時刻は更に進み、午後五時。
清掃を終えて解散し、沙都子と詩音は帰路の途中だった。
「明日は綿流しなんですし、詩音さんもこちらにお泊まりになられては?」
「あー、ごめんなさい! 明日は午前だけバイトですので……」
「それは残念ですわ……上田先生に山田さんと、賑やかで良いかと思いましたのに」
「あれ? 山田さんたち、古手神社にいるんですか?」
「はい! 綿流しの日まで泊まるそうでして……これがとっても楽しいですのよ!」
近況を話す沙都子は、いつもに増して楽しげだ。
これまで不幸が重なって来た彼女だ。いきいきとした笑顔を見る度に、詩音は安堵した。
「上田先生なんか、私のお家にあった壊れたテレビを修理してくださって……」
「へぇ〜! 上田先生、やっぱ器用なんですね!」
「いえ。修理に失敗しまくってまして、昨夜なんか火事一歩手前でしたのよ!」
「やめさせた方が良いと思いますねぇ〜」
「そうそう! 山田さんって、下のお名前が奈緒子さんでして、私とちょっと似ているのですのよ! 奈緒子沙都子でコンビを組みましょーってお願いしまして……」
それからもずっと、山田と上田の話を続ける。
詩音にとって驚きなのは、あの二人がこれほど沙都子の中で大きな存在になっていた点だ。
聞けば上田も、沙都子の為に園崎屋敷へ突撃したらしいではないか。あちらから彼女に歩み寄ったからこそ、こうして信頼を得ているのだなと、詩音は思う。
「……でも、ちょっと妬けちゃいますね」
「え? やける? あいにく日焼け止めは……」
「そっちじゃなくて、ヤキモチの方ですよ!」
「お餅の季節にしては半年早いですわよ?」
「あ、嫉妬って意味です。ジェラシー」
少し俯き、寂しげな笑みを浮かべた。
「嫉妬と言うより……私も、もっと沙都子と仲良くなりたいな……って、意味ですね」
「え……?」
「その、ほら……何と言うか……悟史くんにも任されているって言うのも一つ、ありますが……」
もじもじと両指を絡ませる。思いを吐露する事が気恥ずかしく、はにかみ顔になる。
けれどこれだけは言っておきたい。ゆっくりと決意を深め、一呼吸置いた後に優しく微笑んだ。
「……それ以上に……あなたを守ってあげたい。誰よりも、あなたの寄る辺になれたらなって……今は思っているんですよ?」
雲はゆったり東へ進み、吹いた風が草葉を騒つかせる。
さらさらと流れる髪の下で、沙都子はただ呆然と詩音を見つめていた。
色白な詩音の顔に赤色が差す。言っていてやっぱり恥ずかしくなって来たようだ。パタパタと手で顔を仰ぎながら、ふいっと目を逸らす。
「あ、あはは! な、何か、らしくない事言っちゃいましたー! いやー、どうしてもこの日になるとおセンチになっちゃうと言うか……」
早足で歩き、沙都子の前へ前へと進んでしまった。
並んで歩いても、この後何を話せば良いのか。珍しく詩音の頭は、混乱状態だ。
綿流しの前日で、色々と気持ちが昂っている事が理由だろうか。その上、鉄平の件もあった。心情を抑え切れなかったのだろう。
つかつかと進み、空回った笑い声を出し続けた。
「詩音さん! 待ってくださいまし!」
「!」
そんな彼女を呼び止めたのは、沙都子だ。詩音の足が止まる。
「私も詩音さんの事、大切に思っておりますのよ……」
「………………」
「……詩音さん、今でもにーにーの事を、探していらっしゃるのですわよね……?」
反射的に振り返る詩音。視線の先に、真っ直ぐな瞳の沙都子がいた。
「……多くの村の人は、もうにーにーの事を忘れようとしています。そればかりか怖がって、話題にもしません」
「…………!」
「でも詩音さんは、この二年間ずっと信じて、探してくれて……あまり皆の前で話してはくれませんけど、私は知っておりますのよ!」
