湯上がりの帰路・彼は気まぐれに前任者との【x】を想像する 作:愉快な笛吹きさん
生きているだけで素晴らしいと思える経験ができたのは、実は貴重なことではないだろうか?
妻がハンドルを握ったあとは、成幸はそう思うことにしている。精神の均衡を保つためだ。
「うう、まだ吐き気が……明日からはもっと早く家を出よう」
休み時間。気力を振り絞ってどうにか授業をやり終えた成幸は、ほうほうの体で廊下を歩いていた。時間が経って気持ちの切換えはできたものの、決死の状況に晒され続けた内臓と三半規管は未だそうもいかない。
と――
「あ、成幸先生だ。おはよーです、成幸先生」
たたっ、と廊下を小走りにやってきた女生徒が、成幸の前で立ち止まると片手を上げた。
結婚したからとはいえ、生徒から名前呼びされる教師も中々いないよな、と思う成幸。苦笑すると、
「ああ、おはよう中木。鞄を持ってるってことは教室移動の最中だな。B組は確か世界史か」
「そうです世界史。あの超怖い真冬先生の。こないだうっかり寝ちゃったら、めちゃくちゃ叱られちゃいました」
口にした途端にずーんと落ち込んだ女生徒こと中木に、成幸が苦笑する。学園での妻は相も変わらずの迫力らしい。そういえば自身が学生だった頃も、出会った当初はものすごい威圧感を醸し出していたことを思い出す。とはいえ、あの汚部屋とジャージ姿が全てをさらっていったのだが。
「ま、まあ、中木も今年は受験だからな。きっと心配してくれてるんだと思うぞ」
とはいえこのままにしておくのも印象が良くないだろう。そう考えてどうにかフォローを試みた成幸だったが、言い終えた途端に中木の瞳が面白そうに輝いた。
「ふーん」
「な、何だ?」
「いえ、やっぱり自分の奥さんのことだから良くわかってるのかなーって」
じろじろと成幸を見ながら好奇心を隠しきれない様子で呟く中木。
自覚はあるだけに妙な気恥ずかしさを覚えた成幸が、呻くように声をあげた。
「それとこれとは話が別だろ?」
「そうかな? まあ細かいことは置いといて……家の中での真冬先生ってどんな感じなんですか? やっぱり授業中みたいにビシッとしてるとか?」
やはり気になるのだろうか。どうにか自分のペースに持ち込もうとしては妻のことを聞きだそうとする中木に、成幸が内心で腕を組む。適当にはぐらかしても問題は無いだろうが……ともすれば妻に対する印象を和らげるチャンスかもしれない。
(まあ、少しくらいならいいか……)
そう算段を終えると、成幸が口を開いた。
「いや、ああ見えて実は――」
「成幸先生?」
と、背後から聞こえた涼やかな声に、びしりと成幸の舌が凍り付いた。彼が最もよく聞き、そして今だけは聞きたくない声。危機を察知した彼の頭脳が、この場を乗り切るための最適なプランを慌てて弾き出した。
「……すごくビシッとしててな。いやもう料理も掃除も車の運転も完璧なんだ。そうですよね、真冬先生」
「ええそうね。結婚したからには妻として最善を尽くす必要があるもの」
「そ、そうですか……」
美辞麗句を並べ、最後にくるりと振り向いた成幸に、さも当然と言った態度で接する真冬。傍から見れば惚気もいいところだった。一部始終を見せられた中木も、砂糖の塊を詰め込まれたような顔になっている。
「ああ、ところで中木さん」
「は、はいっ」
真冬に声をかけられた中木がどきりと声を上擦らせる。タイミング良く現れたことから当然、自分たちのやりとりは見ていたのだろう。人のプライバシーを暴くような真似をしたのだ。当然怒っているに違いない。
緊張した面持ちで沙汰を待つ中木。そんな彼女と視線を合わせた真冬は、ゆっくりと言い聞かせるように告げた。
