「えっと……?」
「何をしているんだい? 早く入ろうか」
帝都有数の歓楽街であるガルニエ地区のとある通りで、私は足を止めていた。
アンゼリカ先輩は繋いだ手を力任せには引っ張らないが、今度は背中に腕を回そうとしてくる。
「でも、私、こんなところ!」
「ふふ、出来れば君とはもっと楽しみたいんだ。これぐらい良いじゃないか」
「あ、アンゼリカ先輩! 私はまだ学生でっ……お金だって持ってないし……!」
「ふふ、お金の心配なんて女の子にさせると思うかい?」
「で、でも……まだ……早いっていうか……」
流石に座り込む真似はしないが、足は動かさない。
「じゃあ、二つの選択肢を用意しよう」
「やめま――」
「自分の足でちゃんと歩いて入るか、又は私にお姫様抱っこされて入るか」
「どっちも嫌――っ!」
抱きとめられたと思えば、突然脇をくすぐられ、一気に身体から力が抜ける。
私は抱き抱えられ、アンゼリカ先輩になすがままに強引に連れ込まれた。
・・・
この鏡は俗に言う美人鏡だと思う。
「……」
私は童顔だ。これはもう仕方が無い。ついでに言えば体付きも細くて、もうちょっと欲しい所が貧相だったりするので、背だけ伸びた子供だなんて言われたこともある。
それがどうだろうか。鏡の中で驚いている女性は大人っぽいのだ。
メイクアップ前はドレスが似合わず、まるで母親のドレスを内緒で着てみた背伸びする子供を見た様な感想を抱いたのだが、まさかこうも変わるなんて。
スカート丈が短いリトルブラックドレスは違和感なく似合っていて素敵で、いつもどこかがハネてくれて苦労する栗色のくせっ毛は、今は流るように艷やかで真っ直ぐ。少し長くなりすぎてそろそろ、自分で切ろうかと鬱陶しく思っていた前髪もしっかりと整えられている。
キラキラするアイライン、ふんわりと頬にのるトーチ、控えめながらもグロスで艶感のあるリップ――しっかりとメイクのキマった姿は、少なくとも歳相応に、というより普通にそれ以上に見える。
正直、こうして見ると自分だとは思えない位だ。三年、いや五年後でもいい。こんな自分になっていたい理想の姿かも。
「お気に召しませんでしたか?」
「え、えっと……メイクって凄いんだなって……」
何を分かり切ったことを私は言っているんだ。感想としては二流以下ではないか、と頭を抱えたくなる。
メイクを施してくれた二回り程歳の違う大人の女性が、私に向けて鏡越しに小さく笑った。
「でも、笑顔に優るお化粧は無いんですよ」
思わず私は、隣に立つ彼女を向いた。
パンツルックで”この靴”を履いた私よりも背の高い彼女は、どちらかというとクールで格好良い人だ。そんなメイク中に植え付けられた印象とは、かなり違う言葉に少し驚いた。
「さあ、笑って下さい」
彼女はニコッと笑みを浮かべ、仕方無く私も笑顔を作る。
「はい、よく出来ました」
まるで日曜学校のシスターに褒められている気分になった。
その後、私が危惧していた事は最後まで無かった。つまり、お金は求められなかったのだ。
この場で身に付けた数々の品の代金は一体どうなっているのだろう。本当なら絶対にこんな事は拒否するのだが、アンゼリカ先輩は強引過ぎて私は太刀打ち出来ないのだ。結局、あのままお店に私を引き渡すように置いて、「いい子にしてるんだよ」なんてこっ恥ずかしい事を言うやいなや何処かに行ってしまった。
何人もの人に見送られてお店を出た時、既に日は落ちていた。
夕暮れの終わり、帝都の街並みを背景に佇むのはタキシード姿の一人の美青年。それが、見知った人である事に気付くまで私は少々時間を要した。
「あ、アンゼリカ……せんぱいっ……!」
「おお、とても可愛らしいじゃないか」
ほんの数アージュの距離の通りへの階段を駆け下りるが、歩きにくいのなんの!まさか私がハイヒールを履くことになるなんて!