離れた分、沙都子の方から歩み寄る。意趣返しされたかのように呆然とする詩音の手前まで、ゆっくりと。
「……だから改めて感謝申し上げます……ありがとうございます」
「……そんな。私、ずっと……」
泣き出しそうな表情の詩音の手を、沙都子は握ってやった。お互い少し、指先が冷たい。
「……明日は……一緒に、乗り越えるのですわよ」
舌の先を噛んで、涙が出そうな気持ちを抑えた。そのまま天を見上げ、深呼吸をしてから、詩音は手を握り返す。
次に見下ろす時には、二人とも微笑み合っていた。
「……沙都子」
「はい、詩音さん!」
「…………」
感極まった様子で、詩音は口を開く。
「ここまで来たなら『ねーねー』って呼んで貰えないでしょうか?」
「それはちょっと」
「なんで!?」
思わず仰け反り、叫んでしまった。
草葉の陰から一部始終を聞いていた秋葉が「萌え〜!」と鳴きながら咽び泣いている。
神社の階段をヨロヨロと登る山田。裏山から直行で帰って来た為、足腰はボロボロだ。
途中、準備を終えた村人たちとすれ違う。その際に「ナイチチ」「ヒンニュウ」と言われた。
「それ私が貧乳じゃなくて! この村の女の人がデカ過ぎんだバーカ!」
虚しい怒号をあげてから鳥居を潜る。
境内は、外出前よりも華やかに彩られていた。露店が並び、また拝殿前には大きな舞台も用意されている。
「おぉ、本格的! えーと……焼きそば、フランクフルト、イカ焼き、かき氷、りんご飴に……ズンドコベロンチョ?」
まだ準備中の露店を確認しながら、山田は神社の裏へと歩き出す。上田が待ち合わせ場所に指定した、「絶景スポット」へと向かっているようだ。
「えぇと、こっちかな……あ。そういやチューチュー全部食べちった……まいっか」
半日歩き続け、疲労が溜まった足を引き摺りながら境内裏へと到着する。
そこまで行けば、石畳で舗装のされていない畦道に入った。歩き辛さに苛々しながらも、何とか目的の場所に辿り着く。
神社は村の高台にあり、この境内裏には全くの障害物がない。
遮る物はなく、広々と、高々と、雛見沢を一望できた。
富竹が絶景スポットと豪語するだけある。
遠く遥かまで連なる山々、沈み行く太陽、波のように揺れる青葉や水田の稲。その全てが眼下に広がっていた。
「ほぇ〜……確かに絶景スポットだなこりゃ……ヤッホーーッ!!」
山に向かって叫び、やまびこを待つ。「ヌーブラーッ!!」と返って来た。
「さてと……あれ?」
辺りを見渡し、上田を探す。しかし人影は一切なく、ただ木々の騒めきと、鳴き出したひぐらしの声が響くばかり。
「上田さん?……あれ。梨花さんの所に戻ったのかな……」
「まだ帰って来ていないのですよ」
「ノーブラっ!?」
突然隣から話しかけられ、奇妙な驚き声と共に飛び上がる山田。
立っていたのは、梨花だった。後ろに両腕を組み、悪戯成功と言いたげにニマッと笑う。
「駄目なのですよ山田。油断していちゃ! 明日が心配なのです」
「り、梨花さんですか……驚かさないでくださいよ。ただでさえ疲れているのに……」
「何やってたのです?」
「裏山の、鬼の子地蔵様を見に行ってました。鷹野さんに案内されて」
鬼の子地蔵様と聞き、梨花は「あ〜」と、どこか納得したような口振りで頷いた。
「坂道だらけで大変なのです。だから山田、そんなヨボヨボのヘロヘロなのですか?」
「えぇ……あぁ、そっか。明日また、詩音さんと会いに登らなきゃならないのか……憂鬱になって来た……」
「あそこはボクたちも滅多に行かないのです……あ! 山田もしかして、その石像の前で内緒話しましたのですか?」
「え? ま、まぁ……」
梨花はわざとらしく「あちゃー」と、自身のひたいを叩く。
「な、なんか、マズかったですか?」
「みぃ。鬼の子は口が軽いのです……あそこで内緒話をすると、なぜか村中に知られているって、言い伝えもあるのですよ。だから村の人は絶対に、あそこでコソコソ話はしないのです」
