今日は朝から艦娘たちと掃除をしていた。
掃除をするにいたったわけは、書類仕事がないと俺が言ったら、今日の秘書である由良が「それでは掃除をしましょう!」と元気に言ったから。
そう言われた俺は渋々執務室の窓を開け放ち、天気が良いけれども11月の冷たい空気を感じながら、と窓を開けたときにランニングをしていたジャージ姿の五十鈴と嵐を呼び寄せて4人で掃除を始めた。
掃除内容は床をモップで空拭きをしてからの水モップ拭き。ここまでは執務室に物がないから楽にできた。だが人数がいるからと由良の一声でやることになった壁拭きはとても面倒だ。
くすんだ白色の壁は俺が提督となってからの8年は掃除をしていなく、それ以前も掃除をしていない気配がある。
そんな壁が4面も。高いところは脚立を使わなければいけなく、やる前から気分はもう疲れてしまう。
でも由良がやる気あるし、滅多にやらない掃除をたまにはしてもいいと思い、少しばかり嫌がっている五十鈴と嵐にはあとでご褒美をあげると約束して手伝わせた。
窓を閉め、ストーブで部屋の空気を暖めながら掃除の準備をしていく。
部屋には脚立と洗剤を入れたバケツに雑巾を用意し、掃除を開始。
壁を拭くたび、くすんだ白が明るい色に変わっていくことに感激しながら休憩を入れつつ掃除をして3時間。
午前11時ちょっとに終わることができた。
掃除を手伝ってくれた五十鈴と嵐を開放し、自分たちの手で掃除をして明るくなった部屋に強い満足感を得て執務机の前にある椅子へと深く腰掛ける。
その途端に出るのは大きなため息。
掃除をするという疲れは普段の仕事とは違い、新鮮な感覚の疲労だ。だが、地味で同じことの繰り返しである壁拭きは当分したくないと心に誓う。
この疲れは俺だけではなく、由良も感じているに違いない。
そう思って秘書用の椅子に座ってぼんやりとしている由良を見る。
白と青色を基調とした制服を着ている由良は、薄桃色のつやつやとしている艶やかな髪の持ち主だ。
膝まである長さの髪をロングポニーテールにし、その髪を黒色のリボンで根元から髪先まで結んでいる。縛った髪先には小さな蝶結びがあって、おしゃれだ。
結ばれた揺れる髪というのはビスマルクのようなロングストレートや、嵐のウェーブなセミロングとは違う味わいがある。
歩いているだけでふりふりと揺れるのに目を惹かれてしまうのは仕方がないと思う。
そんな髪型が魅力的な由良に俺は苦労をねぎらう言葉をかける。
「由良、お疲れ様。今日はありがとうな」
「提督さんもお疲れ様です。秘書として当然のことをやっているだけですから、感謝の言葉はいりませんよ」
そう言って春の日差しのような柔らかい笑顔を向けてくれる由良。
由良はいつも控えめで、こんなふうに感謝の言葉を言っても毎回同じように返される。
今まではそれほど気にしなかったが、秘書がやる必要性が薄い掃除を文句も言わずやってくれたのだから素直に感謝の気持ちを受け取って欲しくもある。
そこで言葉ならダメだが、行動として感謝を伝えればいいかとひらめいた。
「俺は由良に感謝しているんだ。言葉がいらないなら、何かして欲しいことはないか?」
「そこまで言うのなら、お茶を淹れ―――」
そう言ったところで言葉が止まり、由良は天井を一瞬見上げて何かを考えたあとに言葉を続ける。
「じゃあ、昔のように髪を梳いて欲しいかな?」
「……そういえば由良が寮に住んでからやらなくなったな。それでいいなら、今からでもいいぞ」
「本当? じゃあ
嬉しそうな表情を浮かべた由良は勢いよく立ち上がると駆け足で部屋から出ていった。
落ち着いた由良があそこまで元気になる姿は珍しく、躍動するポニーテールが見える元気な姿はいいものだと感じる。
でも元気な後ろ姿が去っていくのを見て、3年前に出会った頃は今ほど明るくなかったことを思い出した。
由良がここにやってきたのは前線で提督に殴りかかったために不要となり、ここで輸送任務に使ってくれと送られてきた。
来た時の由良は一言でいうのなら、ひどいものだった。
肌は荒れ、髪はパサついていて綺麗ではない。
顔も暗く、見るからに元気ではない。だけれど、目だけは憎しみがこもった感情で強く見てきていた。
書類上では戦場のストレスに耐えられず、精神不安になって自暴自棄になり上官に反抗したと書かれていたが、そうだとしたら提督である俺に強い嫌悪の気持ちを持たない気がする。
由良のことが気になり、かわいそうな外見の彼女に同情心から優しくしてあげたい。
