光の軌跡・閃の軌跡   作:raira

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【番外編】 3月30日

 私の髪を撫でる潮風はどこか心地良い。

 いま私が立つ村の入口の広場からは、穏やかな紺碧色のアゼリア海と透き通るような水色の空を分け隔てる水平線が望める。

 そこから少しばかり目を落とすと、急な斜面の海岸沿いに築かれたレンガ造りの建物の集まる私の故郷リフージョの村。村の規模から考えると立派な石造りの桟橋の港には数隻の小さな船が停泊している。

 

 まだ本当に小さかった時から慣れ親しんだ、この潮風の匂いも、村周辺の海岸の斜面のレモン畑の匂いも、きょうで当分の間はお別れ。

 少なくともこれから二年間は帝都近郊の都市トリスタに所在するトールズ士官学院で過ごすこととなる。その間、長期休暇は殆ど無いのでここリフージョへと帰省する事は出来ないだろう。

 

 村で一際目に付くのは周りのどの建物より大きい礼拝堂、その前を横切る村一番の通り沿いの赤色の屋根の自らの実家をその目で捉えて、すぐ隣の少し色褪せた橙色の屋根に目を移す――村唯一の総合商店というキャッチセールスが自慢の雑貨屋《ボースン総合商店》。

 彼があの家を去ってからもう三年以上も経つというのに。

 私は単純だ。明日、自分が入学する帝都近郊の士官学院の事なんかよりも、この後私を最寄りの都市であるパルム市まで送り届けてくれる彼の事が気になってしょうがないのだから。

 

「車の中で待ってろつったのに」

 

 村へと続く急な階段道を登って来たのはこの地方――帝国南部サザーラント州の領邦軍の制服を着た青年。

 領邦軍のシンボルとも言えるヘルメットはどうせ車の中に置いているのだろう、少し癖のある金色の髪が露わになっている。

 私が景色が見ていたかったのを理由に反論すると、彼は笑いながら私の頭に手をやった。

 

「そうかそうか。そんじゃあ、パルムまでひとっ走りいくぞ」

 

 四輪駆動の軍用導力車の後部座席の扉を開け、私に乗り込むように促すフレールお兄ちゃん。

 

「あ、こんにちは」

「やあ」

 

 運転席から気さくな挨拶を返してくれたのは、よく幼馴染と共にこの村へパトロールに来ている馴染みの兵士パルトさんだった。

 年齢はフレールお兄ちゃんと同じぐらいで、背は高く体躯も良い。そして、彼との最大の違いはその落ち着き様だ。

 昔からちゃらんぽらんな雰囲気の漂うこの幼馴染の兄貴分と違い、この相方はしっかり者だ。各月のパトロールでこの村へ来た時も、うちのお店に忍び込んで後ろから気付かない私に悪戯する不躾な彼の横で、ちゃんと一礼してから店の中へと入ってくるような人。

 

「よし、出すぞ」

 

 導力エンジンが掛かり、車が振動とともに村の門を潜り街道へと進む。

 段々と小さくなる村の門を私は座席に上がって、後ろの窓からその白くて小さな門が見えなくなるまで見届ける。

 

「そういや、昨日は結構な盛り上がりだったんだってな?」

「うん‥酒場から人が溢れるぐらい。うちの店も在庫の半分が無くなった」

 

 漁師や農家が多い村では朝に盛大に見送る事は出来ない為、昨晩村の酒場で私の送別会が行われた。

 村の人々の殆どが集まり、私に別れの挨拶と激励をしてくれた。もっともこれは慣習的なもので――村から離れる若者を送り出す前の晩は必ず催される。勿論、三年ほど前に村を去ったフレールお兄ちゃんの時も当然私の時と同じ送別会が行われた。

 

「お前はみんなに愛されてんな。俺の時なんて、それ程って感じだったぜ? 問題児が一人いなくなって清々する位の勢いだったもんなぁ」

「そんなことないよ。みんなお兄ちゃんがいなくなって寂しいって思ってるよ」

「だってワンワン泣きついて来てくれたのお前ぐらいだったし」

「ちょっと! もう昔の話でしょ!」

 

