クロスロード   作:resot

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第4話 一人じゃない

出会いは、突然だった。

行きつけの居酒屋でも、サークルの先輩でも、あるいはゼミでもない。何の変哲も無い、階段の中腹。

青空と白く輝く雲ががまっすぐにどこまでも見える、そんな見晴らしのいい階段の中腹だった。

 

 

<あの、俺!あなたをどこかで!>

 

<私も!>

 

 

「あれからもう、22年か…」

 

そんなおばさんくさいことを呟いて、コーヒーをすする。

ちょうど良い機会だから言わせてもらうが、48歳というのは決しておばさんなんかじゃ無いとしっかりと主張しておきたい。まだギリギリ、50を超えなければお姉さんとして認識されてもいいはずだ。

 

 

もっと言ってしまえば、そんな誰かに向けるものでも無い呟きをするくらいには、暇だってことだ。今日は特に何もない日。

時刻は午後3時。

 

 

 

糸花が帰ってくるまであともう少しあるし、海帆はいつも帰りが7時前だから、今は本当にすることがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

立花三葉。

旧姓、宮水三葉。

 

 

 

 

 

 

 

岐阜県の糸守というど田舎出身で、今はここ、翔那群島佐渡ヶ谷島で家族4人と暮らしている。

 

 

 

瀧くんーーー

 

 

 

 

私の大切な旦那さんが私の実家のような、田舎や離島での街づくりをしたいと言ってここに引っ越してきてはや15年。

 

 

最初は戸惑ったけど、結局すぐに移住を納得した。

長女の海帆が3歳の時だったけど、田舎の美味しい空気や、何より人との繋がりの大切さを知っている三葉にとって、海帆にそういう経験をさせられるのは大きいと思った。

 

 

 

 

 

 

あの日、星が降った日。

 

 

 

 

 

 

 

私が高校3年生の時、とある彗星が私の地元に落ちたのだ。その時のことはよく覚えていない。思い出そうとしても靄がかかったみたいにいつもいつも阻まれてしまう。それでも、自分が走り回って村の人々を避難させようとしていたことだけは何となく覚えている。

 

その時に助けてくれたのはずっと一緒に生活してきた村の人たちだった。

 

死傷者は、ゼロ。

それは糸守自体が小さな村だったことが一番の理由かもしれない。

でも、だからこそ心底安堵した。

 

 

周りの人との関わりとか繋がりとかの大切さをその時初めて、これ以上ないくらいに実感したのだ。

 

 

だから、長女として、実家を継がず東京で働き出したあとも、あんな生活ができるのなら、と思ってここへきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彗星が降った当時のことを思い出せない、ということに関連しているのかはわからないけど、瀧くんとの間にはある思い出がある。

 

瀧くんとの出会いは、別々の電車で目が合って、なぜだかお互いに相手を探そうと思った、という自分で言っていてもわけのわからないものだった。

 

瀧くんを初めて見た時、なぜ彼に吸い寄せられるように目が離せなくなったのか。何で次の駅で電車を降りてまで探そうと思ったのか。何でいくつもの曲がり角を間違うことなく、あそこにたどり着けたのか。何で、瀧くんもあそこへ導かれていたのか。

 

 

それすらもはや曖昧な記憶の底だ。

それでも、大切な人だと見ただけでわかった。

 

 

なんでだろう。

 

 

 

 

<あんた、今、夢を見とるな?>

<忘れないようにさ、手に名前書いとこうぜ>

 

 

 

 

「あっ・・・。」

 

 

 

ズキン。

思い出そうとすると、突然頭が痛む。

 

昔の、瀧くんとの出会いのことを思い出そうとするといつも蘇る何か。

彼も同じように、何かが頭をよぎるらしい。三葉と瀧には、覚えていない何かがあるのではないか。

そんなことをずうっと考えている。

 

 

 

 

結婚してから、ずっとだった。

何か、大切なことを忘れている気がする。なのに、思い出せない。

 

 

 

 

「…ふう。」

 

 

 

 

いつも通り、頭の痛みはすぐに引いた。

うう、気になる。なんだろう…。

 