だから本来住む予定だった寮ではなく、1人暮らしをしている俺の家で暮らしてもらうことにした。
ふたりで暮らす生活が始まったが、病院に通うほど精神不安定な由良と一緒に暮らすのは楽ではなく、辛い日ばかりだった。
話かけても睨まれ、俺が作った食事は滅多に食べてくれず、ほとんどはインスタントや店で売っているものしか食べない。付き添いで病院に行くと、帰りは勝手にいなくなるなど。苦労することは多かった。
時には何かが気に入らなくて、俺に物を投げ、殴りかかってくることも。
そういう日を過ごしながら、俺の体の骨にひびが入るとか、血が出る日を過ごしてわかったことがある。
由良は恨みではなく、恐怖から提督という役職の俺を嫌っていることに。それがわかれば我慢もしやすい。
でも仕事の指示をする時だけは妙におとなしく従ってくれたのが不思議だった。
そんな日が4か月ほど続き、仕事を通じて俺への恐怖と暴力が薄まったころに寮へ行くように言った。
その理由は、由良がこうなった原因がわかったからだ。
時々由良の機嫌がいいときに話をし続けた結果、わかったのは前線にいる提督から雑に扱われていたことだ。
その前線の提督が言うには軽巡は中途半端な戦闘能力であり不必要。
それなら駆逐と戦艦、空母に資源資材を集中して敵を攻撃したほうがいいと言われた。
かといって巡洋艦の艦娘を使わないわけにはいかず、海に出るのは海上警備だけであとは雑用を任されていた。他の艦娘とは寝場所や食事で差をつけられ、罵倒や罪をなすりつけられるなど。
そんなストレスが溜まるだけの日々が毎日続き、自分に価値がないと思ってしまった由良は役に立てないのなら死んでしまおうと考え、それなら憎い奴である提督を痛い目に合わせようとした。
それが由良の主張することだった。
俺に話をしてくれた由良は涙目で震え、いつもの憎しみある目ではなく怯えた子供のように俺を見ていた。その目からは『もう苦しいのは嫌』『誰かに必要とされたい』とそんなことを俺は感じる。
だから俺は由良を艦娘として使うために寮へ移動させるのを決心した。
でもまだ精神不安なために寮の1人部屋に入らせると同時に由良にいくつかの注文をした。
肌と髪の美容に気をまわせ、訓練と勉強をしろ、身だしなみを整えろ。俺が由良に求める能力を言うと、由良はそのとおりに段々と身に付けていく。
でも他の艦娘たちとはあまり仲良くできず、というよりも仲良くする方法がわからなかったらしく、他の艦娘たちとうまく馴染めなかった。
そこは長く俺のそばで秘書をしているビスマルクの助言もあって由良を秘書にし、ビスマルクを通じて少しずつ成長していった。そうして明るくて優しい、人に気を遣える子になっていった。
秘書になって2年経った今では、昔ほど心配はいらないと思う。
ただ、食事だけはいつも1人で食べているので、時々は一緒に食べて話をしたいと思ってはいるが。
過去を懐かしみ、現在の寂しさを考えていると、執務室の扉が開いて気分良さそうな由良が戻ってくる。
手には、つげでできた大きなかまぼご型の
それをまだ大切に使ってくれたんだなと嬉しく思う。
由良は櫛を執務机へと置き、俺はそれを手に取る。その様子を見てから由良はさっきまで座っていた椅子に戻って背筋をピンと伸ばして座った。
俺は自分の椅子を持ってその由良の背中側へと行き、由良の髪を近くで見るとなんだか緊張してしまう。一緒に住んでいた頃は髪の手入れをやっていたが、あの時は由良に、というよりも人形にやっている気分だった。
「始めていいか?」
「お願いします」
由良のわくわくする声を聞きながら俺は椅子に座ると、ポニーテールを縛っている黒色のリボンを外し、根元の部分を縛っているヘアゴムをはずすと髪はふんわりと広がっていく。
いつも縛られているのと違い、まっすぐで自由になった髪は光を浴びてみずみずしく輝いて俺の心をときめかせてくる。
由良がリボンとヘアゴムを机に置いてから、俺は髪を手ですくいあげると、絹糸のような髪は俺の手をくするぐようにしてこぼれ落ちていく。
それを4度ほどやって、髪の気持ちよさを味わったあとに俺は櫛を通していく。
髪の根元から先端までひっかかることがなく、まるで水のようだ。櫛を通すごとに由良の髪はツヤが出ているように見え、自分の手で綺麗になっていくのは興奮してしまう。
だが、ここで息を荒くして興奮するのは気持ち悪がられる。
だから俺は鋼の自制心を持とうと意識しながらやっていく。
「提督さんにやってもらえるのは、懐かしいな」
「そうだな」