 あの時は心が張り裂けそうになるぐらい辛かった思い出が不意に呼び起こされる。

 彼が村から居なくなるなんて想像もしなかったことであり――あの頃はそういう意味でも子供だったと思う。

 私はこの世の終わりのように彼の胸の中で泣きじゃくり、彼は私が泣き止む迄頭を撫でてくれていた。今冷静に思い返しても、頬に微熱が帯びてくるぐらい本当に恥ずかしい。

 

 しかし、最近はこの距離の近さが一番の敵なのではないかと思う。

 

 

 ・・・

 

 

 あまりしっかり舗装されていない道は時折砂利道となる。

 そして、更に残念な事に明け方までには止んだ様だが、未明には結構な強さの雨が降っていた様で、砂利道は泥濘んで道の状態は殊更悪い。

 

「揺れるね……」

「昨日は結構降ってたみたいだしなぁ。これでも結構早く出てきてやったんだぜ?」

「起こしたのは俺だがな」

 

 すぐさま運転席のパルトさんからツッコまれるフレールお兄ちゃん。この二人は相変わらず凸凹コンビな相棒だ。

 

「ふふ、ありがとうございます。パルトさん」

 

 パルトは運転しながらも、バックミラー越しに小さく会釈を返してくれる。

 

「おうおう、なんつったって愛しの妹分を士官学校の入学式へ連れてくお手伝いだかんなー」

「い、愛しのって……」

「おーう、照れてる照れてる」

「……ばか」

 

 ミラー越しにニヤニヤと笑ってくる彼の言葉に反応して、カッと顔が熱くなるのを感じる。

 冗談だと分かってはいても、愛しのなんて突然想い人に言われて平然でいられる子などいるのだろうか。

 もっともその直後に”妹分”と付けられ、心は急に冷めてゆく。結局は彼にとって私は”妹分”止まりなのだと。

 

 その内、馬車が使われていた時代の休憩所と思われる急に開けた広場に車が出ると、丁度右手前方に木の柵に塞がれた道があるのが目に入った。

 少し気になったので、私は後部座席から立ち上がって、丁度頭が助手席のシートの上に乗り出すようにしてフロントガラスからその光景を見る。

 その道は周りに不釣合いな高さの鉄柵で通行止めがなされているが、見た感じは長い間使われていない様なそんな印象を受けた。

 

「ねえ、フレールお兄ちゃん。あの道は……?」

「ありゃ、昔のハーメル村に続く道だよ。十年以上前に土石流で流されちまった村。お前はまだちっちゃかったから覚えてねえかなあ?」

 

 ハーメル村……そういえばそんな事も聞いたことはあるかも知れないが、馴染みの無い名前である事は確かだった。

 住んでた人は全滅するし、その後は急に戦争はおきるし、結構あの後大変だったんだぜ、と続けるフレールお兄ちゃんの言葉から《百日戦役》の頃の話だろうと推測がついた。

 そう言えば私は全然覚えていないけど、お母さんが病気で亡くなったのもその頃だったっけ。

 後部座席から立っていた私は、その通行止めされた道への分岐路が見えなくなった所で、再び席に着いた。

 

「おい」

「うん?」

 

 助手席の彼がこちらに顔を覗かせる。

 

「慣れない制服でスカート短いんだから大股開くなよ。丸見えだぞ」

「ばっ……! 見たの!?」

 

 とんでも無い事を指摘され、慌てて両脚を閉じる。

 気をつけなくてはならない。士官学院の制服は何故かスカートが短い。

 

「んな、何を今更……ガキん時からお前のパンツどころか……」

「ばっか! 最低っ!」

 

 これだから幼馴染は……デリカシーといったものがありゃしない。

 彼の方が五歳も年上なだけに、私の赤っ恥な昔話は一つ二つどころではない位彼は知っているはずだ。そんなネタが飛び出す度に、いつまで経ってもちゃんと女の子として見てくれていないんじゃないか――そんな疑惑すら沸いてくる。

 そして案の定、『三年前と大して変わってない』等というとんでも無い感想を口にした彼を、私は助手席のシートを後ろから何度も蹴りつけるのであった。

 

 

 ・・・

 

 

