気付けば私は寮を飛び出して、トリスタの駅を目指して夜道を走っていた。
街灯と建物から漏れる明かりは滲み、夜の街に沢山の光の粒が浮かぶ。
列車が線路を走り去る音と共に駅舎から出てくる人々の流れに逆らって、なりふり構わず駅舎の中に飛び込む。チケットカウンターの中に顔見知りの駅員さんのマチルダさんを見つけた私は、必死に頭を下げていた。
困り果てた顔の彼女は私の手を引いて、駅の事務室の奥へと連れてゆく。
そして、机の上に置かれた据置型の導力通信機を指差した。
――番号はわかる? ――州を跨ぐと交換所に繋がるけど何ていうかわかる?――
黒色の受話器を手に取り、生徒手帳に番号の記された頁を開く。
受話器からの呼び出し音が止まり、交換手の女性の呼び出し先の場所と番号を尋ねる声。
手帳に記された6桁の番号の数字が滲んでいる。溢れ出た大粒の水滴が落ち、髪を濡らしインクを溶かす。
嗚咽が漏れる、涙が止まらない。
――もしもし? どうされました?――
気が付けば受話器から手を放し、冷たい床に座り込んでいた。
後ろからは私を心配する交換手の声。
わざわざ通信して、今更私は何て言えばいいの?
・・・
目の前には少し不機嫌そうな顔をしている金髪の少年。
丁度、日曜学校に通い始める位の歳だろうか。
「……お前、名前なんつーんだよ」
「ふれーる?」
私の口から出たと思われる声はびっくりする程幼かった。え、この子……フレールお兄ちゃん……?
私の大好きな空色の瞳、少し濃い目の金色の髪――確かに、同じだ。
「ばっか。それ、俺の名前だよ」
「エレナ。この子はエレナっていうの。よろしくね、フレールくん」
綺麗な透き通った声、心地の良くて懐かしい、暖かくて優しい声。
(あ、お母さん……)
「あ……はい……」
目の前の少年は優しい声の主を見上げて少し顔を赤らめていた。
ああ、そっか――思い出した。
「エレナだよー」
再び幼い私が口を開いた時、辺りはリフージョの村の中央広場、丁度彼の実家の前へと変わった。
これは初めてあの村に来た時の思い出。
辺りの風景が再び変わり――日は落ち、私と彼は赤煉瓦の屋根の上に居た。
先程よりかなり成長した彼が目の前にいた。髪は伸び、男らしい顔付きになり、いつの間にか背も凄い伸びている。歳は丁度、今の私と同じ位だろうか。
私はこの場所と、この状況に覚えがあった。
「ねえ、フレールお兄ちゃん……私ね……大好きだよ」
まだ少し幼い私の声は、彼に自分の想いを告げていた。
違う。こんなことは言っていない筈、なのに――。
「――――」
彼の口が紡いだ言葉と共に、私の周りの世界が色を失う。
「――嫌だっ! 嫌だっ!」
必死に私は駄々をこねる子供のように彼の身体にしがみついていた。
「私を一人にしないでよ……! ――ずっと一緒にいてくれるっていったじゃない!」
彼の手が私の頭を優しく撫でる。
しかし、私が安心したのは束の間。
目の前の彼は、踵を返して私の前から離れてゆく。
気付けば私はパルム市中心部のメインストリートで膝を付いてしゃがみこんでいた。辺りは駅に向かう沢山の人でごった返している。
いつの間にか大人になり領邦軍の軍服を着ている彼の背中は、人だかりの中へと消えてゆきどんどん小さくなってゆく。そんな中、私は彼と寄り添う知らない女の人の姿を見た。
その人は私よりも綺麗で、私よりもスタイルが良くて、私よりも知的そうで、私よりも大人で――。
彼女はこちらを振り返るが、丁度黒い霧が掛かって顔は分からない。しかし、彼女が私を見ていること位はわかる。
そして、彼女のリップグロスで強調された艶のある唇が小さく動いた。
――ごめんなさいね――
いやだ、いやだ! あんたなんかに、大切な、大好きな人を取られたくない!