「あの頃の私は面倒としか思ってなかったけど、今はされるのがとても嬉しいの。なんて言えばいいのかな……自分を見てもらえている気がして」
「秘書の時は一緒にいるが?」
「違うの。それだと私にさわってもらえないから」
何か言おうと口を開くが、それがどういう意味かわからないために口を閉じる。
そのまま俺は由良の髪を梳き続け、由良は静かにされるがまま。
時々手を止めて由良の様子をうかがうと、微笑みを浮かべてはもっと続けてと催促してくる。
俺は由良のなめらかな髪の感触と長さ、重さを手でたくさん味わいながら櫛を進めていく。
そうしていると自然と昔を思い出す。由良と一緒に住んで頃は櫛を通してもひっかかってばかりで、パサつきや枝毛が多かった。
だが、今の髪はそういうのが滅多に見られない。
素敵だ。
そんな言葉だけが頭いっぱいに広がり、もう髪のことしか考えられない。
手が止まり、じっと髪を見ていると不思議がった由良が俺へと振り返ってくる。
「由良の髪に何かあったの?」
「いい髪だな、と」
「ありがとう。あの日から言われたとおり、髪には気をつけているの。それと提督さんが髪に櫛を通すの、私、好きよ」
はにかむ由良に俺は恥ずかしくなって顔をそむけ、櫛を机に置く。
「これで終わりだ」
「ううん、まだ。次は髪を結って欲しいの」
「……リボンは苦手なんだが」
「それでもやって欲しいな。ダメ?」
上目遣いで首を傾げられる姿は最高にかわいく、首を傾げたとき、肩にかかった髪がこぼれ落ちていくのを見ると清流のようなイメージを連想して心が癒される。
そんなふうにお願いごとをされたなら俺はなんだって言うことを聞いてしまう。
あぁ、なんで由良はこんなにかわいいんだ!!
由良になら、どれだけ怒られても失敗しても許してしまいそうだ。
「昔と同じか、それ以下になるがいいのか」
「うん、提督さんにやってもらえるというのが大事だから」
由良自身のほうが綺麗にできるのに、俺がやる必要性がわからない。
わからないが、由良が望むならやるだけのことだ。
ロングポニーテールを作るために櫛を手に取り、上部の髪を後ろへと梳かして髪の流れを後ろ方向にしていく。その時に手でさわる髪の感触が気持ちよくて背筋がゾクゾクとするが、喜びの感情は抑えて淡々と進めていく。
後ろ方向にした髪を手に持ちながら、サイドの髪を集めてから後頭部の髪をすくいあげるようにしてまとめる。
「由良」
「うん」
声をかけると、由良がヘアゴムを渡してくれる。そのヘアゴムで髪の根元を縛るとロングポニーテールができあがり、あとはリボンでヘアゴム部分を隠しながら髪を縛る。
そして、ここからが本番だ。ここからのリボンの縛り具合が実に難しい。一緒に住んでいた頃は何度も挑戦したが、1度も綺麗にいった試しがない。
でも今日はうまくいける気がする。
なぜなら、こんな手触りのいい由良の髪に初めてさわれたんだからな! 以前にさわっていた髪にときめかなかった時と今は違う!
―――そんなふうにやる気が沸き立って10分が経った今、俺は自分の不器用さに絶望していた。
ポニーテールのリボンは綺麗にクロスされていたが、俺がやったあとはゆがんだ形になってしまっている。
リボンに悪戦苦闘した結果、髪も少し乱れてしまい、最後にやる蝶結びも大きさが左右で違って見栄えがとても悪い。
こんな綺麗な髪なのに、俺がリボンをやってしまった結果、芸術品ともいえるものを傷つけてしまった感がある。
「……由良、やっぱり自分でやってくれないか」
俺の絶望しきった声に、由良は俺が結った髪を自分の目の前に持ってきてリボンの付け具合を確かめ、髪から手を離す。
「いいんじゃない?」
「どこがだ」
「すごく頑張ったのがわかるから。それに今がダメでも、またやればいいと思うの」
そう言って由良が立ち上がり、部屋の中央で1回転する。回る動きに合わせて、髪も後をついていく。
リボンは不格好だが、あの髪を俺がやったと思うと充実感が中々にある。
「またやらせてくれるのか?」
「うん、提督さんに髪をさわってもらうのは好きだから」
喜ぶ笑みを見せられ、俺はなんだか恥ずかしくなって顔をそむけてしまう。それは俺に髪をさわられることが好きだと言われたから。
これからは他の子たちに見つからないよう気をつけつつ、ふたりきりの時だけに由良の髪の手入れをしてもいいかもしれない。
自分から言うことはしないが、由良なら俺が女性の髪好きなのに気付いても嫌わないでくれそうだから。
感想に影響を受けて。