それを聞いた山田は、鼻で笑った。
「ハハ……そんなの、ただの言い伝えですよ。石像が生きている訳ないじゃないですか。ドラゴンクエストじゃあるまいし!」
「ドラ……みぃ。未来人の言葉は分からないのです」
「なんかそう言うのは、伝承が盛られているだけですよ。あの胸のように」
「…………確かにアレは盛り過ぎなのです。みぃ……見てるとなんか、ムカムカするのです」
そんな雑談を続けていると、やっと上田が現れた。
別れた時よりもやけに、神妙とした様子だ。ずっと考え事をしているかのように、首を跨げている。
「あ、上田さん! 遅かったじゃないですか!」
「どこほっつき歩いていたのです?」
「……あ、あぁ……悪いな」
いつになく口数も少ない。
明らかに何かあったであろう上田に対し、二人は訝しむような目を向ける。
「なんかありました? めちゃくちゃしおらくなって……」
「……あぁ、いや。何でもない」
上田は両手で顔を拭ってから、俯き気味だった顔を上げた。
その際に、ゴミしか入っていない駄菓子屋の袋に気が付く。
「おい山田。チューチューは?」
「へ? あ。全部食べちゃいました」
「お前何本買った?」
「三本です」
「……どっからどう見ても十本買ってんじゃねぇか! 十本一人で食ったのか!?」
「…………美味しかったっす」
「この傲慢の権化がッ!」
もう空っぽのチューチューの容器を、更にチューチュー吸う山田。
呆れたように上田は首を振り、気を紛らす為に景色を眺め出す。
「それで、どこ行ってたのですか上田?」
「……あぁ、まぁ。興宮署だ。明日、祭りの間は厳重に警備するよう言っておいた。また神社の方に、詳しい計画が電話で伝えられると思う」
「とても心強いのです!」
「あと、ソウルブラザーとタカノンノンとの約束も取り付けた! これで俺たちは、セコムになれる!」
「未来人の言葉はやめて欲しいのです」
何とかいつもの調子を取り戻して来た上田。だが、山田はまだ怪訝そうに眉を潜めていた。
「あぁ、そう言えば梨花。綿流しのスケジュールはもう決まっているのか?」
「スケジュール表は貰っているのですよ。ウチに置いてあるのです」
「そうか。まぁ、情報は多い方が良い。今の内にスケジュールを頭に叩き込んどくか……じゃあ、家に戻るか」
帰宅を促され、梨花は一人テクテクと家の方へ歩き出す。
山田も後に続こうとしたが、ふと振り向いた時に、景色を見て黄昏れる上田に気付いた。
「……どうしたんですか、上田さん。やっぱり様子がおかしいですよ」
「……いや。何でもない」
「それに上田さん、興宮署に電話しに行ってましたよね? 別に直接行く必要なかったじゃないですか……」
山田の鋭い追求に対し、バツが悪そうに上田は頭を掻く。
「本当は、どこ行ってたんですか?」
「………………」
「……何か情報でも──」
「あー! もうこんな時間かー!」
クォーツの三万円もする腕時計を確認しながら、わざとらしい声をあげる。
「あと五時間。日本時間の二十一時三十三分に、アメリカでは一台のロケットが発射される! スペースシャトル『チャレンジャー号』の、二度目の有人宇宙飛行だ!」
「……いきなり何ですか」
「この宇宙飛行は、アメリカにとって歴史的な瞬間でもあった! 同乗している『サリー・ライド』は、アメリカ人初の女性宇宙飛行士として、成層圏を出るんだ!」
「上田さん、どうしたんですか! はぐらかしてんですか!?」
「山田」
振り向き、目を合わせる。いつものようにギョロっとした目が、山田を見据えた。
どこかその目に、動揺が宿っているような。
「……必ず、明日話す。まだ確証が持てないんだ」
「何を今更……明日、死人が出るかもしれないんですよ? 仲間内で秘密はやめましょうよ」
