”TRISTA 450CE”
まるでここまで自分の脚で走って来たかのような疲労感に襲われ、ふらふらとして足腰が定まらない。
数十分前まで私が居た街への距離が大きく印字された重厚な鉄看板を見るや、私は力無くそれに背中を預けた。
しかし、やっと一息付けると思ったのも矢先、ワイシャツ越しに背中を、スカート越しにお尻を焼かれてその場から飛び退く。
夏の日差しに熱せられた鉄板は尋常ではない。そんな事すら失念していた馬鹿な自分を責めたくなるものの、そんな気力は既に無かった。
もう諦めてその場にしゃがみ、今来た道に目だけを向ける。郊外へと続く道の上にはチラチラと蜃気楼が揺れ――足元からの熱気が私の脚をもじわりじわりと熱してゆく。
さっきまでは逆に寒かった位なのに。
「はぁ……」
本日何度目になるか分からない溜息を付いて、後ろを振り返った。
帝都東門、グルトップ門。緋色の煉瓦で建てられた巨大な中世様式の門構えは、この場所が帝国の中心たる帝都ヘイムダルの東の玄関口である事を充分過ぎる程に誇っている。
この門をくぐった先、見上げれば首が痛くなる程高い《ヘイムダルの赤壁》と呼ばれる城壁の内側が目的地である帝都市街地だ。
――三十分前。
士官学院の正門を出て、駅前の商店街を走ってた頃は良かった。
私が『導力バイクって楽しい』なんて子供染みた感想を捨てたのは、トリスタ駅前を帝都方面へ右折して街道に出た時。それはもう、過ぎ去ったトリスタに向けてくしゃくしゃにして投げ捨てた。
「どうだい――この風を切る気分は――!」
そんな叫びは、うるさい風の音に乗って、まるで遠くの人から話しかけられたかのように聞こえてくる。アンゼリカ先輩は私のすぐ前に居るのに。
だが、私にはその返事を返す余裕は全く無い。さっきまでこの背中で前が見えないと少し不満だった余裕は嘘の様、暴風の様に頬に当たる風は痛い程で、必死に革ツナギの背中にくっついて顔を隠している最中なのだから。
突然襲ってきた大きな上下の振動に、思わずアンゼリカ先輩の体に回す腕に力が入ってしまう。それに気付いた私は、すぐに腕から少し力を抜いた。また変なことを言われると恥ずかしくなるし、癪だ。それに、なけなしの強がりだけど、プライドは重要だと思う。
「ははっ! そんな照れ臭そうにすることはない!」
やっぱり言うと思った。
「もっとしがみついてくれたまえ! 私と共に身も心も風になろう!」
なんて続ける。アンゼリカ先輩、テンション高すぎというか、あなたが言うといかがわしい意味にしか聞こえないんですが!
更にほんの少しだけ腕の力を弱めた。
「ほお……ならこちらにも……!」
「ひぃっ!」
思いっきり傾いたバイクに、恐怖に叫びながらなりふり構わずアンゼリカ先輩にしがみ付く。
今度は反対側に――こんな乗り物で、こんな高速で、蛇行運転。
私は必死に革ツナギの背中に抱き締める羽目となった。
そして、今に至る。
「どうだい、導力バイクは楽しかっただろう?」
私をこんな風にした犯人は、悪いとなんて何一つ思ってない様な満面の笑顔。
怒鳴り返そうかと考える一方、もうそんな気力も残されてはいない。私は半ば強引にこのザボりの道へ引きずり込んだこの先輩に、いかに怒りをぶつけようかと考える。
「……はい、そうですね。ログナー侯爵令嬢アンゼリカ様」
もう恨み節しかない。
「そんなに怒らないでくれたまえ、私もこの通り反省している」
「もう! めっちゃ怖かったんですよ!」
「ははは、しっかり色々と堪能できて私は満足だよ」
分かっていた事だけど、この人は本当に人の反応で楽しんでるんだから!
