私は私だが、決して私ではない。
その言葉の意味を、最近の私は失念している。
皆の評する私は、ドール。私の評する私は、人形。ならば私には私の意志などないはず。感情だってないはず。
この言葉は自己確認に過ぎない、自分が何物であるのかを理解する以外に用途はない。
それなのに、私はこの言葉を口にすることが多くなった。自室だけではない、鏡の前だけでない、事あるごとに口にする。
だってそれが私であり、それに疑問を持ってしまったら終わりだから。
忘れていただけなんだ、失念していただけなんだ。決して、本当にそうかな、なんて思ったりしていない。
だって――
――だってそれを認めてしまったら、私はこの言葉に耐えられなくなってしまうから。
L.S.R. ~理~
寒い冬、バリアジャケットは防寒にも適しているが、基本的に戦闘行為をしない人間はその恩恵に与れない。
とはいえ基本的に局内で活動する私はそれなりに落ち着いた空間に居座っているのでそもそもその必要がないのだが、外に行っては、の繰り返しをする人間にとっては厳しい季節だろう。
「ふー」
何とはなしに白くなる息を見つめる。気分転換なんていうほど深い意味はないけれど、いつまでも局内にいてもあらぬ噂を立てられるばかり。ならばと定期的に外に出ては今までの査察を見つめなおす。
頭の回転が決して早くない私は、どうして得た情報を反芻し考えなければ筋道を立てられない。だから私は査察官としての能力は高くない、ただ魔力変換資質と思考の読めない様子によって配属されたに過ぎないのだ。
「これから、どうしようかな……」
漠然と思い呆然と時を過ごした反動か、今まで考えたことのない呟きが虚空に消えた。
これから、なんて期待を持てるような言葉は似つかわしくないのに、最近どうしてもそんな言葉が止められない。契機はやはり、あの二人との会話なのだろう。
「高町なのは、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン……」
二人の名前を口にすると、なんだか胸が熱くなった。痛みすら、その熱に紛れてしまうかのように。
あの時、私は自分に感情があることを認めてしまった。それが胸の痛みを引き起こすものだとも、闇の書の完成に起因するものなのだとも。それを自覚して尚、私は今までの自分をやりきろうとしているのだから無理がある。人形は感情を持たないのに、感情がある私が人形でい続けるなんて不可能だ。
一度わかってしまえばもう、幾億の行為にそれは付きまとってしまう。それまで何も思わなかった全てに対し、胸のうちが震えてしまう。
ドクンと心臓が瞬いた、こんな思考すら最早スイッチである。
胸に手を当てると心臓が聞こえる。それが生きている証拠なのに、私はそれを理解しようとは思わなかったのに――
「後、数日……」
「何が?」
「タイムリミットです」
「何の?」
「……今の仕事の、です――――高町二尉、最近特にですが、会うことが増えましたね」
「あはは、会いに来てるんだから当然だよ」
立っているなのはと、ベンチに座っている私。身長にも差はあるが、きっと、今くらいの距離感が正しいのだろう。
近づきすぎればイカロスのように翼は溶ける。それに気づくのが遅すぎた。
よっ、と隣に腰掛けるなのはに対し、少しだけ離れる。すると途端に頬を膨らませた。
「なぁにそれ」
「座りやすいかと思いまして」
「いらない気遣いだよ、それは」
なのはが離れた分以上に距離を詰める。冷たい空気の中人肌の温もりが近づいた。なのはは上着を羽織り、小動物のように身を縮込ませた。
「雪那ちゃん、寒くないの?」
「身体が火照っているのでちょうどいいくらいかと」
「風邪でもひいた?」
「体調管理は万全です。二尉は休憩ですか?」
「そうだよ、仕事中に来ると雪那ちゃん怒るでしょ?」
「当たり前です」