「わっ……!?」
右足が宙を踏む、バランスを崩したと思えば前のめりにそのまま階段のステップが迫った。
慌て過ぎたことへの後悔、その次に来るであろう痛みを覚悟して思いっきり目を閉じる。
でも、痛みは無かった。気づけば私はアンゼリカ先輩の胸に抱かれていたのだから。
「……えっと、もう色々と言いたいことがあるのにっ……!」
置き去りにして何処に行っていたとか、なんでこんな格好させるんだとか、それよりもなんでタキシードなんて着ているんだ、とか――。
そんな私を見透かしたように彼女は小さく笑った。
「私が贈ったドレスは気に入ってくれたかい?」
訂正するとドレスだけではなく、こんな状態に陥った元凶であるこの靴も、耳に少なくない違和感のある初めてのイヤリングも、全て……なのだろうが。
「可愛いけど……その……わ、私には似合わないかもしれないっていうか……ど、どうですか……?」
恥ずかしくてそのままアンゼリカ先輩の胸に顔を隠していたのだが、それもすぐに離されてしまう。
「ふふ、とても素敵だとも。さも良家の令嬢と思われるに違いない」
私は顔を背ける。
いつもの如く上手いお世辞ではあるが、今だけはほんの少しだけは自信があったりした。でも、自信があっても恥ずかしい事には変わりはない。
「それに、女の子なのだからお洒落をしても良いだろう?」
「で、ですけど――」
「さて、車が来たね」
私の声を遮ったのはすぐ後ろへと止まった導力車。何処かで見覚えがあると思えば、バリアハートで乗ったアルバレア公爵家のリムジンと同じ型だと思う。
違いといえば車の色は私のドレスと同じ真っ黒で、窓ガラスすら中が見えないように薄黒く曇っていた事だろう。これに乗る人はよっぽど、自分の顔を見られたくないらしい。
車内の内装もルーファスさんが送ってくれた車とは違った。優雅ではなく豪華、一言で表すとしたらこんな感じだ。
外側から車内は見えなくても、内側からは外の景色が見えるというのは中々に不思議だと思いながら、雑誌で見たことがある帝都歌劇場《ヘイムダル・オペラハウス》の建物を視界に捉える。ガルニエ地区のメイン通りに入ったようだ。
「アンゼリカ先輩……これは……」
バイクはどうしたのだろう、とかその服はどうしたのだろう、とかまだまだ聞きたい事はいっぱいあるけど、何故車を呼んだのだろうか。
「心配しなくていいさ。全てあちらのサービスの内だからね」
「サービス、ですか? 一体、何処に連れてくん……」
煌びやかな夜の帝都の歓楽街の一角で車は地下へと入り、橙色のあまり明るくない照明に照らせれた地下道を潜る。乗ってからほんの僅か数分、すぐにその場所へと辿り着いた。
まるで宮殿の様な豪華な広場。帝都では滅多に見れない椰子の木に彩られた噴水がライトアップされている様は俄かにこの場所が地下であることを忘れそうになる。
車が止まると同時に、私達が来るのを待っていたかの様にその場にいた男が一礼してからドアを開ける。
手短だか丁寧な歓迎の言葉に知らない世界に来てしまったことをひしひしと感じながら、私はアンゼリカ先輩にエスコートされながら、真紅で金色の刺繍の入った絨毯が敷かれた階段に足を踏み入れた。
慣れないハイヒールでたどたどしい私を気遣ってか、ゆっくりと足を進めてくれるタキシード姿のアンゼリカ先輩。大きな胸は隠し切れていないが、その横顔は頼もしい美青年そのものだった。好みかどうかは置いておいて、素直に格好良い。
短い階段を登った先には、豪勢な飾り付けがされた大きい木製のドア。その前を遮る様に二人の黒服にサングラスの大男。
先導をしてくれた優しそうな男とは着ている服こそ同じだが、二人の纏う雰囲気は全く異なった。サングラスで見えない筈なのにも拘らず、鋭い眼光をこちらに向けているのが私でも分かるぐらいだったから。
「ようこそお越しくださいました」
