ふと時計を引っ掴んで見ると、午前五時半。アラームよりも早く起きた原因は吐き気がするほどの暑さ。目覚めは最悪らしい。
俺がそんな早起きするとは誰も思わないと分かっているから、俺を知る全ての人間を鼻で笑ってやる。
一階に降りて洗面所で顔を洗うと、目の前には自分を睨みつける人間が…まあ俺自身のことで、鏡に映るこの顔が俺はあまり好きではない。目付きが悪いからな…自然体で要らぬ反感を買う目である。
「あら、おはよう結羽。あなたつぐみちゃんとのデートだと早起きなのね」
「デートじゃねえからな」
リビングに入ると母が既にキッチンで朝食の準備をしていた。おそらく俺の起床予定時刻に合わせたのだろう、それは非常に嬉しい。だが勘違いも程々にすべきだとは思わないか、母よ。
「…当事者にとっては違うんだよ」
それしか言えないのが情けないが、ここで怒るのも無駄にエネルギーを使うというものである。嫌な気分ではあるが、大人な俺はそれを理性で難なく抑え込む。
「まあまあ、楽しんで来てね」
ごめんなさい、と言って母は料理に集中する。
少し大きめの溜め息と共に俺はソファに座り、テレビのチャンネルを回す。途中でトビQのニュースを観ては、そんな話もしたっけな、と思い起こした。
「ねっむ…暑いし」
毎年恒例の夏さんは今年も容赦なく俺を殺しに来ており、ついでに言うと残機*1に余裕はない。
「今日はもっと暑くなるから、熱中症には気をつけてね」
「…善処する」
既にやられかけているのにどうしろと言うんだ。
暫くして並べられた朝食をあまり減っていない腹へとブチ込んで麦茶で胃へ押し込む。アスパラとかベーコンとか、地味に好きなものすら飲み込む気になれないのは夏の朝だからか。直後にマラソンでもしたら秒で吐きそうだ。
皿を片付けた後、取り敢えず寝ている間の発汗を文字通り水に流すべくシャワーを浴びる。冷水を浴びてはいつかの凛になってしまうので、少しの冷たさを感じる程度の
今日は羽沢と出かけるからか分からないが、突然脳内で『羽沢 シャワー』で検索がかかったらしく、羽沢珈琲店に傘を取りに行った日のことを思い出した。声をかけたきっかけは本当に気まぐれなのかとさえ疑うくらいで、実際にただ傘を貸しただけの相手と偶然が重なって今日は母親で言うところのデート擬きに連れ出されるにまで至る。自覚のない下心でもあったんじゃなかろうか…
「…嫌なことまで思い出すな」
回想に耽ると中学時代のことまで無駄に思い出されて不愉快さを覚えてしまう。似たようなことで嫌な経験をしているわけだが、まあ今となっては過ぎたことで、そんな気分で外に出るのは俺自身が嫌だから変な思考を振り払い、風呂を上がった。身なりはいつも通り適当に、しかしほんの出来心とも言うか、懐古の賜物とも言うか、懐かしいモノを引っ張り出し、それを首に着けて俺は家を出た。
さて、いつも通りの恰好でいつもと違い早朝に羽沢珈琲店に突撃する。時間が違うだけで見える風景も違うなと感じる。夏休みに入ってからこんなに早く家を出たのは久しぶりだからだろうか。
店の前に着くとドアにはopenの掛看板。いや空いているのは知ってたけどマジで朝早すぎるだろ、羽沢家はどんな生活してるんだ…
「あら結羽くん、いらっしゃい」
「ども…あ、アイスコーヒーお願いしていいですか」
「は〜い。好きなところ座ってね」
今日は特に指定がなかったのでコロンビアが出てくると思われる。というのはこっちの話で、一応豆に関しては相応の種類を取り揃えてはいるらしい。俺も全部はまだよく知らない。
羽沢母に注文をとってもらい飲みきれなかった時のため、とテーブルに座ることにする。一人ならカウンターでもよかったんだがな…
ふと周りを見ると朝から客はいる様子。仕事前の人だったり早起きの人だったりするのか。生憎俺はそんなに余裕のある早起きの鳥にはなれない気がする。三文の徳を滅多に享受し得ない人間、それはそれで損した気分になる。
「結羽くんごめんなさい、つぐみったら朝から
