一方勇者一行。
彼らは現在、前人未到の八十九層まで来ており、あの日二人の犠牲者を出してしまった日から、勇者一行は各々が確かな成長を遂げていた。
「万象切り裂く光 吹きすさぶ断絶の風 舞い散る百花の如く渦巻き 光嵐となりて敵を刻め! “天翔裂破”!」
自分を中心に光の刃を無数に放ち、蝙蝠型の魔物をまとめて吹き飛ばす光輝。
「刹那の嵐よ 見えざる盾よ 荒れ狂え 吹き抜けろ 渦巻いて 全てを阻め “爆嵐壁”!」
結界師である谷口鈴が攻性防御魔法と呼ぶべき空気の壁にて蝙蝠の群れによる攻撃を受け止め、そのまま蝙蝠を爆殺する。
そして光輝の合図で一斉に攻撃魔法を放つ後衛6人。
巨大な火球が着弾と同時に大爆発を起こし、真空刃を伴った竜巻が周囲の魔物を巻き上げ切り刻みながら戦場を蹂躙する。足元から猛烈な勢いで射出された石の槍が魔物達を下方から串刺しにし、同時に氷柱の豪雨が上方より魔物の肉体に穴を穿っていく。
その後再び光輝の合図によって、前衛組が魔物に向かっていき個別に撃破する。その勢いはすべての魔物を数分で全滅させるほどすさまじかった。
戦闘の終了と共に、光輝達は油断なく周囲を索敵しつつ互いの健闘をたたえ合う。皆の顔には数ヵ月前まで戦闘とは無縁の人生を送っていたとは思えない自信に満ち溢れていた。
「ふぅ、次で九十層か……この階層の魔物も難なく倒せるようになったし……迷宮での実戦訓練ももう直ぐ終わりだな」
「そうだな。今まで誰も到達したことのない階層でこの余裕。正直何が来たって負ける気がしねぇ。それこそ魔人族が来てもな!」
光輝の発言に龍太郎が豪快に笑いそんなことを言いながら、光輝と拳を突き合わせて不敵に笑い合う。勇者パーティの中でも
「治療……終わったから……」
「あ、ああ。ありがとう……白崎」
「…………」
香織が治癒師としての
最近香織が笑わなくなった。そのことはクラスメイト全員が認識していたが、何も言えないでいた。原因は明らかだし仕方ないと思っていた。なぜなら……
「……」
同じく前線で戦い、近藤礼一と同程度の怪我を負っていたにも関わらず完全に無視された男。少し前に前線に復帰した檜山 大介がいるからだった。
檜山大介。クラスメイトでありながら、南雲ハジメと藤澤蓮弥が奈落に落ちるきっかけを作ったとされた生徒である。そのため教会により罪人更生プログラムを受けていたのだが、少し前にそれが終わったところで前線復帰させることを教会上層部が勝手に決めてしまったのだ。教会からしてみれば勇者が人殺しをしたというネガティブなイメージを消したり、わざわざ更生プログラムを受けさせるなどの手間をかけたのだから、せめて戦ってもらわないと割に合わないという見解だった。
檜山の復帰をメルド団長から聞いたクラスメイト一同はまず耳がおかしくなったと疑い、それが聞き間違いでないことを知ると上層部の正気を疑った。このパーティには約二人、檜山が原因で豹変したといってもいい生徒、八重樫雫と白崎香織がいる。パンパンに詰まった火薬庫に火種を投げ入れるかのような蛮行。正直この知らせを受けたクラスメイトはいつ二人が爆発するか気が気じゃなかった。クラスのまとめ役である雫が機能していないので、なれないクラスのまとめ役をやっているムードメーカーである谷口鈴などはこの頃からストレスで胃薬を服用しているくらいだ。
だが意外にも惨劇は起きなかった。メルドが事前に相当苦労して言い聞かせたこともある上に、香織や雫とて中間管理職にいるメルドにどうこうできる問題ではないことも分かっていたからだ。よって二人は檜山を存在しないものとして行動していた。だから香織も彼を治療しない。仮に治療してしまうとうっかり治癒魔法を
もっとも、光輝が香織に対して、檜山も仲間なのにどうして治療してあげないんだ、といった趣旨の