すると、携帯電話が鳴り出した。

 

 

 

「ん…。」

 

 

 

液晶に表示されたのは、久しぶりに見る文字だった。

 

 

「もしもし?」

 

「もしもし?お姉ちゃん?」

 

 

電話口から聞こえてきたのは珍しい声。

妹の四葉の声だった。

 

 

 

四葉は現在、実家の宮水神社を継いで、巫女となっている。

本来姉として自分が継ぐべきだったのだが、高校の時に突然四葉は自分が糸守神社を継ぐと言い始めた。そこから数年であっという間に巫女として糸守の神社を守っている。そういうところは姉として、申し訳なくもありがたく感じているのだけれど。

 

 

「なんや、四葉。今大丈夫なん?」

 

「うん、大丈夫。お姉ちゃん元気?」

 

「もちろん。」

 

「そう、それならいいけど。それより、お姉ちゃん。海帆ちゃん、東大目指してるんやろ?どんな感じなん?」

 

 

何だ、と思った。いや何だ、で済むような事態ではないのは確かなんだけれど、久々に電話してきたと思ったら世間話とは。

そ最近うちを騒がせる大ニュース。

 

 

娘の海帆は、誰に似たのかとんでもなく賢いのだ。

 

 

 

まさか、宮水の血筋から天下の東大志望が出るなんて思わなかった。

 

 

 

(私に似た、ということにしとこうかな。)

 

 

親としては、もちろんとても嬉しいんだけど…。

 

 

「そうなんよ。まあ、やっぱり大変みたいやけどなぁ。」

 

「めっちゃすごいなぁ。お姉ちゃん、ほんとに海帆ちゃんお姉ちゃんの子供やの?」

 

「当たり前さ!」

 

「うそやん。」

 

「そんなに、私頭悪くないよ?」

 

「まあ…そうかもしれんけど。それにしてもすごい遺伝子の上昇やな。瀧さん、すごい力持ってたんかな。」

 

 

…絶対自分だと信じたい。

瀧くんはボケかます時多いし。

 

この前庭の木を切ってて、切った木全部顔面で受け止めた時とか。

 

 

「うん。やっぱ私だ。」

 

「何で自分の手柄みたいにしようとしとるん・・・。まあ、それはついでなんだけど。」

 

「どうしたん?」

 

「もう一つは、今年の祭事のことなんやけど…」

 

「祭事?」

 

 

最近聞きなれない単語が出てきて聞き返した。

祭事といえばいつものアレのことでは・・・?

 

 

「なんなん、いつも通りやないん?」

 

「あれ?言ってなかったっけ?今年は特別。100年ごとにある、特別な儀式、糸送りの儀やよ。」

 

 

あ、そう言えば前にそんな話をしてたような気がする。

海帆の様子を見るので手一杯だったせいか、中々そっちに気が回ってなかった。

 

 

「そうやったね。それで?」

 

「うん。それで、儀式で使う口噛み酒なんやけど…もう1瓶、いるんよね。それも、糸守に住んでない人のやつ。」

 

「え…それって…」

 

「いや、お姉ちゃんのはええよ。もうおばさんだし。」

 

 

聞きたかったことを先回りされたのでムカついた。

さっきまでおばさんではないと散々断っておいたのを四葉は聞いていなかったのだろうか。冗談じゃない、まだ三葉は立派な女性なのである。

 

 

「バカにしんといて!」

 

「冗談やって。それで、できればな。忙しいのはわかるんやけど、海帆ちゃんにお願いできんかな、って。あとは私と娘のやつにするからさ。」

 

「海帆の・・・。」

 

 

そういうことね。・・・まあ、受験期とはいえ、そんなに時間を取る代物でもなし。まあそれくらいならいいだろう。

 

 

「んー、わかったわ。お願いしてみるね。」

 

「ごめんなぁ、本当に。でも、糸送りの儀は、すごく簡単に言えば、どこか別の場所の口噛み酒とうちらのをムスビで繋ぐみたいな趣旨のやつやから、佐渡ヶ谷のどっかに置いてくれればええんよ。」

