今日は朝から執務室に俺とビスマルクと一緒にいる。
穏やかな時間を過ごしているわけでもなく、仕事に追われてもいない。
今日から新しく始まった勉強は、ドイツ人であるビスマルクによる熱心なドイツ語講座である。
午前は読み書き、午後になってからは声を出して発音練習だ。人が聞いたら、美人さんとマンツーマンで勉強なんてうらやましい、なんて言う人がいるだろう。
俺も前はそう思っていた。こんな綺麗な髪を視界に入れながら勉強ができるなんて、と。
だがビスマルクはドイツ語に関しては厳しく、だけど丁寧に教えてくれる。ずいぶんと疲れる、その情熱的な勉強を続けられたらドイツに行っても通用しそうなものになりそうだ。
スパルタな勉強は午後2時を少し過ぎたあたりでいったん休憩となり、ビスマルクはコーヒーを淹れに行ってくれている。
心の疲労を取るために窓の外を見ると、透き通るような青色の空だった。こんな日はそこらを散歩したくなる。
1度そう思ってしまうと、どうやって勉強を中断しようか考えてしまう。そうして思いついたのは急ぎではない仕事をやろうということだ。あまり疲れず、やることで俺にとっても癒しになること。
それは先日提案された焼き芋祭りが実行可能かという、鎮守府の敷地内で実際にさつまいもを焼く実験だ。
昨日の清掃活動で鎮守府周辺の道路や公園を歩いて集めた落ち葉があるために、ちょうどよく燃料もある。捨てるために昨日の時点で落ち葉に紛れ込んでいるゴミは分別済みだ。
火を使う場所は風が少なくて地面が舗装されていない、滅多に使われないコの字型の倉庫がいい場所だと前もって見つけてある。そこのまんなかのテニスコート1面分の場所なら問題はないだろう。
頭の中で計画が決まると、急いで紺色の軍服の上からコートを着て、執務机の上に出かけてくると書置きを残す。
そうして部屋から扉を開けて出ようとするが、その直前に動きは止まる。
そう、このまま出てしまうと、ビスマルクと出会って止められてしまう。
だから、行くべきは窓だ。幸いにもここは2階で、窓から飛び降りても気を付ければ着地は大丈夫なはずだ。
俺は窓を開け、窓枠に手をかけると真下や近くに誰もいないのを確認して最後に執務室の中へと振り返る。
部屋から抜け出すことはきっとビスマルクに怒られるだろう。だが、これは単なる勉強からの逃避ではない。急に仕事がやりたくなったためだ!
そう自分に言い訳し、窓から飛び降りた俺は滅多に逃げ出さない仕事から逃げ出した。
それからは仕事をさぼっているのがばれないようにと堂々とした姿で仕事の途中という雰囲気を出しつつ、前もって本で勉強したとおりにたき火をするための道具を集めていく。
マッチ、火ばさみ、落ち葉の入った袋に水の入ったバケツ。食堂ではサツマイモふたつとサツマイモを包む用のアルミホイル。
それら全部を1人で持って運ぶには重く、往復をするのは手間だったために制服を着て暇していた駆逐艦娘の嵐に手伝ってもらい、目的地である倉庫の空き地へ一緒に運んでもらった。
俺がしていることに大きな疑問を持つことなく手伝ってくる嵐とは時々サッカーやバスケで遊ぶ仲であり、ボーイッシュな姿や言葉遣いは男友達といるようで気楽だ。
そんな嵐の背は俺より頭ひとつ分低く、胸が控えめで小柄だが元気な女の子だ。
赤くツヤがある髪の毛の1本1本には力強さを感じ、肩まで伸びているセミロングは少し癖っ毛がある。
その髪は体を動かしたときに元気よく跳ね上がり、風になびく様子を見ると猛烈に頭をぐりぐりと撫でまわしたくなる。
だが、それは決して乱暴で力任せにするのではなく、撫でまわすことによって柔らかくも弾力があるだろう癖っ毛の髪の感触を楽しむためだ。