ではもう一人の爆弾。八重樫雫は今何をしているかというと。クラスメイトが魔物を倒す光景を、パーティから少し離れた位置で見守っていた。
雫にとって遺憾ではあるが彼女は現在、二つの理由により緊急時以外に前線に出れなくなってしまった。
まず一つ目の理由がメルドによる説得だ。
そして以下が現在の光輝と雫のステータスである。
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天之河光輝 17歳 男 レベル:74
天職:勇者
筋力:900
体力:900
耐性:900
敏捷:900
魔力:900
魔耐:900
技能:全属性適正[+光属性効果上昇][+発動速度上昇]・全属性耐性[+光属性効果上昇]・物理耐性[+治癒力上昇][+衝撃緩和]・複合魔法・剣術・剛力・縮地・先読・高速魔力回復・気配感知・魔力感知・限界突破・言語理解
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八重樫雫 17歳 女 レベル:75
天職:剣士
筋力:650 [+最大3450]
体力:660 [+最大3460]
耐性:420 [+最大3220]
敏捷:1510 [+最大7110]
魔力:2800
魔耐:2250
技能:剣術[+斬撃速度上昇][+抜刀速度上昇]・縮地[+重縮地][+震脚][+無拍子]・先読[+投影]・気配感知・隠業[+幻撃]・魔力操作[+身体強化][+武装強化][+敏捷変換効率上昇Ⅱ]・言語理解
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このように魔力操作による強化込みとはいえ、すでに勇者と比較しても頭一つ抜きん出ている。
治癒師である香織はともかく、そんな雫に前線にて無双ゲーをやられると他のメンバーが育たない。一部だけ強くなってもいざという時、成長できていない他のメンバーが置いていかれるだけだ。本来大迷宮攻略は勇者たちを成長させるために行っているのであり、大迷宮制覇は主目的ではないのだ。
そのことをメルドは誠心誠意、雫に説明し説得した。最初渋っていた雫だったが、蓮弥とハジメを本当に認めてくれており、今でも自分には何のメリットもないのに蓮弥とハジメの名誉を回復させようとしてくれている人の必死の説得には折れざるを得なかった。
そしてもう一つの問題は以前、ヘルシャー帝国皇帝ガハルドに指摘されていた得物の問題が深刻化したのである。強力になる雫の力に武器の方が耐えられなくなったのだ。それに気づいたきっかけというのは魔物との戦闘中にいきなり武器が粉々になった時だった。その時は流石の雫も肝を冷やしたものだったが、幸いその時は他のメンバーの活躍で無事事なきを得たのである。雫を助けられて光輝が満足そうにしているのが印象的だった。
それから雫は今の自分の問題が死活問題であることを踏まえ、次はどのくらいの力なら雫の力に武器が耐えられるのかを計った。その結果わかったのは王国が用意する武装では今の雫の力の40%以上には耐えられないという結果だった。その後も実験で一本壊してしまい、雫が使っているアーティファクトは現在四代目だった。
これには教会も王国も頭を抱えることになる。事実上の最高戦力である雫が全力を出せないのだから当然だ。もちろん彼らとて努力した。特にハイリヒ王国お抱えの国家錬成師は相当無理を強いられただろう。仮に雫の得意とする武器が単純な構造をしたものなら錬成師達も用意できたかもしれないが、剣という武器を雫の力に耐えられるように頑丈さに特化させて錬成すると、どうしても大振りの西洋剣になってしまい、今度は雫の持ち味である剣術を殺してしまう。頑丈さと雫の剣術を両立させることのできる業物を錬成師達はなかなか作れなかった。地上では貴重だとされている鉱石をふんだんに使用し、国家錬成師が裸足で逃げだすような化物錬成師が己の技術の全てをかけて作った大槌のようなアーティファクトがそうそうできるわけがなかったのだ。
