「これは夢よね」と。
細かく刻まれてゆく動悸を自覚する七海燈子は、目の前の光景を務めて心の中にまで入れないよう、呼吸を浅くしながら(それにどんな意味があるかは定かではないが)、夢、夢、と、自分に言い聞かせた。
沙弥香と侑が、仲が良すぎる。
仲の良い事は、良い事だ。悪い事ではない。
しかし、双方こちらを差し置いてふたりでいちゃいちゃとは、ちょっと?
しかも、しかもだ。
「あれ。佐伯先輩って、小糸さんのこと前から名前で呼びでしたっけ?」
同じく疑問を抱いたのだろう、堂島くんが若干声のトーンを高めに問う。
いいわよ、堂島くん。ナイス問いかけ。
沙弥香が侑のことを、名前で呼んでいるのだ。
「いいえ。中学の時は後輩のことを下の名前で呼んだことなかったし。同じ生徒会メンバーなのだから、そろそろもうちょっと、フレンドリーにね」
じゃあ俺もと、ぐいっと行く堂島くんを適当にあしらう姿に既知感を覚えるが、それはそうだ。この一連のやり取りは既に自分が体験したはずの光景なのだから。
その時の沙弥香は、今口にしたものと同じ理由で名前呼びを止めたはずで、よくよく思い出せばそうして侑の名前呼びを突っ込まれたのは燈子の方であったはずだ。
では、と。燈子は薄ら寒さを覚える背筋をすっと伸ばす。
この夢の中では、自分と侑の関係はどうなっているのだ、と。
「そ、そうねー。私も、小糸さんのこと、名前で呼んじゃおうかなあ……」
「もう、何言ってるんですか、七海先輩。私のこと、とっくに名前で呼んでいるじゃないですか。今さら呼び方戻します?」
「あ、そうだった」と、舌出し頭をこつんとやって、とぼけてみせる。
状況の確認でいちいちどきどきさせられるなんて。さすが侑。
そんな緊張感の中でも手元が疎かにならないのは、普段からの積み重ねのお陰だろうか。
それにしても、どうしてこんなことになっているのかを、燈子は考える。
放課後の燈子と侑の様に、沙弥香と侑にも同じような秘密の時間があるということか。
先程確認した限りでは燈子と侑の共有した時間は確固たるものだが、それとは別に沙弥香と侑の時間が同時進行しているのだろう。
なるほど夢だ。夢であることに安心し、そして同じくらい不安になる。
目の前で繰り広げられている悪夢が、現実に起こらないと限らないからだ。
沙弥香の好意には気付いている。ちょうどいい距離を保ってくれていて、こちらの内側まで踏み込んでこないこともわかっているし、ありがたく思っている。
だがそれが、これからもそうだとは限らない。
沙弥香が他の誰かに恋して、そちらに夢中になってしまうこともあるだろうし(そうなってしまうと、少し寂しい気がする)、今は保っている一線を踏み越えてくるかもしれない。
そうなった時、自分には彼女の思いを受け止めるだけの余裕はない。
拒んだ挙句、元の距離感に戻れる保証はないのだ。
それに、侑だ。
燈子の我儘を受け止め受け入れ、それでも変わらずにいてくれる。
そんな彼女がもしも、他の誰かに好悪を抱くようになってしまったら。
もしも、燈子のことを好きに、あるいは嫌いになってしまったら。
余裕がない癖に、ずっと考え続けていた可能性。
なるほどそれが、夢の中で結実したのだ。
風景が変わる。
夢の中で、場面転換が行われるのだなと、なんとなく察しが付いた。
☆
雨の日の放課後。
相合傘で下校するふたりの背中。
傘も差さずにそれを追う燈子の存在は、前を歩くふたりには気付かれていない。ここには居ないことになっているのだろう。
しかし、いつみても不思議な光景だなと、「ずるい」を抜きにした感情はそう言語化される。
互いが互いを求めているような雰囲気があるわけではなく、付き合い方がしっとりと淡白なのだ。
沙弥香の方が「じゃあ、私たち付き合いましょうか」と素っ気なく告げて、侑が「いいですよ」とこちらも素っ気なく了承して。
互いに好意を持ってそうしている、というより、何かそうしなければならない理由があって、こうしてふたりでいるのではないか。
まさか自分への当てつけかと、思わず足を止めた燈子は、ふたりが雨宿りする様を少し離れた位置で見守ることにする。
あの日は侑がいろいろ振り回されていたようで、燈子に会えて嬉しかったと、そう言っていたはずだ。
持っていたタオルで髪を拭いてもらって……、今ちょうど、その光景が再現される。
面倒見がいい侑はさて置き、沙弥香の方がされるがままとは珍しい。
タオルで表情が隠れていて、沙弥香が今、どんな顔をしているのかが伺えない。それが余計に不安を煽った。
そんなにされて、侑のことを好きにならない?