「……頼む」
問い詰めてやろうと近寄った山田だが、上田の真摯な目を前にして言葉を飲んでしまった。
頼む、聞くな。そう言いたげな目をしていた。
すっかり口を閉じた山田。今にも崩れ落ちてしまいそうなほど、動揺を瞳に宿した上田。
そんな彼らを、木の影より梨花は見守っていた。
手を振り、去って行く沙都子と詩音を見送った。二人は「また明日」と約束してくれた。
同じ頃、靴を履き終えた圭一も、玄関先から帰路に向かおうとする。
「……あの、圭一くん」
レナはそれを呼び止め、「ん?」と振り返る。
いつもは凛々しく見える彼の顔が、あどけなく年相応なものに見えた。
「どしたレナ?」
「……腕は、大丈夫?」
「腕?……あぁ」
自身に突き刺そうとした注射器を、寸前で受け止めた圭一の腕。
ぴらりと袖を捲ると、その部位にはまだ包帯が巻かれていた。
「入江先生のトコにも行ったし、ちょっとまだ痛ェけど全然大丈夫だ!……あっ。入江先生には、遊んでいた時に廃材置き場の釘が刺さったって言っといたからな?」
「……本当にごめんね」
「良いってよ……こうやってまた、レナと会えんなら僥倖ってやつだぜ」
歯を見せて笑う圭一。
あまりに屈託がなく、眩しい笑顔に、釣られてレナも微笑む。
「……それと、もう一つ」
「なんだ?」
「……その。あの時は自分でも訳わからなくなってて、勢いでワーッて言っちゃったけど……」
思い出すだけで恥ずかしく、同時に罪悪感に苛まれる。
恋焦がれた人と心中する為に友達を騙したと言う、何とも最低な所業をしでかしてしまった。
丸く収まったと言うには傷付けてしまったもの、失ってしまったものが多い。
そしてまた、縛り付けてしまったものもある。
「……圭一くんは、あの時レナが言った事……忘れて欲しい」
憂いを帯びた物言いで、お願いをする。
「レナもあんな方法で……その……圭一くんを縛り付けたくないの」
「………………」
「……圭一は優しいから。言っておかないと、ずっと寄り添ってくれると思う……でもそれだと、自分が自分を許せなくなる。傷付けて、迷惑もかけたのに、虫が良いって……」
一瞬だけ驚いたように目を丸くしたものの、レナの言葉が終わるまで黙って待ってくれた。言葉を探し、言葉を尽くそうとするレナの前で、ただ耳を傾けた。
「……だからあの夜の告白だけは……忘れて欲しいの。圭一くんはレナに……私に気を遣わず、本当に好きな人を探して欲しい」
言い切り、口を噤んで俯いた。
圭一は暫し考え込むように唸った後、二、三度小さく頷いてから話を返す。
「……分かった」
「……ありがとう。圭一くん」
「でも一つ、俺からもお願いだ」
レナはパッと顔を上げ、目を瞬かせた。
視線の先にいる彼は、挑発的な笑みを浮かべている。驚いたレナの顔を見て、してやったりと思っているようだ。
「だからって、自分に嘘は吐くんじゃねぇぞ。あの告白が無効なら、また別の方法でぶつかって来いよ。俺はまず、レナを嫌いになったりはしないからよ」
そこまで言って、やはり恥ずかしくなって来たのか、圭一はフイと顔を背けて頬を掻く。
少し格好が付かない圭一。それでもレナはまた、彼の事を好いてしまう。
あぁ。どうしてこの人は、レナが求めてしまった言葉を言ってくれるのだろう。
情けなくもあり、辛くもあり、それ以上に暖かく、どこか心地良い。
一陣の風が吹き抜けるような、目には見えずとも確かに存在する優しさに、レナは涙を零してしまった。
「……あはは。本当に圭一くんは……変な人だよね」
「な、なんだよぉ! レナに言われたくねぇよ!」
また恥ずかしそうに頬を掻く。
するとその時に、思い出したようにレナへ質問をした。
「そういやレナって、本当は『礼奈』なんだよな? なんで『レナ』なんだ? 言いやすいからか?」
「あー……」
