姫王アレーティアを連れた逃避行。その果てに血盟の騎士団が選んだ終着点は、オルクス大迷宮の最深部だった。
その深淵には誰も生きて辿り着けず、誰も踏破したことのない絶対の死地。だからこそ彼らは確信していた。
あそこまで辿り着ければ、誰にも姫を奪われることはない。それが彼らの希望だった。
だが、その希望へ至る道はあまりにも険しい。
王都を脱出するだけでも、何百という騎士が命を落とした。行く先々で待ち受けるのは教会騎士団、各国の正規軍、そして魔人族。戦いは終わることなく続き、王国最強を誇った血盟の騎士団も、その数を次第に減らしていった。
残されたのは、数百人。その全員が、一騎当千と謳われた精鋭だった。
極限まで血を吸い上げ、常人を遥かに凌駕する身体能力を得た吸血鬼たち。国家一つを滅ぼしかねない戦力を持つ彼らでさえ、この戦いだけはどうにもならなかった。
なぜなら当時の彼らの敵は、この世界そのものだったからだ。
目の前には、地平線を埋め尽くす軍勢が広がっている。
旗印は一つではない。
サヘルサ王国。
ミドガル王国。
エドガー神聖国。
魔人族諸国。
本来なら決して肩を並べることなどない者たちが、今だけは同じ旗の下で剣を構えていた。
その数、およそ三百万。
血盟の騎士団との兵力差は、一万倍。
勝敗など、考えるまでもなかった。
『あはは……見てよ、ヴァイ』
白髪の少年──シグルド・ヴァルガが、目の前の光景を見ながら肩をすくめる。
『ついこの間まで『神敵』だなんだって殺し合ってた連中がさ、今じゃ仲良く横一列だよ。神様って便利だよねぇ』
『知るかッ!』
ヴァイス・ノスフェルトが鼻で笑う。
『どうせ神の掌の上で踊らされてただけの連中だ。薄っぺらい正義を掲げて戦ってた猿どもが、今度は敵を変えただけだろ』
吐き捨てるような言葉だった。だが、その瞳には恐怖はない。むしろ獰猛な笑みだけが浮かんでいる。
『じゃあ、あれを止めるのが僕らの最後の仕事ってわけだ』
シグルドは短剣を一度だけ回し、楽しそうに笑う。
『いいねぇ。最後くらい派手に暴れようか』
『はっ。全員殺しゃ済む話だ』
その隣へ、一人の巨漢が歩み出た。
ベルガルド・グランツ。
二メートルを超える巨躯を持つ鬼人の血を引く戦士は、何も言わず巨大な戦斧を肩へ担ぐ。
『あれ? ベルも行くんだ』
問いかけても返事はない。
男はただ、静かに敵軍を見つめていた。
『相変わらず無口だな、おっさん』
『今さら喋り出したら逆に怖いよね』
ようやくベルガルドが口を開く。
『……俺は王国の盾だ』
それだけだった。
短く、それだけ。だが、それ以上の言葉は必要なかった。
王家に迫る脅威を、その身を盾として退ける。
それが彼の存在理由だった。
三人が振り返るその先には、深い眠りについたアレーティアの姿があった。
魂魄魔法による眠りは深く、少女は微動だにしない。
『姫様』
シグルドは困ったように笑う。
『僕みたいな人を殺すことしか能がない化け物に居場所をくれて、ありがと』
ヴァイスも鼻を鳴らす。
『まぁ……悪くねぇ十年だった』
照れ隠しなのか、それ以上は言わない。
ベルガルドだけは何も語らなかった。
ただ眠る少女へ静かに一礼し、背を向ける。
それだけで十分だった。
王を守る。
その誓いは、生きている時だけのものではない。
命を失う、その瞬間まで続くものだった。
ヴァイスが巨大な魔槍を肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべる。
『じゃあ、行くか』
その一言だけで部下たちの空気が変わる。ヴァイスは眼前に広がる数百万の軍勢を睨みつけ、高らかに名乗った。
『血盟の騎士団第四番隊隊長、ヴァイス・ノスフェルト。アヴァタール王国最強の吸血鬼にして、一番槍だ』
口元が吊り上がる。
『全員、蹴散らすぞ』
歓声が上がる。
その隣でシグルドが軽く首を鳴らした。
『じゃあ僕も』
眼帯の奥に隠された片目が細く笑う。
『血盟の騎士団第十二番隊隊長、シグルド・ヴァルガ。アヴァタール王国最速の人狼族最後の牙だ』
両手の短剣をくるりと回し、敵軍へ向ける。
『僕から逃げ切れる奴がいたら褒めてあげるよ』