言い切るとふにゃっとした笑みを返された。どこにそんな要素があったのかわからない。
なのはは足をぶらぶらとさせ、天を見た。ミッドチルダの空は地球と違う。どこがなんて言えないけれど実際に比較した私はそう思った。
「どこの空も一緒だね」
なのははそうは思っていない、そこが私との違いだった。
「空戦魔導師にとってはいろいろな条件面で同じ空はないと思うけど、それでもこうして見上げる天空は全部一緒だ」
「…………」
「私たちが守っていく人たちを見下ろしている、見守っている空だね」
「……私は、そうは思えません」
ずきりと闇の書が疼く。構わない。なのははこちらを見て何も言わない。視線を逸らし、続けた。
「同じ空なんてありません。同じ世界に生きていても、感じる世界は違いすぎる。私が見る空と二尉が見る空は、同じようで、絶対に違う……」
「それでいいんじゃないかな」
「…………」
「雪那ちゃんと私は違うから、感じることも全然違う。心を読んだり感覚を共有したりしない限り、他人がどんな気持ちを抱いているかなんてわからないよ。私だって経験ある。でも、それを限りなく近づけようとすることはできる。近いんだって信じることはできる。人と人とのあれこれも、全部これとおんなじだと思うの」
ああ、やっぱり。
「…………れは、あなたが強いから」
「ん?」
立ち上がる。立ち塞がるように、正面からなのはを見た。白い息は闇のように、私と彼女を曇らせる。
こんなに心情はさざめいているのに、魔力で打ち消される私の心は表情には決して表れない。
「――それはあなたが強いだけです、高町なのは二等空尉」
「…………」
「誰もがあなたのように強く在れるわけではありません。あなたの志を、理想を、思いを理解できるわけではありません。立派なこと、きっと限りなく正論で、誰もが寄りかかってしまうような綺麗な言葉――――でもそれは、私には夢物語だ」
「雪那ちゃん……」
「私には無理だ、他人を信じるなんてできない、私は人形で他は人間だ。あなたは心に入りやすくて、つい頼ってしまいそうになる。心を委ねてしまいそうになる。でもそれは、私が私でなくなることを否定してしまう。そうなったら、私は――――」
言葉に詰まり、唇を噛み締める。
何を言っているんだ、私は。こんなに声を出して、自分の意志を言葉にするなんて。
そんなことしたら、私は彼女に――
「――――っ、失礼、しました」
背を向ける。向かい風が立ち、少しふらついた。
「雪那ちゃんっ!」
それでも駆け寄るなのはを制し、歩みを止めない。乾いた地面が物悲しく音を立て、それは心の乾きを思わせるようだった。
乾き、水に飢えている。
「私は! 友達なんだよっ!?」
風に流されたなのはの声は、私には届かなかった。聞こえなかったんだから、気にする必要なんかない。
地鳴りのような痺れと痛みが全身を包んでいる。いつの間にか空を飛んでいるかのような錯覚。視界が揺れ、世界が歪む。それでも意地で、なのはの視界から消えるまでは平静を保ち続けた。
だと言うのに――
「あ、セツナ」
「――ハラオウン、執務官」
余裕はあまりないのに、今一番会いたくない人と出会ってしまった。幸いなのは書類を抱えた彼女は仕事中だということくらいか。
魔力で消える感情は痛みに苦しむ私を外に知らせないでくれる、それだけが救いだ。
「今戻るところ?」
「はい、執務官は忙しそうですね」
「あ、うん。ちょっと長期の任務に入りそうなんだ。だから暫くは会えない」
ごめんね、と笑う。謝る必要なんて何もないのに、どうしてこの人は謝るの?
思った矢先、フェイトさんは首を傾げ、言った。
「だってセツナ、調子悪いでしょう?」
「――――――――――――え」
「もし何かあった時に私は力になれないから、だからごめん」
「……どうし、て」
「どうしてって……魔力運用がうまくいってないこと、気づいてないの?」
セツナ。今、少し嗤ってるよ――?