涙を拭いながら、やや言い辛そうにレナは身体をゆらゆら揺すった。
「……雛見沢に来て、それまでの『イヤな事』を忘れようって思ったの。だから、
「あぁ……そうだったのか」
「……これだと『イイ事』もなくなっちゃうけどね」
自嘲して苦笑いするレナ。
その手前、圭一はムッと不機嫌顔だ。
「レナ、それはやめて欲しいぜ! 俺が困っちまう!」
「……え? 圭一くんが?」
「あぁ! そんな事されたらよ……」
腕を組み、圭一は悪戯っぽく笑った。
「……俺の名前、『ケチ』になっちまうだろ」
その意味を理解し、面白おかしくなったレナは吹き出す。しかしツボに入ったようで、吹き出してからも笑いが止まらなかった。
「ほ、ホントだね! あはは!」
合わせて圭一も笑う。
二人の溌剌とした笑い声は、鳴き始めたひぐらしたちの声に混ざった。
──しゃぶしゃぶ屋なのに、他の客は相変わらず蕎麦をズルズル音を立てて啜っていた。
その音に驚き、礼奈はハッと我に返った。
鍋の中央に張られた波型の仕切りで、二種類のだしが混在しないように区切っている。
片方は醤油だし、もう片方は味噌だし。詩音は味噌だしで豚肉をくぐらし、自身の
「んー! これぞ幸せ……私は今、幸せを噛み締めている……!」
満面の笑みで頬張る彼女は、何とも子どもっぽく見えた。
オーナーとしての凛々しい彼女とのギャップだろう。そんな子どもっぽささえ礼奈には魅力的に思えた。
もう五十手前と言うのに、詩音はとても活力的だ。
唯一の同郷の友として、人としても尊敬している。
肉をだしの中で泳がせながら、チラリと礼奈を見た。
また、物思いに耽る彼女に気が付いたようだ。
「……食が進んでいないようですけど?」
「……へ? あ……ご、ごめんね? あはは……歳取っちゃうと考え事の時間が増えちゃうから……」
「うん、うん。分かります分かります。これが噂の更年期……最近、勝手に頭がボーってしたり──」
「あー……年齢の話、やめよっか?」
「そうですね」
だしから、茹で上がった肉を取り出し、胡麻ダレに付けて食べた。
礼奈も倣うように白だしで豚肉をくぐらせ、ポン酢でいただく。
「……そっか。もう、三十五年か……」
噛み締めながら、ぽつりと溢した言葉。
詩音の耳にもそれは届いた。ゆったりと小刻みに頷きながら、返す言葉を探している。
「……いやはや……時が経つって早いですよね。若い頃って本当、そのままずっと続くような感じだったのにね?」
「………………」
「お姉さんって呼ばれたかと思えば、気付いたらおばさんで、ハッとなったらお婆さんって言われ兼ねない歳で──あぁもう! 歳の話はしないって言ったのに!」
鍋から昇る湯気の向こうで、詩音ははにかむ。
釣られて微笑む礼奈だが、表情から影は消えない。
ぐつぐつと湧き立つだしの上に、
それに気付いた礼奈が、オタマを持って取り除いてくれた。
「私はね、詩ぃちゃんは凄いなって思うよ」
「そうですか?」
「大災害の後も、必死に未来を見ていてさ……」
「………………」
「……私はずっと、雛見沢に閉じ込められたまま」
掬った灰汁を、灰汁取り用のガラ入れに流して行く。
「……ううん。私こそ、未来を生きて行く資格なんて……本当はないハズなのに」
「……レナさん。やめなって」
詩音の制止も聞かず、オタマを置いたと同時に口走った。
「……人殺し、だしさ」
絶句し、凝視する詩音。
その目線の先にいる礼奈は泣き出しそうな顔で、口元を手で覆い隠していた。
「……決して忘れられない。あの時の痛みと、爆発……圭一くんの声も、憎しみのこもったクラスメイトたちの目も……」
脳裏には当時の状況が映写機のように再生されていた。
馬鹿な陰謀論を信じた自分は、寄生虫の特効薬を求めて学校で籠城事件を起こした。
ガソリンをありったけ雨樋に溜め、時限発火装置で繋いだ。
