TRICK 時遭し編   作:明暮10番

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もう一度

「──と、言う感じでまぁ? フーディーニの声を伝えられる霊能力者は現れなかったんですよぉ!」

 

 

 牢屋の中にいる上田は、スクワットしながらフーディーニ最後の逸話を話してやっていた。それを聞いている富竹もスクワット中だ。

 

 

「悲しい話です……! 同じ、大事な人を喪った者として、その奥さんに同情してしまいます……!」

 

「しかしインチキだと判明して良かった! 傷心中の未亡人を騙すなんざ、酷い話ですからねぇ!」

 

「酷い話ですッ!! うぉぉぉーーッ!! ミヨぉぉーーーーッ!!!!」

 

「ちゃんミヨぉーーッ!!!!」

 

 

 亡くなった鷹野三四に捧げるスクワットは、二百回目を超えた段階で終了した。二人ともバタンとその場で倒れ込み、呼吸を整える。

 

 

「ふーっ、ふーっ……天国の鷹野さんも見てくれているでしょうか……」

 

「えぇ……見ていますとも……まぁ私はまだまだ余力が残っておりますので、全然まだまだ弔えますがね?」

 

 

 汗を拭いながら、富竹はポケットから財布を取り出した。

 その財布の中には、在りし日の鷹野の姿を撮った写真が折り畳まれていた。彼はそれを抜き取り広げ、悲しい眼差しで見つめる。

 

 

「……鷹野さんはとても聡明で、それでいてキュートな方でした」

 

 

 愛おしそうに写真を撫でる。

 二人で山歩きをしていた時の物だろうか。写真の中の彼女はとても楽しげで、困ったように歯を見せて笑っていた。

 

 

「でも僕は薄々、感じていたんです……彼女はどこか、他人とは一線を引いている……その証拠に、僕は彼女の過去を知らない」

 

「……秘密主義だったんですかね?」

 

「と言うより……誰も信用していなかったのだと思います。それこそ、僕を含めて……」

 

 

 きゅっと口を結び、苦々しい顔付きとなる。

 

 

「……『東京』は陰謀で渦巻いています。国の実権を狙っては、潰し合い蹴落とし合いばかり……そんな場所に身を置く以上、組織の人間を信用出来ないのは当たり前です。それに僕の立場は、入江機関の監査……ハニートラップの類だと疑われても仕方ないですよ」

 

「そんな悲観にならないでくださいよ……ほら。その写真の三四さんは、屈託のない笑顔です」

 

 

 上田は微笑みながら慰める。

 

 

「あなたにそんな笑顔を向けたんだ。全部ではないにしろ、間違いなく信頼は勝ち得ていたハズですよ!」

 

「……そうなんですかねぇ?」

 

「えぇ!」

 

 

 それを聞いた富竹の硬い表情は、些か柔らかいものとなった。

 もう一度彼女の写真を撫でると、名残惜しそうにしながらまた財布の中に戻した。

 

 

「……この悲しみを他の人に味合わせる訳にはいかない。三四さんを殺した奴は、必ず見つけ出してやる」

 

「その意気です!……まぁ、今は牢屋の中ですがね?」

 

 

 牢屋の外では園崎家の組員たちが、横一列に並んでスクワットを続けていた。

 

 

「外の山田が何とかやってくれると良いんだが……」

 

「そう言えば上田教授。山田さんとは恋人なんですか?」

 

 

 

 

 ぴたりと上田の動きと表情が止まる。その様に気付く事なく、富竹は続けた。

 

 

「ジオ・ウエキに捕まっていた時にも上田教授、山田さんの名前をいの一番に叫んでいましたし」

 

「………………フッ。勘違いされては困りますがね?」

 

 

 眼鏡と腕時計を異様に弄くり回しながら、早口で否定する。

 

 

「私みたいな高貴な人間が、あのような社会的にもバスト的にも最底辺のメスのホモサピエンスと恋人になる訳がないでしょう?」

 

