「そろそろかな」
ポニーテールをほどき、彼女は再びツーテールに戻す。それを見届けた彼女もまた、眼鏡を外した。
「いいんですか?」
「何が?」
「髪型戻して」
いいの、と笑う。そこには侵してはならない領域のような感情が見えている。眼鏡を片手に彼女はそれをじっと見ていた。
「永い時間、本当にありがとね」
「確かに長かったとは思いますけど、でもあっという間でした。会うまではこんな自覚なかったから」
「私もそうだよ。本当に、ただの幼馴染として生きてきた。でもそれももう終わり……もう、先に進むべきなんだよ」
傍から見ればちぐはぐだ。先輩であるはずの彼女は敬語で接し、後輩であるはずの少女は大人びた態度で接する。
精神年齢は同じくらいだが、そこには両者にしかわからない明確な差異が存在していた。
最後に、本当にいいんですかと問うた。うん、いいのと返答した。
だから彼女は眼鏡を捨て去り、決意を固めた少女に背を向けた。
「じゃあお先に――――吉報は後で聞きますから」
「うん――――安心して、絶対に大丈夫だから」
L.S.R. ~空~
不思議な感覚だった。最近はいつの間にか寝ていることが多くて記憶が飛びやすい。しかしその間に、前の雪那の時の記憶がぶり返しているような気がする。
最初にリリカルなのはを見た際その情報量の多さにパンクしたが、今思えばそれは最低限の記憶でしかなかったのだろう。段々と、雪那の記憶が斉木雄一郎の人格に刷り込まれている感覚だ。
別人ではなく同一人物、しかし確実に別人格。それを統合しようというのだから、まぁふんわりと漂うような危険な感じになるのは仕方のないことだろう。
不意に気絶するのもきっとそこらへんを整理している最中に他を忘れるからに違いない。
「しかし、私は2期のアニメ見たんだっけか」
さっぱり思い出せない。記憶から察するに雪那は闇の書を誰にも知られていなかったみたいだが、アニメの闇の書は早々に存在を露呈している。まぁ主はわかっていないんだけれど。
それは尺とかの問題なのだろうか、フィクションとの差は考慮しなければなるまい。
***
「ああ、いたいた。さいゆー」
「……こうして飛ぶのも慣れたものだ」
と思った矢先、やはり気がついたら大学構内にいるという。そして向かいから歩いてくる伊西は俺を探していたらしい。
普段の丸眼鏡も、教示する立場の時の黒縁もつけていない。それは初めて見る伊西の姿だった。
「イメチェン?」
「ああ、違うよ。いやでもそうかもね」
「……なんだか変だね。いや、普段がまともだなんて言う気はないけど」
「それは貶していると受け取っていいね!?」
「そんなに大きな声出さないでよ、寝起きなんだ」
普通に歩いていた奴が何を、とぶつぶつ呟く伊西に笑いがこみ上げてきた。
正直慣れたというのは半分が強がりだ。わけのわからない前世、普通の人間ならとっくの昔に思考放棄して日常に戻るというのに、私は人格までも影響されてきている。
それで平静を保つなんて無理な話だが、何かして気絶すると、必ず起きた時には誰かがいてくれた。そしてその大半が彼女、私は彼女に感謝してもしきれない。
「さいゆー、大丈夫?」
心配するような声色に笑って返す。この問題は私だけの問題だけれど、それでいいと思う。
斉木雄一郎が生きているこの世界は確かにあるんだ。だから私も――俺も、頑張って共存していけばいい。
時間はかかるかもしれないけれど、時折女言葉が出てしまうかもしれないけれど、とりあえず離れない友人がいるならやっていけるだろう。
「伊西、俺お前の名前知らないや」
「……酷くない?」
「いや、真面目にごめん」
考えてみれば不思議な話だ。知り合ってもうすぐ一年、最も話したであろうこの人物の名前を知らないとは。
まぁ苗字すら知らない奴に誘われるくらいだし、今までの俺の社交性を高く見ちゃいけない。
そう自己完結して改めて伊西を見る。
かわいくはない、スタイルはお世辞にもいいとは言えない、オタク趣味だ。それでも一番長く関わっただろう彼女は、申し訳なさそうな顔をしていた。
「――悪いね、意地悪した。さいゆーは全然酷くないさ、むしろ今聞いてくれて嬉しい」
「……前に聞いたことあるっけ?」
ゼミでも一緒だが、生憎苗字しか聞いた覚えがない。
彼女はふるふると首を振った。仕方ないんだよ、と言った。
「私の名前はキーワードだから、さいゆーは覚えていることができなかったんだよ」
