雅緋と邪悪、二人の間に数メートルの距離が空いている。それだけでもチリチリとした殺気と敵意が周りの空気を冷えつかせていく。
先程の衝撃により崩れた瓦礫が邪悪の周りに降り注ぐ。それでも身動ぎ一つもせずに、彼は瓦礫の雨を真に受けた。
しかし雅緋は顔色を変えない。むしろ気を引き締めて、瓦礫の山を見ている。
「────不愉快、だ」
歪みきった声が、差し向けられる。
粘着質な怨念が実体を持ったように彼の声音と重なっていく。今まで殺されてきた仲間たち、ホムンクルスの呪詛を受けたみたいな暗黒が広がる。
「過去を乗り越える?明日を掴む?………馬鹿らしい、そんな言葉が何になる。誰がそれを理解する?所詮は戯れ事だ」
一つずつ響く言葉、それに呼応するように何かが聞こえてくる。…………何かを喰らうような生々しい音が。
「俺はあの日、『イブ』の死を悲しめなかったあの日から、全ての未来が消えた。灰のように跡形もなく。
それに俺たちに未来がある訳がない、あるのは滅び─────何も残らない」
突如、揺らいでいた影が膨れ上がった。異様な変化に耐えきれないように弾け、赤い液体が辺りに飛び散る。
それでも声は絶えない。
むしろ咆哮へと変わりながら、負の感情を増幅させているようだった。地獄からの怪物の叫びのように、恐ろしく周りに被害を与えるもの。
暗闇の向こうから何かが投げられた。雅緋は身体を横へと引き、それを避けきった。静かに動かした眼が僅かに驚愕を帯びる。
死体、といっても人のではない。
雅緋が憎んでいた存在───妖魔の亡骸だった。しかしただ殺された訳ではない、内臓などを食い漁れたような凄惨な有り様だ。
そして、邪悪は満を持して暗闇から姿を現す。何とか人の形を為していた怪物が。いや、その怪物へと新生しようとしている人形、と言うのが正しい。
「貴様らに勝利は与えない。…………明日へ進む?それがどうした、こちとら全てを失ってきたんだ。甘く見るなよ、雅緋。俺は他の奴等に幸せになれって言える程優しい生き方してはない。だからなァ!この世界全てを壊し殺してやる!!幸せも不幸も、何もかもッ!!!」
妖魔化。
心臓にある赤珠を活性化させる事でホムンクルスは妖魔となる。しかし一度使えば二度と戻れないという重要な欠点がある以上、切り札なんてものではない。
邪悪は妖魔を捕食することで心臓部の赤珠のエネルギーを取り込んだ。それにより身体も妖魔のモノへと作り変えられていく。
「「────!」」
二人は同時に動き出した。雅緋は翼を大きく広げ、一直線に突っ切っていく。対する邪悪の腕が膨れ上がる、正確には濃い赤、血の色の触手が巨大な腕を形成した。
ゴバァァッ!! と腕が引き裂け、巨大な口が開く。竜のようなそれは容赦なく雅緋を飲み込もうとする。
「───はぁぁぁぁぁ!!!」
だが、後退することも避けることもしない。巨大な口へとそのままの勢い─────それ以上のスピードで突貫していった。
結果、内部からぶち抜かれた事で竜は爆散した。驚愕に絶句する邪悪に雅緋は緩めることなく、雅緋は邪悪に蹴りを打ち込む。
ゴボァ!? と生々しい塊が喉に詰まる。顔を歪めながら邪悪はもう一本の腕を振るい、鮫肌のように鱗が強靭なものに変わった。あれで殴られれば、殴打に裂傷とダメージが重なってしまう。
しかし問答無用で掴まれ、地面へと叩きつけられる。ドゴォォォン!! と轟音が響き、砂煙が発生した。それを前に雅緋は勢いを殺しながら着地するが、
「ミィヤビィィイイイイイイァァァァアアァァァァアアァァァァァァァァァァァァッ!!」
砂塵を突き破るように飛び出す邪悪。理性を失った叫びには形容しがたい呪詛が練り込まれていた。
空中で回転し、生々しい血の色をした大腕で地面を砕く。貫通などといった話ではなく、衝撃で地割れが起こり地盤が浮かび上がる。
空高く飛翔した雅緋は弾丸を超越する速さで空から黒炎を放つ。一つ一つが前の炎とは比較にならない、起こされる爆発は容赦なく邪悪の身体を焼き焦がしていく。
勢いよく暴れ回り、黒炎を容赦なく消し飛ばす。邪悪は苦しそうに呻きながら、その顔がバックリと割れる。花のように開いた間から大きな眼球が剥き出しになり、
「───ギャぁぁぁぁぁアアアアァァァァァァァァァァァァッ!!!」