 周りの風景が森林から開けた畑へ移り変わり、石畳に舗装された道になったのか車の揺れが落ち着く。先程までの山道には無かった両端に等間隔で置かれた導力灯が、この道が領主様に整備されている街道である事を物語っていた。

 そして、遠くには幾つもの高い煙突が目立つ街――紡績業で有名な帝国南部の地方都市、パルム市だ。

 あの街が見えるということは、三時間という時間の大半が既に過ぎてしまった事を意味している。もう、彼といれるのも長くはない。

 

「そういえばお前、士官学校卒業したらどうするんだよ?」

「えーっと……まだ、ちょっと分からないかな……」

「ならさ、お前、領邦軍に来いよ。領邦軍は良いぜ、適当にやってても別に問題ねーし。国境警備とかは正規軍のお仕事だから危なくも無い。ついでに飯は美味いし給料も良い、なんつったってパトロールと称してドライブに行けちゃったりするんだぜ?」

 

 軍務が厳しいという正規軍と比べて、領邦軍は待遇面はほぼ全てにおいて恵まれていると言っても過言ではない。

 何故ならば領邦軍は各州を統治する《四大名門》の各家の紋章を背負っているのだ。面子を重視する貴族様の社会においては、自らの家が養う兵隊が正規軍より貧相なのは論外なのである。

 しかし、事実上の私兵である為に軍隊としてはあまり合理的な運用がされているとは言い難く、軍規も緩いので彼の様な地方部のいい加減な兵士はパトロールついでに村で半日遊び呆けるなどざらである。

 

「あ、あはは……」

 

 それにしても、フレールお兄ちゃんが言うと冗談になっておらず、村にいた時からノリが全く変わらない幼馴染に乾いた笑いしか出ない。

 そんな彼にツッコミを入れたのは運転していたパルトさんであった。

 

「フレール、お前、そんなにエレナちゃんの部下になりたいのか?」

「あん?」

「士官学校を卒業したら、少尉任官だろうに。俺達兵隊とは別の世界の士官様だよ」

「……あー、確かになぁ。そうかそうか、エレナが少尉殿かあ……く、くふふ……」

 

 失礼にも腹を抱えて笑うフレールお兄ちゃん。

 そんなに私が軍人の士官になるのが似合わないだろうか……いや、まあ自分でも似合うと自信を持って言えないのも事実なのだけど。

 

「もう、何笑ってるの!」

「いやあ、どうも想像できなくてな。だって、少尉殿ってこたあ領邦軍じゃ小隊長だもんなー。あのヒゲオヤジと同じなのかよ、おいおい。すげーな士官学校」

 

 帝国には正規軍、領邦軍問わず軍人は多いが、その軍組織の中で幹部となりえる道に進める士官は士官学校を卒業したエリートのみだ。一兵卒から士官になるには長い時間と高い能力が求められる狭き門であり、士官となったとしても一定の階級までしか昇進することは出来ない。

 士官学校を出ているか否かによって、将来的に進む世界は全く違うものとなるのだ。

 

「もう!」

「もうもう言ってると牛になるぜー」

「太んないし!」

 

 彼は私を遠慮無しにからかうってくる。

 しかし、私はこんなやり取りは嫌いではない。やっぱり幼い頃から変わらないやり取りは心地良いから。

 

「でも多分、私、正規軍に進むと思う」

 

 領邦軍が嫌なわけではない。故郷の村の人にとっては、どちらかと言えば領邦軍に進んだ方が喜ばれるだろう。州の安全を守る領邦軍に二人も輩出したりしたら、村の今後は安泰である。

 しかし、なんとなくとしか言えないものの、私は卒業後の進路は正規軍へと進むと決めていた。

 

「……そうだな、親父さんの後、継いでやんないといけないもんな」

 

 何も語らない沈黙の後に口を開いた彼は、いつになく真剣な表情をしていた。こういう時、昔から彼はいつも何かを考えている。

 昔の私には彼が何を考えているのか、全く分からなかった。残念なことに今も相変わらず、分からない。

 

「そんなんじゃないんだけど……だから、ごめんね?」

「おいおい、なんか俺、お前にフラれた可哀想な男になってねーか?」

「ええ、フってなんかないよ!?」

 