 

「はいはーい。わかったよ。」

 

「ほんなら、よろしくね。あ、瀧さんにもよろしく!」

 

「はいはーい!」

 

 

そう言って、電話は切れた。

口噛み酒…

年頃の女の子に頼むのはほんとに申し訳ない。あれは自分も嫌だったわけだし。でも、今回は別に自分みたいに人前でやるわけでもない。まあ、多少は大丈夫だと思う。

 

 

「あ、こんな時間・・・。」

 

 

海帆が帰ってくるまでに、ご飯、作っとかなきゃな…

 

そう思い立って、三葉はキッチンへ向かった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

時刻は午後9時。すっかりと闇に沈んだ夜空だが、自分の周りはまるで昼のように煌々とした光に溢れている。

赤、青、黄色。まるでいくつもいくつも太陽が出たようなその光景。そんな東京の新宿の繁華街。そのど真ん中にあるのが、今通っている塾だった。そこから一歩歩みを進めれば、聞きなれた都会の喧騒が聞こえてくる。

 

 

 

花村京香。

 

 

 

通っている高校は私立味沢高校。

国内でもトップクラスの進学校だ。

 

 

 

そんな花村の成績は、自慢だけどそれはもう大変に良かった。

小さい頃から、勉強が好きでたまらなくて、コツコツとやってたらいつのまにかこんな成績が取れるようになってきていた。

 

 

そんな花村は新宿駅までの道のりをとある紙を見ながら歩いていた。

 

 

今日はこの前の全国模試の結果が返ってきたのだ。

 

 

結果は全国7位。

ぼちぼち、って感じだ。

 

 

 

(・・・帰って見直さないと。)

 

 

 

「おーい、花村さん!」

 

 

 

そんなことを考えていると、後ろから呼び止められた。振り向くと、見慣れた顔がある。

 

 

「原口くん、お疲れ様。」

 

 

開いているのかわからないくらい細い目にボサボサの頭。

同じ学校で塾も同じの原口尚人くんだった。

 

 

「おつかれっちー!花村さん、そんでそんで、どうだったよ!?」

 

「7位。そっちは?」

 

「カーッッ!9位!全く、さすがだね!」

 

「前回原口くん3位だったじゃん、どうしたのよ?」

 

「いやー!数学引っかかっちまってさ!」

 

 

ガハハ、と笑う原口。

髪の毛はこんな感じでボサボサで、とても陽気そうには見えないけれど、中身はとっても気さくな人だ。

 

そして彼は中学、高校と同じ学校に通っているけど、抜群に頭が良かった。それからずっと、花村ののライバル的存在の一人だ。

無論、全国水準の戦いである。

 

 

「まあ、次も私がもらうからね!」

 

「はは、負けんし!」

 

 

こういうライバルがいっぱいいるから、味沢で、そして塾での勉強はやめられない。

 

 

「ってか、俺が聞きたかったのそっちじゃないし!」

 

 

すると、そのままの笑顔で、でも今度はいたずらっぽく、原口が突っ込んできた。

 

 

「え?」

 

「ハリのことだよ!」

 

「えっ・・・。」

 

 

途端、自分の体温が一気に上がったのがわかった。

身体中から汗が出るような感覚がする。でもそれはきっと近づく夏のせいじゃない。だってクーラーがついてる部屋でもこんな汗が出ることが最近多くなった。

 

 

自覚してしまってからは彼の話題が出るだけですぐに体が熱くなってしまう。

 

 

原口がハリと呼ぶのは、間違いなく彼女の隣の席の針宮翔太。

花村京香の勉強漬けの灰色人生に初めて生まれた、想い人だった。

 

ーーーーーーーーーーーー

 

「そ、そっち!?」

 

「そう。ハリって愛称で呼びたいって言ってたじゃん!」

 

 

原口は花村が針宮を好きなことを知ってて、すぐからかってくる。

まあ針宮本人にバラさないくらいの常識はあるのだけれど、それでもこんな往来でそんな大きな声でそれを言う必要あるだろうか。

 