そんなことを考えながら大量の落ち葉に火をつけて燃えていく様子を眺めつつ、一緒にしゃがみこんで隣にいる嵐へと目をやった。
嵐の横顔は美形でかっこいいなと思っていると髪にたき火で飛んだ灰がくっつているのを見ると、それが気になってしまう。そんな俺の視線に気づいた嵐は不思議そうな顔を向けてくる。
「何か用か?」
「髪に灰がついている」
「マジか」
俺の言葉を聞いた嵐は慌てて髪全体を手でばしばしと叩くようにさわり、髪についていた灰は地面へと落ちていく。
「取れたか?」
「あぁ。もう大丈夫だ」
「言ってくれてさんきゅーな。お礼に提督のも取ってやるよ」
そう言って爽やかな笑顔で俺の髪についているらしい灰を、髪を軽く払うようにして取ってくれる。
そんな様子で笑顔を浮かべている嵐を正面から見るとなかなかにかっこよく、もし男だったら多くの女性にもてていただろうなんてことを考え、つい見つめてしまう。
「ん、なんだ? まだ灰がついていたか?」
「いや、嵐を見ていただけだ」
「オレを? ……あー、別に体の調子は悪くないぜ。むしろ最近は筋トレをやって腕の筋肉がいい感じについてきたんだ」
俺の考えていたこととは違い、健康具合を心配されていると思った嵐は腕をまっすぐ伸ばすと、「ほら、見てくれよ」と言うと手を握ったりひらいたりして動く筋肉を見せてくれる。
細い腕だが、全体的に良く鍛えられている筋肉は締まっていて、綺麗ですっきりしている腕だなと思った。
「いい筋肉だ。こんなふうに鍛え続けている嵐は好きだ」
「そうか? そうなら嬉しいな! 最近は一緒に遊ぶことも減ってきたからさぁ、嫌われているかと思ってたんだぜ!」
嵐は安心したように深い息をつくと、俺の背中をバンバンと力強く叩いてくる。
俺は嵐に叩かれている時、こういう男同士のような気楽な関係でいれることに安心した。
「今は慣れない仕事をしているからな。軍関係以外のこともしているし、今日のこれだって艦娘たちが提案してきた焼き芋祭りができるかの実験をしているぐらいだ」
「へぇ、てっきり、自分1人で食べたいだけかと思ってた」
「それなら簡単な方法でやる」
ちょっとした会話をしたあとに俺と嵐は燃え続ける落ち葉の山を眺めつつ、1人1個ずつアルミホイルをさつまいもに巻き付ける作業をする。
勢いよく燃えていた落ち葉の山は次第に火が弱まり、煙の量が増えていく。その煙は空へと伸びていき、倉庫の屋根を越えたあたりで風に吹かれて広がっていく。
その煙の行き先を眺めたあと、たき火の火が落ち着いた今頃に落ち葉の中に入れればいいと本に書いてあったのを思い出し、火ばさみを取ろうとするが嵐によって先に持たれた。
「オレにやらせてくれよ。こういうのってやったことなくてさぁ」
「奥まで入れるんだぞ」
「わかってるって。まぁ見てな」
アルミホイルに包まれたさつまいもを火ばさみで掴むと、嵐は楽しそうに落ち葉の山へと突っ込んでいく。
これは外でやるからこその楽しみだ。オーブンで焼くのは簡単だ。でもそれは過程を楽しむことができない。
だがこういうやり方なら、食べるまでにやっていく過程は楽しいし、自分で焼いたのなら、失敗しても楽しめるだろう。
書類仕事をやってばかりだと効率重視の考えになってしまい、過程を重要視しなくなってきた自分に反省する。
そうして自分に落ち込んでいると落ち葉の山をつっつき、立ち上る煙を見て顔を動かす嵐の頭に目がいってしまう。
細かく言うのなら、嵐の髪の毛だ。少し動くたびに、癖っ毛の髪がふんわりと動いて俺の目を奪ってくる。