「受験に向けて随分頑張っているようだけれど、授業中に寝てしまったら本末転倒よ。夜は早めに切り上げて、朝早起きして勉強してみなさい。その方が脳に入りやすいから」
「へ……?」
予想とは打って変わった内容だった。一瞬きょとんとした中木が、慌てて真冬の言った内容を反芻し、噛み締める。
アドバイスだった。純粋な。それも自分を励ましてくれてもいて。
「……? 中木さん?」
反応が無いのを訝しんだのだろう。気遣うように呼びかけた真冬に、中木がはっと気が付いた。
「は、はい! ありがとうございます」
弾かれたように真冬に礼を言った彼女が、ついで成幸の方を向いた。口に手を当て、ぼそりと話しかける。
「あの……成幸先生」
「ん?」
「真冬先生のこと悪く言ってしまってすみません……とっても素敵な奥さんですね」
そう言って、花が咲くような笑顔を見せた中木に成幸が頬をかく。照れ臭さと誇らしさが入り混じった、何とも妙な感覚だった。
「あ、ああ……ありがとう」
「それじゃ先に教室に行ってます。今日は寝ないように頑張りますね、真冬先生!」
手を振りながら中木が走り去って行く。その表情は成幸と出会ったときよりずっと明るいものへと変わっていた。見送る形になった真冬が小さくため息を漏らす。
「……出来れば廊下も走らないでほしかったのだけれど」
「はは……でも中木の奴、立ち直ったみたいで良かったですよ」
「まあ……彼女が頑張っているのはよく知っているから。それに――」
成幸の方へと振り向いた真冬が視線を合わせ、告げた。
「『生徒に寄り添って、何が最善かを共に考えること』……それが、教師の務めでしょう?」
きっぱりと、迷いの無い口上。彼女の力強い視線を見た成幸は、知らぬうちに自分が思い上がっていたことに気付く。フォローなど、彼女にはとっくに必要無かったのだ。
「……ええ、そうですね!」
妻の変化に本当に嬉しそうな笑顔を向ける成幸。それを見つめた真冬は心にそっと付け加える――変われたのは、君のおかげよ、と。
生徒の感情を無視してでも才ある道に導くのが教師の役目――かつての自身の後悔を機に、そんな批判も非難も多い教師道を歩んでいた彼女を再び初心に揺り戻したのが彼女の夫、成幸だった。
当時のことを脳裏に思い出した彼女が、微かに口元を緩める。夫と同様、自分も大概不器用であったと。でも、だからこそ、もう二度と道を間違えたりはしない。
「真冬先生?」
成幸の呼びかけに、思いに耽っていた真冬が我にかえった。心配するようにこちらを覗きこんでくる夫に、ほんのり赤くなった顔を咳払いでごまかす。
「何でもないわ。ところで成幸
「ひいいいっ! すみません!」
ゴゴゴゴ、と音すら聞こえてきそうなほどに威圧感を放つ真冬。感謝はしているものの、それはそれ、これはこれだった。要らぬ事を喋ろうとした夫を嗜めるのもまた妻の務めだろう。
――小一時間後。懐かしき生徒指導室にて、今は妻となった教師からたっぷりと説教をくらう成幸だった。
はれて教師になった成幸が一ノ瀬学園に舞い戻って約一年。その間、彼が定時に帰れた日は殆ど無かった。それは彼自身の要領が良くないこともあるのだろうが、何よりもかつて教育係として多大なる実績を上げたことが最大の理由である。
つまりは期待されているのだ。彼は。
廊下の窓を鮮やかな夕日が覗いていた。思わず目を取られた成幸が眺めていると、前方から何やら小走りに近付いてくる者がいた。
「成幸先生、さようならー」
中木だった。成幸がいることに気付くや、手を振りながらすれ違いざまに告げてくる。
「おー、気を付けて帰れよ」
「はーい!」
そのまま下駄箱の方へと走り去る彼女の背中に声をかける成幸。ついでに廊下を走らないよう注意するべきだったと気付いたものの、既に後の祭りだった。