深い礼と共に、精悍な顔つきの銀髪で大男がそう口にした。サングラスの為に目元は分からないが、風貌とは全く異なる印象を受ける。
「これを」
今まで見た誰よりも大柄な男に少なからず怖気付いている私とは正反対に、アンゼリカ先輩は普段通りの涼しい顔で上着から白い小さな封筒を大男に差し出した。
封筒の中身の紙に目を通す男の眉が少し動いた。そして、顔を上げて無言のままサングラス越しにアンゼリカ先輩へと視線を送る。
私の隣で二人の視線が鋭く交差した数秒後、大男は謝意を表わすと共に封筒を先輩の手にとても丁寧な動作で戻す。
「お名前を頂いでも宜しいでしょうか」
「そうだねぇ――クロウ、ということにしておこうか」
いつもだったら私は噴き出していただろう。しかし、この緊張が張り詰める空間の中では顔のにやけすら起きない。
「承知いたしました。お連れ様は」
突然、私に向けられる大男の顔。
「ええっと……」
アンゼリカ先輩の様に偽名が良いのだろうか、いや、そっちの方が良いに決まっている。しかし、咄嗟には思いつかなく、言い淀んでしまう。
「おいおい、私の連れの名前を聞こうというのかい?」
そこにお気楽な声色で助け舟を出してくれたのは勿論隣に居るアンゼリカ先輩だ。
「しかし――」
「……アリーザです」
大好きな親友に名前を借りた事を謝ってから、私は小さく呟いた。
「ありがとうございます。それではご案内させて頂きます」
再び一礼してから、大男は大きな扉を開ける。
厚い扉の向こう側から煩い程賑やかな音と共に、両側を”滝”に挟まれた”動いている階段”が現れた。
・・・
右のガラスの向こう側を見れば、蜘蛛の巣に宝石を散りばめた幻想的な帝都の夜景。昼間に通ったヴァンクール大通りに連なる建物は、ドライケルス広場に近づくに従って、より高く、より立派になる。今、この場所から見れば、それはまるで緋の皇宮にへと続く光り輝く階段に見えた。
帝都正門と呼ばれる南門《大帝凱旋門》から一直線に続く、勝利を意味する名の目抜き通りは、終着点であり帝冠たる皇宮に至る。それは獅子戦役の最後の幕。
そして、今は夏であり、奇しくも獅子戦役の終わった七月だ。
だからこそ、今も尚色褪せずに輝く二百五十年前の偉大な大帝の軌跡を、この緋色の帝都が私に見せてくれている――そんな風にも思えた。
今日の私は、ちょっと詩人かな。らしくない。
学生なのに授業をサボって帝都でいけない夜遊び。未成年なのにこんな場所で賭け事をちょっと楽しんでた私のことは、豪胆なお人柄だったとされる獅子心大帝でも良い顔はしないだろう。
……それに、大帝はうちの学院の創立者でもある。これは流石に怒られるかもしれない。
銅像の大帝にお説教される妄想に、内心苦笑して私は左側に目を向ける。
こちらはこちらで打って変わって現実的だが、やはり凄まじい。
私の視線の先には、暗い照明の中で輝きを放つ絢爛豪華な五体の金色の獅子。彼らは水を絶え間なく吐き出しており、それが十二ものフロアを貫く大きな吹き抜けを流れ落ちる滝となっている。
上を見上げれば天井はドームの様になっており、まるで教会のステンドグラスの様。そして、吊るされる巨大なシャンデリア。
一体、ミラの札束に換算すればどのぐらいになるのだろうか。
金細工の施された目の前の小さな円卓も、それを取り囲むように一周するこの座り心地の良い真紅の丸型ソファーもそうだ。
「落ち着かないのかい?」
ほんの少し離れて私の隣に座るアンゼリカ先輩。
逆にこんな場所で落ち着ける人の方が少ないと思う。まあ、騒がしくて眩しい下のカジノと比べれば幾らかはこの場所は静かだ。
「私、こういう所初めてで……その……アン――」
優しく私の口にアンゼリカ先輩の人差し指が当たられ、そのまま彼女は「ク・ロ・ウ」とどこぞのバンダナ先輩の名を小さく呟いた。
本日何回目か分からないやり取り。下でテーブルゲームに興じるアンゼリカ先輩の隣に居た時にも、こんなやり取りがあった。そろそろ慣れなくてはいけない。