雫が前線にあまり立てなくなったことに勇者こと光輝は少し歓迎しているようだった。今まで頑張ってきたんだから少し休んでいればいい。大丈夫、雫は俺が守るから、と……そういう問題ではないのに。
こうして雫はもどかしい思いを抱えながら大迷宮攻略を行っていた。そしてだからこそ今、彼ら勇者一行はピンチに陥っている。
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「うっ……」
「鈴ちゃん!」
「鈴!」
雫が見守る中、谷口鈴が目を覚ました。その後も某有名なネタをやっていたことからどうやら思っているより大丈夫らしいと内心ほっとする。まとめ役を放棄しているからといってクラスメイトが死んでいいとは思っていない。周りを見ると状態異常を含めた重傷者が多数、治癒師である香織と綾子の二名により治療を受けていた。
雫は状況を整理する意味も込めて、こうなった経緯を思い返す。
九十層に入った時、すぐに雫は違和感を感じた。どの階層でも存在した魔物の気配が一切感じられなかったからだ。
だからこそ同じ違和感を感じていた永山と共に、光輝に撤退するよう進言したのだが、彼にとって
だが雫の嫌な予感が的中するかのようにそれは現れた。人類の宿敵である魔人族である。
妖艶な美女である魔人族はどうやら光輝を筆頭に雫たちの勧誘にきたのだという。ここで冷静に判断できるものなら慎重に行動したのだろうが、今絶好調で調子に乗っている勇者は勇ましくきっぱり拒否してしまう。
その言葉を聞いた魔人族の女は周囲に魔物を呼び出し。雫たちを襲わせたのだ。
どうやら確実にチェックメイトを仕掛けられるように準備を行ってきたようであり、ほとんど防戦一方で戦いが行われた。雫もダメージを受けてはいないものの、武器の都合による火力不足により魔物を倒しきることができない。
追い詰められた雫たちだったが、光輝の限界突破と降霊術師である恵里の覚醒によりピンチをなんとか切り抜け、安全地帯と思われるところまで撤退したというところだった。仲間による決死の魔法行使により壁に細工され時間を稼ぐことができるというところまで持ち直していた。
「お疲れ様、野村君。これで少しは時間が稼げそうね」
「……だといいんだけど。もう、ここまで来たら回復するまで見つからない事を祈るしかないな。浩介の方は……あっちも祈るしかないか」
今まで壁に細工をしていた土術師の野村 健太郎と治癒師の辻 綾子が疲れた様子を見せながら話す。
「……浩介なら大丈夫だ。影の薄さでは誰にも負けない。それに……あいつはたまにミラクルを起こすからな」
「いや、重吾。影の薄いところは可哀想だから言ってやるな。まあ、やる時はやる奴というところは同意だけど」
遠藤浩介とは“暗殺者”の天職を持つ、永山重吾率いるパーティメンバーの一人である。影の薄さ世界一位である彼ならば、魔物に見つからないようにメルドにこのことを伝えて助けを呼べる。それに以前仲間が強敵に襲い掛かられて駄目だと目をつぶった時、いつの間にか魔物が倒されていたことがあった。誰に聞いても自分じゃないと答えるのでもしやと思って重吾が浩介に聞いてみると必死にやったらなんか倒せた、というかお前の前でやったからね、俺はッという返事が返ってきた。
これ以降、魔物がいつのまにか死んだというような事象が度々起こるようになったのだが、それをクラスメイトは遠藤マジックと呼び、勝手に納得していた。まさに暗殺者。パラメータはクラスメイト内でも平均以下だが影の実力者なのかもしれない……遠藤曰く普通に戦っていただけらしい。