 陽気な声でおちゃらける彼に私は慌てて否定する。

 振るなんてとんでも無い。私は今すぐにでも……とずっと思っているのに。

 そんな私に彼は、おうおう、と返しながら笑う。

 

「頑張れよ。お前なら、楽勝だ」

「でも……ありがとう、フレールお兄ちゃん」

「……おう」

 

 助手席から振り向いたフレールお兄ちゃんの表情には彼の思いが全てが詰まっている様で、何故か彼が私の背中を後押ししてくれている様で、私は気づけば感謝の言葉を口にしていた。

 

「市内に入るぞ」

「だとよ、すぐに駅前広場だ。降りる準備しな」

 

 パルムの市内に入った事を知らせる真面目そうなパルトさんの声。それに続いた陽気なフレールお兄ちゃんの声が、もうそろそろ別れの時間が近づいてることを私に知らせる。

 既に周りの景色は街中そのものであり――私はもう間もなくこの心地良い時間が終わることを再確認するのであった。

 

 数分後、車はパルム駅の駅前広場に止まっていた。

 車から出た私は荷物の入るボストンバックを地面へと置いて、別れを惜しむように助手席のフレールお兄ちゃんの前にいた。

 

「達者でな、エレナ」

 

 そんなにあっさりと軽く別れを告げないで欲しい。もっと私との別れを惜しんで欲しい。

 彼が村を出るまでは毎日、領邦軍に入ってからも一か月に数回は会えた。だけど、これからは二年の空白が開くというのに。

 

「あのさ……」

「おう、どうしたよ?」

「……フレールお兄ちゃん……その、ね……私……」

 

 ここで言うしか無い――私の心の中の強い部分がそう押す。ここで言わなければ二年間はもう直接会うことは叶わないのだ。

 俯き気味だった私は覚悟を決めるように顔を上げて目の前の彼と視線を合わす。

 

「……ごめん……やっぱり、なんでもない」

 

 その言葉が私の口から出た時、悔しかった。

 永遠にも感じた時間の後、私は言いたかった言葉を紡ぐ事は出来ずに逃げることを選択していた。結局、私は勇気を振り絞ることが出来なかった。

 目頭に熱いものが集まるのを感じながらも、ここで泣くのだけは全力で避けたかった。ここで涙を流せば、大好きな彼にとってのこれから二年間、最後に会った私は泣き顔になってしまう。

 

「……ははっ。そっか……」

 

 彼の表情は柔らかく優しく、そしてどこと無く納得し、安堵しているようにも思えた。

 そして、『ほれよっ』という掛け声と共に、笑いながら導力車のダッシュボードの中から取り出した何かの瓶を私の方へ優しく渡した。

 

「うわわっ、なにこれ?」

 

 突然渡されたひんやりとしたガラス瓶に驚いて落としそうになりながらも、両手でしっかりと掴む。

 

「村のレモンシロップ、ウチからくすねて来た。帝都に行ってもお前が美味しいリモナータを飲めるようにな。好きだろ?」

「う、うん……って、くすねてきたって! おばさん怒るよ!?」

 

 そんな私の非難を意に介することなく、導力車のダッシュボードの中に隠してあったのだろうか、私の手の中にあるレモンシロップのガラス瓶と同じものを一本取り出してきた。

 彼はその瓶を私の手の中にある物の縁へとぶつけ、辺りに少しばかり景気の良い音が鳴り響く。

 

「未来の帝国正規軍アゼリアーノ少尉殿の船出に、乾杯っ。……それじゃーな、暇になったらまた手紙でも出せよ」

「……わかった。そっちも元気でね?」

 

 おう――と目を合わすことなくフレールお兄ちゃんは応えると、それに合わせて車が動き出す。

 小さくなってゆく車の助手席から、彼の腕だけが振られていたのを私はその車が視界から消えるまで眺めていた。

 

 なんで私達は幼馴染だったのだろう。こんなに近くなければ、私は今までにもっと素直に、ちゃんとはっきりと言葉に出来たのではないか。

 十年以上という時間は確かに重く、数多くの大切な思い出が錘になっているのかも知れない。それでも、結局何かと理由を付けて逃げている自分の不甲斐無さが悔しく――涙が頬に伝うのを感じた。

