見かけによらず親切に教えてくれた露店でアクセサリーを売るお兄さんのお陰で、やっと私達は宿泊場所に辿り着くことが出来ていた。
彼の言葉通りに大通りをちょっと進んだ先にあったのは、賑やかな大通りに面しているのにお店の全く入ってない三階建ての立派な煉瓦造りのビル。遊撃士協会の帝都西部支部が昔入っていた建物だという彼の話も本当で、鍵を開けて中に入ると大きなカウンターと遊撃士協会の『支える籠手』の紋章が壁にかけられていた。
因みにこの建物は現在は帝都庁の管理下に置かれている様で、私達が宿泊場所として問題無く使えるようにしっかりと準備も整えられており、帝都知事であるマキアスのお父さんの用意周到さが窺えた。
宿泊場所を確認出来た私達は、ユーシスの『帝都に不慣れな俺達は、自分たちの担当する街区がどのような場所なのか知る必要があるだろう』という提案から、取り敢えず課題を遂行するついでに担当する街区を一通りしている。
幸いな事に、ヴェスタ通りの書店で購入した帝都の地図のお陰で、最初は迷いに迷った住所表記もエマがしっかりと把握して指示を出してくれる様になり、先程完了した依頼の報酬として貰った帝都の観光客向けガイドブックの情報も併せて、ある程度の街区の情報も手に入れている。
当初はどうなる事かと思ったが、帝都出身者のいないハンデのある私達B班もやっとそれなりに特別実習をこなすことが出来そうだった。
ヴェスタ通りからヴァンクール大通りを経て、今私達が居るのは皇宮前のドライケルス広場。つい先程ここでA班のみんなとばったりと二時間程振りに顔を合わせていた。
もうA班のみんなはトラムに乗って他の街区に行ってしまっているが、エリオット君の提案で今日のお昼はみんなで一緒にランチにすることとなり、ちょっと楽しみだったりする。
「き、君は!」
「え――?」
そんな事を考えながらドライケルス広場の記念碑を見上げていた私は、誰かに声を掛けられて後ろを振り返った。
「ああ! もしかしてと思ったけど、やっぱりだ! 僕の天使――運命の人じゃないか!」
は――天使? 運命の人?
皆の視線が私に集まるのを感じる。目の前の男は、まるで私を女神様の聖像と勘違いしていそうな位だ。こんな変な人とどこかで会っただろうか。
「エレナさん……この人、確かバリアハートの……!」
「あ……あー! アントンさん!」
エマのお陰で、頭の中で記憶がしっかりと結びついた。
「……遭難だと? オーロックス砦でか?」
「ええ……そうなんです」
「そんな話も聞いた気がするわね……」
あの場にいたエマの話を聞いたユーシスが俄に信じ難いとでも言いたそうな顔をして聞き返す。アリサはアリサで、五月の特別実習の私とエマの居たA班のレポートを思い出したようだ。
「あの時とメンバーは違うんだね。あ、そっちの眼鏡の子は見覚えがあるけど――」
アントンさんの視線がアリサに、そしてエマへと移る。なんか、二人を見る時に鼻の下を伸ばしてた様な気がした。
「――それにしても、エレナちゃんは髪結んでるのも可愛いなぁ……クールな帽子もエクセレントだよ!」
再び私に彼の目が戻って来る。
褒められるのは嫌じゃないけど、ちょっとベタ褒め過ぎじゃないだろうか。私の隣には確定で二人程、もっと可愛い子がいるというのに。
「ああ! とにかくまた会えて嬉しいよ! この異国の地で君に助けを差し伸べられた運命の出会い――そして、このヘイムダルで再会できるなんて!」
「あはは……」
大袈裟な言葉を次から次へと連ねるのアントンさんには、流石に乾いた笑いしか出ない。悪い人では無いんだけど、やっぱり生粋のポエマーなのだろうか。
「異国だと? お前たちは外国人なのか?」
ユーシスの疑問に答えたのは、アントンさんでは無かった。
「ああ、そうだとも。僕達はリベール王国から来た旅行者さ」
「ほう……」
ゆっくりと相方を追ってこちらに歩いて来たリックスさんが応え、ガイウスが興味深そうに感心する。
「リックスさん、お久しぶりです」
「やあ、また会ってしまったね」
彼はアントンさんの相棒なのに、性格面は対照的かも知れない。リックスさんのニヒルな笑みを浮かべる顔を見てると、そう感じてしまう。
バリアハートでも同じ事を考えていた。
「……うっ……」
「あれ、アントンさん? ――あ……あの、どうかしました?」
私は先程から静かになったアントンさんに目を向けると、そこには目を潤ませてワナワナと肩を揺らす彼がいた。
「いや……感極まって……!」
え?