直後に、白を帯びた光線が周囲に放たれた。天高く伸びた白い光は揺れ動き、周りの瓦礫や残骸を更に分解し、灰以下へと浄化していく。
「…………最後まで、人を止めてまで────お前はこの世界が憎いか」
独り言の返事は、苦しげな呻き声だった。
そんなつもりや余裕が無いわけではなく、受け答えする理性が消えかけているのだ。まるで妖魔そのものに侵食されていくように。
「─────もういい」
悔いるように目を伏せ、雅緋は呟く。その言葉すら彼には届いていない、彼の意識は摩耗して────少しずつ消え去りかけている。
だからこそ、雅緋は決着をすぐに決めることにした。襲いかかろうとする邪悪に雅緋は黒刀を振るう。自身の力の全てを込めて、確実に倒す為に。
「お、ぉおおおおおおおおおおおおお!!!」
「────ギ、ギャァァァアアアアアアァァァァァァァァァァァァッッ────────!!!!?」
絶叫が木霊する。
しかし意味は全く別物、一つは全身の力を振り絞った渾身の意味。もう一つは驚愕と否定にまみれた困惑のもの。
そして黒刀は、邪悪を斬り捨てた。彼の核とも言える心臓と赤珠もろとも。
───バッゴォォォォォォォォオンッッ!!!!
大地を揺るがす震動が、引き起こされる。黒炎と斬撃の閃撃に、邪悪は為す術なく地面に倒れ伏すしかない。
「…………う、ぐっ」
妖魔へと変じていた肉体が戻る。すぐさま戻った邪悪は血を流しながら、地を這いながら少しずつ動く。
「…………こ、このっ……俺が、負ける、なんてっ」
信じられないと言うように邪悪は呟く。彼の声は途切れ途切れで限界を向かえそうになっていた。
雅緋は何も言わずに彼に近づいた。わざわざ助けるつもりもない、誇りを侮辱するような真似は彼女が最も嫌うものだ。そんな事は好んでするつもりはない。
本来の目的、『彼』の支配を止めることだ。その為に制御装置を使う必要がある。そんな時だった、
小さい何かを踏んだ。歯車のような丸い金属。あまりにも小さすぎて石ころだと思ってしまう程の。
「制御装置を………探しても、無駄ですよ………」
ニタニタと笑みを深める邪悪が雅緋を見詰めた。
不吉な予感が感じられる。何とか優勢に立っていた筈の雅緋が冷や汗をかき、ある事実に気づいた。倒れている邪悪に歩み寄ると、乱暴に掴みかかる。
「制御端末は何処だ!お前が持っていただろ!」
「キキキ………それは、これの事ですかねぇ?」
彼は弱々しく震えながら、制御装置を取り出した。そしてそれを雅緋に見せつける。
───壊されていた。重要な部分が粉砕され、部品が散らばっている。直せるようなものではなかった。これはもう作り直した方が速いだろう。
直後に理解した。戦闘で破壊されたのではない。邪悪が負けると判断したと同時に壊したのだ。
さらぁ、と邪悪の身体が崩れていく。指足から灰のような砂への変質が広がる。ホムンクルスとしての死、それを前にしても邪悪は笑いを収めなかった。
「キキキ!キキキキキキキ!!私の勝ちだよ雅緋、『紅蓮』はもう止められない!殺すしか方法がない!残念だったな、もう彼は救えない!全員助けられるなんて結末は起こりはしない!」
「お前………」
「怨楼血は覚醒する、最早私が手を下すまでもない。ここまで頑張った君たちに一言送るよ。
────君たちの敗け………いや、俺の勝ちだッ!」
謳うような高笑いと共に肉体は灰となり、消滅していった。勝利を確信した声も虚空へと消える。
蛇女子学園に、妖魔の咆哮が炸裂した。
まるで獣でありながら人々の苦しみの声のような、歪かつ禍々しく歪みきった絶叫。
かろうじて人の体を維持していた怨楼血の形が崩れた。全身が泥のように溶け始める。突然の事に戦っていた二人は言葉を失っていたが、理解するのは容易かった。
消えようとしてるのではない、むしろその逆。
第三の進化を越えたもの────完全の一歩手前へと近づこうとしているのだ。もし、完全体になればもう彼を取り戻せない。彼は本物の化け物として未来永劫生き続ける事になる。
「…………………紅蓮」
それを引き留めるように、焔は小さく呟く。それしか今は出来なかった。そんなことをしても意味がないのは分かっていながら、彼女は自然としていたのだ。
