雲龍と会った日から2日。
朝起きたときにはなかった、雨がしとしとと弱く降る音が倉庫の屋根越しに聞こえている。
俺は嵐と一緒に焼き芋を焼いた場所の隣にある、使わない物をしまう倉庫で以前から放置されていた可動式のマネキン相手に縛る練習をしている。
石油ストーブで体を暖めながらやっているのは、ただの縛りではなく人間相手にやる縛り。緊縛だ。
昨日は鉄パイプを相手に縛る練習をしていたが、やってきた雲龍から違うと言われた。
手首と足首を縛っておけばいいと思っていた俺に、詳しく丁寧な説明をしてくれたが俺の思ってたことよりも違いすぎて少しばかり呆然としてしまったのは仕方がないと思う。
だが約束を守るために俺はその日のうちに鎮守府の外へと行き、護衛としてついてきたビスマルクを30分にも渡る逃走の末に追い払ってから本屋で緊縛の本と偽装用の女性向けファッション誌を買った。
買った日から本を読み、今日は実践をして勉強をし始めた。
勉強してわかったことは短期間の勉強、練習で縛るのはよくなく、実際に使うとしたら充分な時間をかけて勉強する必要があることがわかった。
雲龍のための勉強をやっているうちに我ながら良い上司なんじゃないかと思ってきてしまう。
部下1人のために多くの時間を割き、その艦娘にあったご褒美をあげるために勉強。
ただ、ご褒美の内容的には人に言えない内容だが。ご褒美を要求するほどに、ストレスや精神的不安が溜まっているんじゃないかと思う。
つい最近まで深海棲艦との殺し合いを続けていたのに停戦が始まり、深海棲艦に近づかれても攻撃できないことや、停戦と言えどもすれちがった時に攻撃されるかもしれないというのがあって、ほわわんとしている雲龍でもストレスが結構溜まっているんだなと実感する。
艦娘からの報告では、前線への輸送途中で深い霧に会って深海棲艦の群れと20mの距離まで接近し、お互いに見つめあって撃ちかけたというのがあった。
そんなことがあるなかで、雲龍の欲求不満な告白は氷山の一角だろうと思う。
停戦期間中のあいだには娯楽を増やそうと努力してきたのだが。
今までは代用品しかなかったが本物の紅茶やコーヒーの輸入がわずかではあるが再開し、いまだ高価ではあるものの飲めるようになってきた。
鎮守府内の施設では元々あった小さな図書室の部屋を増やして充実。トレーニング室も新しい器具を導入。みんなで焼き芋パーティなどのイベントを時々やっている。
いや、でも俺の気にしすぎか? 艦娘たちは仲がいい子同士で一緒に買い物に行ったりしているし、最近はあまり見ない艦娘同士の組み合わせで話をしているところを見る機会が多い。
単に雲龍の変態度が自分で抑えられる限界を突破しただけかもしれない。
ひとまず艦娘たちのストレスについては慎重に考えることにし、照明の明かりとストーブの火を消して本とマネキンを隠してから倉庫から出ようと閉めていたシャッターを開けると、ちょっと離れたところにいる駆逐艦娘の初風と目があった。
小柄な初風は青色の傘を右手に持ち、左手にはシャンプーなどが入ったビニール袋。制服の上にはダッフルコートを着ていて、白手袋をきちんと身に着けていた。
雨の中、驚いたように目を見開く初風。その初風の薄い淡色の青髪は雨に色をつけたら、こんなふうになるんだろうなと思わせてくれる。目の色は青い鉱石のように透き通っている。
髪の長さは肩にかかるほどのセミロングで、髪の先端部に行くほどにゆるくカーブをしている。前髪は先をきっちり切り揃えており、それは感情に流されず冷静に物事を考えられる初風らしいと思える。
「初風か。いい買い物はできたか?」
「まぁまぁね。いつもいく店でシャンプーが品切れだったから、他のところまで行くのは少し面倒だったわ」
冬の雨のように冷たさを感じる、静かな声でそう言った初風は俺へと近づいてきた。
俺の隣へと来て足を止めると、その後ろにある倉庫の中を興味深そうに見ている。
「仕事?」
「あぁ。そんなところだ」
雲龍を縛る練習をしていた、なんていう危ないことは言えないために誤魔化して言う。
倉庫を見ている初風に何か変なものを見つけられないか、ここにいたのを疑われないかと心配で緊張してしまう。
だがそれは俺の考え過ぎだった。
「時間があるなら、私と話をしてくれないかしら?」
「構わない。仕事は終わったからな」
「それはよかったわ」
と、にこりとも笑みを浮かべずに倉庫の中へと入っていく。
俺は倉庫の明かりとストーブをつけると、倉庫のシャッターを閉めてから、どこかで見た記憶を頼りにベンチを倉庫の奥で探し始める。
ほどなくしてそれは見つかり、3人掛けぐらいの大きさがある木でできたベンチを持ってストーブの前へと置く。
「このベンチでいいか? ……いや、待て。なにか拭くのを探してくる」
ベンチの座面には土汚れがついていて、そのまま座るには問題だ。
だが初風はスカートのポケットからハンカチを出すと、さっと一面を拭いていく。