針宮は苗字の通り、印象としてはツンツンした、どこか冷めた子だ。学校行事があっても全然楽しそうにしない。まして、普通に生活をしていて彼から「楽しそう」っていう感覚を抱いたことすらない。実際針宮と一緒にいて楽しそうなのは原口くんくらいだし、クラスに友達もそう多くはないと思う。お喋りの輪にいてもどこかそこからは浮いているような、そんなどこか達観した人だった。

 

見た目もまあかっこいい部類には入るだろうけれど、かと言って別にモテモテになるようなかっこよさではないと思う。勿論普通の女子高生ではない花村にとっては、かっこいいとかそういうのはそれはちょっと理解できない次元の話ではあるんだけれど。

 

 

 

 

まあそんな彼を好きになるなんてのは少なくとも高一の花村だったら、テストで爆死することよりも信じられないことだった。

 

 

 

 

 

花村は一年の時からぶっちぎりでクラス一番だった。味沢で一番というのは即ち、そのまま全国でもトップクラスの実力であることを示している。そんな花村を隣の席の子は、いつでも褒めちぎった。

 

満更でもなかったっていうのに間違いはない。ただ小学校の時からガリ勉女子として仲が良かったとしても何となく雲の上の存在として見られていたから、はいはい、またか、なんて考えていた。

 

 

 

 

 

そて2年になって、初めて彼と会った。

新学期に入って隣に座ってきたのが目つきの悪い男の子ーーー。

針宮翔太だった。

 

 

 

 

 

正直に言おう、はじめはイライラすることもあった。彼の成績は芳しくない、いやこれも正直に言うけれど悪いの一言。

なのに、彼は塾とかには行ってないと言っていた。

 

 

 

 

何よりもイライラしたのは、そんな人が塾とかに行くとか、何の努力もすることなく、この学校に通って一緒に勉強をしていることだった。自分が、なんだか馬鹿みたいに思えたのだ。これまで真面目に、ただ真摯に勉強と向き合ってきた自負があったのに隣の席のやつの勉強の態度を見ていたら、そう言う姿勢を馬鹿にされているみたいだったから。

 

 

 

 

味沢の一番下のど底辺。

 

 

 

花村はそれを友人に言ったりするほど人間ができていないわけではないけれど、心の中のモヤモヤはずっと胸の中でくすぶっていた。とにかく悪い印象しかなかった。

 

 

そんな彼が、実は原口くんとずっと仲が良いのを知ってびっくりしたのだ。

 

 

<花村?>

 

<・・・何ですか?>

 

 

ある日の休み時間、突然花村に話しかけてきた針宮。

花村はといえば次の時間の小テストに向けて勉強していたから、話しかけんなって意味も込めてめんどくさそうな返事をした。

そんな花村の声に少しだけ肩を落とした針宮は手に持っていたノートを花村の机に置く。

 

 

<ナオ・・・原口尚人から。花村に渡してくれって言われたからさ。>

 

<あっ、貸してたノート・・・。>

 

<悪いな、勉強中に。>

 

<なんで針宮くんが?>

 

<ナオとは一緒に登下校してるから。>

 

<えっ・・・そうなんですか?>

 

 

 

それが信じられなかった。

 

 

<ハリ?うん、仲良いぜ?>

 

<そうなの?>

 

<おん。幼馴染だからね。>

 

<そ、そうなんだ・・・。>

 

<え、知らなかったん?そっか、そりゃびっくりするか。花村はハリの隣の席だろ?だからノート預けたんだけど、届かなかった?>

 

<ううん、届いたよ。>

 

<ハリの口から聞いてるもんだと思ってたわ。ごめんごめん、びっくりさせちまった。>

 

<だ、大丈夫・・・。(ハリって・・・)>

 

<あいつも何で言わねえんだか。ま、いいけどねー。>

 

 

なんで原口くんは成績があんなに低いくせに、勉強しないあんな彼と付き合えるのだろう。当時の花村には、少なくとも無理だった。

 

 

周りを見下しすような変なプライドが、当時の花村には強かった。

 

 

 

 

 

 

 

だから、ある日思い切って原口に聞いてみたのだ。

 