「やっぱり僕は二年も待てないよ! だって、この再会も運命のようじゃないかい!? だって君は優しくてまるで天使のようで……! それに、リベールに縁のある子で……!」
「縁?」
アントンさんの言葉にアリサが不思議そうに首を傾げた。
「ああ、だってエレナちゃんのお母――」
不味い――咄嗟に大声を出してアントンさんが言おうとした言葉を私は遮る。
そして、言い訳のように必死に続けた。
「私の故郷の村がリベールとの国境沿いにあるの! それが縁!」
わざとらしいかもしれないのは重々承知、それでも私はまだ話すつもりはない。
「どうしたのよ? そんな大声出して」
訝しげな顔をしたのはアリサだ。少し呆れも混じっているかも知れない。
「確かに前にそんなことも……」
「入学式の時だったか、帝国南部の海沿いと聞いたな」
この班の良心ともいうべき二人の反応に安堵する。しかし、その隣のユーシスは何時になく鋭い視線を私に向けていた。
何も言われていないのにまるで見透かされたようなその眼差しに耐えられず、私は顔を逸らしてこの状況に陥った原因のアントンさん睨んだ。
「ヒッ……ぼ、僕、なにか悪い事したかい……?」
私なんかに睨まれた位でおどおど怯えるアントンさんに、慌てていつも通りに戻す。やり過ぎたかも知れない。そういえば彼は些細な事でも一喜一憂してしまう性質だった。
「フン……」
落ち込んでしまったアントンさんに、他意は無いという表向きの言い訳を必死に伝える私の背中からユーシスが鼻を鳴らした。
・・・
「えっ、そうだったの!?」
待ちに待ったⅦ組全員でのランチの席。大方食べ終わった頃合い、隣に座るエリオット君が口にした言葉に私は驚きの声を上げた。
「あはは……やっぱり驚くよね?」
苦笑いを浮かべるエリオット君。
「エリオット君のお父さん、軍人だったんだ……」
「まあ、それ程不思議なことでは無いんでしょうけど……」
アリサの言う通り不思議なことではない。帝国が大陸最強の兵力を有する国家である以上、それだけ軍に勤める人は多いのだから。
ただ、マキアスの次の言葉は想定外過ぎた。
「それにただの軍人じゃないぞ。帝国正規軍で最高の打撃力を持つと言われる第四機甲師団のオーラフ・クレイグ中将――通称《赤毛のクレイグ》だ」
「《赤毛のクレイグ》……中将って……!?」
思わず私はさっきより遥かに大きな声で叫んだ。
気付けばこの場の全ての視線が私に集まっていた位。慌ててカウンターのお客さんとコックさんに頭を下げて、この場が帝都最大のデパート《プラザ・ビフロスト》の喫茶スペースであることを思い出す。
隣のテーブルに腰掛けるユーシスが「煩い」という一言を、フィーはジトッとした視線を送ってきていた。
因みにラウラとフィーが向かい合って座るあちらは、何かと複雑な空気の様だ。それはもうリィンとエマの顔で良く分かる。
何かと運が無い私だが、今回はしっかりエリオット君の隣に座れて本当に良かった。こちら側に呼んでくれた彼にちょっと感謝かな。
「うわー、凄いね……中将さん、か……」
エリオット君のお父さんが軍人である事にも少し驚いたけど、そのお父さんが正規軍の将官である事に一番の衝撃だった。
「ほお……ゼンダー門のゼクス中将と同じなのか」
「中将ってことは、お偉いさんの中のお偉いさんよね」
とガイウスとアリサ。
今思えば、ちょっと聞き覚えのある位有名な名前だ。何故今まで気付かなかったんだろうと考えながら、私は苦々しく笑う隣のエリオット君の横顔を眺めた。