* * *
ずっと思っていたことがある。それは同じ地球出身の彼女のことだ。
彼女は明るくて、優しくて、才能に満ち溢れている。いつも穏やかに笑っていて、それでも犯罪者に対しては烈火のごとく接する。
と思えば、事情が理解できると救いの手を差し伸べようとする。本当は争うことをとても嫌がっている、あの子。
高町なのはは突出した才能と功績によって正しく階級を上げていき、正等に同世代の憧れになった。
あの子が差し出してくれた救いの手を、私は一度受け取った。その時は何も思わなかったけど、たぶんその時から、私の中にあった架空の彼女は現実に現れたのだと思う。
ずっと思っていたことがある。それは同じ地球に住んでいた彼女のことだ。
彼女は物静かで、礼儀正しくて、才能に満ち溢れている。いつも相手を気遣って、それでも引っ張らなければならないときには迅速に行動する。
と思えば、日常では些細なことに抜けていたりする。本当は平和をただ望んでいる、あの人。
フェイト・T・ハラオウンは才能と運命の出会いによって正しく歩いていき、正等に同世代の憧れになった。
あの人が差し出してくれた救いの手を、私は一度受け取った。その時は何も思わなかったけれど、たぶんその時から、私の中にあった架空の彼女は現実に現れたのだと思う。
「そんなこと、望んでいなかったのに」
現実に現れた二人は事あるごとに私の前にやってきて、そして私をかき回していく。人形だと忌み嫌うその他大勢を無視し、注意し、そして私を気遣ってくれる。
ケビン二左は私に管理局という居場所を与え、二人はその居場所の中に穏やかな時間を作ろうとしてくれている。
彼女らに他意はない。自分の気の向くままに振舞っているのだろう。それが結果的に他者を救ってきたことを、彼女らは本能的に察しているのだ。
決して自覚することのない善意に似た慈愛の精神は、尊敬や崇拝を勝ち取っていくのだろう。そして、殻に篭った哀れな雛さえも外界に連れ出してくれるのだ。
「雛にとって、何が幸福か知らぬままに」
二左に通信で早退を報告し、自室に篭る。布団を被り情報を閉じ、思考回路を破裂させんばかりに自問自答を繰り返す。
しかし行き着く先は、友達と言ってくれた彼女ら。その事実が胸を痛めつけ、封印された闇の書の覚醒を促進する。
「ぐ……っ、は、ぁ……」
吐息が洩れる。無表情に痛がる。
感情相殺は私の意志では止まらない。それこそ魔力切れでも起こさない限りは永遠だ。いや、仮に魔力をなくしても、今まで積み重ねられた動きで表情筋は凍りつくだろう。
私には喜怒哀楽なんてないんだ。だって私は、人形だから。
セツナ。今、少し嗤ってるよ――?
「違う……」
笑ってなんかいない。感情なんて、ない。
「なんて、矛盾……」
破綻している。この間認めたことすら否定しないと意識が保てないのか。それほどにまで、私という私でない私は崩壊してしまっているのか。それの何が原因かなんてわかりきったことだ。
「あの、二人が……っ」
アノフタリガイナケレバ――
「雪那、いるんだろ?」
ノックとともに声が響いた。布団を覆いかぶさっているにも関わらず聞こえる意志の強そうな声。間違いなくキリシマ・イッセイの声。
「コーンポタージュがあるんだが、いらないか?」
いらない、と答えてしまってはダメだ。まだ彼は私がいることを確信していないはず。ならばここは居留守が正解。
彼には今、会いたくない。
「会いたくない、か……」
なんて無様。
それは会うのが嫌だという意思表示。不愉快になるという感情の起伏。それはつまり、認めているのと同じ。
だからほら、闇の書はこんなにも元気に私に激痛を送り込む。
丸まって痛みに耐える。声を出さないのではなく出せない状態、これで私は免罪符を得た。答えられないのは痛いからであって、嫌なわけじゃない。
……本当に、往生際が悪いことだ。
「冷めちゃうぞ?」
「…………」
「俺がここで飲んだらとんだ変態になる、それを免れるためには中に入るしかない。頼むよ」
「…………」
「ロイヤルミルクティーもある。そうなると俺はこの二本を飲まないといけないんだが、それだとトイレが近くなる。助けてくれ」
「…………」
「任務に支障が――――そうなるとまた雪那に増援要請が行くかもしれない。それは査察官としてどうなんだ?」
「……君が戻ればいい。簡単でしょう」
あからさまにホッとしたような声が聞こえた。やはり確信はなかったらしい。
「雪那っ、コンポタあるぞ!」
「いらないわ」
「ミルクティーもある!」
「いらない」
「俺がいるぞ!」
「――――――」
「黙ったな、俺の勝ちだ!」
何の勝負をしていたのだろう。しかしこの表現できない感覚はなんだろうか。だが、闇の書は確かに反応し、疼いた。
「雪那、そのままでいい、聞いてくれ」
「今度は報酬はなし?」
「俺がいるんだ、勘弁してくれ」