 

 

 ・・・

 

 

 パルム市は紡績産業が盛んな都市であると共に、帝国の南部国境に最も近い玄関口としての性格も帯びている。

 帝国では鉄道が輸送の主役である為に、大都市以外ではあまり整備が進んでいない飛行船発着場もここパルム市には存在し、主に南の隣国であるリベール方面への国際定期便が発着している。

 その為、人の流れは少なくなく、駅から発着場までを結ぶ大通りは常に人が行き来している活気に溢れる商店街となっているのだ。

 

 近郊都市トリスタ迄の長距離切符を買った私は、街の大通りを駅舎の中から窓を通して眺めていた。

 パルム市に来るのは去年の冬以来だ。昔はこの都市という空気がとても華やかに思えて、訪れた時には心を踊らせてはしゃぎ回った思い出がある。

 そう言えばあの時も隣にはフレールお兄ちゃんがいた。二人であの商店街の中にあるお店でピザを食べたっけ――。

 

 パルムの駅は南部の玄関口であるのと同時に、市の紡績産業の産出物である糸を北へ出荷する為の貨物専用の建物も併設されている為、その規模は地方の駅とは一線を画する大きさだ。

 石造りの駅舎も大きく、この小洒落た待合室は三十人以上の大人が一度に座れる程広く、待合室の中央には誰を象った物かは想像がつかないものの古びても立派な彫刻像が置かれている。

 

 その彫刻の前に一人の男が立っていた。

 上から下まで白一色に統一され、多くの人が集まる駅には場違い気味な服装。まるで結婚式の様な――ただし、白のタキシードとは違って男はマントを羽織っており、服の所々には薄青色の装飾が施されている。

 あまりよく男の表情は見えないものの、どこか淡い郷愁を感じさせる雰囲気を漂わせていた。

 そんな目立つ男がその場を立去ろうとした時、彼の体の影から丁度彫刻の台座へ白い手紙の様な物が落ちた。それに気付いた私はとっさにその手紙を拾うと、気付かないで駅舎から立ち去ろうとする男の背中へ声をかける。

 

「あ、あの。落とし……落とされましたよ!」

 

 もしかしたら男は高貴な貴族様なのかも知れないと脳裏に過り、使い慣れない丁寧な言葉に直す。

 私よりも頭二つ程高い背の男がこちらを振り返る。黄色の瞳からの鋭い視線が私にぶつかった。

 男の歳は二十代後半から三十代前半ぐらい、端正な顔立ちで左右に分けた青色の髪は長く、完全に私が初めて会うタイプの人物であった。

 

「……ふむ、ありがとう、とここはお礼を言っておくべきかな」

 

 男は一瞬、差し出された手紙に驚いたような表情を浮かべた気もするが、これは私の気のせいかも知れない。

 落とした手紙を拾ってもらって、助かったと思わない人はいないだろうから。

 

「いえ……どういたしまして……です」

「フフ……どうやら、高等学校の学生の様だが……ふむ、まだ巣立ちをして間もない雛鳥というところか……別れに流した涙の跡を隠しきれていない」

「は、はい? え、ちゃんと拭いたんですけど……」

 

 目が腫れていただろうか。初対面の相手に全てを見透かされた様で、恥ずかしさで顔が熱くなる。

 

「色々な思い出に彩られた青春とは然も美しいもの――……おっと、失礼。私はブルブランと申す者。御嬢さん、お名前を伺ってもよろしいかな?」

「は、はい……エレナ、エレナ・アゼリアーノ、です」

 

 自らの名前を口に出してしまってから、『変な男には名前を聞かれても教えてはいけない』とお祖母ちゃんに言われていた事を思い出す。

 まあ……この人は変は変でも何というか、危害を加えてくる感じの人ではない様な気がするので大丈夫だとは思うが……。

 

「えっと、どう……なさいました、か?」

 

 訝しげに私の顔を凝視する目の前の男に私は不安になる。

 

「……私の勘違いであれば申し訳無いが……君はリフージョという村の出身ではないかね?」

「えっと、そうですけど……」

「そうか――」

 