 

 

<あの、原口くん。なんで針宮くん、あんな成績悪いの?>

 

<へ?>

 

<だって悪いでしょ?しかもそんなんなのに、塾とかも行ってないみたいだし。危機感とかないのかなって。>

 

<あー…。>

 

 

だけど、彼の答えは予想外だった。

 

 

<あいつ、お母さん病気持ちだからな。>

 

<え?>

 

 

花村の人生に少なくとも初めて登場してきた文字列に、一瞬戸惑う。頭に浮かんできた針宮の横顔。

 

 

<……そうなの?>

 

<うん。お父さんも単身赴任してるし。負担かけたくないってバイトしてるしな。>

 

 

 

外にいたのに、あの病院の消毒液の匂いがした気がした。

 

 

 

家族に病気の人がいるーーー。

 

 

花村にとって、そんな世界は生きている中では存在しなかった。

いや、存在することくらいは知っていた。でも本当に自分にとって「存在した」のは初めてのことで。

 

 

病気の母を持つ高校生になんて当然に会ったことなかった。そんな人たちはドラマの中にしかいないって、心のどこかで思ってたのかもしれない。

 

 

花村京香の人生で、そんな人と出会うことはないだろうって。

 

 

 

だから、それを聞いた時、心底驚いた。

 

 

<でも、針宮くん、学校でそんなこと一言も…>

 

<だからだよ。>

 

 

原口はにっこりと笑った。

いつもの彼のガサツな笑い声とは程遠い、本当に優しい笑顔だった。

 

 

<だからあいつが好きなんだ。普通の人間なら、それを学校で言ったりして、心配して欲しがるかもしれないだろ?でも、あいつは特別扱いを望まない。自分に言い訳せず、でも実際それもあって成績が上がんなくて味沢に入ってずっと苦しい思いしてるはずなんだけどな。ただどんなに成績が悪くても、それを母親や境遇のせいにしない。またそれに悔しそうな顔したり、努力を見せたりしないからわかんないんだけどな。あ、勿論俺たちみたいにバンバン点とれる要領の良さとかはないけどね。

でも、あいつは必ず這い上がってくると思うんだよな。神様がいるなら報われると思うよ。だから、その時負けないように、俺はあいつの前に立ちたいんだよ。>

 

<・・・。>

 

<え、そんな変なこと言ったか?・・・でも、花村さんのこともよく聞くぜ?あいつ、前に言ってたし。隣に頭悪い奴がいて申し訳ないって。でも、こっちは迷惑かけないから、めちゃめちゃすげえ点取っててほしいって。それで俺は頑張れそうだって言ってたよ。だから、変に気を使わず、今まで通りやったげてよ。>

 

 

花村はうん、と言った。

別に彼の態度に納得いったわけじゃない。

彼の点数が高くないのは事実なわけだし、それでも彼はやっぱり勉強に前向きなようには見えなかったから。

それでも何でか、針宮翔太のために何かできないかを花村は考えていた。

 

 

だから、とりあえず彼に話しかけた。

 

 

 

<おはよう、針宮くん。>

 

<おはよう・・・へ?>

 

<どうしたの?>

 

<い、いや何でもない。>

 

 

 

めちゃめちゃ変な顔をされたけど気にしなかった。最初はずっと冷たい態度をとってたから、ちょっとした罪滅ぼしも入っていたかもしれない。

そこから何となく彼のことについて考えたりすることが多くなっていったように思う。

 

 

そこからはもう、思考が止まらなかった。罪滅ぼしとそれから花村が助けになれることと言ったら、彼にわかんないところを教えてあげることくらいしかない。

だから花村は声をかけると同時に、勉強を少しずつ教えてあげることにした。

国語から数学、全部の教科を。

要領も頭の容量もよくない彼に理解してもらうのは本当に本当にめんどくさいレベルでうまくいかないことだらけだったけれど、それでも続けた。

 

 

自分でも少しやりすぎかな、なんて思うくらいに干渉していた気がするけど。

 

 