最後に、一歩前へ出たのはベルガルドだった。
二メートルを超える巨躯。
山のような体躯が静かに戦斧を握る。
『血盟の騎士団第七番隊隊長、ベルガルド・グランツ』
ただ、それだけ。余計な言葉はない。
しかし、その名が告げられた瞬間、七番隊の騎士たちが一斉に武器を掲げた。
ベルガルドは静かに戦斧を肩へ担ぐ。
『……王国の盾となる』
短い一言。
それだけで十分だった。
三人は互いに視線を交わし、小さく笑う。
そして次の瞬間、数百万の軍勢へ向かって、一斉に駆け出した。
三人は歩き出す。その背に続くのは、それぞれの部隊を率いる騎士たち。
誰一人として振り返らない。
誰一人として、生きて帰るつもりなどなかったからだ。
やがて彼らの姿は戦場の彼方へ消えていく。
その後、彼らがどう戦い、どのような最期を迎えたのかをアレーティアは知らない。
眠り続けていた彼女に、その光景を見ることはできなかった。
だが、一つだけ確かなことがある。
彼らは帰ってこなかった。
そして──三百万の連合軍は、その日、一歩たりとも前へ進むことができなかった。
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血盟の騎士団は、一人、また一人とその数を減らしていった。
隊長格であろうと例外ではない。
炎を自在に操る女傑は、雷を操る後輩の騎士、そして腐れ縁だった降霊術師の魔女と共に最後まで戦い抜き、王国の未来を繋ぐため戦場へその命を散らした。
本来なら諜報や潜入を得意とし、決して前線向きではなかった男もまた、自ら剣を手に最前線へ立ち、仲間たちの退路を切り開くため命を投げ出した。
誰もが理解していた。自分たちは生き残れない。
それでも誰一人として足を止める者はいない。全員が同じ願いだけを胸に戦っていた。
──アレーティア様だけは、絶対に守る。
そして、その願いを託される者が、また一人。
「……リオナ」
震える声でアレーティアが名を呼ぶ。
景色の中で微笑んでいたのは、彼女の専属侍女リオナ・シャリテだった。
血盟の騎士団第八番隊隊長。
そして、幼い頃からアレーティアの身の回りを世話し続けてきた侍女。
戦い方を教えたわけではない。
政治を教えたわけでもない。
だが、笑い方を教え、食事を共にし、髪を梳き、眠れぬ夜には傍らで本を読んでくれた。
血の繋がりこそなかったが、誰よりも近くでアレーティアを支えてきた家族だった。
そんな彼女が、静かに眠るアレーティアの頬へそっと触れる。
『姫様……』
その声音は、戦場に立つ騎士のものではない。
いつもの侍女だった。
『私たちは残念ながら、ここまでのようです』
リオナは眠る少女を見つめながら、穏やかに笑う。
『ですが、どうか気に病まないでください。長い吸血鬼の生の中でも、貴方様にお仕えできた時間は、私にとって何ものにも代え難い宝物でした』
『これから先、どれほど苦しい道が待っているのか、私には想像もできません。世界中が敵に見える日もあるでしょう。誰も信じられなくなる日もあるでしょう』
そこで一度だけ言葉を止める。そして母が娘へ語りかけるような優しい声で続けた。
『それでも、どうか諦めないでください。必ず現れます。貴方様の隣に立ち、共に笑ってくださる方が』
『そして、幸せになってください』
『私がお教えしたことも……きっと、いつか役に立つ日が来ますから』
その言葉に、映像を見ているアレーティアの肩が大きく震えた。
ずっと裏切られたと思っていた。最後まで傍にいてくれると信じていた侍女が、自分を捨てたのだと思っていた。
違った。
彼女は最後の最後まで、自分を守るために戦っていた。
『リオナ様! 敵がすぐそこまで!』
『承知しております』
部下の声にも、リオナは慌てることなく一礼する。
『あなた方はアレーティア様をお連れしてください。この場は私がお引き受けします』
『ですが……!』
『これは命令です!』
『ッッ……ご武運を!!』
その一言だけで、誰も反論できなかった。部下たちは歯を食いしばりながらアレーティアを抱え、その場を離れていく。
その背中を見届けると、リオナはゆっくりと敵軍へ向き直った。