初風の、どうぞ? という視線を受けて端っこのほうへと座ると初風も同じく反対側である左端へと座った。
お互いに座ったあとに会話はなく、屋根を叩く雨音と目の前にあるストーブが稼働している音だけが聞こえる。
ちょっと居心地が悪い空間。話をしなければと思うと、そういえば初風と話をするときは常に誰かがそばにいたことを思い出す。こうしてふたりきりというのは初めてだ。
話しかけるきっかけに苦労するが、仕事でもないから思ったことを言ってみればいいかと思う。
「初風は悩み事か相談があるのか?」
「いいえ? ただ、提督とふたりで話したことがなかったから。近頃、周りの子たちが提督と話をしたことを嬉しそうに言うものだから、ふたりで話すのはどういうものかと思ったのよ」
「近頃か。艦娘たちと話す機会は増えたがこれといって変わったことは……」
特にしていない、と言おうと思ったが変わったことをしていた。
それは髪をさわることと、髪を櫛で梳いたことが。でも初風の言葉からはこっそり嫌われているというのはなさそうで安心する。
「変わったことはあるの? ないの?」
「俺が以前よりも艦娘たちと仕事以外の話をすることになったぐらいか」
言いたくないことを隠しつつ、でも本当のことを聞いた初風は納得がいったかのように何度も小さく頷いた。
「だからなのね。提督と会う機会が増えたからか、今まであまり気にしていなかった髪や肌を大事にするようになった子が増えたのは」
「いいことじゃないか。心の余裕ができたということだろう?」
「そうね。人と接しない私でさえも話をしてこなかった嵐とも軽く話をするぐらいだもの。それも髪について」
……なんだろうか。初風の話を聞いていると、俺の髪が好きだという理由がきっかけで変わりつつある気がする。いや、それ自体はいいことだが俺の趣味が多くの艦娘に影響を与えているというと慎重に行動をしなければいけないと思う。
「女性向け雑誌を買ってきては何人かで集まって美容の勉強会をするのもあれば、遠方の仲がいい子に手紙を出して聞く子もいるのよ」
そう言って小さく重いため息をつく初風に疑問を覚える。
聞いていた限りでは楽しんでいるような気がするのに、なぜ面倒ができたというように嫌がる顔をするのだろうか。
「無理して仲良くしようとしなくてもいいんだぞ?」
「そういうのじゃなくて。なんでみんな自分を綺麗に見せたいのかしらね。見せる相手なんて同じ艦娘と…………提督ぐらいなのに」
言葉がわずかに止まり、俺をじっと見てくる。
その心の奥底までのぞかれているようで、あまりいい気分になれない。
「俺がどうかしたか」
「見ているだけよ」
初風は人1人分ほどの距離まで詰めてくると、俺の顔、そして髪を強く見てくる。
「ねぇ、失礼なことをお願いしてもいいかしら」
「内容による」
「提督の髪をさわってもいいかしら。私、男の人の髪ってさわったことがないのよね」
「別に構わないが、同性のはよくさわっているのか?」
「滅多にないわね」
そう言った初風は両方の白手袋を脱ぐと、俺へくっつくほどの距離まで近づいてくる。
初風の白い手が俺の髪へと伸ばされ、ふれた瞬間には驚いたように手が離れていく。だが、また恐る恐る手を近づけてくると今度は慎重に。
俺の短髪である黒髪を撫でるように、時には指先でつまんで感触を味わっている。
その時の初風の顔はいつものクールで落ち着いている感じではなく、頬が紅潮して息がわずかばかりに荒くなっていた。
俺の髪を見つめる目は情熱的だ。
男を見ることはあっても、こういうふうに接する機会がないから興奮をしてしまうんだろうな。
そして俺も女性に髪を撫でられるというのは幼い時以来で、心臓がどきどきと鼓動を鳴らして緊張してくる。
初風の小さく柔らかい手で髪を優しく撫でられるのは、なんだか恥ずかしい。なんて言えばいいのか、とにかく恥ずかしい。
そんな初風の手は段々と大胆に俺の頭を撫でまわし、後ろの首筋まで撫でてくる。
そうすると手を伸ばす必要があり、初風の顔は俺へと近づいてきてしまう。その距離は伸ばした指2本分ほどの近さだ。
美人でかわいくもある初風の顔を間近で見ると、初風に女性を意識していなくてもドキドキしてしまう。
初風本人は俺の髪に集中しているためか、気にしていない様子だが。
こんな近づかれたままでいると、つい髪や顔ををさわってしまいそうだ。
「近づきすぎだ」
「あ、ごめんなさい。その、興味と好奇心が強すぎたみたいね」
俺の言葉に初風は勢いよく俺から距離を取り、ベンチの端まで戻っていった。
その初風は言葉もなく、俺の髪をさわった両手をじっと眺めていた。
男の髪なんてさわっても楽しくはないだろうに。女性と違って柔らかくも匂いもよくない。
「じゃあ、お詫びとして提督もさわってみる? 私の髪」
男の髪について考えていると、手袋を身に着けなおした初風はちょっと恥ずかしそうに目をそらして言ってくれる。
そう、髪だ! 初風の!! 青い髪!!!