「……流石に僕とは結びつかないよね」
こっちを向いて、自虐的な色の表情を浮かべる。
私もお父さんには似てないけど、なんていう無神経な言葉は寸前で喉の奥に飲み込んだ。なんだかんだいってエリオット君は男子なのだ。となれば、そんなことない、と否定すればいいのか、それとも逆に肯定すれば良いのか。
数パターンのシミュレーションを頭の中でこなすものの、結局、私は何て声を掛ければ良いのか分からなくて、上手く彼をフォローすることなく話を少し逸らした。
「……でも、だからかー、エリオット君がナイトハルト教官とよく話してるのは知ってたんだけど」
「なるほどね。確かナイトハルト教官って……」
「第四機甲師団のエースだったな……だからこそ、あの厳しさか……」
「ああ……とても厳しかったな」
ガイウスとマキアスが明後日の方向に視線を向け、それにエリオット君が頷いて乾いた笑いを小さくこぼした。
「厳しいけど何だかんだ優しい人だよね。厳しいけど」
まあ、厳しいことは私も全くもって否定出来ない。
「……あれ、ってことはエレナもナイトハルト少佐と話すの?」
「うん。ナイトハルト教官、私のお父さんの事も知ってるみたいで。結構前々から――その……よく注意されるんだよね……」
自分で言ってて悲しくなってくる。そう、つい一昨日辺りにも先週サボった件で怒られた。
一番最初は軍事学の授業中に寝ていたことについてを次の日呼び出されて怒られたっけ。あの時は『この人、案外ネチネチしてるなぁ』とか思ったけど、お父さんの名前を出された時にはぶったまげた覚えがある。
詳しくは教えてくれなかったが、ナイトハルト教官が軍に入りたてでまだ若かった頃、どうやら私のお父さんに指導して貰った時期があるみたいだ。
「案外、世間って狭いのね」
「フフ、もしかしたら二人のお父上同士も知り合いだったりするのかも知れんな」
ガイウスの何気ない言葉に、私とエリオット君は顔を向き合わせて数秒の間固まった。
「な、ないない。うちのお父さんはそんな偉くないし!」
エリオット君のお父さんは《赤毛の――》なんて渾名で呼ばれる程の有名な軍人さん。階級だって中将という将官であり、第四機甲師団の師団長。
一介の下級士官である尉官に過ぎない私のお父さんとは天と地程の大きな差がある。第一、うちのお父さんは第四機甲師団に所属していないし、将官と知り合いなんてまずあり得ない気がする。
「でも、そういえば……エレナのお父さんってガレリア要塞に居るんだよね……?」
「第四機甲師団といえばクロイツェン方面、東部国境に配属される精鋭部隊だぞ。東部国境といえばガレリア要塞じゃないか」
マキアスの言う事は最もだ、そして説得力もある。
それで、ナイトハルト少佐と昔から知り合いってことは――そう続けて考えこむエリオット君に、私は第四機甲師団ではないという証拠にまず帽子を見せた。
「これ、第十一機甲師団の帽子!」
そして、スカートのポケットから生徒手帳を取り出して最後の緊急連絡先の欄を見せる。
お祖母ちゃんの綺麗な字で、実家のお店とお祖母ちゃんの名前の下に、お父さんの名前と所属が書かれていた。
「ほら、ここ! 帝国正規軍ガレリア要塞守備隊第三中隊長、ルカ・アゼリアーノ中尉って!」
・・・
ヴァンクール大通りにある帝都庁の第二庁舎を訪ねた私達は、そこで初老の水道局長から今日一番の大仕事となるであろう依頼について詳細な説明を受けた。