「は……?」
「本田さん――後輩ちゃんが言っていたでしょ。私のこと、トウコーって。伊西トウコー……これは苗字と名前で読み方が違うんだ、更に言えば、トウコーだって漢字に直して別の読み方をするっていう若干捻くれたもの」
私が考えたんじゃないぞ、と注意される。しかし、何を言っているのかわからない。困惑を察したのか、察するつもりはなく進める予定だったのか、伊西は徐にメモ帳を取り出した。『伊西』と書き、その隣に『イセイ』と書いた。『トウコー』と書き、『桐縞』と書いた。最後にその漢字の上に『キリシマ』と――
「――――――――――――――――――――――え」
「キリシマ・イッセイ。それが私の――俺の名前だよ、斉木雄一郎。そろそろ起きてもいいんじゃないか?」
気がつくと、世界は暗闇に飲まれていた。
足場すら不確か、光もなく、見えているのは眼前の人間のみ。真実ブラックホールに飲み込まれたかのようにぐるぐると渦巻いていく認識は、しかし彼女の姿をゆっくりと過去の彼の姿に変えていった。
「キリ、シマ……」
「お、戻ってる。やっぱりこの世界はお前の都合で変わるみたいだな、雪那」
だからこそまだなんだ、とキリシマは呟いた。
栗色の髪、長身痩躯、武装局の制服を着こなす優男。間違いなく記憶の中にあるキリシマ・イッセイ。一刃雪那に絡んでいた非才の魔導師。
「な、んで……」
「なんで、か……お前はまだそこを思い出していないんだな。まぁ、そこまで思い出す前に行動したんだからそうじゃなきゃダメだけども」
「言ってる意味がわからない、なんでキリシマがここにいるんだ。伊西はどこに言ったんだ……」
「現実を見ろよな。伊西なんて女はいないぜ、俺だったんだからな」
「だからっ! 何なんだって言ってるだろっ!?」
頭が真っ白で怒鳴り散らすことしかできない。伊西がキリシマで、私はじゃあ何だっていうんだ。大学は、町はどうなったんだ!
キリシマは両手をポケットにつっこみ肩を竦めた。似合わない仕草だった。
「それを話すのは俺じゃない。ただこのままだとお前も気持ち悪いだろうからな、簡単に言ってやるよ――――魔法少女リリカルなのはってアニメを見ただろ? ここはその世界だよ」
「え……」
「厳密に言うと違うんだが、今いるこの暗闇は、魔法が存在し魔導師がいて管理局がある世界だ。高町なのはもフェイト・テスタロッサ・ハラオウンもキリシマ・イッセイも――一刃雪那もいる、な……」
「え、だってそれは私の前世の話で……なのはだって私が殺して、私も死んで――」
「俺は前に言ったぞ、死んでないって」
『死んだ、の……?』
『生きてるよー何言ってるさ』
それはつまり、一刃雪那が死んだというのは私の勘違いで、彼女はまだ生きていて――
「ふぅ……」
キリシマは人心地着くようにゆっくりと息を吐いた。暗闇の中、吐息が白く見える。
ここは寒い、寒い闇夜。
天は高く遠く、決して見えない。
「雪那、俺はもうすぐいなくなる」
微笑したキリシマはそう言った。
「なんで、なんて聞くなよ? もう大体わかっているんだろ?」
「……わた、私……は――」
「ここからは俺の仕事じゃないんだ。いや、役目、かな……義務感でやったわけじゃないし。ただまぁこれだけは言っとこうか」
聞きたくない。本気でそう思った。耳を塞いでも聞こえてしまうとわかっていても、そうせざるを得なかった。
そんな私を無意にして、キリシマは言った。
――お前が望んだ日常なんて、これっぽっちも存在しないんだよ。
そして、闇に溶けるように消えていった。残されたのは私と、その侮蔑のような一言だけ。
「あ、あああああ、あああああああああああああああああああああっ!!」
その言葉を消したくて大声を上げたのか、何もできない自分が嫌で抵抗したかっただけなのか、喉が張り裂けんばかりに叫び続ける。それは鼓膜を刺激し脳が痛くなったけれど、本当にやり遂げたかった結果には繋がらなかった。
呼吸が乱れ、喉から血が出たような感覚を求めたわけではない。ただ塗り潰したかっただけなのに。
ただ私は、現実から目を背けたかっただけなのに――
「正解。よくわかってるじゃない」
「――――」
こつ、こつ、とヒールが床を叩く音が聞こえる。
それは彼方の闇からゆっくりと現れて、足が、腰が、胸が、そして頭が浮き出てきた。
後輩ちゃん、でもいつもの制服ではない。それは、一刃雪那が見知った、時空管理局の制服で――