・・・
帝都の西の大通りと言われるヴェスタ通り、そのアーケード内にある大きな衣料品店に私達は居た。
このお店の《ルッカ》とブランドは私でも知っている位有名だ。本業はセントアークの貴族向け高級店と聞いた事はあるが、今ではもっぱら平民向けの総合衣料品店として知られており、パルム市の駅前広場にも軒を構えていたのを覚えている。
二つ程0の増えた値札が並ぶ店内の一角や、完全オーダーメイドまで請け負っているのが数少ない本業の名残といった所か。もっとも私にはどちらも縁遠いものだけど。
ちなみに此処へと来たのは、実はショッピングを楽しむ為ではない。確かにこうやって色んな服を眺めるのはとても楽しいのだけど、一番の理由はカモフラージュの為であった。
アンゼリカ先輩曰く、「士官学院の制服を着た少女が午前中から街中をふらついてるのは不自然だからね」ということらしい。帝都東門で検問をしていた帝都憲兵に訝しげな視線を向けられた事を考えれば、確かに当然の自衛策と納得出来た。
じゃないと、そんなにお金も持っていないのに服屋なんて行く訳がない。
色気も何もない黒の薄手でロング丈パーカーを手にして、鏡で自分の体に合わせる。うん、これでいいよね。
「それを買うのかい?」
「はい。おかしいですか?」
何となくアンゼリカ先輩が次に口にする言葉は想像がついていた。
「もっと可愛らしい服を買えば良いと思うのだが……」
「買うのは羽織るものだけです」
「そう言わずに、いい機会じゃないか」
そして、「ほら」と彼女は傍でマネキンが来ている白地でレースフリルの付いたワンピースを指す。
ワンピースって案外着こなすのが面倒臭いのに。
「……似合わなかったら嫌じゃないですか」
「ふむ……」
服だけでなく、口も可愛くない態度を取ってとっととカウンターへと向かった。
どちらかというと安物といった対価を払い、タグを外して貰ったパーカーをその場で羽織ってお店の出口に目を向けた。
いない。
さっきまでドア脇で私の会計が終わるのを待っていたアンゼリカ先輩が居なかった。私は慌てて店内を見渡すが、どこにも居ない。
まさか、置いて行かれたのだろうか。
折角誘ってくれたのに、私がずっとぶすっとしていたから、幻滅して見放されてしまったのだろうか。
アンゼリカ先輩の周りにはハーレムだなんて言われる程可愛い子は多い。別に私じゃなくても外見は勿論、性格も可愛い子なんていくらでもいるだろうし――。
「お待たせ」
「ひぁっ……!」
突然耳元で囁かれ、思わず変な声が出てしまう。
「あ、アンゼリカ先輩っ」
何処行ってたんですか、という言葉は、口出る前に違う言葉に取って代わられた。
髪を触られる感じがしたと思えば、それまで髪ゴムで結っていた感覚がすっと消える。
「な、なにしてるんですかっ……っ!」
「しっ……じっとして欲しいな」
耳元にかかる息がとってもくすぐったかったけど、何とか今度は耐える。これは、絶対わざとだ。
そして、アンゼリカ先輩が何をしようとしているのかが、何となくだがやっと分かった。
「よし、出来た。うんうん、とても似合っているよ」
タイミングの悪い事に一部始終を見ていたショップの店員さんが、私に手鏡を差し出してくれる。
そこには、なんとも自分らしくもない黒色の大きなリボンを付けた私がいた。
急に顔が熱くなる。ヘアバンドはわかっていたけど、こんな大きいリボンがついてたなんて。
「リボンさ。これぐらいのお洒落はいいだろう?」
そんなのは見れば分かっている。こんな可愛いヘアアクセ、私に本当に似合うのだろうか。
「……むぅ」
でも、それほど悪い気はしなかった。やっぱり、リボンは可愛い。
来た時には気づかなかったが、衣料品店を出た私達が見たのは人集りで賑わうアーケードの向かいのお店だった。
「……アレ、なんですか?」
ぱっと見では書店の様ではあるが、そんなに人気の本の発売なのだろうか。字だけの本を読むのがちょっと苦手な私は、そっち方面の事には疎い。エマやマキアスなら分かるんだろうけど。
それにしても、平日の真っ昼間にあれだけの人集りが出来るというのも凄まじい。流石は帝国最大の大都市だ。
「ああ、写真集の発売の様だよ」
写真……集?