やれやれと頭をかいた成幸に、突如、背中から声がかけられた。
「失礼。成幸先生」
「あ、真冬先生。早いですね。今日はもう帰るんですか?」
振り向いた成幸が妻の姿を一瞥して、言った。自身と違い、彼女は仕事に関してはとにかく手際が良い。ショルダーバッグを持っているということは既に帰るつもりなのだろう。
帰りはバスを使うことを早くも考えはじめた成幸に、はあ、と真冬が息を漏らした。
「成幸くん、今日が何の日なのか忘れたのかしら?」
「え? あ……そうでしたね」
彼女に指摘されて、ようやく成幸が思い出した。今日は珍しくスケジュールに空きができそうだったので、彼女と約束をしていたのだった。
またも嘆息した真冬が呆れた表情になる。
「全く……いくら新米の教師だからって予定を忘れるほど働き詰めでは困るわね。中木さんのことを言えないわよ」
「はは……気を付けます。じゃあ真冬さんは先に車で待ってて下さい。今日はあと学園長に書類を提出したらどうにか帰れそうなので」
「ええ。では速やかにお願いね」
告げると、踵を返して真冬が立ち去っていく。成幸との約束に並々ならぬ気合いが入っているのだろう。廊下を歩いていた素行不良気味の生徒たちが彼女が近付くや、そそくさと道を開けるのが見えた。
意気込む妻を見送ると、さて、と成幸も歩きだす。お互い忙しくて延期を重ねて来たのだ。今日こそは定時に帰らなければならない。差しあたり、その最大の壁になるのが学園長の長話だった。
歩きすがら、成幸はいくつか考えた回避策について真剣に検討を行うのだった。
「失礼しました」
学園長室のドアを閉め、成幸はふうと息を吐いた。ヘラクレスオオカブトの生態から労働基準法の話へと繋げるのは中々に骨が折れたものの、どうにかここ最近の自分の勤務状況に気付いてもらえたことは幸いだった。「たまには夫婦水入らずで過ごしたまえ」というありがたいお墨付きも頂けた彼は、意気揚々と廊下を歩きだした。
と、
「何だ?」
前方、空き教室の扉の前に一人の男子生徒が佇んでいた。成幸に気付くこともなく、何やら気落ちした様子で教室の中へと入っていく。
見覚えのある横顔だった。確か――二年の沼畑か。
(浮かない表情だったな……)
閉じた扉の前まで来ると、成幸はさてどうすべきかと考える。妻からは速やかに、と念を押されたものの、それはあの学園長の長話も計算に入れてのことだろう。となればまだ時間に余裕はあった。
(すみません真冬さん。すぐに終わらせますから)
駐車場で待っているであろう妻に心の内で謝ると、成幸は扉に手を掛けた。
「……はあ」
しんと静まり返った無人の教室で、生徒――沼畑はひとり肩を落としていた。
「よう沼畑。何やってるんだ?」
「ひゃっ!」
突然背中越しにかけられた声に思わず飛び上がってしまう。慌てて振り向けば、眼鏡をかけた年若い教師が微笑みを浮かべなから立っていた。
「あ……な、成幸先生!?」
すんでのところで名前を思いだすと、成幸教師が頷いた。まだ新米という以外は特に印象の無い先生だが、一ノ瀬学園の氷の女王、真冬先生と結婚しているという事実は男子生徒を中心に絶大なるインパクトを与えていた。
そんな名物教師の彼は、ずかずかとこちらに歩み寄ると、机の上に広げていたプリントの束に目を向けた。
「このプリント……もしかして、この前の中間テストの答案か?」
「ええそうです。でも見ればわかると思いますがその……点数が」
と、言葉を途切らせる。成幸教師も気付いたのだろう。笑顔を消すと、どこかばつの悪そうな表情へと変わった。
「まあ確かに……全教科とも平均より大分低いな」
「頑張って勉強してはいるんすけど、ずっとこのザマなんです。この学園も補欠入学でギリギリ浮かったくらいだし、俺……勉強向いてないのかなって」