人混みの中を必死に掻き分けて私は二人を追う――しかし、まるで何かに飲み込まれるように私は暗闇の中へ一人堕ちていった。
「――レナ……エ……レナ……」
誰かが私の名前を呼んでいる。何かを強く叩く音まで。
「――ちょっと! いつまで寝てるのよ? もう本当にやばいわよ!?」
ああ、アリサだ。そうだ、ここは村でもパルム市でもない……帝都近郊にある士官学院の寮だ。
「エーレーナ! 起きなさい! 遅刻するわよ!」
彼女が相当大きな声を出していることは、布団の中に頭まで埋めている私にもちゃんと声が聴こえる事から良く分かる。
ベッドから出ようとは思えないが、いくら疲れていてもアリサをずっと無視する訳にはいかない。
仮に私がこのまま狸寝入りを続けていたら、普通の人ならば自分を優先して先に学院へと向かうだろう。だが、彼女は無類のお人好しである。もしかしたらこのまま私を呼び続けて遅刻してしまうかも知れない。
遅くまで寝れなかったからだろうか……薄い下着しか身に付けてない筈の身体は、まるで鋼鉄のコートを着ているかの様に重く、あまり言う事を聞いてくれない。部屋の扉までのたった数アージュの距離で何度もフラついて転びそうになりながらも、私はドアに背中を預けて、扉越しに居るであろうアリサを思い浮かべる。
「……ごめん、アリサ……私、今日、授業休む。サラ教官に伝えといて……」
思ってた以上に枯れ果てた喉は痛く、声は酷く掠れて低い。
これでは、逆に彼女が心配してしまうのではないかと不安に思っていると、案の定、心配そうな彼女の声が返ってきた。
「ちょっと、どうしたのよ? 体調悪いの?」
「……」
「ねえ、黙ってちゃ分からないじゃない」
なんて言えばいいのか、分からない。回らない頭には何の候補も浮かばないのだ。
「アリサ、エレナが起きないのか?」
――リィンの声、少し遠い。
「えっと……私から誘ったのにゴメンなさい……やっぱり今日は先に行ってて貰えないかしら?」
彼の声が聞こえた時に心に生まれた黒い物は、アリサの言葉の意味を理解した次の瞬間、凄まじい勢いで膨らんだ。
次に私の口から出た声と言葉は、自分でも驚くほどの悪意を帯びていた。
「……アリサ、遅刻するよ」
「ねえ、体調悪いならベアト――」
「……さっさとリィンと一緒に学院に行きなよ」
最低だ、私は。リィンという想い人がいるアリサに、嫉妬している。
その続きは、言ってはいけないと分かっていた。でも、例え思っていても、口に出してしまった。
「……早く行ってよ! 早く寝かせて! もう正直、迷惑! 一人にしてよ!」
私を気遣ってくれる大切な友達に、私はとんでもなく酷い言葉を吐いていた。
身近な場所に想い人が居て、幸せそうに一歩一歩進もうとしている彼女の姿が妬ましくて。彼女が持っているものとその気持ちを、もう自分が失ってしまったものだということが、とても悔しくて。
こんなの八つ当たりもいいところではないか。
「――わかった」
少しの間を開けて扉の向こうのアリサはそう呟いた。少し諦めたような、そんな響き。
いやだ、私を見捨てないで。見限らないで。謝るから――お願いだから――。
「――帰って来たら――いえ、あなたの気が向いたらで良いわ。話、いつでも聞くから」
「――!」
「……約束、よ?」
優しくまるで子供をあやすような声に、黒ずみ澱んだ心の中が洗われていく。
ついさっき酷いことをした自分等忘れて、扉の向こうの優しさに飛び込んで甘えたくなりそうになる。
「……うぅ……うん……ぅぅ……」
彼女の前では泣きたくない。今泣いたら、彼女はきっと私がドアを開けるまでこの場から動いてくれない。だって、あんなに酷い事を吐いた私をまだ優しく包み込んでくれるようなアリサなのだ。
だから私はこれ以上扉の前に居る事から逃げ、再びベッドに潜り込んだ。