私達の仕事場所は、帝都南部の中央部に位置する帝都駅の地下から北西部方面に伸びる地下水道。帝都駅からヴェスタ通り迄の概ね直線距離で約30セルジュの区間だ。
仕事内容は導力灯や設備の点検と魔獣の駆除。導力灯に関しては交換も請け負う。
なんでも春先に水道局員が設備点検に内部に入った所、手配魔獣クラスの危険な魔獣と遭遇した為に、現在は厳重に封鎖されているのだという。
数か月も放置されている事に最初は少なからず驚いたものの、れっきとした理由があった。この都心部の地区は近年完成した導力技術を用いた新しい水道網が供用されている為に、既にこの中世時代の地下水道自体が利用されていないのだ。
なのにもかかわらず、何故今ここの設備点検を行うのかというと、古い地下水道自体の管轄が近々帝都庁の中で変更になる為。
新しい管轄は帝都庁の交通局。導力車の交通量が今後更に増えれば路上を走るトラムが邪魔になる可能性があり、交通局はそれに替わる新しい交通網として地下に鉄道を建設する計画を推し進めているらしい。アリサもラインフォルト社の計画で聞いたことがあると言っていたので、本当の話なのだろう。
それにしても、導力トラムじゃ飽き足らず、地下にまで列車を通すなんて帝都は本当に私達の発想を超える街だ。
私達は帝都の地下鉄道建設の最初の一歩をお手伝いするというある意味では大任を任されて、帝都駅の地下から地下水道に入ることとなるのだが――。
私のライフルに取り付けられたライトの光が、今まで戦ってきた魔獣の最期の姿を照らす。
軟体表皮をズタズタにされた大きなドローメが体内の発光を失うと共に力尽き、その体を維持出来なくなったのか流れの弱い水路へとゆっくりと溶けてゆく。
「フン……手間を掛けさせる」
止めを刺したユーシスは、肩で息をしながらドローメの体液まみれの剣を払った。
「やったわね……。でも……」
アリサが後ろ、暗闇に染まる来た道を振り返った。
巨大ドローメと遭遇したのは、水道局長から借りた水道網図によると私達の担当区間の終わり、丁度ヴェスタ通りの街区に入った所だった。最初はそこで戦っていたのだが、途中からドローメが逃走を図り奥に逃げてゆくものだから、私達も追わざるを得なくなったのだ。そして、やっとのこと追い付いて倒せたという訳だ。
「来た道を戻るのは骨が折れるな」
「指定された場所までの点検作業も終わってるし、あいつもちゃんと倒したし……依頼内容はもう終わっているから、近くで地上に出れる場所があると良いのだけど」
「そうだな。委員長、ここがどこだか分かるか?」
「それが……」
小さな導力灯の明かりで帝都の水道網図を見ていたエマが首を横に振る。
彼女によると、ヴェスタ通り迄はこの地下水道内の壁に等間隔に番号が記されていたのだが、見渡す限りこの近くにはそれが無く、場所を特定する事は出来ないとのことだ。
「あの扉の記号とかは無いの?」
私はライフルのライトを五アージュ程先にある頑丈そうな鉄製の扉に向ける。光りに照らされたその扉は余り錆びてはおらず新しそうな感じだ。いや、もしかしたら材質が元々錆びにくい金属製なのだろうか。いずれにしても中世期に設置されたものではないのは確かだ。至るところが傷ついている壁面と比べると綺麗過ぎて違和感がある。
それにしても、何気に私達とドローメの戦いは激しい物だったらしい。煉瓦の壁面には明らかに銃弾が当たった弾痕や、強力な火属性アーツの高温に晒されてガラス化した跡等の戦闘痕が多数見て取れた。弾痕に関してはあまりの多さで、自分の腕の悪さに落ち込みそうになる。