年齢差の無いことが却ってよかったのかもしれない。この際とばかりに、半ば投げやり気味に悩みを打ち明けた。耳を傾けていた成幸教師は「そうか」と呟くと、
「……なあ沼畑。敢えて訊くけど、今どんな気持ちだ?」
「は?」
いきなり突拍子も無いことを言い出して、つい声を上げてしまう。一瞬目の前の教師の頭がおかしくなった可能性を疑いかけたのだが、
「そ……そりゃ勿論、悔しいに決まってるじゃないですか! だからここで集中して復習しようと思ったんすよ!」
茶化すわけでもない、真剣な顔をしている成幸教師に圧され、つい苛立ち混じりに声を荒げた。いくら頑張っても芽が出ない悔しさなど、教える側のあんた達にはわかるまい。そんな思いを暗に込めて。
が、
「そうか……なら、安心だな」
それでも、何でもないことのように、成幸教師は告げた。
「安心……?」
「ああ。その気持ちがあるなら大丈夫だ。お前ならきっと成績が上がるよ。昔の俺がまさにそうだったからな」
「成幸先生が?」
まさかという思いだった。驚いていると、成幸教師が気恥ずかしそうに頬をかく。
「俺も昔は笑っちまうくらい勉強ができなくてな。何度も悔しい思いをしてきたんだ。けどまあ……諦めずに勉強し続けてたら、今はこうやって先生なんて呼ばれるようになったよ」
「そうなん……ですね。凄いです。でも俺なんか、高校の2年で未だこんな成績だし」
そう言って、赤点の並んだ答案を見やる。こうして話をしてみると、この先生はとても誠実な印象だった。さっきの話とて、おそらく嘘ではないのだろう。だがそれでも、今の自分よりも悪い状況だったとは到底思えない。
弱音を言うばかりの自分に呆れたのか。成幸教師が息を吐く音が聞こえた。
「……『未だ』じゃないぞ。
「は?」
だが耳に届いたのは予想を裏切る言葉だった。思わず視線を上げると、そこには再び笑みを浮かべる成幸教師がいた。
「……昔な、三年生の一学期にもなって、数学と国語のテストが一桁の奴らがいたんだ。しかも進学する大学の志望がそれぞれ理系に文系だ。お前だったらどうする?」
「そ、そんなの無茶っスよ。諦めて他の進路先に変えます」
即答する。考えるまでもなかった。その話が事実であるならば、そんなのは希望ではなく無謀といっていい。
うんうんと、成幸教師が頷く。
「まあそれが普通だよな。実際、多くの人から進路を変更するよう勧められてたよ。けど、あいつらは諦めなかったんだ。最後の最後まで自分を信じて努力し続けて――」
「ど……どうなったんですか?」
「ついには合格しちまった」
さらっと告げられ、思わず狐につままれた気分になる。悪戯が成功した子供のように、はは、と成幸教師が笑った。
「ほんと、凄いよな……凄かったよ。あいつらは。で、そんな瞬間を近くで見てしまったからにはな、「諦めろ」なんて軽々しく言いたくないんだ。俺は」
言い終えた成幸教師があらためてこちらを見つめた。お前はどうなんだ? という眼差しは厳しくも温かい。それを正面から見返すと、告げる。
「……先生って、結構スパルタだったんですね」
「できなくても、頑張ってる奴の味方になる。それが俺の教育方針だからな」
きっぱり言い切った教師の言葉に、気付けば迷いは消えていた。いや、もとよりそのつもりだったのだ。
再び心に灯った火を噛み締めつつ、呟く。
「ありがとうございます。俺も腐らずに、もう一度頑張ってみますね」
「ああ、頑張れよ!」
「あ、そうだ。ついでにここの問題、教えてもらっても良いですか?」
やる気も回復したところで、せっかく教師が近くにいるのを利用しない手は無かった。答案の指差した箇所を目で追った成幸教師は一拍置くと、立て板に水の如く話をし始めた。
「そうだな。これはまず--」