お金が無いからといって、《ケインズ書房》でそういう本を立ち読みする例のエロ本先輩が私の脳裏を過る。百歩譲って読むのは構わないが、ニヤニヤ下品な笑いを浮かべるのはやめて欲しい。正直、顔がやらしすぎてお客さんが引いてた。
数日前のバイト先での記憶をふと思い出しながら、目の前の光景を見ると似通った共通点が見えてくる。
向かいの書店に集まる人も男が多いように見えるのだ。
やっぱり、きっとそういう事なのだろうと、嫌悪感なんて通り過ぎて呆れしか思い浮かばない。いや、私だって子供じゃないんだし分かっているのだけど。
「そんな顔をしなくても、至って健全なものだよ」
「そうですか。おんなじ事をよくエロ本を買う"先輩とは思えないバンダナ"から聞いたことがあります」
「ははは、寂しい男達御用達の本とは一緒にしないで欲しいねぇ。大体、あんな本を見ながら夜な夜な何をやっているんだか――」
「あ、アンゼリカ先輩っ……!」
周りを気にする素振りもないアンゼリカ先輩を慌てて止めると、彼女は両手を広げてけらけらと笑う。
そんな、こんな街中で大っぴらに言わないで欲しい。人通りも結構多いのだし、十アージュ程隔てたアーケードの向かいには数十人の人が集まっているのだから。
私はあんまりはしたない女だと思われたくない。
「それはそうと、クロスベルで人気の劇団の奴なんだが、知らないのかい?」
「……知らないですね」
自分でも驚く程即答できたのは、単にクロスベルという場所についての知識が私に全くといって良い程無いからだ。
帝国東部の属州の大都市であり、市民がお金持ちである事や色々と良く思われていない事は知っていても、その場所の有名な劇団なんか全く分からない。
大体、行ったことが無い街の事なんか分かる訳がない。三回目の帝都の事すら私には分からないのに。
「意外だな。君がよく被ってる帽子にみっしぃの缶バッジが付いていたから、あちらに詳しいのかと思っていたよ」
あの缶バッチの変な猫は”みっしぃ”というらしい。少し気に入っていたので、名前を教えてくれたアンゼリカ先輩には内心ちょっと感謝だ。
「あれはお父さんからのお土産です」
「ああ、確かに軍の帽子だったね。ふむ、噂のワンダーランドの話を聞いてみたかったんだが……」
アテが外れてしまったようだね、と残念そうに肩を落とした。まあ、仕草と裏腹にそう残念にも思っていなさそうではあったが。
大きく美しい鐘の音が空に響くと共に、書店の周りの人だかりがざわめき立ち、歓声すらも上がる。
「《ヘイムダルの鐘》か……正午発売、ということだったみたいだね」
「……チケットなら分かりますけど、写真集ってどういうことなんですか?」
チケットの販売開始日に並ぶ……とかなら分からなくも無い。パルム市に旅芸人の一座が来た時にフレールお兄ちゃんがとっても頑張っていたのを思い出す。
「トップスターの《炎の舞姫》を筆頭に劇団員は皆美男美女揃いなんだよ。特に今年入った新人の子が可愛くてね」
思った。クロウ先輩のグラビア雑誌とぶっちゃけ変わらないんじゃないかって。
でもまあ、雑誌等でかっこいい男の人の写真を見れば私も多少気になってしまうので、気持ちは分からなくも無いんだけど。
「へぇ……どんな子なんですか?」
「東方系の顔なんだか、もうなんというか豊満な身体をしていてだね――」
「……もういいです」
もうそれ以上聞くつもりは無かった。良く考えればアンゼリカ先輩は女の子好き、ぶっちゃけあのエロ本先輩と変わらない。逆にスキンシップやいかがわしい発言が多い分、アレより遥かに質が悪い様にも思える。
「つれないねぇ。焼き餅かい?」
「そんなんじゃありません」
私はアンゼリカ先輩からまた顔を背けた。
・・・
『私のいきつけの店を奢るから、ご機嫌を直してくれないかい?』