ただそのたびに彼はその度に、ありがとうって言って笑うわけだ。正直針宮が笑うなんて見た事一回もなくて、本当にびっくりした。でも彼は、それはまあいい笑顔をする。細い目がますます細くなって、変化しない口角もつり上がる。

 

まあ何となくその顔がたまに見たくなったから、続けていた。

誰にも言い訳しない彼の力になりたい気持ちも消えなかった。

 

 

 

<・・・あれ?>

 

 

 

と、ふと思ったわけだ。

何でこんなに彼のことばかり考えているんだろう。

何で、どうしてこんなに彼の力になろうとか、勉強教えてあげようとか、そんなことをーーー。

 

 

<っ!?っっ!!??>

 

 

そんなわけないだろ馬鹿じゃないの、というセリフを二日間でゆうに1000回は唱え。それでも拭えぬ疑いを晴らそうと運動も得意ではないのに外を走りに行って目に入った定食屋に入ってなぜかご飯をドカ食いしてお腹を壊して寝込んでーーー。

 

 

結局、認めざるを得なくなった。

 

 

 

 

花村京香は針宮翔太が、実際好きになってしまっていた。

 

 

 

 

 

まさか、自分が勉強以外のもののことを考え始めるなんて。

自分でもびっくりしてしまった。

そしてそれを自覚した花村にできることといえば・・・。

 

 

 

<全く・・・もう少し頑張ってよね。>

 

<・・・ごめんって。>

 

 

正直いって、全くわからなかった。

当然だけれど、そんな感情を経験したことすらなかった花村。

どうも彼に冷たく当たってしまうのだ。照れ隠しってやつなのは自分でも何となくわかるのだけれど、そう考えると余計認めたくなくなってしまう。

 

 

自分の感情とうまく折り合いがつかないなんて馬鹿みたい。

でも、普通の人はこんな気持ちをどう処理しているんだろう…

こんなフェーズを乗り越えて世の一般女性は恋愛しているなんて。

あたりのカップルたちが神々しく見える。

 

 

 

 

「・・・ってわけで!花村さんは明日朝会ったら『ハリおはよう』っていえばいいわけ!」

 

「無理無理、無理だって!」

 

「そんなんじゃいつまでたっても進展ないから!」

 

「絶対に、無理!!!」

 

 

 

(明日になったら、少しはまともに話せるかな…)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

淡い明かりに照らされたエレベーターが音もなく止まると、間も無く重々しいドアが開く。エレベーターに乗っていたのは正味10秒ほど。そんな短時間に天空のこの空間までやってきて夜まで仕事をすると思うと、朝から少し憂鬱になった。でもそんなことも言っていられない。赤く光る25の文字を眺めながら、少しだけ自分に喝を入れる。エレベーターの扉が開くと、真っ先に飛び込んでくる「レフチュール」の赤い文字。

 

 

 

ここは、通信教育会社、レフチュールの採点を行っているオフィス階だ。

 

 

 

 

「おはようございます。」

 

 

 

受付の方に声をかけて、奥に見えるガラス張りの扉の奥へ向かう。

無駄に広々と引かれた緑のカーペットは、社長の趣味らしい。

 

 

ガラスでできたオフィスの扉の前で立ち止まる。

鏡のように目の前の扉に映る自分。

茶色の背広にネクタイ。

白髪混じりの頭が年齢を感じさせている。

 

 

五木宏太郎。51歳。

 

 

10年前に以前勤めていた塾をやめ、ここに転職した。

以後、高校生の答案を日夜採点する生活を送っている。

 

 

あれから10年、だいぶ自分も歳をとったな、と感じるが、もう少しは夢と希望に満ち溢れた高校生のために、教育の場で働いていようと思う。

 

 

そんなことを考えていると、突然扉が開いた。

 

 

「わっ!すいません。…って、五木さん。おはようございます。」

 

「あ、ああ。すまない。おはよう、白木くん。」

 

 

若々しく童顔。ぴっちりと締めたネクタイとは裏腹に社会人5年目とは思えない風格のなさが特徴的な男。彼は、となりのデスクで、新入社員の頃から、教育をしていたのだ。名前は、白木渓太くんである。