さわれると思ってなかったら、そう言ってくれるのはとても、大変、非常に、物凄く嬉しい。
「そうだな。どんなものか興味がある」
「あまり期待しないで」
興奮しないように心を落ち着けた俺の言葉を聞いた初風が、また俺のそばに戻ってくると目をつむって顔を向けてくれる。
その緊張した雰囲気の初風に対し、いつものように心おもむくままにさわったら驚くだろうと考え、さわりかたを考える。
右手を伸ばし、頭のてっぺんから後ろ髪の先までを、そっと撫でるように手をすべらせる。
細くなめらかな髪は、俺の手をくすぐってくれ、指先が髪に埋もれる感触は髪色どおりに水にさわったのと近いなと思った。
それは雨音を聞き、倉庫内の気温が低めだからそう感じたのだろう。
雨音を聞きながらさわる淡い水色の髪。それは雨音を聞くヒーリング効果にプラスし、中間管理職で提督である俺の仕事の疲れを癒してくれるようだ。
日頃から前線からの要望、運び込まれる物資の数字をにらみながら頭を動かす仕事に疲れているから。
後ろ髪を味わったあとはおでこあたりの切りそろえられた前髪を、軽くさわっていく。
その時におでこと一緒にさわってしまうが、初風は小さな声をもらしただけで文句は言ってこない。
近くでよく見ると、綺麗に揃えられた前髪は感心するほどに整えられている。
髪の匂いもフローラルなシャンプーの香りがして、とてもいいものだ。
もっと色々と髪を撫でたいが、やりすぎると嫌われてしまう。だから強い自制の心で持って、髪から手を離す。
「ありがとう。初風らしい髪だったよ」
「……それは褒めているの?」
「もちろんだとも」
「ふーん……そうなんだ」
目を開けた初風は俺から少し距離を取ると俺に背を向け、そんなことを聞いてくる。
その時の声はいつもの落ち着いて平坦な感情の声ではなく、どこか嬉しがっているようにも聞こえた。
「そろそろ帰ろうかしら」
「寮に帰るなら送っていくよ」
立ち上がった初風に続き、俺も立ち上がるが不思議そうな顔をした初風は周囲を見渡す。
その考えがわからないが、倉庫のシャッターを開けた俺はストーブの火を消して明かりを消す。
「提督。むしろ、その言葉は私が言うべきだと思うけれど?」
初風が壁に立てかけていた傘を持っていうと、言いたかったことがわかる。
来たときは雨が降っていなかったから傘は持ってきていなかった。
まだ降り続いている雨の中、俺が送るというのも変な話だ。
「今回だけ特別に私が送っていってあげるわ」
「じゃあ執務室まで頼む」
道具の片づけをしたあとに外へ出て、傘を差した初風の隣に並ぶと初風は腕を上げて俺が傘にぶつからないようにしてくれる。
「傘を持とうか?」
「嫌よ。私が送るって言っているんだから、素直に入っていてよね」
「ありがとう」
「部下として提督を気遣うのは当然よ」
初風が傘を差してくれ、その中に入った俺は一緒に執務室のある建物へと歩いていく。
傘を持つ手を上へと上げ、俺を気遣いしてくれる初風はいい子だなと見つめていると、少し不機嫌そうな顔で見つめ返される。
「なによ」
「何も。初風はいい子だなって思っていただけだ」
初風を褒めると初風は何度か小さく頷き、「提督と話すのも悪くないわね」となんとか聞こえる程度のかすかな声で言った。
言葉には出さないが、俺自身も艦娘たちと話すのは楽しい。
それは世間話でも、この子は普段はどんなことを考えているんだろうとわかることができて。
これからも艦娘の皆とはいい関係を続けていきたいと思っている。
もう髪描写の語彙が尽きたと感じ、すでに書き上げている別な艦娘の話で最終話とする予定だった。
けれど、喫茶店でバイトしている初風といちゃいちゃする話を見て衝動が沸き上がって書いた。