クロスロード   作:resot

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日本文系大学の頂点、東京大学文科一類を目指して、二人の高校生が受験勉強を始めた。
一人は、何にもない離島の女の子。
一人は、名門私立の底辺に沈む男の子。

今回はそんな女の子の、何気ない日常のお話。


第2話 いつか行こう

「えー、皆さんいいですか?ここはセンター試験でも頻出の内容ですから、覚えておいてください。特に、キリストの三位一体説。これは、大変重要です。なぜ重要かというと…。」

 

(あーうん、世界史的にも重要やおねー。

・・・って、そんなこと考えてる場合じゃないか。)

 

 

 

今日の1時間目は倫理だ。

倫理といえば、世界各地に残された思想を中心に、物の考え方を学ぶ科目。

人から押し付けられるようにしてそんなもんを学んで何の得があるのかというのはさておき。

 

 

要は、退屈に感じやすい授業が、一時限目に来てしまった。

 

 

 

 

ふと周りを見渡すと、じゅんが頬杖をついたまま、違う世界へ旅立とうとしているのが見える。

何やってんだか。

消しゴムでも投げつけてやろうかと思ったが、まあ放っておいた。

 

後で泣きつかれても無視しよう。

 

 

 

 

とはいえ、朝一で中々に退屈というか、思想的な内容のこの授業。

これが中々に皆の眠気を誘っているらしい。じゅん以外にも、何人か机に突っ伏しているような生徒もチラホラいる。

 

 

 

そんなんで大丈夫、なんだろうか。

3年生になって、今年から始まった倫理は、一年、正確には12月までに全範囲を終え、そのまま1月のセンター試験へと突入する過密日程だ。

今日はゴールデンウイークが明けたところ。

つまり、あと7ヶ月で全範囲を終えなくてはならない。倫理担当の羽田先生の話も、自然と早足になっている。置いていかれるとしんどいはずだ。

 

 

 

(…ま、私は私のことをせんとね。)

 

 

 

目を机に落とすと、そこには開かれた本の中にある、鮮やかな油絵の写真があった。ルノワール、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』。即座に頭に浮かぶその名前とともに、頭にはほかの印象派の画家の名前が浮かぶ。セザンヌにモネ。セザンヌ…ああ、『セント・ヴィクトワール山』だ。

 

 

 

(うーん、世界史もだいぶ頭に叩き込んでこれたなぁ。)

 

 

 

海帆はこの時間、先生の話など聞かず、一心不乱に世界史の教科書を読んでいる。

普通なら、今の光景に真面目に勉強しろ!話聞け!などと世の教育者から叱責が飛んでくることだろう。だが、今はそんなことも言っていられないのだ。これには深いわけがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、一つ。東京大学文系の入試制度について説明しておこう。

 

 

 

 

まず、入試は一月に行われるセンター試験と、二月末に行われる二次試験とで構成される。

 

第一関門、一月のセンター試験。

これは、全国の学生が同じ内容の問題を解く。各大学がこの教科を受けてね、と指定してくるので、自分の志望の大学が何の教科を受けろと言っているか見るのだ。

東大文系は、まず英語。数学。国語。そして、理科基礎(平たく言えば、内容の薄い理科)を二科目。そして、社会系の科目を二科目受ける必要がある。

その社会系の科目は、日本史、世界史、地理。もしくは、比較的簡単な現代社会か倫理だ。

 

そして、二次試験。東大の科目は、英語。数学。国語。そして、社会が二科目。ただし、社会については、日本史、地理、世界史から二つになる。

 

 

 

 

 

 

ここで問題なのは、うちの学校では、日本史、世界史、地理のうち、一つしか授業を受けられないということだ。つまり、この3つのうち一つは、自ら学ぶ必要がある。

 

 

 

 

 

田舎の高校から東大を目指すとなると、ネックになるのがここ。

独学で、400ページ近い教科書を頭に叩き込む必要があるのだ。

これで諦めた受験生は計り知れないだろう。

 

 

 

 