今はその優しさが、輝いているアリサが――見るだけでも想像するだけでも、私には辛い。そして、甘えたくなってしまう。
それに私は昨晩、強くなると決めた。もう泣く訳にはいかない。
・・・
ベッドに身を預け、横目にカーテンの閉じられた窓を眺める。
あまり馴染みのないカーテンの隙間から漏れる光の眩しさで、いつもであれば学院で授業を受けている時間であることを把握できた。
昨晩、お祖母ちゃんからの手紙の追伸に書いてあった一行は、私にとっての天地をひっくり返すのに十分だった。
私は認めたくはなかった。これを言葉にしたら、私が言葉にしたら、本当の事として認めることになる様な気がして。
私にとっての彼は、私がリフージョというあの暖かな村に来て以来、ずっと一緒に時を刻んできた大切な人だった。
初めて会った時の事ですら断片的に覚えている。軍服姿のお父さんに驚いていた彼。そして、私に名前を教えてくれた彼。
小さい頃の記憶はどんどん忘れていってしまうけれど、あの日の記憶だけはまだ覚えていた。
傭兵達が酒場で立て篭もったあの事件の時に私は3歳だった。あの時も彼は震える私の手を握ってずっと一緒に居てくれた。私と彼の背丈の差は30リジュ物差しよりあった。
それから数年経って私が日曜学校に通い始めた時も、彼が目の前の教会まで手を引っ張って連れて行ってくれた。
私が7歳、彼が12歳。
遊びたい盛りで悪戯三昧だった彼も、殆ど毎日5歳も下の少し生意気な”妹”の面倒を見なければならなかった。今考えると本当によく頑張っていたのだろう。
大人達に混じって遊びまわる彼は大人だった。私も早く大人になりたかった。なんでも出来て、なんでも知っている彼が大好きで、ずっとずっと一緒にいた。彼との差は30リジュ。
それから数年後、丁度胸が少し膨らんで痛み始めた頃。私は毎日毎日一緒に居る彼がウザく感じるようになった。
いつも遊ぶ人もいつの間にか彼ではなく、日曜学校で一緒だった女の子数人で集まっていた。夕方になれば、そんな女子同士で遊んでいる中に彼が私を呼びに来るのだから度々喧嘩にもなった。
彼は周りの女の子に人気があったのが、私を更に苛立たせた。きゃっきゃっと騒ぐそんな女の子達の機嫌を取る様に、面白い事をする彼はほんっとに嫌いだった。私には何もしてくれなかったのに。
何時からか私は一人前の大人になった気がしていた。店番は一人で任されるようにもなっていたし、日曜学校も中等クラス、村の若い奥さんや年上のお姉さんとよくお話ししたりもした。今思えばマセた子供だと思われていたに違いない。
「大好き」って言えなくなったのはこの頃からだと思う。素直になることは出来なくなり、彼の前ではどうしても可愛くない子になってしまった。
彼の前だとどうしても恥ずかしくって、思ってもない事を言ってしまうようになった。『いつも不貞腐れてる』と彼にはよく言われていた。
でも、嫌いだと思っていても今思えば毎日ずっと彼の事を考えていた。
ある日、私は遊び仲間の年上の人に彼との関係を尋ねられた。私は”腐れ縁”と言い放ったが、彼女は彼の事が好きだった。何度も何度も念入りに尋ねる彼女に負けた気分になりたくなくて私は強がったが、内心での焦燥感は凄まじいもので――その日、初めて私は自分の気持ちを自覚する事となった。忘れもしない、誕生日までもうすぐの11歳の夏の終わり。
結局、彼はその彼女の気持ちを受け入れなかった。『好きな人が居る』――そう言われたんだとか。
そう目の前で涙を流す彼女を見て、同情する一方で、安堵に浸った自分の事を嫌な女だと痛い程感じた。
その足で彼に彼女の告白を断った理由を聞きに行った――理由を知っているのにもかかわらず、出来れば私の名前を彼の口から直接聞きたくて。
彼は少し照れくさそうに『大切な人がいる』と言ってくれたけど、肝心な事は何も言ってくれなかった。そんな煮え切らない彼に私は自分から責め立てた。