侑の方も、沙弥香のことを好きにならないの?
今の彼女たちの気持ちを確かめる術は無く、外からはこうして、触れ合いややり取りを通じて内情を察するしかない。
だから、行動に移ってしまえばそれは最早確定だ。
例えそんな気がなかったとしても、外からはそれが真実として映ってしまう。
例えば今、タオルで顔を隠したままの沙弥香が侑を引き寄せ、互いの顔と顔を触れる距離にまで近付けるとなれば。
唇の触れ合う音が、離れた燈子の耳にまで聞こえて来ているとなれば。
☆
場面は変わる。
夕暮の放課後。季節が少し前に戻ってしまっているような気がするが、ふたりの関係はむしろ進んでいるかのように、燈子の目には映った。
誰も居ない生徒会室に、沙弥香と侑とでふたりきり。
当然これはキスする流れだろう。ほら、やっぱり。
拗ねたような内心でそれを見守る燈子の思いは複雑だ。
侑に拒んで欲しいとは思うが、ここで拒むのは侑ではない。
だから、やきもきした感情の大半は沙弥香の方に流れ込む。
その沙弥香に、侑が問う。声は何故か、外まで聞こえてきた。
「七海先輩との間接キス、どうですか?」
「聞いてどうするの? それ」
燈子は思わず、両手で口元を押さえて後ずさった。
隣り、同じように口元を押さえて後ずさる、何故かこの場に居合わせた槙くんの脛に蹴りを入れると、彼は煙のように掻き消えた。
自分の見ている夢、幻に耐えられなくなってきた。
はやく目が覚めてと、窓に両手を着いて頭突きでガラスを破らんとするその時。
一瞬だけ、こちらを見ていた沙弥香と侑と、目が合った。
☆
一気に目が覚めた。思い出す。夏休みの夜、今は生徒会のメンバーで合宿中。
燈子が川の字の真ん中で、両隣に侑と沙弥香が眠っている。
荒い息を整えるように深く呼吸する。最悪の夢だった。
しかし同時に、夢ではないという可能性もあり得るものだ。
春先、侑と出会ってから今まで、たった今まで夢で見ていたかのような秘密の関係が、侑と沙弥香に無いと、誰が言いきれる。
燈子自身と侑がそうなのだ。誰にも言えない秘密の関係。何故自分だけのものだと、そう言い切れるのだ。
寝返りを打つように体を傾け、侑の方を見る。
静かな寝息と、たまに疑問するように鼻奥が小さく鳴るのが可愛らしい。愛おしい。
見ているだけでは耐えられない。今すぐ触れなければ。
そうして意識とは切り離された手が、ゆっくりと、焦るように彼女に伸ばされるその最中。
今は背にしてる沙弥香が「にゃあー!」と鳴いて上体を起こした。
元々早かった鼓動に別の衝撃が加わって不整脈を起こしそうだ。
寝たふりをしつつ、横目で沙弥香を見る。
猫の夢でも見ていたのだろうかと、枕元のペットボトルを探して手を彷徨わせる親友に対して、例え夢とは言えあんな風に見てしまった罪悪感が、今さらに湧き上がる。
居た堪れなくなって、寝言のつもりで「あしたはー」と歌い出せば、何故か侑の寝言と被ってハモって沙弥香が大噴出。
さも、今起きた風を装って、咽る沙弥香を気遣えば、頑なに大丈夫だと掌で距離を置かれ、彼女はそのままタオルケット被るようにして横になってしまう。
こっちも何か被って眠ってしまいたかったが、不自然に見えやしないかと心配になって、それが出来ない。
しかも、侑にも沙弥香にも申し訳なくて、右にも左にも体を傾けられなくなっていた。
先ほどの様に侑の方を向いて寝顔をとも思うが、もう夢では済まされないし、冷静にならなければ。
そうは思うが、結局空が白み始めるまで燈子は眠りにつく事が出来なかった。
夢で見た光景は確かに悪夢ではあった。
だが、その最悪の展開に何故か、わずかに、後ろ暗い興奮を覚えてしまったのだ。