「……ク、クロウはよく来るんですか?」
「まあ、偶にね」
こんな場所に入り浸る程私は暇では無いからね、と続ける。
流石、《四大名門》の侯爵令嬢といった所だろうか。これ程までに凄い場所も『こんな場所』扱いだなんて。
「お待たせいたしました」
小さな円卓へ二つのグラスが置かれる。私の前に置かれたのは、小さなグラスの中に赤色の飲み物が入っている。
いつの間に頼んだのだろうか、今日のアンゼリカ先輩には本当に驚かされてばかりだ。
「……何を頼んだんですか?」
飲んでからのお楽しみだと言わんばかりにウインク決めてから、茶色の飲み物のグラスに口を付けるアンゼリカ先輩。
ということは私はこれを飲むしか無いのだろう。そして、こんな場所だ。グラスの形といい、多分予想通りであれば――このグラスの中身はお酒な筈。
少しお行儀が悪いと思いながらも、私はグラスの端に鼻を近づけた。
どこか懐かしい甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐる。
「えっと……これは……アゼリアの匂い?」
アゼリアは帝国南部沿岸部ではよく見かける木一つ。その実は赤くて硬いが、南部では色々な料理に使われており、聞く話によるとリベールでも同じ様に好まれているらしい。
赤くて硬い実ではあるものの、その甘酸っぱさが癖になるという人もおり――まあ、カクテルにもなったりしている。多分、これもそうだろうと思う。
「ああ。ジュースさ」
その言葉を信じた訳ではないが、私は意を決してそのグラスを手にとって、ほんの少しだけ口に含んだ。
まず最初に感じたのは、冷たくてとても甘い味わい。そして、口の中に広がる温かい感覚。
「やっぱりお酒なんですね……」
「何も問題ないだろう、アリーザ?」
このカジノの名前に合わせるように、南部風な読み方になった親友の名前を口にするアンゼリカ先輩。
もしかしたらそこまで考えた上での偽名だったのかも知れない。
まあ、この場所にいる時点で良くない事をしているのだ。もう今更でもある。
そのままもう一度、今度はぐいっと一気にグラスから口へ流し込んだ。
「おお……いい飲みっぷりだね」
一気に喉から胃を通り、いつの間にか全身へとゆっくりと広がってゆく温かさ。
これを、お酒が回る、というのだろうか。
「こんなの……お酒じゃなくてジュースじゃないですか……」
空になったカクテルグラス。私は不意に罪悪感を感じて、そんな訳の分からない言い訳を紡ぐ。
それに対して、アンゼリカ先輩は口笛を吹いてから、「流石、酒屋の娘さん」と笑って続けた。
「次は何を飲むかい?なんでもいいよ、タダみたいなものだからね」
「じゃあ……グランシャリネ」
最高級ワインの名が口から何の抵抗も無く出た辺りに我ながら驚く。勿論、隣のアンゼリカ先輩も目を丸くして驚いている。
「ハハ、遠慮がないねぇ。流石の私も驚きだよ」
「確か1199年のは安かった筈です」
「なるほど……」
私が自分に言い訳した時と、全く同じ言葉を続けたアンゼリカ先輩に私は首を横に振る。
あくまで与太話での知識として知っているだけ。大体ワインなんて量り売りが主流の田舎の酒屋が、有名銘柄のボトルを扱う事なんて殆ど無い。あっても年一回注文を受けるかどうかといった話だ。少なくとも、私は触らせてもらえない。
そんな話の傍ら、近寄ってきたカクテルウェイトレスのお姉さんにちょっとしたおつまみも加えて色々と注文すると、この話題が終わる頃には小さな円卓に注文した品物が全て揃っていた。
「ちなみに、先輩。なんで私をここに?」
「なんでだろうね……君の素敵な姿をゆっくりとこの目に焼き付けたかったのかもしれないね」
「嘘付きは嫌いです」
「そうだねぇ……」
そう呟いた彼女は飲み物が残るタンブラーグラスをテーブルに置いて、腕を組んだ。
「あそこにいる連中、どう思う?」