というわけで、私は世界史を自主学習して、日本史を授業で学んでいる、というわけだ。

ただ、高校世界史、さっきも話した通り、量が半端ではない。

 

 

 

 

 

それもただ読むだけではいけない。東大レベルの問題を、全国の圧倒的優等生とも戦えるレベルまで解けるように読み、理解せねば意味がない。

 

 

 

 

しかも、七月末にあるオープン(東大模試)に向け、私は世界史の全範囲を終わらせる必要がある。

というわけで、入試に使わないこの倫理の時間、わたしには特別に世界史の勉強をすることを許された、というわけだ。

羽田先生が気の利く人で助かった。

快く、とは言わないけれど、受け入れてもらえた。そこは感謝しないといけない。

 

 

 

 

 

本当は、無駄な勉強などないし、倫理を疎かにすべきではない。

それに海帆は何だかんだ勉強するのは好きなのだ。ぜひ倫理もやってみたい。

 

でも、リスクとリターンを考えれば、選ぶべき道は明確だった。

なにかを犠牲にしなくては、最早受からないのだ。

 

 

私の成績自体は、この学年で確かに一番だ。しかし、それはこの小さな学校だから言えること。

全校生徒、たったの90人ほどなのだから。

それでも、離島の学校としては、世界的にも多い方なんだけど。

 

 

 

(さて…問題はこっちやな。)

 

 

 

教科書をめくり、昨日初めて手をつけたものの復習に入る。

 

 

海帆は、世界史を勉強するとき、まず教科書を読む。そして頭で理解しながら、ストーリーのように暗記する。

 

そして、そのストーリーをそらで説明できるように暗記していく。

こうすれば単語とその意味、という記憶ではなく、物語の中だから論述問題にも対応しやすいし、一つ単語を忘れても、別の角度から記憶を引っ張り出すことができる。

 

 

 

 

今私が見ているのは、18世紀イギリスの項。産業革命に成功したイギリスの盛況ぶりを伝える内容…。

ところがこれが難しい。頭に中々入っていかないのだ。

 

 

 

(うー…これ、大丈夫なんかな。)

 

 

 

海帆は頭の中に無理くりイギリスの光景を思い浮かべる。記憶が途切れそうになるたびに頭を抑え、無理やり記憶に刻みつけていく。脳みそにそのまま書き込んでいくイメージだ。

 

 

ただ勿論、こんな風に世界史に時間をかけてもいられない。英語も数学も国語もまだ目標には程遠かった。

 

 

 

 

 

それでも、海帆には希望もあった。

 

 

(家に帰ったら届いとるはずや。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホームルームが終わると、海帆荷造りを始める。机の中の教科書を一通り引っ張り出して、机の上に置いた。

 

 

大きめの教科書やノートを先にリュックに詰め、後から小さいものも詰める。

 

 

「海帆、じゃーね。」

 

 

早く荷造りを終えた友達が声をかけてきた。テニス部のその子は今日はなぜかカバンを肩にかけている。

 

 

「あれ、部活行かへんの?」

 

「うん、今日は帰ることにしたわ。ちょっと疲れてまったから。」

 

 

じゃ、と友達は帰っていく。彼女のカバンについたラケットのキーホルダーがちゃらんと音を立てる。

 

辺りには、友人と喋りながらも席を立たない子もいる。部活に行く子もいる。こんな離島でまともに他校と試合すらできないのに、部活に真剣に取り組んでいる子もいるのだ。

教室にいる子も、学校に残って勉強するんだろう。大したものだ。

 

 

 

みんなそれぞれ、思い思いに最後の高校生活を楽しんでいる。

 

 

ちなみに海帆は家で勉強することにしている。というか、帰りくらいはるっちやじゅんと喋らないと、気が滅入ってしまう。

 

 

進学先を決めてからはや1ヶ月。

自分は一体何を得ただろうか。とにかく問題を解きまくって、来週には模試がある。そこである程度の結果が出なければ…。

 

 

(いやいや、考えてもしゃあないわ。

点を取るしか道はないんやから。)

 

 

