帰宅して着替えるとすぐに、私は寺の境内へ移動した。
鐘楼の土台に腰掛ける。
石を積んで作られたこの土台は、冬は冷たいが春先にもなれば充分座れる。
静かで、庭の木々を通り抜けた風を感じることが出来る、お気に入りの場所だ。
落ち着きたいとき。考え事をしたいとき。大抵はここに来る。
さあ、と風が通り過ぎる。
ついこないだまで冷たかった風は、既に春の気配をはらんでいる。風の中に、暖かな芯が通っているのが分かった。
春の匂いが香る風。
手に触れる薄手のニットの感触。
木々が風に揺れる音。
春が、来たんだ。
そう思うと、また胸が切なく痛む。
昔は素直に喜ぶべきものだった春は、今の私にとって別れの象徴となっていた。
(……だめ、ちゃんと向き合わなくちゃ)
そうだ。
想いを伝えたいなら、もう目を背けている暇はない。ちゃんと向き合って、この感情を受け止めて。
曲に、するんだ。
最高の曲に。2人への感謝を伝え、恋の喜びも咲かせられるような曲に、してみせるんだ。
背筋を伸ばし、お腹の前で両手を組む。
散らかった思考をまとめるなら、座禅を組むのが一番だ。
目を半分閉じて、何も無い空間に焦点を合わせる。
脚は組まずに腰かけたまま。
スカートで結跏趺坐は流石にはしたない。却って罰が当たりそうだ。
呼吸とは、その字が示す通り呼気、即ち息を吐く事が主体となる。
可能な限り長く、深く、肺の根底に溜まった空気まで吐き出して、吐ききれなくなったら息継ぎの要領で息を吸う。
吸ってまた吐ける状態になったら、さっきまでよりも長く吐く。
それを繰り返す内に、徐々に心のノイズが取り除かれ、心は透明度を取り戻す。
鼻で吐き、鼻で吸う。
可能な限り長く、可能な限り深く。
肌に感じる春の温度も、耳に触れる木々のざわめきも、今日のお昼休みの記憶も、遠くに聞こえる子供の声も、あの日の感傷も、未来の不安も、宇宙の果ても、人生の意味も、私が誰かも。
何もかも、無意識の彼方に押し流す。
徐々に心は透明になり、私は意識の深層へと潜り込んだ。
息を吐く。
目に浮かぶ情景、卒業によって分け隔てられる2人の男女。
想い合っているのに、決して叶わない恋心。
吸うーー吐く。
目に浮かぶ情景、2つ上の先輩2人。
時に実の家族のように甘え、心開いた2人への気持ち。
吸うーー吐く。
何故、別れなくてはいけなかったのか。
何故、出会ってしまったのか。
いっそ出会わなければ、こんな気持ちにならずに済んだのに。
吸うーーーー吐く。
彼らは恋心を。
私は慕情を。
"卒業"が与えた、無慈悲な隔たりが断ち切っていく。
吸うーーーー吐く。
それでもきっと。だけれどきっと。
この感情は素敵なのだろう。
この喜びも悲しみも、全て抱いて生きていくのだろう。
吸うーーーーーー吐く。
だから、後悔はない筈だ。
彼らも私も、同じく。
この切なさをいつか、懐かしんでーー
『ーー1つの歌詞に、どっちの想いも詰め込むんだよ!』
『ーーありとあらゆる並行世界の因果律を束ねる、このヨハネ様の魔力でーー』
(ーー束ねる、1つの詞に、)
ーーーー"切なさ"を。
鐘の音が、鳴った。
部屋に戻る。
後はもう、書き出すだけ。頭の中にあるこれに、言葉という形を与えるだけ。
一心不乱にペンを走らせる。
その軌跡は迷いなく。まるで予め記されていた線をなぞるかのように、確信に満ちて。
それは、ある種必然だった。
何故ならもう、私の中でこの詞は"出来上がっている"から。
後は姿形を与えるだけ。つまり、言葉という言葉を駆使するだけのこと。
本の虫を、甘く見ないで。
「……出来た、ずら」
一気に集中して書いた後の、この感じが好きだ。
頭の中に溜まっていたものが、全て流れ出していったような爽快感。
そして、無我夢中で思考とペンを回した反動からくる、ぼんやりとした疲れ。
思い出したように追いついて来る空腹感を抑えつつ、グループチャットにメッセージを送る。
『出来たよ』
1分と経たずに既読マークが表示され、「もう!?」とか「素晴らしいですわ!」とか、後はスタンプが幾つか飛んできて。
思わず顔が綻ぶ。やっぱり、褒められるのは嬉しいものだ。
ふと思い付き、もう一言付け加えたくなって。少し迷い、一度消し、もう一度打って、やっぱり送信した。
『最高傑作が』
今度は親指を立てたイルカのスタンプが飛んでくる。果南ちゃんのお気に入りだ。
さて、もう1つ。先輩2人に知らせておかなければいけない事がある。今やすっかり使い慣れた携帯電話に指を滑らせ、もう一言。
『明後日、見せるから。屋上に来てくれる?』
続きます。