「そうなんですか? 結構、息が合っていたような気がしていましたので……」

 

「腐れ縁って奴ですよぉ。あいつ、記憶喪失になっちまったんで、私が情けをかけて、◯◯七九番目の助手として置いてやってるだけです」

 

「コロニー落とし?……と言いますか、え? 山田さん、記憶喪失だったんですか……?」

 

 

 否定する事に集中していたせいで、つい山田の秘密をポロッと溢してしまった。一瞬「やってしまった」と言わんばかりに顔を顰めたものの、次には開き直ったように山田の事を話し始めた。

 

 

「えぇ、そうなんです。とある事故で……言ってももう、記憶喪失から七年も経ってて、日常生活に支障はない程度には回復してますがね?……けれど、まだまだ忘れている事は多い──」

 

 

 そう言った途端、上田の表情に翳りが生まれた。

 

 

 

 

「…………いや。忘れていた方が良い事もあるんでしょうが……」

 

 

 ふと、彼の脳裏に浮かび上がった、「あの日の光景」。

 焼き付いたその記憶は、今でも彼の前に度々現れては震え上がらせてしまう──

 

 

 

 

 

 

 

──そこはうそ暗い、外の光が微かにだけ青く差し込んでいる洞窟だった。

 

 

 冷たい空気、止まらない地鳴りと揺れ、鼻に付く土とガスの匂いが、今も感覚として残っている。

 

 

 天井が崩れ、それによって出来た岩々の壁が、二人の間を遮っていた。

 壁の向こうにいる山田の表情は何とも儚げで、何とも危うげだった。

 

 

「……全部、私たちの責任なんです」

 

 

 底冷えするような、諦念と決意の滲んだ声だった。心臓が握られるような嫌な気分が迫り上がる。

 そんな上田の気分を知ってか知らずか、山田はまだその声で続けた。

 

 

「私たちがここに来なければ……きっと、あの呪術師の女の人がこれをやったハズです」

 

「…………」

 

「……私たちが、ここに来なければ……」

 

「……山田! 良いから来いッ!」

 

 

 自身に渦巻く最悪な予想を打ち消すように、そして祈り願うように、上田は彼女を呼ぶ。まだ壁は塞がり切ってはおらず、少し頑張れば乗り越えられるハズだ。

 

 

 

 

「上田さん」

 

 

 しかし彼女はその願いに応じず、ただ真っ直ぐこちらを見据え、しっかりと名を呼ぶだけ──いつも何か、悪い事を思い付いた時のような、自信に満ちた笑みを浮かべて。

 

 

 

 

「最後に一つ──賭けをしましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………上田教授?」

 

 

──富竹に名を呼ばれ、ハッと我に返る。

 気付けばそこは牢屋の中。そして地響きが続く洞窟ではなく、整備された薄暗い土の洞窟だった。

 

 横目で見れば、富竹が訝しむような顔で心配していた。

 

 

「どうされました? いきなり黙り込んで……」

 

「……い、いや? ちょっと、P対NP問題に対するゲーデルの不完全性定理からのアプローチは可能であるかについて考えていたところです」

 

「………………なるほど。それよりもう、山田さんは大丈夫なんですか?」

 

「まぁ、大丈夫ですよ。脳と言うより心因性、つまり精神によるものですし、身体に不自由はなさそうでしたから」

 

 

 そう言ってから上田は、牢屋の中から洞窟内を見渡した。その瞳には微かに恐れがあった。

 

 

「…………」

 

 

 山田の記憶喪失は心因性によるもの。つまり「忘れてしまった」のではなく、「思い出さないようになってしまった」と言う事。記憶自体は脳の奥底に眠っている。

 

 

 忘れていた記憶と同様の状況、そして強いストレスが、思い出すキッカケになる。

 それだけなら良い。思い出すだけなら良い……しかし上田は知っている。「それだけではない」事を。

 

 

 

 