そんなことを考えながら荷物を全部バッグに放り込んで、後ろを見ると、二人と目が合った。

 

 

「二人とも、帰ろ。」

 

 

「そやな、帰るか。ほれ、はるか。行くで。」

 

「ま、待ってよ。私、この問題とかんと、帰れへんの。」

 

 

はるっちは机の上のプリントの上で、とんとん、とシャーペンを叩いた。

目をやると、そこには数式が見える。

そっか、数学の課題…。

 

 

「お前…忘れてきたの?」

 

「いや、宿題の範囲間違えててな。数学のプリント、帰りに出すように言われてたんよ。」

 

「昼休みなんでやらへんかったんや…」

 

「じゅん、助けてくれ!」

 

「アホ、数学なんか俺に聞くなや。俺は文系やぞ。それに、ほれ。そこに天才がおるやないか。」

 

 

じゅんはそう言って、海帆を指差す。

海帆は少しだけ眉を動かした。

人に指をさすな指を。

 

 

 

じゅんの倫理の成績がガタ落ちしますように。そう祈りながら、海帆ははあ、とため息をついた。

 

 

「はるっち、ちょっと見せて。」

 

 

こうなったら仕方がない。

はるっちは帰りが船だし、早めに帰らせてあげなきゃその時間はどんどん遅れてしまう。

横から問題を覗き込む。B5のプリントに印刷されたたった一つの問題。

少し問題文が長い。眼鏡をしっかりと上げて、海帆は読んだ。

 

 

 

(確率漸化式…。)

 

 

 

そこにあったのは、確率漸化式の問題。ああ、これね、と反応する。

 

 

とはいえ確かにわかりにくい。文系には一つの山と言ってもいい。

でも、確率漸化式のポイントは一つ。どう変化しているか?とじゃそれをどう確率に落とし込むか?だけ。

 

流れ自体は共通しているのがほとんどだ。後は慣れていくのみ。

うん、それに学校のプリント程度なら、何とかなる。

 

 

 

「えーっと、これはな…。」

 

「うん、うん…あ、なるほど。」

 

「で、ここをこーすれば…どうなる?」

 

「えっと、そっか。法則は最初の確率だけ2分の1で、そこから先は…。」

 

「そ。サイコロやからね。でも、行き先は3つでそれぞれ確率違うからそれを整理して…。」

 

「…できた!」

 

「はい、お疲れ様。」

 

 

 

 

はるっちは完成した回答をマジマジと見る。

 

 

 

 

「海帆、相変わらずすごいなぁ。」

 

 

 

 

そして、そう呟いた。

 

 

 

「流石じゃな…」

 

 

 

じゅんも呟く。

 

 

 

「いや、これ練習問題やで?そんなことないやろ。」

 

「ううん。海帆。人に教えれるってことは、ほんとに理解しとるってことなんよ。それが本物やから、海帆は人に教えれるんや。」

 

「…まあ、やとええけど。」

 

 

 

そうかな、と思う。正直。だってこのくらいの問題なら、解けて当然、くらいじゃなきゃ。このくらいで頭を抱えているわけにはいかない。

 

 

 

 

「数学、難しいんよな。」

 

「そうやね、確かに難しいけど。でもまあ、大丈夫や。時間をかければできるようになるよ。」

 

 

 

自分も立ち止まっているわけにはいかない。でもそれはみんなも同じだ。

みんなだってたとえ今は解けなくても、きっと解けるようになる。

海帆だって、高校と言わず、小さい頃から学ぶことが好きで(正確には勉強くらいしかこの街ですることなんてなかったけど)、地道に積み上げてきた結果少なくとも日本一の大学を「狙える」位置にはいる。

だから、積み上げていけばみんなだって必ず辿り着けるはずだ。

 

 

 

うちの高校は、このザ・離島こと翔那群島の子供達なら大体通うことになる場所。

みんな憧れの都会に向け、勉学に励んでいるため、全国的にそこまで成績の悪い子はいないはずだ。

それに、この島に大学はないし、必然的にみんなは東京の大学に行く子が殆ど。そしたら、どこに行こうがまたみんなと会える。

 