そんな言葉に釣られてしまうんだから、私も結構簡単な女だと思う。まあ、からかわれたといっても二人きりなのだしそこまで嫌だった訳でもないのだけど――ただ、あのままずっとやられっ放しというのがどうしても気に食わないだけだった。
馬よりも少し遅く、まだ風が心地良く感じられる位の速度で導力バイクは走っていた。
私が怒ったのを見てアンゼリカ先輩が反省してくれた――訳ではなく、単に街中であんな速度を出す事が危険過ぎるからだろう。まあ、帝都憲兵の目も光っているということもあるかも知れないが。
ともあれ、どんな理由でも安全運転をしてくれているお陰で、私はしっかりと流れ行く帝都の街並みを見る事が出来た。
帝都は巨大だ。入学前にこの街で一泊した時にも同じ事を感じたが、やはり帝都は全てが別格だと思う。
それを一番感じるのは、移動しても移動してもずっと街が続いている事。
一つ一つが大きな規模を持つ街が幾つも集まって、帝都という一つの大都市を作り上げている――私にはそう見えた。
この帝国が帝都と領邦四州、その外側の準州や属州で構成されるように。
色んな業種のお店が軒を連ねるヴェスタ通りは活気的な街だった。様々な大きさや高さの建物が立ち並ぶ様は雑多な印象も受けるが、庶民的な繁華街といった言葉がとても似合っていた。
それに比べると今走っている場所は、まったく正反対の印象を受けなくもない。街は静かで街路樹や公園の緑も多く、一つ一つの建物は大きくてしっかりとした気品がある。少し違うけど、バリアハート市に似た雰囲気は帝都の中のまた違う街に入ったことを感じさせる。
「あ、あれって……」
街並みの向こうに二つの大きな尖塔が見えた。皇宮《バルフレイム宮》とは違って真っ白の。
「ああ。ヘイムダル大聖堂――さっきの鐘の音は彼処からだよ」
左手には段々と大きくなる純白の大聖堂がその全貌を建物の影から現してゆく。陽の光を反射して輝くそれは、まさにこの帝都で最も女神様に近い場所だった。
「……ん……?」
「どうかしたんですか?」
ヘイムダル大聖堂の敷地際に顔を向けたアンゼリカ先輩。
「ああ、いや……私の見間違いだろう。朝から見ていないと思っていたが、ここ程奴に場違いな場所も無いだろうしね」
「はぁ……?」
誰のことだろうか、士官学院の生徒には間違い無い様だが――クロウ先輩?
いや、まさか……。一番敬虔な信徒という言葉から縁遠いし、なにより学校の授業をサボって来られても女神様も困るだろうに。
「さて……ここを曲がると――」
対向車の居ない交差点を右折し、傾斜の坂道を下り始める。
「わぁ!」
「《バルフレイム宮》のお出ましさ」
目の前には、大聖堂よりも更に巨大で壮麗な皇宮が広いお堀の向こうに聳える。
「これぞ帝都って感じですよね! やっぱり近くで見ると大きい!」
坂を下りきり、皇宮のお堀沿いの広い道を走る導力バイクから、私はこの景色を堪能していた。
そのまま皇宮の正面外苑広場でもあるドライケルス広場を横切って、帝都の中心街であり重厚な高層ビルの立ち並ぶヴァンクール大通りへ。
帝都最大かつ中央を南北に突貫する目抜き通りを左に曲がりし、幅の狭まった道を水路沿いに走ること数分。帝都の中心部から離れるにつれて、再び街の雰囲気が変わってゆく。
高い建物がめっきり少なくなった街の一角に、アンゼリカ先輩はバイクを停めた。
「さて、着いたよ」
「ここ……ですか?」
人通りも導力車やトラムの往来も多かったヴァンクール大通りやヴェスタ通りは勿論のこと、比較的静かだった大聖堂があった街区とも少し違う。
戸建ての家屋の多い住宅街といった所か。
「閑静な場所ですね?」
「アルト通りは帝都でも比較的裕福な住宅街だからね」
意外だった。アンゼリカ先輩の行きつけという位だからヴァンクール大通りや帝都歌劇場の近くにある高級店というイメージがあったのに。それは私の偏見だろうか。
住宅街の中に溶け込む目の前の喫茶店の軒先でそんなことを思う。
「どうぞ、お嬢様」