 記憶喪失に陥った山田を連れ、上田は何度か二人とゆかりのある村を巡った。彼女の記憶を復活させる為に。

 その思惑は見事に当たり、山田は次々と自分との思い出を取り戻して行ったが……困った事があった。ふと、ジオ・ウエキに捕まってしまった時の事を思い出す。

 

 

「……なぜ、ベストを尽くさないのか」

 

「Why !?」

 

「Don't you!」

 

「do your best !?」

 

 

 あれはまさに、「蛾眉(がび)村」で、言霊使いと戦った際に起きた一連の出来事と全く同じ行動だった。

 

 

 

 

 

 山田は記憶を取り戻した途端──「その記憶と同じ事を再現する」と言った行動を、無意識で起こす事がある。

 これまで良くあったのは、突然ショックを受けたかのように立ち止まったり、悲鳴や誰かの名前などを叫んだり……記憶の想起と共に幻覚や幻聴も伴っているようだった。

 そして思い出された記憶がショッキングな物だった場合、記憶の混濁と気絶さえ起こしていた。

 

 

 上田が恐れているのはそれだ。

 

 必死に彼が思い出さぬよう祈っていた、「ムッシュム・ラー村」での忌まわしい記憶。まだ思い出せていないあの記憶を取り戻した時、彼女はまた何をするのかと恐れていた。

 

 

 

 

「……今でも洞窟に入るとヒヤヒヤするもんだ……」

 

 

 山田がここにいない事に少し安堵する上田。

 もういなくなられるのは御免だ。そして次こそはもう戻って来れないだろうと、予感していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 興宮市民会館は、人で溢れていた。とは言え平日なので、既に定年の老人や主婦と言った人たちが多いが。平日開催なのは、彼のスケジュールを無理矢理獲得したが故だろう。

 

 

 それでもこの人の数。

 それもそうだ、当たり前だ。「彼」は、日本を代表するマジシャンなのだから。

 

 

 

 

「はぁ……はぁ……!」

 

 

 息を切らし、市民会館に辿り着いた、赤ジャージと眼鏡の女。

 夏の暑さにその格好は割と厳しい。汗水を垂れるほど流し、焦燥に満ちた顔で入り口に飛び込んだ。

 

 玄関ホールで踊る北欧人集団を切り抜け、奥へ奥へとひた走る。

 

 

 会場は人でいっぱいだ。観覧者が扉から溢れているほどだ。そして既にショーは始まっているようで、中からは拍手や歓声が響き渡っていた。

 

 

「ちょ、ちょっと……!」

 

 

 観衆を押し退け、掻き分け、その隙間に無理矢理身体を捻じ込み、会場の中へ中へと突き進む。

 そしてやっと、人混みに弾かれるようにして、ホールの中へと入れた。

 

 

 

 鳴り響くのは、マジックショーの曲としてあまりにも定番な「オリーブの首飾り」。

 カーテンを閉め切った暗い会場で、眩いスポットライトに当たるその人を見た瞬間、彼女は思わず震え上がってしまった。

 

 

 

 

 衝撃的なまでの再会、そして本当ならあり得なかった、理を超えた邂逅。

 

 シルクハットから飛び出した兎を笑顔で抱えるその人こそ、彼女がずっと追い続けていた人。

 

 

 

 腕に抱えた兎を放り投げた途端、それは鳩となって宙を舞った。

 驚きと感嘆の声が観客席から響き、万雷の拍手が鳴る。

 

 

 飛ばした鳩が、垂れ幕の前を横切る。その垂れ幕には、「山田剛三のイリュー()ョン()ョー」と書かれていた。

 

 

「…………っ!」

 

 

 掛けていた伊達眼鏡を外し、会場の最後方から彼を見守る。その瞳は涙で潤み、今にもその涙点から溢れてしまいそうだ。

 

 

 整った髪と、切り揃えられた髭が素敵な、タキシード姿の男。

 彼の名は山田 剛三。山田──奈緒子の父だ。

 

 