 

納得できるまで勉強して、東京で会えればそれでいい。

 

 

 

「じゃ、出してくるわ。先外行っといて。」

 

 

 

パタパタと駆けていくはるっちを見送りながら、海帆はそんなことを考えていた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

3人で外に出ると、日差しに当てられる。西日が服を通り越して、肌に直に突き刺さっている感覚がした。

 

 

 

「あっつ…夏、もう近いんかなぁ。」

 

 

 

はるっちの言葉に頷く。

春が、終わる。受験まで、後…

いやいや、焦っても仕方ない。

 

平常心、平常心…

 

 

「自転車取ってくるわ、私。」

 

 

心を鎮める意味も込めて、海帆はゆっくりと歩き始めた。自転車をとって、門へと向かう。

 

 

「おー、来た来た。そしたら帰ろ。」

 

「そやな…お?」

 

 

じゅんが門の先を見て、変な声を出した。門のところには、丸々と太った猫がいた。門の脇にある電柱にもたれかかるように、でん、と座っている。

ふてぶてしい猫は、ふぁ、と音が出るようなあくびを一つした。

 

 

「あれ?ハナやん。」

 

「こんなとこまで上がってきて…。」

 

 

じゅんが猫に近寄ると、猫も立ち上がる。じゅんが脇をしっかり持って、引っ張り上げた。

 

 

「重っ…。」

 

 

 

この猫はハナ。じゅんの実家、円田商店の看板猫にして、円田淳一こと、じゅんの飼い猫である。

じゅんはこの地獄坂の麓にある、商店の息子なのだ。そんな商店で不自由なく過ごすハナは一旦降ろされると、今度は海帆の足元に走ってきて、こっちを見上げて来る。

 

 

 

「あら、じゅんより海帆の方が好きみたいやよ?」

 

「アホ言え、いっつも餌やっとるもんでだわ。」

 

「そんなこと言うて。」

 

「ハナ、どした?」

 

 

 

海帆はハナに声をかける。

にゃあ、と。なんかくれ、と言われた気がした。

 

 

 

「…エサくれ?」

 

「なわけあるかい。」

 

 

 

何気ない会話だが、これが海帆たちが一億回は繰り返してきたパターン、もといじゅんのツッコミである。

でも、自分たちは忙しくなった。それぞれの道に向かって、頑張るときになった。

 

 

 

東京という、新しい街を目指して。

はるっちがハナの喉を撫でながら呟いた。

 

 

 

「…今年で、終わっちゃうんかねぇ。」

 

 

 

その声を、聞かなかったことにしたのは、果たして海帆の間違いだったろうか。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「ただいまー。」

 

「お、おかえりー。海帆ー?」

 

 

家に帰ると、パタパタと足音。そして真っ先にお母さんが、玄関からでも見えるリビングの扉から顔を出した。

 

 

「海帆、お帰り。例のやつ、届いとるで?」

 

 

「ほんとに!?」

 

 

海帆は、その言葉を聞くと、すぐに二階の自分の部屋に向かった。

 

 

階段を駆け上がり、荷物を部屋に置いて、そっこーでリビングへ向かう。机の上には、箱が置いてあった。

机の上に置かれた、真っ白な箱。さながらお歳暮みたいに見えるソレだが、海帆は感嘆の声をあげた。

 

 

「すごいなぁ…。」

 

 

白い箱には、赤い文字のレフチュールの文字があった。

 

 

 

 

レフチュール。

 

 

 

 

 

今や日本全国には、さまざまな学習塾がある。そんな昨今、どこの塾も、独自にカリキュラムを組み、難関大合格者で競っている。そんな中、様々な塾を差し置いてひとつだけ、特殊な形態で成績を出している会社。それが、「通信教育レフチュール」である。

 

 

(こういうの初めてやけど、緊張するんやなー、)

 

 

早速箱を開けてみた。

白い請求書を除けると、早速目につく「英語 4月」の文字。ピカピカした新しい冊子特有の光沢を放つその様子を、頼もしく思ったのは言うまでもない。

 

 

(これで、勉強できるんや…!)