「なんだよ。オレの顔にゴミでもついているのか?」
「顔じゃなく、髪を見ていたんだ」
嵐は手でぺたぺたと自分の顔をさわっていたが、俺の言葉を聞いて手を止めると髪をつまんでじっと見始める。
「あー、髪なぁ。男ってまっすぐで長い髪が好きなんだろ? さらさらーって風で長い髪がふんわり広がるやつとか。オレのは見ていて楽しいものじゃないと思うぜ」
「俺は嵐の髪が好きだ。赤い色は嵐みたいに元気な女の子によく似合っているし、まっすぐな髪と違って、癖っ毛の髪はくるくると風になびく姿は見ていて楽しくなる」
嵐は俺の顔をまじまじと見つめ、すぐに俺から勢いよく恥ずかしそうに視線を離して火ばさみで落ち葉の山を突っつき始める。
「なっ、なんだよ、急に褒めて。オレなんか褒めてもいいことなんてないぞ」
「ただの感想だ。別に何か考えがあるわけじゃない」
「ほ、本当か?」
「ああ」
「……じゃあさ、さわってみるか? オレなんかの髪でよければ」
「いいのか?」
「あぁ。いいぜ」
その言葉に俺は心の中で盛大にガッツポーズと大きな叫び声をあげた。『嵐の魅力的な髪をさわれる!』とそんなことを。
嵐の前だから変な人と思われないために喜びの感情は抑えなければいけないが、今の俺は最高に嬉しい瞬間を迎えている!
俺は自分の手を服でごしごしと拭いて緊張しながら、そっと嵐の頭へと手を伸ばす。
さわった瞬間、嵐の体は固まったが、撫でているあいだに嵐の緊張感は抜けていく。
俺はというと、興奮でいっぱいいっぱいだ。
嵐の髪は思っていたとおりに柔らかく、手で何度も頭を撫でると幸せな気持ちになってくる。
次に髪先へと向かって手を動かしていくと、癖っ毛の髪が手へと絡みついてくる感触は新鮮だ。まるで髪のほうから俺にさわってもらいたいかのような。
そうして髪を存分に楽しんでいると、嵐の頬は赤くなり、少し息が荒くなってきて色っぽく感じてしまう。
普段は少年のような感じなのに、これはまるで年頃の女の子のようだ。いや、実際に女の子だが嵐とは男っぽい遊びしかしないから、こういう姿を見ると俺までもが恥ずかしくなってくる。
俺は自分を抑えるために嵐の髪をわしゃわしゃと豪快に両手で撫でまくる。突然撫で始めたためか、驚きで声をあげられて手を止めてしまう。
「すまない。やりすぎたか」
「そうじゃないんだ。ただなんつーか……」
「嫌だったら素直に言ってくれると助かる。俺は察するのが苦手で」
「や、そういうんじゃないっていうか。オレの髪で喜んでくれるのは変な感じだ。
嵐は乱れた髪を直しながら、少し落ち込んだ顔をする。
その嵐になんて声をかけるか悩みながら、俺は嵐から火ばさみを受け取ると落ち葉の山に入れ、さつまいもの向きを焦げないように変えていく。
「そういうのは自分が気になったらやればいい。自分が必要としていないのをやろうとしても苦痛になるだけで嫌になってしまう」
「そんなもんなのか?」
「ああ。俺はビスマルクから逃げてきたが、それはドイツ語の勉強が苦しかったからだ。ドイツ語を覚えたほうがドイツの子たちと会話するのにはいいが、朝からずっとは嫌になるし勉強する意欲がどうにも足りない」
「へぇ、司令でもそういう悩みはあるんだな」
「あるとも」
そう言ってさつまいもの向きを時々変えながら雑談をしていく。
話の内容は、今日のご飯はおいしかったとか図書室の本を増やして欲しいという、ささいなもの。けれど、この穏やかな時間は楽しいものだ。
そうして時間が過ぎていき、落ち葉の山から煙が少なくなってくると焼きあがった頃だと思う。