 次に剛三は、最前列に座る老父を指し示し、ステージに上がるよう促す。彼はおずおずと、少し恥ずかしそうに頭を掻きながら壇上へ上がる。

 すると剛三は懐からトランプを取り出した。彼が得意とする、トランプマジックを披露するつもりらしい。

 

 

 剛三はマイクを片手に持ちながらトランプの束をぱらんと開き、老父に言う。

 

 

 

 

 

 

「──この中から一枚のカードをお選びください」

 

 

 やっと聞けた父の声は、錆びついた記憶の中にあったものと少し違う気がした。記憶の中の声よりも厳しく、ずっと穏やかだ。

 これが本当の父の声だと、噛み締めるように聞き入る。

 

 

「選んだカードは私に見せず、皆様の方へ向けてください」

 

 

 手振りを交えて彼に説明し、そしてトランプを一枚引かせる。

 老父は言われた通り、引かれたカードを剛三に見せぬよう手元に持って行き、そしてくるりと客席の方を向いて、自身が引いたカードを見せ付ける。それは「ジョーカー」のカードだった。その間剛三は手を後ろにして、万が一見てしまわないように俯いている。

 

 

 再び剛三の方へ向き直った老父は、カードを裏向けにしたまま剛三に渡す。その受け取ったカードは束の一番上に置かれた。

 そして束をしっかりと握りながら一回切り、選ばれたカードがどこにあるのか分からなくした。

 

 

 剛三は一度、自信たっぷりな笑みをニヤリと浮かべる。

 そのままがっしりと握った束を立て、客席に掲げてみせた。

 

 

 

 すると、束の中から一枚のカードがゆっくり、ひとりでに、横からはみ出てくる。

 何事かと皆が目を見張る中、そのカードはまるで弾かれたかのように横から勢い良く飛び出した。

 

 

 飛び出したカードは宙を回転しながらカーブし、客席側に落っこちた。困惑する最前列の観客に、剛三は「拾ってみてください」と手で示す。

 

 

 

 一人の主婦がカードを拾い上げて絵柄を見ると、彼女は「あっ!」と声を上げた。そしてすぐに、他の皆に見えるようカードを掲げる。

 

 

 

 カードの絵柄は、老父が選んだ「ジョーカー」だった。

 

 

 

 

 カードマジックは見事的中。再び客席から拍手と歓声が巻き起こる。

 剛三をそれを気持ち良く浴びながら、深々と頭を下げた。

 

 

 

 一連のマジックを奈緒子は、涙ながらに観ている。

 剛三はテレビに出るような、派手なだけのマジシャンを嫌っていた。なので自身の知名度に関わらず、こうやって地方の舞台にも積極的に立っていた。何だか落語家みたいだなと、ずっと思っていたものだ。

 

 

 歳を重ねる毎にどんどんと錆びついて行った父の姿と思い出が一気に蘇るようだ。

 もう観る事が叶わないと思われていた彼のマジックを観て、溢れる感情が抑えられない。

 

 

 拍手は鳴り止まない。歓声は響いたまま。

 笑顔で彼を讃える観客たちのその後方で、奈緒子は一人、子どものように涙を流す。

 そしていつしか、拭っても拭っても溢れて止まらない涙をそのままに、目一杯の笑顔で拍手を始めた。

 

 もう一度だけ観られた父のマジックを、万感の思いで讃えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マジックショーが終わり、観客からホールからゾロゾロと出て行く。山田もまた、それに従うようにして、再び炎天下の街へと出て行った。

 しかし久々に会えた父に対し、まだ未練があるようだ。会場前にいたスタッフに、彼女はおずおずと聞く。

 

 

「あのぉ〜……」

 

「なんだネ君?」

 

「な、なんか見た事ある人だな……えっと、お父さ……じゃなくて……山田先生はどちらにいるとか分かったりはぁ〜……」

 

「追っかけなの君?」

 

 

 教えてくれないものだと覚悟していたが、案外すんなり教えてくれた。

 

 

「山田先生はもう、そこのホテルに戻られたよ。そんで、帰るのは今日の夕方だネ」

 