少し困ったように彼は言った。どこかのメロドラマみたいだ、と思う。
上半身を起こし、布団に包まって待つ。何故そうしたのかはわからなかった。
「――お前は馬鹿野郎だ」
うん、知っている。
「そんな最高の魔法を持っているのに、それを最低な結果にしか使えない。強要されて、それを甘んじて受け入れる。そんな馬鹿野郎が、一刃雪那だ」
うん、わかっているわ。
「だからそんな馬鹿野郎には誰かがついてなきゃだめなんだ。自分には何もないなんて決め付けてる馬鹿野郎には、それは違うって言ってやる誰かがいなきゃダメなんだ」
……ん、そうかもしれないね。
「それが俺でなくていい。高町二尉でも、ハラオウン執務官でも、ケビン二左でもいいさ。だからさ、雪那――――誰でもいいから、お前を思ってくれる誰かのたった一人でいい。お前の胸のうちを話してくれよ」
声は平坦で、でも彼は泣いているのかもしれないと、そう思った。それはまるで今までの私に似た声だったから。
顔が見えない、表情が見えない中で、ただ言葉だけが雄弁だった。
「……一つ、聞いていい?」
「ああ、なんだ?」
どうして――
「どうして君は、私にそこまで拘るの?」
ずっと不思議に思っていた。同期だから、なんて当たり前の言葉では括れないほどに、キリシマは私に関わってきた。
同期のほぼ全員が離れていく中で、ただ一人彼だけが離れなかった理由。それは聞いてみたかった。
ふう、と。一つ吐息が洩れた。
熱を帯びた音は覚悟もまた帯びていた。
今まで言わなかったけどな、と前置き。
「――俺は、ずっとお前の魔法が欲しかったんだ」
「…………」
「魔力を感情に変換することができるレアスキル――いや魔力変換資質だからスキルレアかな――は、俺の理想だったんだ。そんな資質があればなぁと思い続けてきたんだ」
まるで懺悔のように、言葉は響いた。
「夢だった。みんなのヒーローになりたくて、みんなに勇気を与えられる存在になりたくて。でも現実はそううまくいかない。大した才能もない俺は武装隊の一人でしかない。なんの特別も持たない俺がたくさんの人に勇気を与えるなんてできない。俺は平等な世界で英雄にはなれないんだ…………でも、隣にはいたんだ」
キリシマは泣いている。そう確信した。
「無表情で無感動で必要以上に話もしない、そんな人形みたいな奴が俺の理想を持っていた。悔しいじゃないか、俺が願っても手に入らない才能を持っている奴。でもそんな彼女は決して嬉しそうじゃなかった。勇気とか希望とか幸福とか、そんなものを知りませんみたいな顔をいつもしてた。陰口叩かれても見向きもしない、そんな不変の彼女。だから俺は、賭けをしたんだ」
自分だけの賭けな、とキリシマは付け足した。そこは譲れない部分なのか、私を気にしただけなのか。たぶん両方だろう。
「――あの子に勇気を、希望を、幸福を与えることができれば、彼女が救うたくさんの人の影の英雄になれるんじゃないかって」
そんな他人任せの正義の味方、それが俺だよ。そう言った。
「軽蔑したか? 俺はお前のためじゃなくて俺自身のためにやってたんだ。失敗した結果がこれだ」
侮蔑の笑いを浮かべたキリシマはただ立ち尽くしている。きっと彼の中で後悔の念が渦巻いているのだろう。だがそれはただの勘違いだ。彼は自分の性根に負けただけで、原初の思いには負けていないのだから。
「――キリシマ、君は一つ勘違いしてる」
「…………」
「別に私は君を軽蔑したりしないし、そもそも賭けの結果は出ていない。言ってしまえば、私が生きているうちは結果なんて出ないんでしょう?」
「それは違うよ、雪那。この話をした時点で俺は賭けを放棄したんだ、だから俺は負けたんだよ」
「はぁ……」
痛い、痛みで意識が飛びそうだ。だのに私はゆっくりと立って、扉に向かっている。人形にはできないことをしようとしている。
キリシマは自分の行動がどれほどの影響を持つのかわかっていない。だから無鉄砲に生きていける。今回のこれも、前の二人の言葉が積み重なったとは言っても、やはり引き金を引いてしまったのは彼の言葉なのだ。
だから私は、彼に褒美をあげてもいいと思った。もう時間がない中で、私にできる唯一の感謝状。
警告が思考を塗り潰し、それでも私は、扉を開け放った。
「涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。コンポタも温い」
「……うっせ」
でもそれが、少しだけ羨ましい気がする。
「二日待って。それで全てわかる」
「……なんでだよ」
「――私はもってそれくらいだから」
私はうまく笑えていたのだろうか。いや、きっと笑えていなかっただろう。
魔力を使って表情を変えても、身体はそんな風に作られていないのだから。
そんな風に、生きてこなかったのだから。
不定期更新、略して不信。