思い返してみて雫は、現状のマズさをはっきり理解していた。今でこそ奇跡的に誰もいなくなってはいないが、このままだとそれも時間の問題だとわかっていた。だからこそここで切り札を切ることにする。
「吉野さん……少しいいかしら?」
「んー、なに? 雫」
雫は永山パーティの付与術師である吉野 真央に声をかける。
「……私のアーティファクトに出来る限りの強化付与を行なってほしいの。頼めるかしら?」
「別にいいけど……確かそれって効果が切れるとアーティファクトが壊れるやつじゃなかったっけ? それでもいいわけ?」
「今を乗り越えられたらいいわ。とにかく短時間でも使える武器がほしい」
「……わかった。急いでやるけど、結構時間かかるから……」
吉野は雫から武器を受け取る。
一番理想なのは光輝があの魔人族の女を倒す……いや、殺してくれることだろう。けど……
(正直、光輝には荷が重い)
雫は予想ができていた。多分彼は殺せない。なら自分がやるしかないだろう。
(私はここで死ぬわけにはいかない)
彼と再会するまでは倒れるわけにはいかないのだ。たとえ人を殺すことになったとしても。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから怒涛の展開は相次いで巻き起こる。
魔人族の女に発見された勇者一行は追い詰められつつあった。唯一の切り札である光輝が限界突破を再び行うものの、メルドを人質にとられ、動揺した光輝は簡単に隙を突かれ、あっさり敗北してしまう。
どうやら魔人族の女は味方にしたほうがやっかいな光輝より、他のメンバーの勧誘を行いたいと考えているらしく、再度こちらを勧誘してくる。
光輝がやられたことで弱気になった中村恵里の一言で周りが魔人族に従ってもいいという空気に変わりつつある。もちろん雫も交渉という時間稼ぎを行う。
彼女の提案は雫にとって論外だった。確かにここで提案を飲めば生き残ることはできるかもしれない。だが間違いなく自由をほとんど制限される。それでは困る。それでは彼を探しに行くことができなくなる。
後方にて強化付与を行う吉野 真央に意識を割く。感覚的にもう少しのはずなのだがどうしてもこの状況では遅いと感じてしまう。
そこで再び希望が灯る。光輝が新たなる派生スキル、限界突破[+覇潰]に覚醒したのだ。
その光輝の力はすさまじかった。魔力操作全開の雫を優に上回る力が魔人族の女を襲う。相手も当然防衛のために魔物を集めるが、全く壁になっていない。今の光輝にはそれくらいの勢いがあった。
だが……
「ごめん……先に逝く……愛してるよ、ミハイル……」
魔人族のその一言で、光輝は止まってしまう。
ここでようやく戦争をしているという自覚を持ったのだ。いや、持ってしまった。光輝はこの期に及んで話し合いで解決しようなどという場違いな発言をしている。当然その隙を見逃す魔人族の女ではない。
「アハトド! 剣士の女を「雫ぅぅぅ!!」!?」
魔人族の女が明らかに時間稼ぎを行い、何かを狙っている勇者の次に危ないと思っていた雫に狙いを定めようとした時、雫にとって待ちに待ったものが届いた。
吉野により強化付与されたアーティファクトの剣が威勢のいい叫びと共に投げられる。そしてそれを受け取ると、魔力放出による強化を最大にして、最短距離で魔人族の女目掛けて疾走を開始する。
「!?」
倒せない魔物はすべて無視する。あの時の光輝ほどの突破力はないが、今の雫をとらえられるものはいない。
当然魔物も何もしないわけではない。主の危機を察した魔物は捉えられないならとその巨体で主への道を塞いだのだ。
「邪魔よ。あんたたち……」
一刀を繰り出すことで複数の刃を生み出し。魔物をまとめて葬り去る。八重樫流双閃、いや魔力で強化されているので魔装・双閃といったところか。