時間以内に薬が来なかった場合、自分含めたクラスメイト全員と死ぬつもりでいた。
その際、寄生虫を媒介した張本人だと思っていた魅音の首と壁とをU字ロックで拘束し、絶対に逃げられないようにした。
沙都子がいれば、ロックは簡単に外れていたハズだった。
だがその時、沙都子はいなかった。
自分は「リナだけを殺し、鉄平は殺せていなかった」。
だから沙都子は鉄平に引き取られたまま、大災害まで会う事はなかった。
圭一と梨花の立ち回りで、人質は「魅音以外」全て解放。
しかしトラップに造詣の深い沙都子がいない事で、圭一たちは時限発火装置の場所に気付けなかった。
間に合わないと踏んだ圭一らは、自分を気絶させる事で校舎外に連れて避難した。
そこで中にいたクラスメイトたちが、泣きながら必死に訴える。
「魅音さんが取り残されたままだ」
「私を置いて逃げろって」
「ロックが開けられなかった」
圭一が振り向き、校舎に戻ろうとした頃にはもう遅かった。
大きな満月の下で、月光を凌ぐ閃光と炎が上がる。
学校は、魅音と共に、爆発してなくなった。
記憶の再生が終わった頃には、二人とももう箸は止まっていた。
ぐつぐつと煮える音と湯気が、二人を区切っているかのようだ。
まるで面会室。
詩音は来訪者で、自分は罪人──消えない罪を背負い、過去と言う永遠の牢獄に今も収監された重罪人だ。
「……少年法と精神鑑定の結果で、私は罪に対して……何とも軽い罰で済んでしまった」
詩音は「違う」と、首を振っていた。
「誰よりも許されない存在なのに……みんなが死んで、私だけが生き残ってしまった」
背筋を伸ばした礼奈は、真っ直ぐと詩音を見据える。
注ぐ彼女の瞳は、懺悔に満ち満ちていた。
「……この三十五年間、一度も自分の罪を忘れた事はない」
「違うよ、レナ、さん……もう、良いんですよ……」
「詩ぃちゃんはこんな私を……許してくれただけじゃなくて、助けてくれた。恩を返す為にも、私はやらなくちゃいけない事がある」
「……レナさん」
「……私を呼んだ理由は、それなんだよね?」
一度瞳を閉じ、決意を込めて開く。
これから突拍子のない事を言って、詩音を混乱させるかもしれない。
雛見沢大災害は自然災害ではないかもしれないと言っても、信じてはくれないだろう。
馬鹿げた陰謀論を信じた、あの時の「竜宮レナ」から何も変わっていないと、失望されるかもしれない。
それでも礼奈は、この三十年余り続けた事を、告白しなければならなかった。
「……あの日から何も、変わっていない」
雛見沢大災害の真相を暴く、と言う事。
詩音は何も言わず、柔らかい眼差しで礼奈の言葉を受け止める。
「……私の『罪滅し』は……まだ終わっていない」
一瞬だけ詩音は、自分の目を疑った。
湯気の向こうの礼奈が、三十五年前の──「在りし日の竜宮レナ」に見えたからだ。
部活でいつも見せていた、あの眩い笑顔の彼女に。
時刻はやっと午後十時を過ぎた。冬の夜はすっかり深まり、オリオン座が夜空に照っている。
街灯がチカチカ、道路上に瞬く。通る車のヘッドライトが灯台の灯りのように現れ、テールライトの赤を残して消える。
気温は一度か、下手をすれば氷点下と思われる寒さ。
路肩に停めた車から、二つの人影が降りる。礼奈と、詩音だった。
吹いた風が熱を奪う。二人は身を縮め、靡く髪を抑えながら、厳冬の寒さに顔を顰める。
誰もいないパーキングエリア。
その一つ先にぽつりと街灯が照らす、寂れた山道があった。
道の入り口には、なけなしの警告板と、遮蔽物。
旧雛見沢村へ至る、礼奈と詩音にとっては懐かしい道だ。
「……災害以降」
白い息を漏らしながら、詩音は独白のように話し出す。
「……ここに来るのに、今も勇気がいるんです。地元なのに、近付く事を避けていました……ここまで来たのはホント、数年ぶり」