数万。いや、それ以上の視界を埋め尽くすほどの軍勢。それでも彼女は、いつも通り優雅にスカートの裾を摘み、淑女の礼をとる。
『ようこそ、お客様方』
口元には侍女らしい穏やかな微笑み。
『血盟の騎士団第八番隊隊長。そしてアレーティア様専属侍女、リオナ・シャリテと申します』
次の瞬間、その笑みだけが鋭く変わる。
『誠に残念ですが、あなた方にあの方とお会いになる資格はございません』
影が蠢き、数え切れないほどのアーティファクトが姿を現した。
一本。
二本。
十本。
百本。
空を埋め尽くすほどの魔道具が、一斉に敵軍へ照準を合わせる。
『ですので──』
リオナは微笑む。
侍女としてではない。
王国最強の騎士の一人として。
『私がいる限り、アレーティア様に指一本触れられると思うなッ!!』
轟音が世界を揺らした。
光が空を焼く。爆炎が大地を呑み込み、連合軍をまとめて飲み込んでいく。
その爆発は、一度では終わらない。
次々と連鎖し、重なり、終わらない。
影に隠していた全ての自爆型アーティファクト──《最期の忠誠》。
それは主君へ捧げる、侍女の最後の贈り物だった。
その閃光の向こうで、眠り続けるアレーティアは何も知らない。
誰に見送られたのかも。誰が命を懸けて未来を繋いだのかも。
ただ一つだけ確かなことがある。
リオナ・シャリテという一人の侍女が、その命と引き換えに開いた道を通って、アレーティア・アヴァタールは誰にも気付かれることなく、オルクス大迷宮の闇へと消えていった。
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世界の軍勢を退けたとしても、それで終わりではなかった。血盟の騎士団を待ち受けていた最後の試練は、神でも人でもない。オルクス大迷宮そのものだった。
奈落へ続く迷宮は侵入者を拒むかのように牙を剥く。巨大な魔物が咆哮を上げ、闇の中から次々と襲い掛かる。彼らに事情など知る由もない。ただ本能のまま侵入者を喰らおうとするだけだった。
本来ならば、血盟の騎士団が恐れるような相手ではない。しかし、その頃には彼らは限界を遥かに超えていた。世界中を相手に戦い続け、仲間を失い、血を流し続け、それでも足を止めることなくここまで辿り着いた。
誰一人として、万全の状態ではない。
それでも剣を離す者はいなかった。誰かが倒れれば、その背中を別の誰かが支え、支えた者もまた倒れれば、さらに別の誰かが前へ出る。そうして血盟の騎士団は、その名の通り命を血へ変えながら、一歩ずつ、一歩ずつ迷宮の最奥へと歩み続けた。
その果てに辿り着いたのが、封印の間だった。眠り続けるアレーティアを中心に、残された騎士たちは次々と膝をつく。
誰もが満身創痍だった。呼吸すら苦しい。それでも、その瞳だけは安堵していた。
──間に合った。
誰も口にはしない。
だが、その場にいた全員が同じことを思っていた。
使命は果たした。
その場へ、ゆっくりと歩み寄る老人がいた。
血盟の騎士団団長。
ウバルト・ロウ。
幾度となく王国を救い、誰よりも長く王家を守り続けてきた老騎士。
その膝が、静かに崩れる。
『アレーティア様……』
眠る少女の前へ跪き、老人は震える手を伸ばした。
その指先が触れることはない。
血に濡れた手で主君を汚したくなかったのだろう。
老人は僅かに微笑み、深く頭を垂れた。
『このような形でしか貴女様を守れぬ、この老骨を……どうか、お許しください』
その声には、団長としての威厳はなかった。
ただ、一人の老人の後悔だけがあった。
『貴女様は神の器などではございません』
『一人の少女として生まれ、一人の少女として笑い、一人の少女として幸せになる。その権利がございます』
息が苦しい。
それでも老人は言葉を紡ぐ。
『いつか……目覚められた時には……どうか……』
血を吐く。
それでも笑う。
『幸せに……なってください』
その時だった。
老人が、ふと思い出したように目を細める。
『……そういえば』
かすれた笑い声。
『こうなると分かっておれば……もう一度くらい……』
瞼がゆっくりと閉じていく。
『じぃじ、と……呼んでいただいても……良かった……かも……しれませ……』
最後まで言い切ることはできなかった。