アンゼリカ先輩がまるで執事様のように扉を開けてくれる。お嬢様は先輩なんですけど。
店に入るやいなや、年老いた主人に慣れた様子で注文をしてゆくアンゼリカ先輩には驚かされる。ここをトリスタの《キルシェ》かと勘違いしそうになった位だ。
週に一回は行く《キルシェ》でも『いつもの』と私が注文したら厳しそうなのに、この先輩は一体このお店に何度来ているのだろうか。
暫くして運ばれてきたお店の主人の焼いた帝都風の薄い生地のピッツァは、その名に恥じない美味しさであり、あっという間に最後の一切れになってしまう。
このまま全部食べるのは少し勿体無い気がして、私はまだ半分くらい残るカフェ・ラッテのカップを口に運んでから、アンゼリカ先輩の方を見た。
彼女の”いつもの”の正体は、ノルティアン・ティー。帝国北部特有の紅茶の飲み方で、小さな器に入ったジャムをスプーンで舐めながら、紅茶を楽しむという物だ。
私がこんな飲み方をしていれば失笑ものだろうけど、彼女はとても様になっており革ツナギがアフタヌーンドレスに見えたくらい。流石は、四大名門に名を連ねる侯爵家の令嬢だ。
「そんなにお腹が空いていたのかい?」
「いやっ……その……」
図星過ぎて何も言葉が出ないとはこの事だろう。
「私のオムレツも一口どうだい?きっと気に入ると思うよ」
黄色のふわふわのオムレツは、それはもう……美味しそうで。いやいや、流石に……でも、美味しそう。
「……うっ……じゃあ……」
小さな葛藤の後、誘惑に負けた。幸いにもこの場にはアンゼリカ先輩だけであるし、ちょっとぐらいなら大丈夫……と思う。
だけど、私は、次の瞬間、後悔した。
「はい、あーん」
「ええっ!?」
「何を驚いているのかな?」
差し出された銀色のスプーンに乗る、まだ少し湯気の立つ黄色のふわふわ。
アンゼリカ先輩はニヤニヤと笑みを浮かべる。
「た、食べさせて貰わなくても、大丈夫です!」
「まあまあ、そういわず。冷えてしまうよ」
意を決してスプーンにぱくついた私は、オムレツを堪能していた。味はアンゼリカ先輩の言う通り確かなもので、卵のまろやかな味に交じる砂糖の甘みと、バターの風味――あれ……この味……。
そこで私の思考はお店の扉ベルの音に引き戻され、咄嗟に味わっていたスプーンから口を離す。
流石に見ず知らずの人の前で、恥ずかしい姿は見せられない。
「あら……また来てくれていたのね」
入ってきたお客さんはすごく綺麗、というより可愛い系なお姉さん。私達のテーブルを目にして真っ先に声を掛けてくれたのでアンゼリカ先輩とは顔見知りなのかも。
「ああ。ふと、ここの紅茶が飲みたくなってね」
「ふふ、士官学院の方は大丈夫なのかしら?」
どきっ。
優しげなお姉さんはアンゼリカ先輩の事を言っているのだろうけど、今のは結構怖かった。いや、アンゼリカ先輩が士官学院の生徒だと知っているのだから、私も当然そう思われているだろうか……。
「ご心配なく――それはそうと、今日も手伝われるのかな?」
「ふふ、今日はお教室がお休みなの。一人で家に居ても寂しいから」
一瞬、苦笑いする彼女の顔に影が掛かったように思えた。
「それにしても――今日はお友達かしら?」
彼女の顔は私へと向けられ、しっかりと目が合ってしまう。整った可愛らしい顔立ち、綺麗な赤毛に紫水晶の様な瞳――本当に美人さんだ。そんな彼女に私は小さくお辞儀するのが精一杯だった。
「ああ、私の意中の子でね」
「な、な、なっ――」
ただでさえ、人見知りで緊張している私は更に一気に追い込まれる。
アンゼリカ先輩の事なのでそういう事を言われるぐらいは想定の内なのだけど、サラッと言って良い事と悪い事がある。
それ位、見ず知らずの素敵な人の前でアンゼリカ先輩に誂われるのは恥ずかしくて、今すぐパーカーのフードを深く被り、そのままテーブルに突っ伏して顔を隠したい衝動に駆られた。
「初心な所にこう、くすぐられてしまうだろう?」
