動をしていて、落ち着くもののどこかこそばゆい感じがする。
早い話が穏やかで紳士的だ。
「私も同じので!あとあのケーキも!」
「わかったよ。木崎くん、少々お待ちを」
客とはいえ俺のようなどこにでもいる高校生に砕けつつも結構に丁寧であると感じられる対応をしマスターが戻っていくと、すかさず羽沢が話を切り出すのだが。
「えっと…結羽先輩?」
「名前…か」
「え?」
唐突な名前呼び。なんとなく距離が近いような気がしてできれば避けたいものだった。氷川だとか今井だとかあの辺りはもう仕方がないものとして、初対面で名前を呼ばれることには慣れない。自分が他人を名前で呼ぶことが少ないからそう思うのだろうか。
「いや、姓で呼ばないんだなと思っただけだ深い意味は無い」
「…嫌でしたか?」
子犬のような眼差しでおずおずと尋ねてくる羽沢。犬好きからしたらたまらんのだろう、といささか失礼にも思える想像をしてしまう。
「別に嫌ではない、ほんの少し戸惑っただけだ。羽沢が呼びたいように呼べばいい」
「は、はい!じゃあ結羽先輩で…あの、突然なんですけど、結羽先輩はなにか趣味とかありますか?」
「趣味…か」
趣味、と言われて少し考えてみる。
無趣味というわけではない。ピアノはたまに弾くし音楽も聞くし昼寝もするしスポーツ観戦もするし読書もするしゲームもするし散歩だってする。本当に色々するのである。だからこそ趣味が何かと言われて特別これだという答えが返せないだけだ。
「…色々するから一つには絞れない。まあ色々ある中じゃゲームが一番趣味に近いか」
頻度だとか習慣だとか、そういう面からそう俺は判断した…のだが、羽沢の反応が思ったよりいい。身を乗り出して俄然話をする気満々といった様子。
「結羽先輩ピアノ弾けるんですか?」
「まあ人並みには。物心ついた頃からやってるからな一応」
やはり食い付きがいい。ゲームじゃなくてそっちに興味があるのか。
「そうなんですか!実は私も昔からピアノをやってて。今はバンドでキーボードを担当してるんです!わぁ〜、思いもよらないところで共通点見つけちゃった!」
前言撤回。経験者だった。しかも割と経歴は長いらしい。
「バンド組んでるのか。こんなことを言うと失礼かもしれんが意外だな」
「たまに言われるから慣れましたよ。幼馴染の子達と5人で組んでて、Afterglowっていうんです」
「Afterglow…」
聞き覚えのあるバンド名に想起させられるのはある一人の少女の名前。
「青葉モカ…がギターか」
今井からよく聞く今井のバイト先の同僚で、羽丘の一年生。無類のパン好きで大食漢だと聞いている。
「同じクラスの女子から名前を聞くことがあって会ったこともある。あの顔からはにわかには信じられんが」
昼間なのに寝ぼけたような顔をしてギターはうまいわ勉強はできるわで羨ましいような気がしなくもない。
別に俺は勉強ができないわけでもないが彼女のあの風体でできるのは本当に理解できないな。
「あ、あはは…モカちゃんのこと知ってたんですね。ギターすごく上手なんですよ〜、あとパンが大好きでいつも幸せそうに食べてますよ」
「…噂通りでむしろ驚いた」
「モカちゃんと仲良くなるにはやまぶきベーカリーのメロンパンとかあげるとよさそうですよ!」
「仲良くなりたいとは言ってないんだがな」
やまぶきベーカリーのパンはこの辺りじゃ有名で、ウチの高校にも常連はいるらしい。斯く言う俺もあそこのクリームパンは立ち寄れば必ず購入するほどには気に入っている。立ち寄れば、の話だが。
そんなこんなで今日初めて会った後輩と話をしていると、羽沢の父からおまかせオーダーの品が届く。
「お待たせ、木崎くん。味を知ってもらうならと思ってホットコーヒーを出させてもらうよ。ミルクや砂糖は要るかな?まずはコーヒーそのものを楽しんでもらいたいのが本音なのだけども」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ」
「それはよかった。それからこっちは…つぐみから話を聞いてくれ」
そういって微笑むとマスターはカウンターへと戻っていく。
おすすめで出されたのがコーヒー、店の味に自信があるのだろうか…とも思えるが、たしかにこの店の味を知るという意味では有意義であるようだ。
「…いただきます」
熱い内にいただこうと、まだ湯気を上げるカップを持ち上げ、口につけて軽く傾ける。
まず最初にやってきたのは香り。当然いつも飲んでいる缶コーヒーとは違う香りなわけだが、後に残りすぎないようなスッと抜けていくような香り高さ、しかし鼻を刺激する瞬間にはその存在感、強さを感じさせてくれる。
次は熱。猫舌ではないからか、カップを離したくなる程の熱さではないように感じた。
そして最後に味。こちらも香りと同じく後に残りすぎないようになっているものの、その苦味はコーヒーらしさを保っている。その味は恐らく俺が飲んできたものよりもずっとよいもので、それでいて缶コーヒーが苦手な人でも飲めるように思う。…下手に強いものを出さないマスターの気遣いとそれでもおすすめとして提供できる腕なのだろう。