 男は何も言わずに、含みのある微笑を浮かべる。

 こんな良く言えば独特な、悪く言えば変な人は村の住民では無いことは明らかだ。十年以上住んでいて一回も目にした事はない。

 

「――そろそろ時間のようだ。それでは君の良い旅をお祈りしておこう」

 

 男がそう告げた直後、汽笛と騒がしい音と共に白い列車が駅構内へと入って来た。けたたましい汽笛の音に気を取られ、列車へと思わず目を移してしまう。

 次に男が今までいた場所には――誰もいなかった。あたりを見渡しても、あれだけ目立っていた全身白一色の男は忽然と消えており、待合室からホームへと足を運ぶ人々の姿ばかり。

 まるで今まで話していた男が幻だったと言われれば、信じてしまいそうになるぐらい不思議な人だった。

 私は首を傾げながらも、周りの人々の流れと同じ様に列車の到着したホームへと足を進める。

 まだ今日は始まったばかり、そして明日からはトールズ士官学院という今までとは全く別の世界で生きてゆく事になるのだ。

 

 

 ・・・

 

 

 パルムの駅舎の上にその男は悠然と立っていた。

 地方都市故に高い建物が紡績工場の煙突位しか存在しない市内とその周りに広がる一面の綿花畑を一望しながら、男は独白を零す。

 

「既に捨て去ったこの地に郷愁にかられたのを似つかわしくないとも我ながら思ったが……」

 

 先程、少女から渡された白い封筒の裏、”怪盗B”と記された文字を眺めながら呟く。

 

「……なんと因果なものか。まるで運命の導きの様ではないか――我が古き、そして懐かしき友よ」

 

 

 ・・・

 

 

 午前中のパトロールがてら、彼の実家のあるリフージョの村から故郷の妹分をパルム駅まで送るという仕事を終えたフレールとパルト。

 駅前広場でエレナと別れた後も、普段とは違ってフレールとハンドルを握る相棒のパルトとの間には会話が弾む事は無かった。

 

 パルム市内の領邦軍詰所のゲートで対面の装甲車の出庫の為に同僚の兵士たちに一時停止を求められた時、隣のパルトが胸ポケットから煙草の箱を取り出してフレールへ一本勧める。

 それぞれ煙草へと火をつけ、呼吸と共に白色の煙が車内でうねる。

 暫くフレールがゆっくりと灰へと変わる口に咥えた煙草を眺めていると、やっと隣のパルトが口を開いた。

 

「話さなくて良かったのか?」

「あん? 何がだ」

「決まりそうなんだろ、あそこの商会の娘さんと。……あの娘、どう見てもお前の事を……」

 

 意味がわかっていてわざわざ聞いてくるフレールを、少し非難するような声色だった。

 

「いいんだ。所詮ど田舎の雑貨屋なんざ、このご時勢大きな所に擦り寄らないとお先真っ暗。地元の酒屋の娘じゃどうにもなんねぇ」

 

 色々な思いが混ざる表情を浮かべながらもフレールは表面上の理由を貫き、短くなった煙草を車の小さな灰皿へと押し付けた。

 

「……大人なるってのは嫌なものだな。素直じゃなくて」

 

 そう呟いたパルトの視線の先には、灰皿の中で火種潰された煙草の吸殻があった。

 




こんばんは、rairaです。
さて今回は序章開始の前日、エレナが故郷を発った3月30日の回想回となります。
殆どがオリキャラ同士の出来事になるので、少し軌跡っぽくなく無ってしまっているのが私としては少し残念な所です。
ですがエレナというキャラクターを語るためには、フレールへの想いという成分は外すことが出来ませんので、この話を用意させて頂きました。

そして特別ゲストとして帝国南部出身(と思われるエピソードの有る)の彼に登場して頂きました。
もっともエレナ自身は等身大の普通の女の子というのがコンセプトである為、《結社》や《執行者》と関わりがあるという事ではありません。
次回は5月23日の自由行動日となります。

最後まで読んで頂きありがとうございました。楽しんで頂けましたら幸いです。

本年も後僅かとなりましたね。皆様、良いお年をお過ごし下さい。
また来年もどうぞ宜しくお願い致します。

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