火ばさみを入れ、さつまいもを取り出すと包んだアルミホイルは熱く、まだ外せないために少しのあいだ地面の上で放っておく。
熱すぎず、冷たすぎず。いい具合になるまで時々手でさわって様子を見ながら、冷めた頃に手を伸ばす。
と、その時に後ろから強い視線を感じる。その視線の主に心当たりがある俺は後ろめたさもあって振り返ることができず、隣にいた嵐だけが振り返って気まずそうな表情を浮かべる。
「……なぁ、嵐。なにか上手な言い訳をひとつ頼む」
「いや無理だって! ビスマルクさん、すごいにらんでくるんだけど!?」
「そこをなんとか!」
俺たちは小声で言い訳を考える話をしていると、近づいてくる足音が聞こえ、嵐とは反対側の俺の隣へとビスマルクがやってきた。
顔を少しだけ動かしてビスマルクを見ると、文句を言うことも俺の方を見ることもなく、地面に置いてある焼き芋をふたつとも手に取る。
そのうちのひとつを嵐に渡し、もうひとつはビスマルク自身が持つ。ビスマルクはアルミホイルを剥いでいき、さつまいもを熱そうにしながらも掴んで割ると中からは黄色いホクホクした状態が見える。
「ほら、嵐も早く食べなさい」
嵐は俺の分がないのを見て遠慮していたが、食べていいと目で促すとアルミホイルとさつまいもの皮を剥いて、いい感じにできている焼き芋を食べ始める。
口に入れて熱いのを我慢しながらもおいしそうに食べている顔を見ると、焼き芋をやってよかったと満足する。ただ、俺が食べられないのは残念であるが。
ビスマルクは俺をちらりと1度見てから、焼き芋の皮を剥きながら静かに喋り出す。
「……さっきはごめんなさい。何も言わず、今日突然の勉強は少しやりすぎたって反省しているわ」
「俺も抜け出して悪かった。ビスマルクは俺のためを思っての勉強だったんだろう?」
「ええ。でも強引だったわね。あなたに相談せず、予定が空いているからと始めてしまったのは。あなたがやりたいわけではなかったのに」
言い終わり、小さなため息をつくと俺の方へ振り向いて、焼き芋を口元へと差し出してくる。
ビスマルクの食べていいという目線を感じ、ビスマルクが焼き芋を持っている手を上から優しく重ね、焼き芋の位置が動かないようにして食べていく。
まだ熱いためにちょっとしか食べられないが、焼き芋はなかなかにおいしく、自分で焼いたという満足感が俺の心へやってくる。
「これはうまいな」
そう言って手を離すと、ビスマルクは俺の食べかけた部分をじっと見ては俺の顔を見つめてくる。
それを見て、食べかけは嫌だったかと気づく。だから、その部分を指で外そうと手を伸ばしかけたがビスマルクは慌てて食べ始め、口の中が熱さで苦しそうになりながらもおいしそうな表情を浮かべては食べていく。
「そんなに焼き芋が食べたかったのなら、今度は食堂で簡単に作ってしまおうか」
「……それはさすがに違うと思うぜ、オレは」
腹が減っているか焼き芋が食べたかったと思っていたが、俺の独り言に対して嵐はそう小さくつぶやいた。
その言葉の意味の続きを聞こうと嵐の顔を見て待つが、俺から視線をそらして食べ続けるだけで何も言ってこない。
自分で考えろということだと気づき、一生懸命に焼き芋を食べていくビスマルクを見る。
焼き芋を食べるたびに揺れる金髪が気になり、食事時ならではの髪の動きに目を奪われながら時間が過ぎていく。
でもこういう時間は悪くなく、むしろ心地がいい。
自分たちで話をしながら焼いていく時間。作った物をビスマルクや嵐が食べ、嬉しそうなのを見るのは実にいい。なぜなら、いくら髪を凝視しても文句を言われないからだ。
俺は間近で見る、ふたりの髪の記憶をしっかりと脳裏に焼き付けていった。