ラウンジの中央で近くに集まって楽しそうに語り合う数人の男女に目を向ける。その奥、カウンター席には恋人のように見えるカップルも居る。髪の色は赤と青で対照的だけど。
「えっと……なんでしょう……」
楽しそうか、それとも高そうな服、だろうか。どう思うと問われても、こんな機会でもないと私には縁のない人達であること位しか考えれない。
そういえば、下のフロアで私に話しかけてきた男も高そうな金時計をしていた事を思い出す。
「帝都には沢山のカジノやナイトクラブがあるけど、ここは少し特殊な場所だ」
特殊、の部分を私は小さく聞き返した。
「下と違って、このフロアは主に特別な人間の集まる場所――つまり、VIPってことさ。そして、個室を利用しないでラウンジに居るのは決まって若者だ」
だから貴族の子弟も多いんだよ、と続ける彼女の声は少し呆れ気味ではあった。まあ、でも今日に関しては私達も同じだと思うけど。
アンゼリカ先輩曰く、カジノは遊びに来る以上に紳士淑女の夜の社交場という話を下でプレーしている最中に聞いた。確かに下のフロアでは、こんな私でも二、三人の男に声を掛けられたぐらいなので、やっぱりそういう場所なのだろう。
「私の様に実家を離れて帝都の学校に通う者も居れば、親が貴族院の議員先生のだったり帝都の大商会のオーナーっていうのも居る。将来、帝国を背負っていくであろう奴らの姿を見せときたかったのさ。学院でも嫌という程見ているだろうけどね」
納得は出来た。でもまだ若干の微妙に喉につっかえた刺があるのも事実だ。
「あれっ……ってことは――」
「――もしかしたら、居るかもねぇ」
「じゃ、じゃあ――」
嫌な汗が出るのを感じる。
「ふふ、まさかエレナ君がこの場に居るとは誰も思うまい。そう思わないかい?アリーザ」
「そ、そうですね。クロウ……」
心が落ち着きを取り戻す。
「まあ、貴族にしても平民にしてもある程度以上の家に生まれれば、重圧に苛まれるものだよ。それから解放されるためにこんな場所に入り浸る奴らも居るってことさ」
「その……偶に、ってさっき言ってましたけど、こんな感じに遊んでいるんですか……?」
下のフロアでルーレットやカードを使ったテーブルに座っていた時のアンゼリカ先輩はとても場馴れしているように感じた。たんまりとチップを集める姿に私は隣で喜んでいたが、どことなく寂しくも思ったのだ。
だから、彼女が「まさか」とすぐ否定してくれた時はとても嬉しかった。
「私にとってはこんな下らない場所で一人で遊ぶより、君やトワ……可愛い女の子と遊ぶ方が有意義な時間の使い方なのだよ」
「トワ会長も……ここに?」
どうかな?、と口にして彼女は私の反応を楽しむ顔をしている。
まさかとは思うけども。あのトワ会長がカジノに居る姿なんて……想像出来ない。でも、アンゼリカ先輩の強引さはもう筋金入りだ。トワ会長も騙されて連れ込まれたりして――。
「ふふ、そんな難しい顔をしないでくれたまえ。ここに誰かを連れて来たのは君が初めてだ」
「えっ?」
自分でもびっくりするぐらい、その声には嬉しそうな色を含んでいた。
「嬉しいかい?」
「えっ……いやっ、そ、そんな訳……!」
気付けばすぐにアンゼリカ先輩には遊ばれる。良いように操縦されているといってもいいだろう。
更に言い換えると、私の扱い方が上手いのだろうか。それとも私が扱い易いのだろうか。多分、後者だ。
これはきっと五杯目。
逆三角形型のグラスに入る透明な黄色の飲み物は、帝国北部原産の蒸留酒ベースのカクテルだ。もう半分位飲んだけど、結構イケると思う。でもやっぱり、最初の《アゼリア・ロゼ》に優るものが見つけられない。五年物の《グランシャリネ》は確かに美味しかったが、ボトル当たり数万ミラも掛けて飲むべきものではないというのが、私の感想だった。
やっぱりどうしても庶民は、庶民なのだ。
「えへへ」
気付けば笑いが漏れ出す。楽しい。