「ふふ、確かにそうね。あっ……」
「えっ……」
突然、赤毛のお姉さんの左手が私の頬に伸びた。そして、彼女のもう片方の手がテーブルのナプキンを取り、私の口元へ――そのまま優しく拭った。
そして、優しく微笑み、
「オムレツがお口についてたわ」
と、一言。
うぅ……もう無理。恥ずかしくて死にそう。
赤毛のお姉さんが奏でるピアノの旋律で満たされる。
彼女は近所の住民で子供達相手にピアノを教えているのだという。同時に、このお店の古くからの馴染みであり、音楽喫茶の貴重なウェイトレス兼演奏者でもあるのだとか。
「この曲、のんびりして良い曲ですね」
「ああ、昼下がりにはぴったりな曲だね」
「ふふ……『陽だまりにて和む猫』という題の曲なの。少し眠くなってきてしまうかしら」
私達に笑いかけながらも、彼女の両手は白と黒の鍵盤の上を流れ続ける。
「なる程、街の片隅で微睡む猫が浮かぶよ」
「あはは、猫さんになりたいですね。一日中のんびり寝っ転がってたいです」
「確かに。だが、どちらかというと君は犬っぽいとも思うけどね」
「え……そうですか?」
「ああ、何事も反応がわかりやすいからね。それに健気で一途、まるで子犬みたいじゃないか」
みゃおん?、昔読んだ猫語の入門書で学んだフレーズでも口にしようかと思ったが、流石に思い留まる。どんな反応をされるかも分からないし、なにより確実に何か無茶振りされそうだ。それに、頭に浮かんだ”知り合いで猫っぽい子ナンバーワン”があまりにも似合いすぎていたというのもあるが。
「くぅ~ん、と小さく鳴いてみてくれないかい?」
「と、トワ会長に頼んでください……」
再び赤毛のお姉さんの小さな笑い声が聞こえた。
どこか寂しくて、懐かしい旋律。
「……あ……」
「これはまた粋な選曲だね」
《星の在り処》――誰でも知っているであろう、愛し合う二人の別れと再会への願いを唄った少し哀しいラブソング。一昔前に帝国で流行した曲だったりする。
私も昔からよく聴くこの綺麗なメロディは大好きだ。そして、小さい頃の思い出に流れるハーモニカの音色がとても懐かしい。あの人の名前なんていうんだっけ――幸せな記憶の一番最初のページだったのになぁ。
「ホントにお上手で……!」
「ふふ、ありがとう」
完全に聴き入ってしまっていた私は、見事な演奏に夢中で拍手を送った。
こんな演奏してくれるなら、毎週このお店に遊びに来たい位だ。ただ、列車代は高いのでアンゼリカ先輩頼みだけど……流石にそれは難しいよね。
「それにしても、面白い引っ掛けだね」
「引っ掛け?」
どういう意味だろう。
「ふふ、わかっちゃったかしら。実は案外縁があったり――」
「ほお……これは少し驚きだね」
「――なんてね」
「ハハ、これは一本取られたね」
お茶目な笑みを浮かべる赤毛のお姉さんに、アンゼリカ先輩は両手を広げて笑った。
「アンゼリカ先輩、どういう意味なんですか?」
自分達だけの世界に居る二人が羨ましかった。
こんばんは、rairaです。
閃の軌跡ⅡのOPムービーに鳥肌が立ってしまいました。とりあえず、トワ会長に驚きです。
さて、今回は悪い先輩の誘いに乗ってしまったエレナのお話でした。
帝国の中心にいるのにも関わらず何故か空や零碧臭かったりしますが、ここではアンゼリカと一対一だからこそのイベントや各種伏線を入れてゆく予定です。
同時に引き続きB班視点となる四章特別実習において、アウェー組で少し頑張ってもらう為でもあったりもします。
この作品の四章は二つの「帝都編」となります。サボって遊ぶ帝都編、そして、特別実習の帝都編ですね。
フィオナの引っ掛けは、私の妄想以外の何物でも無かったりします。
ただ、《星の在り処》と《エトワール》、その近所に住むクレイグ一家。何か繋がってそうな気がするんですよね。
最後まで読んで頂きありがとうございました。楽しんで頂けましたら幸いです。