老騎士の身体から、力が抜ける。
血盟の騎士団団長ウバルト・ロウ。
王家を生涯守り続けた老人は、その役目を終えた。
「……じぃじ」
映像を見つめるアレーティアの唇から、小さく声が漏れる。
それは幼い頃、呼んで、五歳の時には他者に示しがつかないからと呼び捨てに直された愛称だった。照れくさそうに、怒った老人の顔を思い出す。
もう一度呼べばよかった。
もっと笑えばよかった。
そんな後悔だけが胸を締め付ける。
「じぃじ……ッ」
堪えていた涙が、とうとう溢れ落ちた。
ハジメは何も言わない。
ただ、隣で震える彼女の手を静かに握り続けていた。
そして、最後に残った一人が、眠るアレーティアの前へ歩み出る。
叔父。
アヴァタール王国の宰相。そして、この国で最後の肉親。
ディンリード・アヴァタールだった。
彼は静かに眠る姪の髪を撫でる。
『愛しているよ、アレーティア』
王族としてではない。
宰相としてでもない。
一人の叔父としての声だった。
『どうか君の未来に、幸が多からんことを』
その言葉と共に、ディンリードは静かに封印術式を起動する。
無数の魔法陣が封印の間を埋め尽くし、淡い黄金の光がアレーティアの身体を優しく包み込んでいく。
少女は何も知らない。
どれほど多くの命が、自分一人の未来へ捧げられたのかを。
どれほど多くの愛によって、自分は生かされたのかを。
静かに瞳を閉じたまま、アレーティア・アヴァタールは永き眠りへと落ちていった。
だが、映像はそこで終わらなかった。
暗闇だった。
光は一切なく、響く音は皆無。風すら通っていない。そんな場所で石の中へ埋められた少女は、ただ一人、闇だけを見つめていた。
『ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!』
絶叫が暗闇を震わせる。
『守ると言ったじゃないですかッ!! 最後までお側にいると言ったじゃないですかッ!! どうして私をこんなところへ閉じ込めたんですかッ!!』
返事はない。あるはずもない。この場所には彼女しかいないのだから当然だ。
『誰か……』
『誰か出してください……』
『誰か、助けて……』
祈りはやがて怨嗟へ変わる。
『裏切り者ッ!!』
『嘘つきッ!!』
『全員、地獄に落ちてしまえぇぇぇぇぇッ!!』
その叫びは何十年も続いた。怒り続けることでしか、憎み続けることでしか、少女は自分という存在を保てなかった。
ハジメには、その理由が痛いほど分かった。
奈落へ落ち、一人取り残されたあの日。自分もまたクラスメイトへの怒りと憎しみだけを支えに生き延びた。だから理解できる。何も分からぬまま、光の届かぬ闇へ閉じ込められ、誰一人迎えに来ない絶望が、人をどれほど容易く狂わせるのかを。
だが、その映像を見つめるアレーティアは耐えられなかった。
「違う……」
震える声が漏れる。
「違う……違うッ……!」
頭を抱え、その場へ崩れ落ちる。
「一体……どこに……」
嗚咽に声が掠れる。
「一体どこにッ……どこに、どこに、どこに裏切り者なんていたッッ!?」
叫びは誰へ向けたものでもない。過去の自分へ向けた断罪だった。
「誰も……誰も裏切ってなんかいなかった……」
涙が止まらない。
「みんな……何も変わってなんかなかった……。私なんかのために、命を懸けて……全部を犠牲にして……」
肩を震わせながら、言葉を絞り出す。
「助かったのは……私だけだった……」
その事実が、三百年間積み重ねてきた憎悪を、一瞬で罪悪感へと変えてしまう。
「それなのに私は……」
アレーティアは自嘲するように笑った。
「命の恩人だった人たちを、裏切り者と呼び続けた。その忠義を踏みにじって、その魂を汚し続けた」
笑っている。だが、その笑みは泣き顔よりも痛々しかった。
「ねぇ、ハジメ」
真っ赤に腫れた瞳が彼を見つめる。
「これが私」
「王でありながら国を守れず、家族の真意にも気付けず、三百年間、大切な人たちを憎み続けた女」
「目覚めた後も、その過去と向き合うことから逃げ続けた、弱い女」
一度だけ目を伏せ、そして静かに微笑む。
「それが――私、アレーティア・アヴァタールの真実なの」
その笑顔は、泣いていた。
次回、いよいよ覚醒の時