仕方なくといった様子の彼は『大人になったらな』と、一言。ほっぺたへのキスと共に。
嬉しかったし、満たされたけど、心の中の罪悪感は拭えず、彼の言葉に甘んじて”幼馴染”という関係から一歩前へ歩む事は出来なかった。
でもその言葉に、納得がいかなかったのは今でも昨日の事のように覚えている。
『もう大きくなったのだから』という理由で、お祖母ちゃんは店番を押し付けてくる、彼は『少しはしっかりしろ』と言う。それなのに肝心な所ではいつまでも”子供”扱い。
彼との差は25リジュ。
あれから5年が経った。私はあの時の彼と同じ16歳になり、帝国法での婚姻可能年齢に達した。日曜学校を早く卒業した子や専門的な学校へ進む子であればもう職に就いている子も居るだろう。
だからといって私が大人になったかと言われれば微妙だし、今で尚子供扱いされる。勿論、最後に彼に会った時も最後の最後まで子供扱いだった。
いつまで経っても、女としては見てくれなかった。彼との差は15リジュまで狭まっていたのに。
彼は領邦軍の兵隊として村を出て以来、私は寂しさを抱える事となった。そして、3か月前の最後に会ったあの日――どうして私は最後の最後まで何も言わなかったのだろう。
私にはまだそんな関係は早い? 恋人より幼馴染の方が良かった? 彼の妹分という立場に甘えていたかった?
そんな事はない筈だ。いつだって、私は大人になりたかったし、恋人に憧れた。妹分なんて嫌だった。
頭の中で色々な出来事がぐるぐると回る。ずっと分かっていた。結局、私から一歩進む勇気が無かっただけだ。
あの5年前の夏の日――涙を流す彼女の顔が浮かぶのだ。あの日、私の汚い部分は安堵した。大好きな人を独占出来た少なくない勝利感すらあった。最初に彼女からあの話を打ち明けられて以来不安に苛まれていたのが嘘のように消え去った。
だが、それ以降彼の前で私自身が想いを告白しようとすると、必ずと言って良い程涙を流す彼女の顔が脳裏を過ぎる。
だから、彼に想いを告げれなかった。怖いのだ。彼女のように、自分がなるのが。
私の小さな世界の中で彼の存在は一際大きかっただけに、失うのが恐ろしかった。
だから結局、危ない橋を渡る事のなく続けられる幼馴染にという特別な関係の維持に全力を注いでしまった。
もっと先に進みたかったし、もっと愛して欲しかった。もっとずっと一緒に居たかった、もっと同じ時を過ごしていたかった。
そんな彼と心の中でずっと一緒だった人生も、昨日で終わってしまった。彼は私じゃない誰か他の女の人を選んでしまったのだから。
あの時に、あの日に戻りたい。10年前とは言わない、5年前じゃなくてもいい、せめて3か月前のあの日でいいから――でも、時計の針を戻すことは出来ない。
また不意に涙が溢れてきそうになる。哀しい、そして、悔しい。
必死に唇を噛み締めて我慢していた時、突然のノックに思考が止まる。
「エレナ様――」
シャロンさんに名前を呼ばれた私は、ベッドのタオルケットを顔まで引き上げて目を瞑った。
「――あら……まだお休みだったのでしょうか……? 失礼いたしましたわ」
とても小さな足音に耳を澄ませて彼女が階段を降りていったことを確認すると、思わず大きな溜息が漏れる。
しかし、一人の時間はそう長くは続かなかった。
「入るわよ、サボり娘」
そんな声と、解錠される音と共に扉が勢い良く開く。
「……っ!? さ、サラ教官……!?」
ベッドの上で私は飛びのき、二言目にはこの突然の侵入者を批難していた。
「……なんで勝手に入ってくるんですか!?」
「入るわよ、って言ったわよ? ……あちゃー、案の定、酷い顔してるわね」
そりゃあ、酷いだろうと思う。昨日はお風呂も入らなかったし、そのまま一晩中ベッドで泣いていたのだから。