それを耳にした『紅蓮』がピクリ と反応する。あまりにも小さな動きなので誰も気づかなかったが────確かに、反応したのだ。
───ヤ
『お前を倒すのは私だ!他の奴に負けるなよ!』
───ヤ、メ──
『………ありがとうございますわ、貴方のお陰で私も元気になれました』
───ヤ・メ・ロ
『これが嬉しいって感情なんか………よく分からへんけど、悪くないんやなぁ』
───ク・ル・ナ
『アンタ、随分と無茶苦茶ね。まぁ嫌いじゃないけど』
───ミ・セ・ル・ナ
『あら暇だからこの薬を試してみない?お礼はするわよ?』
───ダ・マ・レ
優しく浸透してくる少女たちとの思い出。一つ一つが薄れかけ、殺意へと淀んでいた青年の心を癒していく。
重なるように怨念たちの呪詛が膨れ上がる。けれど浄化されるような明るい光景が勝っていた。
『紅蓮』だった青年はその光に導かれるように手を伸ばす。力がなく、ゆっくりとした動作で。確実にその光に向かおうと。
しかし、
────戻れると思ってるのか?お前みたいな化け物が
怨念の一つが彼の腕を掴む。人の形となりその口から凍えるほどに冷たく、深淵のように深い呪詛を吐く。
『彼』は少しだけなら覚えている。彼を追い詰めたホムンクルスの一人、邪悪と名乗っていたダレカ。それが憎悪と怨嗟に満ちた表情で睨んできた。
────どれだけの命が犠牲になったと思っている。それでも戻ると?血に汚れたお前みたいな人形が
違う、そんな事は無いと叫ぶ。だが一人の声は同調する怨嗟に押し潰される。そして百、千の視線が一斉に向けられた。それらに滲んだ感情は敵意や憎しみばかりで……………少しで優しいものは存在しなかった。
────お前に出来ることは、精々争いを増やして、お仲間を殺す事くらいだ。それくらいなら俺たちの為に死ね、この怨念を世界に振るえ
そうだ、その通りだ。俺たちの代わりに、この世界を滅ぼせ。
無数の声は大洪水となり、一つの意思である『彼』を押し流そうとした。だが悪意の波に耐えきり、強く言葉を向けた。
俺はそんな事はしない。誰かが待ってるなら、俺はそこに進むんだ。使命ややるべき事だからじゃない、俺がしたいからだ!
────本当の自分も思い出せないような出来損ないがか?
その言葉が、嘲笑う声が、『彼』の意志を否定する。普通の人間ならただの戯れ言とも言えるそれは、『彼』の精神を揺るがせるに十分だった。
何故なら言葉の通り、彼は本当の自分を知らない。人として死んでホムンクルスに生まれ変わる前────普通の人としての自分を知らない。
言外に声は言う。お前みたいな出来損ないが、何の為に彼女たちの元に戻る?自分すら知らない奴が、何の為に生きるつもりだ?と。
膨れ上がった怨念たちが『彼』の身体を容赦なく呑み込む。今度はもう抵抗できないように、魂すら粉々に、自分達と一つにしようとしている。
もういいや、と自覚した。全身を達観とした感情が包み込み、何もかもどうでも良くなる。
こんな、こんな理不尽な世界、何もしたくない。あぁ、壊すべきなのか、守るべきなのか。何をすればいいのか分からない。
そう言って、意識は闇の中へと沈んでいく。より深くの光無き深層へと。
────ダメだよ
突然、一つの声が暗闇の中で浸透する。『彼』は思わず目を開き、自分のいる場所を見渡す。
しかし誰もいない。一人もその存在を感じない、だが声は響いていた。
────君はこっち側じゃない。待ってる人たちがいるんでしょ
もう一つの声、さっきの声とは違う。突然の事に『彼』は困惑するしかなかった。だが一つだけ分かるとすれば………………この声は『彼』を心配している。利用する訳でもなく、ただ純粋に。
────私たちは、最初の『紅蓮』。でも、貴方はあの名前を名乗っては駄目。あの名前は、私たちだけで十分だから
────これは貴方の記憶、失われていた大切な思い出。でもその前に、貴方は本当の名前に伝えますわ
────貴方の真名は、灰瀬。この世界で生まれ、理不尽に殺された一人
直後、光が殺到し視界の全てが包まれる。意識が反転し、暗闇へと堕ちる。
そして彼は、消え去っていた自らの過去を知ることになる。その身と魂に、二度と忘れないように───強く、より深く。