「あ…いえ、俺も休日はこの時間寝てるんで。起きたのが奇跡です」
「あら、そうなの?早起きできないとお店は継がせられないな〜」
いや継ぐ継がない以前にスキルもクソもないド素人なんだが…羽沢家の長男でもあるまいし、バイト始めただけで今から店を持つ持たないの話をされるのはどうかと思う。
「…考えときます」
「今ならつぐみももれなくセットでお買い得なんだけどな」
「自分の娘を売りに出す母親って救えないっすね…」
まともなバリスタ探した方が家としては安泰である。どちらにしろ本人の意思を無視して羽沢を売りつけているのは変わらず、それは倫理的によくないと思うがな。
届いたアイスコーヒーを飲んで頭が微妙に覚醒し、外で温められすぎた身体が若干冷却されたところで、羽沢が店の奥から姿を現した。
「お、お待たせしました結羽先輩…」
「ああ…別にそんなに待ってない」
後で気づくがこのやり取りはテンプレらしい。知ったことか。
さて準備に時間がかかった、と言う割にはいつも通りのように感じるが…いつも通りかと言われると違和感を感じるところもあるな。服装はまあ選んできたんだろうなというくらいの気合いは感じられる。
白っぽいオレンジのような(後で調べたところ薄いアプリコットに近い)色の、レースみたいな生地を何枚も重ねたスカート…名称なんぞ知らん、それにこれまた薄いグリーンと白の上衣。靴は先が尖ったようなヤツ。全然衣類のことを知らないと前から言っているが、正にその通りだ。
まあただそんな羽沢を見たのは初めてだ。前にも見た事がある羽沢カラーの服とは違う。そもそも制服の時に会うのが多かった気もするから初めてでも仕方がないだろう。
「…そういうのには疎いがな。まあ新鮮でいいんじゃねえか」
適当にも聞こえる感想で失望させたなら申し訳ないがそんなものである。そのコーディネートに対してあれこれとコメントできるほどの言葉のストックが無さすぎるのだ。言えるのは精々「いいんじゃね」とか「似合ってるんじゃね」くらいしかない。
そんな言葉足らずとも言える俺の一言にさえ、戸惑いつつか照れつつか、羽沢は笑ってみせた。何とまあ、俺には勿体ない表情である。彼女はそんな顔のまま、仕返しと言わんばかりに口を開いた。
「結羽先輩がアクセサリー着けてるの初めて見ました。か、かっこいいと思います」
ああ、分かるのか。
「そりゃどうも…これは気の迷いだ、普段は着けない」
他人からしたら羽沢を意識したオシャレと思いがちなこれには実は違う意味がある。羽沢はそうと気づいていないのかもしれないが、このチョーカーというらしい首飾り、実は俺が持っているものだけではモチーフが正確には伝わらないのである。
ワンポイントがあしらわれたこの首飾り、単体ではただ黒いパズルピースが一つぶら下がっただけ。当然それだけで十分アクセサリーとして機能しているが、それは本来のパズルピースとしての役割を失っていると言える。本質は組み合わせることに他ならない。
…と、ここまで言えば分かるのだろうが、つまりこの首飾りの片割れを持っている人間が別にいるのである。状況によっては羽沢に対する冒涜でしかないが、ご存知俺達はそういう特殊な関係にはあらず、許されるレベルだろう。
というかこんなに意味深な説明をしておいてだが正直これを着けてきたのはその存在を思い出したからであって、何か特別な意味をもって装備しているわけではない。その出処にはなかなか苦々しい記憶はあるが、今はそれは関係ないのである。
「あら〜、初々しいわね。私ったらこの辺り暑すぎて倒れちゃいそう」
「お母さん!そういうのじゃないから!」
「そういうのって、どういうのかしら?詳しく聞きたいな〜」
「…酷い目に遭った」
「あはは、大変でしたね…」
現在俺達は目的地の最寄り駅に降り立ったところなのだが、夏休み真っ只中の学生、通勤途中のおっさん達という二大巨頭が占拠した電車に乗ったがために移動だけで死にかけている。俺達も前者の仲間であることに変わりはないが、押し潰され揺り揺られ、今にも吐きそうだ。