 

 

「どうしたんですか?」

 

「いや、何でもないんだ。さあ、今日もバリバリ仕事しよう。白木くんは何かあった?」

 

「いえ、ちょっとこいつを印刷するだけなんで。」

 

「そうかい。」

 

「はい。」

 

 

それだけ言うと、彼は印刷室へ向かっていった。

後ろ姿を見送りながら、今日も始まる1日に向け、改めて気合いを入れる。別に仕事が嫌なわけではないのだ。真面目に働かなくてはならない。それに、今オフィスに入って机に向かう間にも、せわしなく走る人もいなければ、声をあげる人もいない。早く来た職員さんたちはみんなデスクに座って、答案と向かい合っていた。

 

 

慌ただしくもない、のんびりした空間。私にとっては、最高の職場と言える。

 

 

デスクへ到着すると、早速パソコンを立ち上げてデジタル化された答案と向き合う。

今日は何枚いけるだろうか…。

 

のびをして、深呼吸。

 

 

「さて…」

 

 

まずは一番上の子から。

数学か…

 

お、と在学校を見て反応する。

味沢高校の子だ。

 

 

名前は針宮翔太、か。

 

 

味沢といえば言わずと知れたあの名門校。

そんな学校の子も取り組むほどこの会社も成長したってことか…。

私が入った時はベンチャー同然の大したことない会社だったのにな…

 

何でもないことに月日を感じてしまうのが、歳ということなのだろうか。

 

とりあえず、早速答えの冊子をパラパラとめくり、該当ページへ。

それと答案を見比べながら、採点していく。

画面に表示された答案と手元の冊子を見比べていく地道な作業。思えば、こんなに頭を使う仕事ってのも珍しいのではないかと思う。

 

 

 

さて、味沢の子がどれだけこれについてこれるかだけど、これは…

 

 

 

「うーん、なかなかだな…」

 

 

 

なかなかに……

 

厳しい。

 

 

何年も受験業界にいると、答案を見ただけで何となくその子のレベルがわかる。確かに、味沢にいる子というだけはある。できてるところはよくできてるし、特にここでちゃんと図形を書いて処理しようとしてるのはまあさすがは味沢ってところだ。

 

 

だけど、彼が目指しているのは天下の東大文科一類である。

図形を書いたくらいでこれが解けるなら苦労はしないわけで。

彼のレベルだと、少々苦しいかもな…

 

 

特に、ここの証明問題。この方面で進むのは、基礎が割とできているけど反映されない珍しいパターン。

 

早いとこ矯正してあげた方がいい。こういうタイプの子は、視点さえ変われば一気に変わる。内容どうこうより、何を見るのか。何ができていなくて、何をすれば伸びるのか。それを考えた方がいい。

 

しかし、この証明は…独創的ではあるな。

鳩の巣原理にいったのか。

 

 

 

・・・確かに、できなくはないけど。

逆に混乱してる。

 

 

まあでもこっち方向にぶっ飛んでるならいくらでも後で矯正が効く。思考を複雑にするよりは単純にする方が簡単だろう。

 

 

(さて、終わりかな・・・ん?)

 

 

しかし、その問題の採点が終わったところで、ふと手が止まった。

 

 

(…………?)

 

 

「どうしました、五木さん?」

 

 

いつの間にかとなりのデスクに戻って来ていた白木くんが声をかけてきた。

 

 

「い、いや…?」

 

「帰ってきたら五木さんが眺めてたんで。仕あがった答案見直して、どうしたんです?次に進めばいいのに。」

 

「うーん、なんか、ね。うん、でもまあいいや。何でもないよ、すまないね。」

 

 

そのまま次の答案に移った。次は世界史。この答案も、全体的な感想は同じだった。基礎はある。味沢の子らしい、きっちりした学び方が見て取れる。

 

だが、足りない。それだけでは届かない。あとは彼が気がつくか、だけど…

 

さっきの違和感を思い出す。この解答からは何も感じない。

気のせいだったろうか。

いや、気のせいに決まっているはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーこの答案には、見覚えがある、なんて

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