 

 

「ただいまーって、姉ちゃん?何見てんの?」

 

 

不意に、声をかけられる。

振り向くと、そこには妹の姿。ランドセルを肩から外しながら、こっちを見ていた。

 

 

「糸花、お帰り。レフチュールってこの前言ってたやろ?それ届いたんや。」

 

「おお、よかったねえ。」

 

「海帆、机の上、これから晩御飯の用意しちゃうから、空けて。あ、でも、請求書だけは椅子の上、置いといてな。」

 

「うん、わかった!」

 

「姉ちゃん、うちにも見せて!」

 

「糸花、あんたには早いよ。とりあえず姉ちゃん、やってみるから。」

 

 

そう言って、箱を抱えた。リビングを出て、また階段へ。ずっしりとした重みを感じながら、パタパタと階段を上っていく。

その腕に感じる重みをしっかりと支えながら。自分がこれから行こうとしてる場所の重みを、少しだけ感じた気がした。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

(あー…。)

 

 

人差し指と中指でシャーペンをくるくると回す。

海帆にとって、ある種のルーティンだ。でも、シャーペンは回っても頭は回らない。

 

 

(誰が上手いこと言えと…。)

 

 

そんなツッコミを入れつつ、海帆はシャーペンをまた回す。というか、別に頭、回ってはいるのだけど、何も浮かんでこない。

 

 

とりあえず、海帆は数学をやってみることにした。

それはまた、海帆の得意教科の一つである。

 

 

 

 

(うー、数学でこれか…。)

 

 

 

わからなかった。っていうか、なんだこれ。書き出しもわからないし、道筋も見えてこない。

 

 

「ああ、もう。」

 

 

ふと、机の脇の置き時計に目が止まった。考え始めて15分。

本番だったら既に時間を使いすぎているだろう。私は、背もたれに思い切り寄りかかった。

 

 

さっきはるっちに教えた問題を思い出す。数学をしていて、高校の宿題程度、ううん、その辺の模試程度で頭を抱えるような問題はほぼなかった。

それなりに自信のある教科のはずだった。まさか、こんなにボコボコにされるとは…。

 

 

 

(いやいや、弱音を吐いてる場合じゃないやない。)

 

 

 

そんなこんなで、頭を動かしながら天井を見つめていると、ドアの開く音がした。

続いて、ただいまという声。お父さんだ。

 

 

ということは、夕食も間近だろう。

さっきテキストの取り組み方を読んだ限り、別に試験ではないから、時間にこだわる必要もないと書いてあったわけだし。

それに、ひどく疲れた。椅子から立ち上がり、階段を降りる。さっきまで向き合っていた関数のグラフが、頭の中でグルグル回転させながら。

 

 

そのままリビングへ向かう。

 

 

「おかえりーお父さん。」

 

「ただいま。」

 

「海帆、やってみた?」

 

「うん。ぜんぜんわかんない。」

 

「そうか…やっぱり、難しいんだなぁ。」

 

「海帆、机開けたいから、味噌汁ついでくれないかしら?」

 

「あ、わかった!」

 

 

返事をして、台所へ向かう。机の上に、味噌汁の入った鍋が出ていて、それをつぐのは、いつもの私の役目だ。

私はさっきの問題について考えていた。何か、とっかかりがあるはず。

 

 

(回転、回転…?回転してるってことは、形自体は変わってないんやけど…?)

 

 

もっと頭をやらかくすれば、きっと解けるはず。冷静に、かつ大胆な…

 

 

(って、何やそれ!)