「いいですね、これ。自分は素人なのでアレですけど、すごく好きです」
ふと素直な感想が出てきた。これは贔屓にしても仕方がないと言わしめるほどによいものだと感じられる。世の中のカフェ通いの気持ちがほんの少しだけわかってしまった気がする。
「気に入ってもらえたかな?」
「ええ、かなり。他所でコーヒー飲めなくなりそうです」
「ははは、大きく出たね。でもそれは私たちにとってはこの上ない喜びというものだ。ありがとうね、木崎くん」
「こちらこそ。至福の一杯をご馳走頂き感謝の限りです」
感謝の辞を述べると、マスターはカウンターへと戻っていった。いやしかし、我ながら素晴らしい嗜好開拓をしたように思う。人助けはしてみるものだ。
「あの、結羽先輩?」
「ん、いや情けは人の為ならずとは言ったものだなと思っただけだ、大したことはない」
羽沢の顔をぼんやり眺めているとさすがに不審がったのかお声がかかる。
「それでですね、これなんですけど…」
「ん」
羽沢が示したのはショートケーキの乗った皿が2つ。恐らくは片方が俺の分、ということなのだろう。しかし羽沢は何をそんなに躊躇っているのか?俺の知った事由ではないのだが気にはなる。
「あの、これ!私が昨日作ったケーキです!本当はバンドのみんなに出してみるつもりだったんですけど、せっかくなので結羽先輩にも召し上がって欲しくて…け、結構自信はあるんですよ!ずっとお店の手伝いしてますから!ただ、最初から結羽先輩のために用意したわけじゃないのが申し訳なくて…」
めちゃくちゃ弁明されてる。いやそんなさっきの今でお礼を用意出来るわけないし、むしろそんなわざわざ用意する方が律儀すぎるな。世間で言う「いい子」ってやつなんだろう。
「わざわざ出してくれたんだ、それだけで十分な礼だろ。今日の借りを今日返したってだけだ、体裁なんて気にすることじゃない」
ありがとな、と付け加えて皿とフォークを受け取る。
天辺の苺、今はもう旬ではないかもしれないが、その艶は見事なものだ。羽沢の頬の紅潮もこの苺には負けているな。
「…何照れてんだ」
「いえ、結羽先輩優しいなぁって思って…それより、ケーキ…どうぞ…!!」
「じゃ、遠慮なく。いただきます」
羽沢のゴーサインを受けて俺は寄せた皿にフォークを近づける。それにしても綺麗にできてるな、さすがはカフェの娘と言ったところか、はたまた女子力というものか。答えはどちらともわからぬまま、切り取った1ピースを口へと運ぶ。
「これは…割といけるな。形といい味と言い文句はない、下手な店より金取れるし誇っていいだろ。さすがはカフェの娘ってだけはあるんじゃないか?」
「ほんとですか!そんな絶賛してもらえるなんて嬉しいですっ」
「素直な感想だ、友人達もそう言うんだろう」
まあバンドの面子じゃ好みやら言葉選びやらの関係で正しい意見が得られんだろうし見ず知らずの人間に言われる方がいいのか。
そんな思考をしていればあっという間で、ケーキは跡形もなく胃袋へと消えてしまう。
「ご馳走様。あと傘、わざわざどうも」
温くなりかけたコーヒーを飲み干して、春の冷気に嫌気が差した身体を奮い立たせる。会計は羽沢
傘を片手に、折りたたみ傘をもう一方に携えて、俺は負担の少ない折りたたみ傘を持つ手を店のドアにかけた。
「あの、結羽先輩!」
「…何か忘れ物でも?」
大したものを持ってきていないのだから忘れようもないはずではあるが、用事といって思い当たる節はその程度だ。
「今日は本当にありがとうございました!それでは、またのご来店をお待ちしてます!」
「…気が向いたらな」
毒気の抜かれるような表情で、羽沢はそんなことを言ってみせた。なんだかんだちゃっかりしてるのかわからない後輩だった。
そんな言葉に対し、コーヒーとケーキに素直になりきれなかった出来損ないの返事をする一応の先輩である。一人でよかったと今は心の底から思える、くだらない揶揄が飛んでこないのなら平和の限りを尽くしていると感じる性分なもので。
イヤホンを耳に挿し、音楽を流す。いつものことだ。
傘を差して歩き出す。いつものペースだ。
歩いていても雨は止まない。いつものことだ。
だがしかし気まぐれに人助けをした。珍しいことだった。
いつもと違う1日が俺に与えた影響は皆無に等しい。塵も積もれば山となるだとか、積土成山だとか、そんな言葉を完全に否定するだけの経験ができなかった俺は、これから起こるかもしれない変化をきっと恐れていた。
しかし同時にそれを知りたがっていて、それでいて突き放したがっていたのかもしれなくて、でも結局先のことなんて分からないのだからと、考えることをやめたのだった。
これが、あの日の顛末である。
のんびり書いていきたいと思います。
楽しんでいただけたら嬉しい限りです。(始まったばかりですが…)
それではまた次話でお会いしましょう!
6.8追記
母親の名前を変えました。某作品のヒロインの母親からとりましたが戸山香澄さんのお母様と名前が被っていたことに気づきました。
香澄との絡みは薄いor無い予定なので、ゴリ押してネタにする訳にも行かず、変更させていただきました。