「…さて、どうする」
「もうすぐ色んなお店が開き始めそうですね。荷物になっちゃいますけど、先に買い物しませんか?」
「へい」
特に文句を言うこともなく、羽沢についていくことにした。完全に偏見ではあるのだが、女の買い物は死ぬほど長いと思っている。フロアをうろついて買うのは数点、かけた時間は四時間なんてザラにあるんじゃないのか。いやもし違うようなら俺は全ての女性を敵に回すことになってしまうが…申し訳ない。
「とは言ってもだな…何か目的のモノでもあるのかよ」
「それは一応…強いて言うなら服ですね」
女物の服売り場で俺が
適当な話をしながら歩いていると何かデカい建物に辿り着いた。ショッピングモールというかデパートというか、その辺の呼び方は分からないがまあそんなイメージでよさそうな建物だ。
「…さてと、お供するか」
今日の俺の仕事は子守りである。最悪の場合荷物持ちにもなる必要があるが、そんな大荷物になるほど爆買いするわけでもないだろうと想定しておく。
小物、服、服、服、小物、ペット、服、スイーツ。
特に何も買ってはいないのだが、羽沢について回って数時間。ウィンドウショッピングが彼女にとっていかに楽しいのかを思い知らされた。
やたらファンシーな店だったりガーリーな店だったりするわけで、俺が無心状態を解除したのはペットショップで箱に閉じ込められた動物達を眺めている時だけだった。見られている側のことを思うと不憫だが、動物を毛嫌いしているわけではないので可愛げのある生き物として見ることが出来た。その中に一匹だけ、もし飼ったら仲良くなれそうな、人懐っこそうな小型犬がいた。移動する時もケースの端までついてきたからな…
「…で、何も買わねえのか」
フードコートで昼食をとり終え、現在絶賛ダラダラタイムである。買い物袋の一つも持っていないわけだが、気軽にあれこれ買っては財布によろしくないだろう。高校生なら尚更だ。
「目星はついてるんですけどね…この後また見に行ってどれを買うか決めたいなぁ」
「そうか」
「はい…すみません、ちょっとトイレに行ってきます」
そう言い残して羽沢は少しばかりの駆け足でトイレに向かった。一人残された俺は当然暇を持て余す。
「……あ」
そして頭に浮かんだのは今日が『ポプラトゥーン2』の発売日だったということ。予約を先延ばしにしていたらそのまま忘れるという大失態を晒した俺もなぜか発売日を思い出すファインプレー。あとで電器店でも行くか、在庫あれば買うかもしれないしな。積みゲー常習になりつつあるのはご愛嬌。
「…あれ?もしかして、結羽くん…?」
呼び方から察するに氷川か?と思い、最悪のタイミングだなと内心悪態をつきながら声の聞こえた方に首を向ける。その姿を見るまでは声質が若干似ていたのもあって、その人が氷川ではないことに気がつけなかった。
「…お前」
それが誰なのかをこの目で認めた時、自分の中の感情がグチャグチャになっていくのを感じた。だがきっとその中に喜びのような感情はない。不安や憤怒が渦巻く中に「わからない」という思考が差し込んだ。
「…失せろ」
押さえ込んでいた記憶が頭を支配していく。思い出したくなかったもの、思い出せなかったもの、消せなかったものが、様々に入り乱れる。
きっと他人からすれば大したものではないが、俺の中では忌々しい記憶であり、同時に美化されている記憶でもあり、それらは俺の過去に大きな位置付けを為されていた。
「…そうだよね、ごめん」
「分かったらさっさと消えろ、不愉快だ」
そこに立っていたのは、そしてこの場を悲しげな表情で去ろうとしているのは。
「またね、結羽くん」
紛れもなくかつてのクラスメイトであり、かつての「連れ合い」だった、マナこと
次回はお洋服を買ってパンケーキを食べて水着シーンがあったりなかったりするかもしれません。
読んでいただきありがとうございました。
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