「今日の、夕方……」

 

 

 居ても立っても居られず、山田は父が泊まっているホテルの方へ駆け出そうとする。

 

 

 

 

 しかし背後からガシッと肩を掴まれ、止められる。

 振り返るとそこには白衣の医者──ではなく、汗だくの矢部が死にそうな顔で立っていた。

 

 

「や、矢部さん……!?」

 

「お前どこ行っとんねんなぁ!? いきなり消えた思うたら、こんなジジババだらけのトコおってからに!」

 

「あ、あの、すみませ……」

 

「写真も現像してもろたし、もう用は済んだわ! とっとと村戻んで!」

 

 

 再び山田の目は、父のいるホテルに向けられる。

 今すぐに会いに行きたい、そしてまた話してみたいと言う欲求を抑えられなかった。

 

 

 

 

 同時にまた、これは一つのチャンスだとも考えていた。

 

 

「……お父さんを……救えるかもしれない……!」

 

 

 父が亡くなるのは──殺されるのは、この一九八三年の翌年。もしかしたら一言助言するだけで、彼の死を回避させられるかもしれない。

 本当ならば有り得なかった再会。もう一度だけ観られた父の晴れ舞台……それが、「もう一度だけ」で終わらせずに済めるとすれば。

 

 

 逸る気持ちを抑えられず、矢部の腕を振り払おうとするものの、驚いた彼は一層引き止めた。

 

 

「お前どこ行くつもりやねん!?」

 

「す、すぐに戻りますから!」

 

 

 そう言ったものの、山田はすぐに動きを止める事となる。

 警察が辺りに大勢、現れ始めたからだ。病院の一件がバレたのだろうか。

 

 

「……っ!」

 

 

 父との距離を裂くように、パトカーや巡邏の警官らがホテルの前の道路に蔓延る。

 

 

「そんな……」

 

「もうこの街おんの無理やて!? ほら来んかい!」

 

 

 山田も諦めがやっと付いたのか、矢部に引かれるがままにその場を離れた。

 遠く遠くなって行くホテルや市民会館を、見えなくなるまで目で追ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は朝早くから忙しない。

 家には葬式会社の人たちが出入りし、式の準備を進めている。

 やっとの事父の遺体が棺桶に安置され、持ち込まれた花で彩られる。

 

 その花に囲まれるようにして置かれた父の遺影は、少し若い頃のもの。何の影も感じられない、笑顔を浮かべていた。

 

 

「………………」

 

 

 レナはぼんやりとその遺影を眺めていた。棺桶の窓はまだ開かれておらず、最後にもう一度だけ見たいその顔はまだ拝められない。

 たった一週間の内に何もかもが変わったなと、人知れず自嘲気味に微笑む。人生の転機なんて呆気なく、素っ気なく、いつも突然訪れるものだ。

 

 気持ちの整理は既に出来ている。父がいない事はまだ慣れないが、深い悲しみは癒えつつあった。偏にそれは、村の仲間たちのお陰だ。

 

 

 だが今の、レナの心は晴れやかではない。

 ちらりと後ろを一瞥する。そこには葬式会社の人と話し合いをしている女性……自分の生みの親たる母がいた。

 

 見た目は最後に会った時から変わっていない。いや、少し化粧は薄くなっただろうか。

 実に数年ぶりとなる彼女との再会は、感動と呼べるものではなかった。それもそうだ。母は父以外の男に浮気し、その人の子を身籠り、出て行ったのだから。そんな人物に、今更どんな顔して話しかければ良いんだ。

 

 

 

 でもこうやって、前の夫の葬式を執り行ってくれた点は、彼女なりの償いになるのだろうか。なのでレナはもう、必要以上に彼女を恨むつもりはなかった。これまでの経験が、一歩レナを大人にしたのかもしれない。

 

 

 

 

「ではお願いします」

 

 

 母は話し合いを終えると、少し気まずそうな顔でレナを見た。

 一瞬だけ逡巡するように俯いた後、覚悟したような雰囲気で彼女の方へ歩み寄った。

 

