彼、阪野颯人は社会人だった。極普通の高校から極普通の大学へ進学、そのまま卒業、就職を経て長年付き合っていた幼馴染と結婚を果たし、子供も出来た。そうだ、幸せな人生を歩んで来たはずだった。
―――あの時までは
彼がその光景を見かけたのは偶然だったのだろうか、いや必然と言えるかもしれない。
彼はその時彼自身の目を疑った。
そんなはずはない。あれは違う、そう違うのだと!
だが、現実はそうもいかない。今、ホテルに向かって歩いていっているのは間違いなく彼の妻だ。夫である彼には随分と見せていない満面の笑みを浮かべ、男にしなだれかかっている女はどうしようもなく彼の妻であった。彼もわかってはいるのだ。
その女が妻であるということに
自己防衛だろうか、それとも現実逃避だろうか。兎にも角にも彼はそれをその現実を理解することを拒んだ。そうでないと絶望と悲しみが自分に襲い掛かると思ったからだ。知らなければ仮初であったとしても幸せでいられたというのに。彼の人生は妻を主軸に形成されていた。一家の大黒柱が彼であったとしても彼の柱は妻だったのだ。
彼女だって夫のことを愛していない訳では無い。むしろ愛しているのは夫だけだ。それでも彼女も人間だった。残業や出張の多い夫、可愛くても手間のかかる育児、昼間に入るパート。しかも彼女はまだ20代後半という若い嫁だった。高校時代の同級生などは遊んでいるのに私はこんなことばかり。できた人間であったとしても完璧な人間などではない。夫は全然帰って来ない。そう、当然寂しさを感じてしまうのだ。
神というのは残酷なのだ。
これは崩壊の序章だ。結末など既に決まっている。
男と女は別れ、二人の人生から希望の星が喪われる。男の希望の星は一つとなる。
そんな話だ。
だが少し待って欲しい。
本当に愛しているからこそ彼は絶望し、怒りそして嘆いたのだろう。
今から始まるのは彼と彼女が幸せに暮らせていた幼少期から結婚するまでの物語だ。それを語らない限りこれより先には進めないだろう。
だから暫く付き合ってもらいたい。憐れな一人の男と馬鹿な一人の女の話に。
彼と彼女は親の世代からの付き合いがあった。男親同士仲良く、かつ女親同士も仲良い、であるからこそ彼と彼女が仲良くなるのは必然であった。成長したあとでもまるで男女の性差を意識させないような振る舞い方を彼らはしていた。初めに好きになったのは彼女の方だった。
これはそれに至るまでのプロセスの話だ。
西野カナのねえなんで~好きになっちゃったのかな~だけエンドレス再生して読んでください
結局恋愛なんて後から好きになったほうの負けなんだよあーあ……