「無いですね……それがあれば楽だったのですけど」
どうやら帝都庁水道局のお仕事は結構適当みたいだ。いやまあ、この区画はもう利用されていない場所なので、仕方が無いといえば仕方が無いのだけど。
「ただ、走った距離から考えると――ヴェスタ通りの先の街区に入っているかも知れません」
「戻るとなれば二十セルジュは見たほうがいいな」
エマとユーシスの分析にアリサと私は溜息を付いた。
「ふむ……」
「ガイウス?」
「そっちは行き止まりだぞ」
徐ろに鉄製の扉の方へと足を進めるガイウスに、怪訝そうな顔を向けるアリサとユーシス。
ガイウスは二人の声を意に介する事無く、鉄製の扉の前に立ち、その脇の壁面から仰ぐように上を見上げた。
「皆、これを。僅かだが確かに地上への風の流れがある」
そこにはかなり古いそうな錆びた梯子が取り付けてあった。
・・・
「ここは……?」
梯子を登り久し振りに地上へと出た私を出迎えたのは、夕日の茜色に染まる大聖堂の荘厳な姿だった。
見上げれば首が痛くなりそうな程高い巨大な二つの塔が夕空に高く伸びている。
「《ヘイムダルの白い塔》か」
「これが帝都の大聖堂か……」
「……」
「相変わらず立派ね。ここは大聖堂前の広場の様だけど、それにしては誰も……」
周りを見渡してもこの大聖堂前の広場には人っ子一人居ない。そればかりか、通りとの間に設けられている鉄柵の門は閉じられている様に見えた。人の気配が全く無いこの空間は、まるで時間が止まっているかのように静かで、神聖な筈にも関わらずどこか不気味さすら感じさせた。
そんな静寂を打ち破ったのは、遥か頭上から帝都の夕空に鳴り響いた大聖堂の鐘の音。午後六時の『お告げの鐘』だろうか。辺りに誰も居ない中、何度も続け様にハーモニーを奏でる鐘に私達は聞き入ってしまっていた。
「ほお……なかなかどうして、懐かしい所から出てくるじゃないか」
女の声だ。少し低く、落ち着いているような響き。誰も居なかった筈なのに、いつの間にか大聖堂の建物の近くの木陰により掛かる人影があった。
「シスター……さん?」
被り物の中の顔付きは整っており、髪は薄茶色で瞳も同じく茶色。多分、三十代半ば位だと思う。
そこまで観察した所で、私は思わず彼女の右手にある煙草に気付いた。私は彼女の身を包んでいる七耀教会の修道服と首に掛けられた星杯のメダイ、そして、火の付いた煙草を交互に見る。
次に彼女の顔に視線を戻した時、広場に差し込む茜色の夕日のせいか彼女の瞳が赤く輝いた様に見えた。
「フッ……観光客ではないな。見たところ学生のようだが、残念ながら本日の拝観時間は終わっていてね――お引取り願おうか」
確かに夕方ではあるが、今日は土曜日。これだけ大きな教会に夕方のミサが無いとは考えられない。
そして、本当に目の前の女はシスターなのだろうかという疑問。教会のシスターらしくもない話し方、なにより煙草の煙を吐き出す彼女の姿は、私の知る修道女の姿ではない。
だけど、私の口から声が出ることはなかった。大聖堂の巨大な存在感と思っていたものが、まるで彼女から感じられる様な気がしたから。
「解せんな。帝都には夕方のミサは無いのか?」
この空気の中、彼女に噛み付けるユーシスは流石だ。それに私は心強さすら覚えた。
小さく含みのある笑いを浮かべた彼女はゆっくりと、しかし綺麗な動作で煙草を持つ右腕を上げ、ある方向を指す。