なんだろう、アンゼリカ先輩の顔を見ているだけで楽しく思えてきて、顔が緩むのを感じる。
「どうしたんだい」
「アンゼリカ先輩、本当は私が失恋したって聞いて、誘ってくれたんですよね」
「ほお……」
「どうしてですか」
「可愛い女の子をモノにするのに理由が必要なのかい?」
「そう言うと思いました。でも、私はもっと優しい理由からだって・・・知ってるんですから・・・ね」
気付けば、私は感謝の言葉と共にアンゼリカ先輩に寄り掛かっていた。
「眠たいのかい?」
眠い、のかな。わからないや。
すごい幸せな気分、お風呂に入っているような。
視界がゆっくり消えてゆく。
「お姫様、起きないと唇を貰ってしまうよ」
そう耳元に小さく囁かれた。
「……起きてますー」
そんなこと言わないで奪いたいなら奪っくれればいいのに、なんて思うものの、それはそれで万が一にも大問題だ。
瞼を開けると間近にアンゼリカ先輩の横顔が。
うう、こうやって見ると本当に格好良い……。
「……それに私だって、キスして貰ったことあります」
「ほお……どこに……?」
ここかな、と人差し指を私の唇にほんの僅かに触れない程度の近さでなぞる。
「ほっぺ……ですけど……」
「ふふ、まだまだ子供だね」
して欲しかったし、求めたけど、してくれなかったんだ。私に否はない。もしあの時に戻れるなら、今度は自分から奪ってやるぐらいの勢いでキスしてやるつもりだ。
それなのに、みんな口を揃えて子供子供って……。
「子供じゃありません……みんなそうやって……」
「それは君が危なっかしいから皆も放っておけないのだよ」
そう言われれてしまえば何も言い返せなくて、私は顔を隠すようにアンゼリカ先輩の腕に抱き付いた。
子供だとは分かっている、でも子供扱いされるのは嫌だ。もう十六歳なのに。
「私も君が男に懐いてお熱を上げてるのは気懸かりでならないよ。まあ……彼を男と言うには少し惜しいが」
「……そんなんじゃないです……」
「そうだと安心なんだがね」
私の頭の中の辞書がまるでお風呂の温かいお湯に落ちていく、深く深く沈んでゆく辞書の文字が滲んでいくのを感じた。
まるで、まどろみに包まれる様に私も共に沈んでゆく――。
・・・
「まったく。遅いとは思っていたが、まさかあのまま寝てしまうとはね」
まるで魔法が解けたかのようにソファーに横たわる後輩に向けて少し呆れたように口にするアンゼリカ。
奇しくも丁度先程、日付が回った所だ。
真っ赤な顔で静かに寝息を立てる少女がドレスを汚していなかったことに、内心安堵する。
いくら自分宛てに数え切れない程来るサービスを利用した為に対価を払わなかったといっても、自分の贈り物をその日の内に汚されれば流石に気持ち良くはない。例え社交界での正装としては少なからず無理があるリトルブラックドレスでもだ。
「まあ、君には礼を言わなくてはならないね?」
そして、アンゼリカは彼女の後輩の居場所を教えてくれた怪しい男に顔を向ける。
見るからにチャラそうな赤毛の男は、帝国で最も名高い会員制カジノ《アリーチェ》に併設されるVIPラウンジにバカンスルックで来る程の酔狂な奴だ。薬で気狂いか、又は、天性の馬鹿か。
まあ、男装した上に未成年の後輩に酒を飲まして酔わせていたアンゼリカ自身の事を差し置いて、赤毛の男を一方的に決め付けるのもおかしい事ではあるのだが。
ただ、一つ気になるのは、アンゼリカの記憶が正しければ、この男は氷のような薄青色をした綺麗な髪の女性とカウンターに居た気がした。しかし、今はこのラウンジに彼女は見当たらない。一足先にここから立ち去ったのだろうか。
「はは、そんなのはいらねえぜぇ? こっちも役得だったしなァ」
「ほほお、具体的に聞きたいね。私の可愛い連れに何をしたんだい?返答次第によっては無事に帰す訳にはいかなくなるがね」