障害は消えた。他の魔物もあわてて動きだすが全てが遅い。
(このまま、葬る)
今の雫の速度からしたら後数歩、その距離を詰めれたら魔人族の女の首は飛んでいる。
魔人族の女は焦る。雫の殺気は本物だ。勇者とは違い、こいつは殺せる女だ。
間に合わないと思いつつ魔法を構築する。だが、ここで
「やめるんだぁぁぁぁ、雫ぅぅぅぅ!!?」
あろうことか雫の味方であるはずの、魔人族の女からしたら敵であるはずの勇者である光輝が魔人族の女に背を向けて雫の軌道に立ち塞がったのだ。光輝は幼馴染の少女の魔人族の女に対する殺気を感じ取り動いた。すべては幼馴染の少女に殺人という間違いを犯してほしくないがゆえに。いや、目の前で人が死ぬ。それも殺すのが幼馴染という自分の世界にとって
雫は目の前の光輝を回し蹴りで吹き飛ばし、その回転の勢いのまま、魔人族の女に迫る。
あと一歩、あと一歩まで来た。
……来たのに……
パキン
その音と共に、雫のアーティファクトが折れる。その音は静かな迷宮の中で驚くほど大きく響く。
その光景を見た魔人族の女は口を弧の形に歪め、待機していた魔法を目の前の剣士に向けて放つ。
その攻撃は、武器を失くした雫に直撃し、脇腹を石の槍が貫通した。
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「し……雫……嘘だ……違う、違うッ。お、俺は……こんなつもりじゃ……」
「まったく呆れてものも言えやしない……やっぱりお前はいらないわ。こんなことされたら命がいくつあっても足りないからねぇ……剣士のあんた……さっきのは惜しかったねぇ、正直死を覚悟したよ。まあ、このバカが立ち塞がらなければあんたの勝ちだったんだけどね……恨むならこんなバカを勇者にしたそちらの神を恨みな」
血を流し倒れ伏す雫に光輝は目の前に敵がいるにも関わらず剣を落とし、頭を抱えてぼそぼそ何かを言っている。その様子に少し回復した魔人族の女が呆れた視線を向ける。もう眼中にもいれていない。殺す価値もないと思っていそうな雰囲気だ。逆に重症を負ったはずの雫に対する警戒を怠らない。それほど先ほどの彼女の勢いは恐ろしかった。勇者と違い戦争している自覚がある分油断できない。
(まったく勝手なことを言ってくれるわね)
雫は魔力を纏い、無理やり体を起こす。だが、その力は先ほどに比べひどく弱弱しいものだった。
そもそも今回の件を光輝のせいにする気は雫にはない。なぜなら光輝がこのような行動を取るかもしれないことは雫には予想できていたのだから。伊達に長い付き合いではない。蓮弥の次くらいには光輝のことを気にしてきたのだ。だからこそ光輝の行動にも動揺せず体を動かせたのだ。
なら強化付与された剣に問題があったのかというとそれも違うと雫は判断する。実験を手伝ってもらった時より遥かに精度が増していたのを感じた。吉野 真央はパーティを裏から支えてきたいわゆる縁の下の力持ちというやつだった。だからこそ自分にできる最大限の仕事をしてくれたと思っている。
なら、今回のことはなぜ起きたのか。雫は内心自嘲する。
(すべては……私が甘かったから……)
正直、人を殺すということの感覚を過少に評価していた。
殺しを行う覚悟は十分してきたつもりだし、振るう剣にもためらいはなかった。
ただ、
雫の感覚ではぎりぎり届くはずの剣が、わずかな力みで想定より早く限界を迎えてしまった。
(なら……)
あきらめるという選択肢がない以上、ここで寝ているわけにはいかない。まだ勝機はある。口から大量の血を吐き出しつつも雫は体勢を整える。
だが、その雫の思惑とは裏腹に、魔人族の女は慎重だった。
「おっと、その目はまだ何か狙ってるね。私も伊達に修羅場はくぐっていない……わかるんだ。あんたみたいな目をした奴が一番怖いってね……だからあんたには悪いけど、私はあんたには近づかない。アハトド! この女に止めを刺しな!」