 

「……礼奈ちゃん。お腹空いてない? ひと段落付いたから、興宮で何か食べに行く?」

 

 

 あいにく食欲はない。レナは彼女に背を向けたまま首を振る。

 

 

「……大丈夫です」

 

 

 自らの母とは言え、久しぶりに会った上に別れ方が酷いものだった。距離感を掴み損ね、敬語で話してしまう。

 レナに拒否されて、悲しそうに母は視線を落とす。それでも何か言いたい事があるのか、また顔を上げた。

 

 

「……ねぇ。ちょっと、お話があるの」

 

 

 やっとレナは横顔だけを向けた。

 母はじっと目を合わせ、続ける。

 

 

「……ここだと準備の邪魔になるから……お外まで来てくれる?」

 

 

 そう言って、先に庭へ出て行った。

 後に続きながら、何を話されるのか薄々勘付いていたレナは、小さく溜め息を吐く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「父さん……学校の制服って確か、喪服に使っても良いんだよな?」

 

「あぁ。問題ないよ」

 

 

 圭一もまた自宅で、レナ宅で行われる葬式の準備を始めていた。

 制服のシャツに腕を通しながら、自身も喪服を用意している父親に色々と聞く。

 

 

「何か待ってった方が良いかな」

 

「それは父さんたちが用意するよ。圭一は、まぁ、そうだな……レナちゃんに掛けてあげる言葉を考えておいたら?」

 

「ハハ……な、なんかクサいってソレ」

 

 

 照れ笑いを浮かべる。

 着替えが済むと、一息だけ入れてぼんやりと考える。

 

 

「………………」

 

 

 考えているのは、山田と上田の事だ。

 二人とも無事ではあるが、圭一は今彼女らがどう言う状況にあるのか知らない。彼の視点から見れば、二人は昨夜の動乱の後、行方が分からなくなったままだ。

 

 

 村では噂が立っている。「昨夜の死体が、あの二人だ」と。

 まだ死体の特定はされていないが、もしかしたらと考えて、ただただ不安になるばかりだ。

 

 

 二人が無事なら良いが。

 レナの事も含め、かなり複雑な感情を胸中に巻きながら、気を落ち着けようとまた一息入れる。

 

 

「……ちょっち気分転換しに行くか……父さーん! 散歩に行って来るー!」

 

 

 そう言って玄関まで行き、靴を履く。

 靴内へ折れ曲がった踵部を直していると、後ろから名を呼ばれる。

 

 

「……圭一」

 

 

 振り返ると、苦々しく口角を結んだ父が立っていた。

 

 

「……色々あったなぁ」

 

「え? いきなり何だよ?」

 

「正直ここ最近、気が気でなかったよ……息子が攫われて殺されかけたり、レナちゃんはいなくなったり、そのお父さんが亡くなられたり……昨夜も殺人事件だ! 全く、とんでもない所に来たものだと思ったよ」

 

 

 それを聞いた圭一は胸がキュッとなり、思わず父から顔を背ける。

 

 

 

 

「……でも父さんは、この村に来て良かったと思ってるよ」

 

 

 その言葉に驚き、また顔を向けた。

 父は感慨深そうに、微笑みを携えていた。

 

 

「すっかり顔付きが変わった。良い顔をするようになった……父さんほどではないが」

 

「一言余計だよ!」

 

「ははは!……そうだ。東京にいた頃よりも、お前は大人っぽくなったな。そして、乗り越えられる奴になった」

 

 

 彼はスッと瞳を閉じ、これまでの事を思い出している様子だ。

 

 

「……色々あった。良くない事の方が多かった……けど、だからと言って、全て間違っていた訳じゃない。その証拠にお前は優しく、それでもって友達の為に必死になれる男になってくれた」

 

「…………」

 

「……父さんは嬉しいぞ?」

 

 

 圭一は恥ずかしそうに目を逸らし、鼻を掻いてから、玄関ドアに手をかけた。

 