乱暴された形跡は全く無いし、この男がエレナの身体に触れてはいないことをアンゼリカは知っていた。何故ならエレナが席を立ってトイレに行った間、この男は、カウンター席から一歩たりとも動いていないのだから。こんな怪しげな奴の動向ぐらいはしっかりと把握している。
「おぉ、怖いねぇ。だが、いい目だ。なぁ、ログナー侯爵令嬢アンゼリカよぉ」
今まで避けてきただけあって、アンゼリカは社交界にはあまり顔は知られていない。向こうから見てもある意味の変人である自分に、この男はきっぱりと躊躇いもなくログナーの家の名を出した。
只者ではない、とアンゼリカは一瞬だけ自らの身体に緊張が走るのを感じた。
「へぇ……これは驚いたね。何者だい? この店の客のボンクラじゃあないんだろう?」
「いんや? 正真正銘の客だぜぇ。ほれ」
仮に封筒の中に何が入っていても驚かない、そうアンゼリカは思った。
「私の質問に答えるつもりは無いみたいだね。ふふ、少し興味が湧いてきたよ」
「これはこれは……お嬢様の婿候補にしてもらえるとは光栄の至り」
「寝言は寝てから言いたまえ。それにとんだお門違いだね。私の婿に立候補するのなら、親父殿に直接言うといい」
「ハッ、北の暴れん坊侯爵様と話すのは難儀だねぇ。あのオッサンはこっちのオッサンとは違う意味で面倒くせえからなァ」
一体、目の前の人物は何物なのかをアンゼリカは把握しかねていた。少なくともログナー家についてはある程度知っており、誰かの下にいるのは確実のようだが。
カイエンかアルバレアか、と嫌な事にここで他の貴族を疑ってしまう程度には貴族間の社会を知っているが、この赤毛の男が貴族に仕えている人間とは中々思えない。
「ま、なんもしちゃいないぜ。洗面台に突っ伏してるのを見て、アンタに声かけただけだ」
エレナを見つけたのはこの男の連れだ。そうでなければ、この男が女子トイレに入った事になるのだから。まあ、容姿から見れば十分やりかねないのも事実ではあるが、幸いな事に席から一歩も動いていない。
「つーか、乳臭い餓鬼には興味無えんだわ。ま、生い立ちには色々と惹かれるがねぇ」
「何もかもお見通しと言う訳か」
「さァどうかな? アンタの考え過ぎかも知れないぜぇ?」
この男が自分達二人について一通りの情報を知っているのは確実だろう。四大名門の血族であるアンゼリカは無論の事、一介の士官学院生に過ぎないエレナについても知っているような口振りだ。どこまで知っているかは想像は付かないが、自分自身より自分の事に詳しい位の想定の方が良さそうではある。
あくまで貴族に関わる人間ではないだろう、となれば――。
「フッ、わざわざこんな所まで仕事熱心な事だ。お勤めご苦労様とだけ言っておくよ」
「ハハッ、ありがてえお言葉をどうも」
不敵な笑みを浮かべ、踵を返す赤毛の男。
「ま、その調子で青春を存分に謳歌しとけよ。いつ終わっても後悔のないようにな」
こちらを振り向くこと無く、背中で語ったアロハシャツの背中はすぐに導力式階段へと消えていった。
「言われなくてもそのつもりさ」
まるで郷愁を感じさせた忠告に、アンゼリカは一人呟いた。
こんばんは、rairaです。
さて、今回は夜の帝都で遊び呆けたエレナのお話でした。
今回、アンゼリカとエレナの訪れたカジノは「空の軌跡3rd」序章、《ルシタニア号》内のカジノとして登場した《アリーチェ》の帝都本店という設定です。
アリス・イン・ワンダーランドを彷彿させるネーミングですよね、一攫千金を狙える場所ならぴったりのような気もしなくもありません。
そして、私の中で早く出したかったキャラクターの一人、レク・タ~ランドールさんの初登場です。
アンゼリカとの間でちょっとしたやり取りを演じてもらいました。
個人的にはⅡでまたどの様に関わってくるのかが気になるキャラクターですね。
クロスベルとも関わるので何かしら…と期待しています。
次回は7月18日の自由行動日となります。
最後まで読んで頂きありがとうございました。楽しんで頂けましたら幸いです。