そういって自分は雫から距離をとる。おそらく防御も固めているだろう。それは追い詰められた獣の怖さを知っている者の行動だった。代わりにアハトドと呼ばれた魔物が近づいてくる。
(あーあ、ここで近づいてくるなら、まだ勝機はあったのに)
最後の力が抜けていく。ここに勝機は尽きた。
後方でなんとか近づこうと香織と鈴があらがっているがおそらく間に合わない。アハトドの拳が届くのが先だろう。
こんな時に雫が思い出すのは、やっぱり彼のことだった。
生存を信じてはいると言いつつも、雫の中の常識が彼の生存を否定する。それを否定するために必死になってここまで来たというのに。
まあ、お前にそこまで言われちゃあ、少しは頑張るよ。最低でもお前を守れるくらいには強くなってやるから
もし、もしその約束が叶うのなら。
今こそ示してほしいと思ってしまう。
最期なのに思い出すのが乙女チックな妄想なのが少し笑えてくる。
「……蓮弥」
最期に愛しい彼の名前を呼び、魔物の攻撃で雫は……
「なんだ?」
「えっ……」
それは雫の目の前に突然現れ、魔物の攻撃を片手で止めた。
姿は多分旧ドイツ軍の軍服だろうか、いわゆる武装親衛隊。現代ヨーロッパをこの格好で歩いたら問題になりそうな服装だった。他にも手袋と軍帽を着用している。
そういえば、彼はこの軍服をいたく気に入っていたことを……唐突に思い出した。
「……何よそれ……」
……これはきっと夢に違いない。そうじゃなきゃおかしい。そうでなければ死の間際に見たバカな妄想だろう。
だってこれではあまりに……
「……都合が良すぎるじゃない……」
あの日以来、一度も流すことのなかった涙があふれそうになる。その様子を見た蓮弥が魔物を片手で後方に吹き飛ばし焦ったように言う。
「あー、確かにさんざん待たせといて都合がいいかもしれないけど、こっちにも色々あったというか……だから泣かないでくれよ、俺はどうもお前のそれに弱い」
その光景は、初めて剣道の試合で泣かされた時にあたふたしていた、彼の顔と同じだったから……
「ルゥオオオオオオオオオオオオオオ!!」
軽くあしらわれたアハトドという魔物が猛然と蓮弥目掛けて突撃してくる。普通なら雫もろとも吹き飛んでもおかしくない威圧感。だが……
「……無粋だな」
蓮弥が軽く魔物の方を見て右手をかざす。そして次の瞬間。魔物の上半身が丸ごと消滅した。
「せっかく再会を噛みしめているのに……けど、感動の再会にしてはあんまり無事そうには見えないな。えーと、『信じよ、主の加護は、聖なる水が染み渡るがごとく、万人に浸透す……
蓮弥がまるで覚えたてのような詠唱を行い、持っていた瓶の中身を空中にこぼすとそれが球状になり、雫の体に吸い込まれるようにして消えた。
その光景を呆然とするように見ることしかできない雫は、重症ともいえる傷が完全に癒えたことに気づいていない。
「これで良し……色々遅くなっちまって悪かった……ただいま、雫」
その言葉があまりにもいつも通りだったから……
本当は言いたいことが他にもあったはずなのに……
「……遅いわよ……バカ……」
雫はそんな可愛くないことを、泣きそうな笑顔で言うしかなかったのだ。
王道なれど、やっぱり再会のシーンはこうあるべきだと思います。
そういうわけでようやく再会。
雫は武器の都合上、本領を発揮できずにやられました。雫の無双を期待していた方には申し訳ありません。ふさわしい得物を手にした時の戦闘シーンはどっかで書きます。
ちなみに蓮弥が聖術を行使しましたが、ユナがいなくても普通に使えます。ただしユナほど使いこなせないので、追加で詠唱が必要になります。つまり高速戦闘ではあまり役に立ちません。術の詠唱には敵も待ってはくれないのです。