 

 

 

「……ありがとう」

 

 

 一言感謝を言ってから、誇らしげに圭一は外へ出て行く。

 父はその、少し大きくなった息子の背を、ドアに阻まれて見えなくなるまで見送った。

 

 

 

 

「イライラするなぁ……」

 

 

 一方の圭一は、なぜか軒先に立っていた王田刑事に驚き、身構えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 夏の暑さも蝉時雨も、何だか心地良く思えるようだ。鼻歌混じりに圭一は畦道を歩く。

 暫く歩けば、レナの家の近くに来ていた。今はどんな様子なのか気になり、覗いてみようと家の前まで寄った。

 

 

 

「ねぇ、礼奈ちゃん」

 

 

 ふと、聞き慣れない女の人の声が聞こえる。

 竜宮家の庭を囲う塀の向こう、誰かがレナと話しているようだ。

 

 

 

 

 

 

「もう一度……お母さんと暮らさない?」

 

 

 その声を聞き、圭一はピタリと動きを止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 開け放たれた窓から流れ込む風がカーテンを踊らせる。

 窓の向こうから見える高い空と入道雲、生い茂る木々の全てが、額縁に飾られた絵画のようだ。

 

 

 一人沙都子は部屋で、写真立てに飾られた家族写真を眺めていた。

 

 

「…………」

 

 

 写真には幼い頃の自分と、兄と、母が写っていた。みんな屈託のない笑顔を浮かべている。

 何も気苦労なんてなかった時代もあった。こうやって笑える時間もあった。だけど今は、その写真を見ても笑えない。

 

 もはやこの写真の中にいる人間で、残っているのは自分だけ。兄も、母も、同じ日にいなくなってしまった。

 

 

 今年もまた鬼隠しが起きた。また大事な人がいなくなるのかと、恐れて震える夜を迎えた。

 自分はまた来年も怯えるのだろうかと、考えれば考えるほど憂鬱になって来る。思わず吐いた溜め息は、とても深いものだった。

 

 

「……にーにー……お母さん……」

 

 

 願わくば生きていて欲しい。そして、もう一度会いたい。孤独は梨花たちが埋めてくれるが、それでも芯たる部分が満たされる事はない。

 肉親の不在。彼女の歳では、まだ慣れる事は出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 がらがらと、戸口が開かれる音がする。誰か帰って来たのかと思えば、すぐに声が聞こえた。

 

 

「梨花さん? いますー?」

 

 

 山田の声だ。

 すぐに沙都子は立ち上がり、玄関先にて帰って来た山田を出迎える。

 

 

「山田さん! お帰りなさ……」

 

 

 そこにいたのは赤ジャージで眼鏡の女。

 

 

「え。誰?」

 

「いやいや、私ですって。山田奈緒子です!」

 

「……ずいぶんと……運動しやすい格好ですわね」

 

「ちょっと、変装する必要があったんでぇ……学校の先生みたいですよね?」

 

「えぇ、学校の先生みたいですし、ご両親が亡くなられた後にヤクザの人に引き取られたような人にも見えます」

 

「細かっ!」

 

 

 次に階段を降りる音が響き、すぐに廊下に梨花が現れた。

 

 

「呼んだのです……なんなのですか、その、不良生徒が集まるクラスを更生させようと奮闘する熱血数学教師みたいな格好は」

 

「だから細かいなっ!」

 

 

 おさげにしていた髪を解きながら、少し山田は居心地悪そうな顔で言う。

 

 

「……あの、梨花さん」

 

「どうしたのですか?」

 

 

 逡巡し、一瞬だけ口籠る。

 それでも言わなければと思い、真っ直ぐ梨花を見つめ、山田は口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

「……少し、聞きたい事があるんです」

 

 

 太陽は既に西陽。

 雲が隠し、辺りは少し、うそ暗くなった。




・ドラマ版ひぐらしで圭一の父親役を演じた方は、龍騎の浅倉役で有名な萩野 崇さん。圭一役はマッハ。

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