 

 

でも、あんな問題文から何を読み取れっていうのだろうか。条件が少なすぎる…。

 

 

 

「海帆?」

 

「ひゃあああ!?」

 

 

 

夢中になっていて、お母さんに突然声をかけられたからびっくりした。

味噌汁がこぼれて、手にかかる。

ジワっと鈍い痛みが広がった。

 

 

「あっつ…」

 

 

落としそうになったおわんを持つ手の力を何とか維持して、机の上に。

さっきのジンジンとした感触が、手の一部を覆っていた。

 

 

 

「もう、何してんの?」

 

「ご、ごめん。考え事してて…って、これ糸花!つまみ食いせんの!」

 

 

 

そんなドサクサに紛れて、糸花が机の上の唐揚げに手を伸ばしているのを見て、慌てて注意する。

 

 

 

「ちぇっ、バレちゃった。今ならいけると思ったんだけどなぁ。」

 

「あんたもう小6やろ?そんなことしてないの。」

 

 

 

手を水道で冷やしながら、海帆は注意しておいた。糸花は落ち着きがないから、姉としては正直心配だ。まあ、元気なのはこの子の良さだけどね。

 

 

 

「海帆、手やけどしてない?」

 

「うん、大丈夫。」

 

「もう。根を詰めるのもまあいいけど、ちゃんとしゃきっとしなくちゃあかんね。」

 

「そんなこと言っても、お母さん。もうそんなに時間もないしさ。私、東大目指すなら全然成績足りひんし。」

 

 

 

お母さんははぁ、とため息をつく。

 

 

 

「もう。そんな風になるくらいなら、わざわざ東京大学なんか行かんくてもええのに。」

 

「嫌なの、それじゃ。」

 

 

 

きっぱりと、そのセリフだけはいっちょまえに言えた。

それだけは譲れない、海帆の硬い意志だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「「「いただきます!」」」」

 

 

我が家のいただきますは家族自慢の誇れるものだ。昔からこの習慣である。全員で手を合わせ、声を出す。

 

夕食って、やっぱり最高だ。いろんなことを忘れられるから。

 

 

「んー、おいし。」

 

 

舌鼓を打っていると、海帆、とお父さんに声をかけられた。

 

 

「どうだい、レフチュール。」

 

「うん、やっぱり難しい。でも、やっぱこれないと私受かんないと思うからさ。頑張ってみるよ。」

 

「そうか。俺はわからないからね。そんな難しい勉強なんて。お父さんに聞かないでくれよ。」

 

「もう、お父さんなんか当てにしとらへんよ、最初から。」

 

 

お母さんが笑いながらいう。

 

 

「何いうんだ、お母さんもそうだろう?」

 

「当たり前やん!」

 

「胸張るんだ…。」

 

「お姉ちゃん、わからんとこあったら私に聞いてな!」

 

「糸花、あんた今日の宿題やっとらんやろ?どうせ。」

 

「あっ…」

 

「いーとーか?」

 

「ごめん、お母さん、ちゃんとご飯食べたらやるで!」

 

「ちゃんとやらな、お姉ちゃんみたいになれへんで?」

 

 

ははは、とまた笑い声。

 

 

「まあ、味方だよな。通信教育って。」

 

 

お父さんが、不意に言った。

 

 

外で、海風が吹くのが聞こえる。

今は、その風の音が、やけに大きく聞こえる。

 

 

ーーー海帆を、鼓舞してるみたいに。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここは、塾もないしなぁ。」

 

 

 

 

 

 

 

そんなお父さんの声が、海風の音に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

お父さんの名前は、立花瀧。

お母さんの名前は、立花三葉。

私、立花海帆に妹の立花糸花。

 

4人で過ごせるこの瞬間を、大事にしたい。

だけど、目標だけは譲れない。

 

どんな問題でも解いて、絶対に行ってみせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

そう誓ったときだった。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

突然、頭の中に何かがよぎった。

 

声を上げる間も無く、再生される映像。

 

頭の中で、いつか夢に見た景色が見える。まっすぐ続く道に、両側に広がる草原。

 

そこに、自分が立っている。

 

 

 

(どこ?ここ?)

 

 

 

そんな問いを、呟こうとしたのに、声に出ない。

ただ代わりに、風が吹いた。海帆は、その風に背中を押されるように、歩き出した。

 

 

 

 

なんとなく、だけどわかる。

この道の先にだれかがいる。

誰かが、待ってる。

 

 

 

 

ーーーーあなたは?

ーーーーあなたは、誰?

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