「……酷い……って、ゆうか!なんで入ってこれるんですか……!?」
「そりゃあ、管理人さんに合鍵出させたからに決まってるじゃない。あれでも問題児には協力的なのよ」
盲点だった。シャロンさんは寮の部屋全部の鍵を持っているのだ。
「……サラ教官、授業は大丈夫なんですか?」
「午前中はどのクラスも授業が無くてねー」
「……うぅ……風邪、移しますよ。体調悪いんです……」
「悪いお姉さんから貰ったライフルで遊び疲れかしら?」
「……そんなところです」
”悪いお姉さん”が強調された含みのある言い方だ。サラ教官とシャロンさんはリィンによると前々から知り合いのようで、顔を合わせる度に尖った雰囲気を醸し出している。もっとも、主にサラ教官の方が、だが。
「ふーん」
関心なさ気に彼女は私の部屋の中を見渡す。脱ぎ散らかした昨日の服や下着が目につき、ちゃんと綺麗にしておけば良かったと少し後悔していた時、サラ教官の視線がある一点に注がれているのに気付いた。
「その手紙が原因ってところ?」
「……!」
昨晩びしょびしょに濡らした枕の傍に、無造作に置かれた封筒と便箋。
手紙の追伸の内容を思い出し、目頭が再び熱くなるのを感じる。
「大体、私の目は騙せないわよ」
風邪かどうかぐらい見ただけで分かるわ、とサラ教官は続け、右手に持つ茶色のビール瓶を私の机に置いた。
そして、彼女はそのまま私のベッドに腰掛け――
「ほら……良い男じゃなくて悪いけど……泣きたいだけ、泣いちゃいなさい」
――そっと優しく、私をその腕の中に抱いた。
もう、私は止まれなかった。
昨晩は周りに聞こえないように声を殺して泣いた。しかし、もう何も我慢出来なかった。
気付けば目の前のサラ教官の背中に腕を回して、大声を上げていた。
「……私……私……泣きたくなんて、無かったのに……もう、泣かないって……、強くなるって、決めたのに……!」
「……泣かないから強い訳じゃないのよ。泣いた後にその人がどう立ち上がれるか……強さっていうのは、そういうものだと私は思うわ」
「いやだよぉ……いやだよぉ……」
大声で泣き叫びながら、私は心の片隅にずっと座り込んでいたある感情に気付いていた。ずっとずっと、認めたくなかった、ある気持ちに。
・・・
どれだけの時間、サラ教官の腕の中で泣き喚いたのだろう。気付けば、まるでお風呂に浮かんで居るような、全てを洗い流された跡の透明感に満たされた気持ち。
そんな少し吹っ切れた気分を邪魔したのは、サラ教官の口から漂うアルコールの臭いだった。
「……サラ教官……ビール臭いです……」
サラ教官の背中はフレールお兄ちゃんより遥かに小さかった。あんなに強くて立派で、普段はズボラだけど、いざという時は頼れるお姉さんといった感じのサラ教官でも女の人なんだと再確認してしまう。
「……このぉ、散々人の服濡らしておきながら言うわね……」
そう言いながら、ベッドを立つサラ教官。少し、名残惜しかった。
彼女はそのまま、私の机に置いていたビール瓶を一気にらっぱ飲みしはじめる。
「どしたの?」
そんな姿をずっと見ていると、 不可解そうな面持ちをするサラ教官。彼女の大きな胸の辺りの濡れ跡に、私は少し恥ずかしくなる。
「あなたも飲む? 今日一日ぐらい特別に許してあげるわよ?」
多分、大人はこういう時にお酒を飲んで忘れるのだろう。そう考えるととても興味のあるお誘いではあったのだが、私はそれを断った。
だって忘れたくないから。
「少しはマシになったかしら?」
「はい……昨日から泣いてばっかりで……もう涙枯れちゃいそうですけど」
それは結構。……みんな心配してたわよ。アリサなんか気が気でないっていう感じだったし」
朝、彼女に吐いてしまった酷い言葉が浮かぶ。本当に、私は最低だった。
「心当たり、あるようね」
「……はい……」