道の手前は店だのパーキングだのと、三十五年前よりも少し華やかになっていた。
しかし道自体は、あの日から何も変わっていない。詩音はそれを、物憂げな表情で見つめた。
ちらりと、礼奈を一瞥。
影のかかった顔で、真っ直ぐと見据えている。
道ではない。その先で、山の向こうにある、今は亡き故郷へ目を向けていた。
通りがかったバイクのライトが、礼奈の顔を照らす。
一瞬伺えた彼女の表情は、期待に満ちているようで泣き出しそうで。正負の感情が渾然一体となっているようだ。
再び辺りを闇が覆う。
礼奈はそのタイミングで詩音へ微笑み、口を開いた。
「……もっと。近付こうか」
誘われるかのように彼女は、道の方へ歩き出す。
疲れ切ったその背中を見ながら、詩音もまた意を決して後に続く。
パーキングを横切る際に、詩音はある車が目に入った。
今じゃ滅多に見られない、トヨタ・パブリカだ。
「……うわ。パブリカですよ。まだあったんだ、懐かしい……」
「あ……ちょっと詩ぃちゃん、他人の車だから触ったら……」
詩音がドアの部分にちょっと触れただけで、枠からガコンと外れてしまった。一気に二人の表情が青くなる。
「え? なんで?」
「な、なにやってるの詩ぃちゃん!?」
「いやいや! 待ってください!? ちょっと撫でただけなのに!?」
その際に礼奈はチラリと、車内を見た。
後部座席にはズラリと本が並んでおり、それに気付いた彼女は「あっ!」と声をあげる。
「どんと来い超常現象シリーズに、なぜベス、人生の勝利者……この車、もしかして……!」
ナンバープレートを確認する。品川ナンバーの為、間違いなく東京から来た車だ。
「やっぱり……! 上田先生、来てくれたんだ……」
「し、知り合いでした? なら……まぁ、ドアも許してくれますね」
「詩ぃちゃん……」
「ちゃ、ちゃんと弁償しますから……そんな目で見ないで」
外れたドアをとりあえず、車体に立て掛けておく。ドアの裏にはなぜか「トイレツマル」の文字が書かれていた。
車を通り越し、道の前へ再び歩く。途中、礼奈が上田について話してくれた。
「一ヶ月前、わざわざ東京に行って……上田次郎って言う学者さんに、雛見沢大災害を調べて欲しいって依頼したの」
「え……?」
「その人何でも、日本中の古い村とかに赴いたりしてて……祟りとか呪いとか、そう言うものの正体を暴いて来たんだって」
「……だから依頼したんですか? でも、三十五年前ですから……」
詩音の言葉は尤もだ。既に終わった事までは、そんな上田でもカバーし切れないハズだ。
それでも依頼に踏み切ったのはなぜか。理由を待つ詩音へ、礼奈はゆっくりと応えた。
「アレは災害なんかじゃない。寄生虫がいて、みんなを狂わして、それで…………」
そこまで言ってから、首を振った。
「……違う。私は、見切りを付ける為に依頼した」
「……見切り、ですか……?」
「偉い学者先生が村を調べて、そして私にこう言って欲しかった……『あなたのそれは、全てまやかしですよ』って」
くるりと礼奈は、詩音へ向き直る。
「私は今でも信じてる。鬼隠しもオヤシロ様の祟りも、全てはまやかしだって。大災害だって自然の物じゃなくて、寄生虫だって……全部全部、誰かが仕組んだ事なんだって……」
「………………」
「……でももう……疲れちゃった。信じ続けるには歳を取り過ぎて、真相に至るには時間をかけ過ぎてしまった」
年齢の割に若々しいとは思ってはいたものの、小皺や白髪など、やはり「歳を取ってしまった」証拠が礼奈の顔にはある。
「だって、詩ぃちゃん……もう、三十五年だよ……? 私はもう四十九歳……なのにまだ、あの頃の自分が消えない……あの夏の自分が消えない……」
「……レナさん」