「もうわかるよね、雪那ちゃん」
「……………っ」
震える身体は拒絶反応に近い。目の前の彼女は斉木雄一郎の知る彼女ではなく、間違いなく一刃雪那の知る彼女。
私が憧れ、私が望み、私が怯え、私が殺した少女――
「なのは…………」
――そして、高町なのはは私の前に現れた。一刃雪那の記憶が再構築された。
* * *
「んー、久しぶりに自分の身体って感じ」
背伸びをしたなのははふうと息を吐き、両手を背中に隠して首を傾げた。
「どこか不思議? 雪那ちゃん?」
不思議、か。そんなものはそうだな、大体なくなったかもしれない。でも疑問はあるかもしれない。
「……そうね、記憶は――大体戻ったわ。だから君がここにいるのも理解できなくもない」
「そう、良かった。私としても結構な時間を過ごしたから、ここで一から説明っていうのも偉そうだし、億劫だしね」
「……やっぱり、なのは、結構言うね」
ふにゃっと笑う彼女は正真正銘私の知る高町なのはである。
そして彼女がずけずけと物を言う場合、それなりの理由があることも知っている。例えば、友人に大事なことを忘れられた場合、とか。
「後輩ちゃんってなのはだったんだ」
「そうだよ。小さい頃から知っている幼馴染っていう関係だったけど、小さい頃は私が高町なのはだって記憶はなかったなぁ」
「へぇ」
てっきり始めから知っているのかと思ったら、案外そうでもないらしい。
「自分が高町なのはだって気づいたのは二年前だよ。ちょうどトウコーさん――イッセイ君に会った時だね。その時に二人して思い出したんだよ」
曰く、本来なら出会うはずのなかった二人が出会ったことで失われていた記憶が復活、じゃあ今後について計画を練ろうということだそうだ。二人が何か企んでいるようだったのはそのことだったというわけである。
「私にいろいろ思い出させようとしていたってことでいいの?」
「そうだよ。この世界は雪那ちゃんの望んだ世界だからね、雪那ちゃんじゃないゆう君に、雪那ちゃんを認識してもらわないといけなかったんだ」
大変だったよ、となのはは笑うが、正直私が反応できることなど何もない。
記憶が鮮明に蘇ったことで、私はまた彼女に対し多大な後ろめたさと少しの恐怖を感じている。
「魔法少女リリカルなのはっていうのはイッセイ君が勝手に決めたタイトルでね、私の記憶を元に映像化したものなんだ。すごくいい出来だったでしょ?」
「そうね、私が一気にぶり返すくらいにはすごい出来だったわ」
「結構悩んだんだよ? どうやって雪那ちゃんを思い出してもらおうか、いっそのこと二人で話しに行こうなんてことも考えた」
その場合、私は絶対に思い出すことはしないだろう。姿かたちがなのはとキリシマでない人間の話なんて見向きもしない自信があるし、私が思うとおりなら、その時点で二人の計画は頓挫しているはずだから。
「そう、最大の懸念材料は雪那ちゃん自身。雪那ちゃんが自分を思い出さず、斉木雄一郎としての自分を優先した場合――私たちの記憶も消し飛んでいたはず」
ま、私は大丈夫だってわかってたけどね。そう言ってなのはは舌を出した。
「……わからないわ。なのは、どうして君はそこまで私を信用したの?」
誰のせいでこんなことになっているのか考えれば私を信用するなんて結論は間違っても出ない。だというのに彼女はキリシマと結託してここまでのことをやってのけた。
記憶の消去というリスクは即ち自身の完全消滅であるのに、それを不確定な私という存在に賭けてしまう危うさ。それはただのやけっぱちである。
しかし、高町なのはは目を逸らさず、真っ直ぐに私を見て――
「友達だもん、信じるよ」
そう、当たり前のように言ってのけた。
「…………」
「信じるよ、信じてみせるよ。だって雪那ちゃん、この状況を自分のせいだなんて思っているみたいだけど、違うんだもの。雪那ちゃんが自分の思う人形でいたなら起きなかったことかもしれない、私がいなかったら起きなかったことかもしれない」
「…………」
「でも、それって幸せなことだよ。雪那ちゃんにこんなに思ってもらってたって証拠だもの。思いの強さがこの世界を作ったんだとしたら、私はむしろありがとうって言いたいよ」
だからね、となのはは手を差し出した。綺麗な手だった。
前と同じ、縋りつきたくなる手だった。
「夢から醒めよう。闇の書の作る夢は、雪那ちゃんの居場所なんかじゃないよ――」
私は私である。