私にサラ教官は何も言わなかった。
でも、私には教官の無言の意味を知っていた。Ⅶ組では、そういう個人間の問題は当人同士で解決するのに任されているのだ。だからサラ教官は何も言わない。教官の目は「自分が正しいと思うことをしなさい」とだけ語っていた。
「大丈夫なようだったら晩ご飯は下に降りて、みんなに顔見せなさいよ?心配してるのはアリサだけじゃないわ」
やはり、アリサ以外のⅦ組のみんなにも私は大分心配をかけてしまっていた。
「そんな暗い顔しないの。大事な仲間なんだから、心配するのは当たり前でしょう?まあ――あのユーシスが異様にそわそわしてたり、こっちとしては逆に良い物は見させて貰ったって感じだけどねぇ」
異様にそわそわするユーシスを想像して、思わず笑いがこみ上げてしまう。
「ユーシスが……ふふっ……あっ……」
「笑ったわね」
「ち……違います」
私を元気づける為に、わざわざ学院から寮に来てくれたサラ教官に感謝した。
そして、やっと私は気付いた――私の小さな世界はいつの間にか大きく広がっていたことに。
・・・
「ふふ、サラ様。お疲れ様でした」
エレナの部屋から出てきたサラを迎えたのは微笑を浮かべたシャロンだった。
「コソコソ盗み聞きとは、ラインフォルト家のメイドは不作法なのね。この際、いい機会だから私が躾直してあげましょうか?」
「まあ、サラ様怖い。そんなにこのシャロンを縛り封じ、雁字搦めに……あの手この手で辱め――」
「……それはあんたの専門でしょうが」
呆れたように肩を窄めながら、シャロンの横を通り過ぎて階段を降りるサラ。
そんな彼女の背中を追うようにシャロンは静かに後を付いて歩く。
「なんで付いて来るのよ」
「いえ、わたくしも一階に戻る途中でしたので」
「あっそ」
シャロンの全く信用出来ない理由を、サラは興味なさげに一言で片付ける。
「ふふ……ですが今日は、サラ様が来てくれて助かりましたわ」
二階の踊り場に差し掛かった時、珍しくシャロンが感謝の意を口にした。
「……あんなので良かったかどうかは、私には分からないけどね」
「私もサラ様と同じですので、失意のエレナ様にどう声をかけたら良いか……不覚にも戸惑ってしまいましたわ」
「アンタみたいな暗い人生送ってきた人間と一緒にして欲しくは無いわねぇ」
「まあ、お酷いですわ」
そう言いながらも、彼女が微笑みを崩すことはない。
「ま……分からなくもないけどね……。確かに、あの子達を見てると少し羨ましいわ」
その後、まだお昼まで少し時間はあったが、シャロンはサラに軽食を作ると申し出た。
ビールのつまみにいいのでは、と。
【おまけ】
「サラ様。一つだけご訂正したいことが」
「何よ?」
「わたくしにも素敵な男性の一人や二人はおりましたわ」
「……う、嘘でしょ!?」
こんばんは、rairaです。
さて、今回は主人公エレナの失恋のお話でした。悪い時には悪い事が重なるものです。
これまで彼女とフレールの間には不穏なフラグをこれでもかというぐらい入れてきましたから、気付いておられた方も多いとは思います。
この二人の関係がこのような形を迎えることは既に第二章の「【番外編】3月30日」で確定していました。フレールにはあの時点でもう婚約が決まりそうだったんです。
あの話で、想いを伝えられなかったエレナに彼が安堵したのはそういう事情です。
同時に今回、エレナの人間らしさがある意味で爆発してしまっています。今まで想いを伝えれなかった理由の一つも勿論ですが、冒頭のアリサとのやり取りもそうですね。失恋時に見る幸せそうなカップル程、心を乱すものはありません。苦笑
遂にエレナにとって最も大きい存在が、そして最大の足枷が失われました。
次回から三章の特別実習のブリオニア編となります。
最後まで読んで頂きありがとうございました。楽しんで頂けましたら幸いです。