大聖堂の建物の角。やはり誰もいないし、何も無い。
「それはあちらの兵隊に聞くといい――」
そんな彼女の声の直後、今度は違う叫びが辺りに木霊した。
「お前達、そこで何をしている!」
大聖堂の角から、鉄道憲兵隊の軍服に身を包んだ兵士二人が大声を上げて駆け寄ってきた。
結局、大聖堂の中にいたクレア大尉のお陰ですぐ開放されるのだが、それ迄の数分は広場で二人の鉄道憲兵隊の兵士の取り調べを受けざるを得ない。
持っている武器が一番武器らしかった為か、彼らに真っ先に武装解除された私は、兵士の来る方向を指したあの変なシスターに恨み節の一言でも言ってやろうと木陰を見る。
でも、その時には忽然と姿形も無く消え失せていた。
・・・
三階建ての旧遊撃士協会支部からは、まだそれなりに賑やかな夜のヴェスタ通りが望める。
故郷のリフージョの村でも、トリスタの寮からも聞くことの出来ないこの賑やかな音は、都会の喧騒というのだろうか。
私はしゃがみ込んで《ARCUS》に付いている時計の文字盤を見ていた。
丁度今さっき午後十時を過ぎた所。もう大丈夫だろうか、いやまだだろうか。
私達B班がヴェスタ通りの大衆食堂的なレストランで晩ご飯を食べたのは七時頃。この建物に帰って来たのが八時。そのまま一日目のレポートを軽く皆で纏めてシャワーを浴びて……つい十分程前には私はこの建物の屋上に来た。
でも、やっぱり九時台ではA班がまだ活動をしている可能性もある。そう思うと邪魔する訳にもいかなくて、少しの間、時計の文字盤の時針が次の数字を指すのを待つことにしたのだ。
そして、もう十時を過ぎた。
出来ればエリオット君が一人でいる時がいい。いや、別に聞かれて困る話をする訳では無いけど、リィンや他の人達に聞かれるのは、それはそれでちょっと嫌だ。
彼にはいつでもかけていいって言われてはいるけど、どうしても抵抗がある。向こうはもしかしたら先程までの私達みたいにレポートを書いているかもしれないし――いや、でも、流石にもうそろそろ寝る時間だし――でも、果たして特別実習中に一人になれる時間なんて――思考がグルグルと回り、堂々巡りを繰り返す。
考えこんでもダメだ。答えの出ない自問自答を繰り返した後に、私は意を決して《ARCUS》の蓋を開いて耳にあてがう。
規則的な呼び出し音が続く――でも、そこからエリオット君の声が発せられる事は無かった。
もしかして彼はシャワーでも浴びてたりするのだろうか。それとも、まだレポートを纏めてる?
最悪の場合――もう寝てしまったのかも知れない。私との約束の事なんて忘れてしまったのかも――いやいや、エリオット君に限ってそれはありえない。ハードな特別実習で疲れて寝てしまったのだろう。私や彼の様にあまり体力があるとは言えない人間にとっては、特別実習は結構辛い時もあるのだ。そう、信じてる。
……でも、そうであっても起きてて貰えなかったのは、私にとってはショックで、とても寂しかった。
やっぱり十時なんて待たないで屋上に来た時に通信を掛けておけば――そんな後悔の念に思わず《ARCUS》を強く握る。
話したいのに、声が聞きたいのに。期待していた様にならなかったことに、私は酷く落ち込んだ。
強く握りすぎて手のひらに痛みを感じたその時、まるで願いが届いたように《ARCUS》から電子音が鳴り、心臓が跳ね上がる。
エリオット君だ!きっと、私が掛けた時に出そびれてしまって、すぐにかけ直してきてくれたんだ!