「何とかここまで自分を保って来た……でも……もう、限界が近付いている。これじゃあ、真相に至る前に私が壊れてしまう」
加齢とは自然の摂理だ。一年一年、一刻一刻、我々は死へと近付く。
その度に身体は衰え、考えも纏まらなくなる。気力も落ち、霞む目さえ止められない。
抗えないのならば、諦める他はない。
礼奈はもう、雛見沢村を追い続けるだけの体力を、失いつつあった。
「……誰かに止めて貰いたい。でもこれは、前を向いている詩ぃちゃんは巻き込めない事……」
「……だから、東京の先生に諦めさせて欲しかったの?」
「……うん。雛見沢村を巡って、私のこれまでを否定してくれたら……やっと、私は解放されるって考えたの」
震えた唇の隙間から、白い息が吐かれる。
「……私の中の、『竜宮レナ』がいなくなってくれる……」
礼奈は立ち止まった。
気付けば道の手前、立ち入り禁止の看板の前まで来ていた。
一本の街灯の向こうは、深い闇に染まっている。それを前に、礼奈は身体を震わせた。
「……でも、まさか詩ぃちゃんから声がかかるなんて」
詩音は口を開く。
「……レナがずっと、あの日の雛見沢に囚われている事は気付いていました」
「……だろうね」
「でも私は……私の事でいっぱいだった。園崎家もなくなって、姉もいなくなって……私の手にはもう、何も残っていなかった……」
「………………」
「……あなたを、気にかけてあげられなかった」
振り向き、礼奈は首を振る。
「……あなたは何も悪くない。詩ぃちゃんはそれでも、前を向いて──」
「それは違いますよ。レナ、さん」
悲しみに満ちた目をしていた。それでも彼女は精一杯の笑みを作った。
歪な笑みだ。けれども、気丈で安らかでもあった。
「……私も。あの夏に囚われている一人です」
大きく息を吸う。肺を冷え切った酸素が満たす。
吐き出すように、名残惜しそうに、言葉を継いだ。
「……全ての秘密を、ここで話す……それで、もう終わらせましょう」
「………………」
「……この三十五年と、あの夏を……」
二人の視線が噛み合う。
遠く道路を車が走り抜ける。
闇が覆い、月は見えず、星は瞬き、街灯が唯一二人を照らす。
今から行われるのは、「最後の発表会」。
この三十五年で得た物と秘密を、互いに明らかにする。
これで終わりだ。詩音から先に、恐怖の滲んだ表情で語ろうとする。
最初の告白は、勇気が欲しかった。俯き、呼吸を整え、寒さに震える唇を何とか力ませて、吐き出そうとする。
礼奈はそれを遮った。
「……怖がらなくて大丈夫。私は、知っているよ」
にこりと微笑んだ。
「ねぇ。『魅ぃちゃん』」
彼女とは、一緒にお風呂にも入った事がない。
背中にある、「鬼の証」を見せない為に。
『暴走』
『激唱』
『雪、無音、窓辺にて』
『MGS with CQC 』
『マイセンで通じる時代は終わってんだ』
『人間とかいう種族wwww』
『つづきは淫魔ちゃんねる』
生徒たちの作品に囲まれる中、興宮の書道教室で書き続けていた里見。
庭でバトルファイトを行う塾長たちを尻目に、筆を何度も半紙の上に滑らせた。
その手が、ぴたりと止まる。
彼女の鋭い眼差しが、正面へと持ち上がった。
「……奈緒子……」
スッと筆を置き、立つ。
すぐ後に塾長たちが教室に戻って来た。
「いやぁ! まさかトリニティでカマすとは思わなかった!」
「運命は避けられないのかッ!?」
「山田先生! もうジョーカーも人類も助かりましたから、もう安心──」
下駄を脱ぎ、室内に入り、里見のいた方を見る。
そこにはもう彼女はおらず、「焛」の文字が書かれた紙が置いてあるだけ。
「……山田先生?」
「どこ行ったんです!?」
「剣崎ぃーーーーッ!!」
最後に向けて、夜は進んで行く。役者は揃いつつある。
これもまた、時が遭わせた運命なのだろうか。
過去と、未来で、各々の真相へと近付きつつあった。