私は今までのどんな戦闘よりも早く《ARCUS》を開いて、直ぐ様通信機能をオンにした。
喋る前に小さく呼吸を落ち着かせてから、あくまでゆっくり普段通りを意識して《ARCUS》のマイクを通じて彼の名前を呼ぶ。
「――も、もしもし……エリオット君……?」
もうさっきからずっとドキドキしっぱなしだ。その上、悪い事をしている訳ではない筈なのに、今になって後ろめたいことをしているような気分でもある。
<――あ、エレナ? さっきはごめん――>
《ARCUS》の小さなスピーカーが発するエリオット君の声に、私は気持ちが一気に昂ぶるのを感じた。だって、嬉しくて嬉しくて仕方が無いんだもの。
今日、彼はA班の皆とは別に実家に泊まるようだ。先程までお姉さんと話をしていて、今は自分の部屋で一人なんだとか。
私も旧遊撃士協会支部の屋上で、周りには誰も居ない。導力波を通じてだけど二人っきりだ。
まあ、ヴェスタ通りは酒場が多いので偶にちょっと通りの方が煩かったりするけども、建物の中だと絶対にアリサ達にバレてしまうだろうから、それは諦めるしか無いだろう。
<――聞いて欲しい話があるんだ――>
今の現状の話題が一区切り付いた後、エリオット君が嫌に真剣な声で切り出したのは、彼が士官学院に来た理由。そして、”将来の夢”の事。
全てを聞かされた後、私は激しい自己嫌悪に襲われた。
私は彼の事に全然気付かなかった。自分が甘えるだけの一方通行で全然彼のことを考えていなかった事を思い知らされたのだ。そういえば、今思えば私がサボって帝都に向かった日の辺りから、少し違和感を感じた事もあったかも知れない。
でも、現に今日彼に言われて私は初めて気付いたのだ。それまでは、彼自身の事なんて考える気も無かったのかも知れない。
結局、私は都合良く自分を甘えさせてくれる人に構って欲しかっただけだというのを突き付けられたのだ。
「ごめん。私、全然気付かないで……ブリオニア島で励まして貰った時も、今迄も、私、酷い事言ってたね」
初めての特別実習の晩ご飯の席での彼の顔、ブリオニア島の夜の海での否定的な彼の瞳、やっと今、その理由が分かった。
エリオット君は軍人のお父さんに、音楽院に入ることを反対されたのだから。
私はそんな彼の境遇も知らずに、将来の職業への夢は無いからお父さんと同じ軍に進むと話した。今思い浮かぶのは、自分の事なのにはっきりと答える事が出来ないで逃げるように冗談に走った私に、固い表情を続けるエリオット君の顔。
「でも、僕も励まされたから」
「え?」
「あの時は、まだまだ迷ってたんだ。でも、エレナは僕なら大丈夫って言ってくれたでしょ?他愛もない言葉かもしれないけど、僕には嬉しかったんだ」
「そっか……そっかぁー、えへへ……」
先程までの罪悪感が嘘のよう、熱を帯びた頬が緩んで緩んで仕方が無かった。
きっと今、誰かが見たら確実に”気持ち悪い”って言われるに違いない顔をしている。一人っきりになれる場所に来ていて良かった。間違ってもアリサ達には見せれない。ユーシスなんて以ての外だ。
一言でこんなに私を幸せにしてくれるなんて。ああ、もう、どうして私はこんなに単純なんだろう。
「そっちも地下道の魔獣退治だったんだ」
話題は今日の課題の事に移っていた。いつもは学院からの帰り道や晩ご飯の後に寮の部屋で話す様な感じ、帝都にいてもこんな話が出来るのはやっぱり《ARCUS》様様だ。
<――ってことは、エレナ達も?――>
「うんうん、駅からヘイムダル大聖堂までかな」
<――こっちはガルニエ区のホテルからだったんだけど……そうそう、聞いてよ。そのホテルであの《蒼の歌姫》に逢ったんだ――>
「《蒼の歌姫》ってあのオペラ歌手の?」
聞き返した私を肯定するエリオット君は、そのまま彼女に『実習の課題を頑張って』と言われたと嬉しそうに続ける。
なんだろう、ちょっと面白くない。
「……ふーん……」
次に私の口から出た言葉は、思ったより冷めていた。
元々オペラにそれ程興味が無いからかも知れない。でも、エリオット君は音楽好きだしオペラにも思う所があるのだろうか。そう考えると、少しはこの話題にも乗っておくべきだと思えて、次はこの間読んだファッション雑誌のインタビュー記事の話題を話すことに決めた。
<――よく雑誌の表紙とか見てたんだけど、やっぱり本物はずごい綺麗な人で――>
嬉々として《蒼の歌姫》の話を続けるエリオット君の声に、私は次に話そうとしてた話題を放り捨てる。
私は今、ヴィータ・クロチルダの事がとても嫌いになった気がした。
<――って、あれ?エレナ?――>
「……エリオット君ってヴィータ・クロチルダの事、とっても好きなんだなぁーって思って」
<――――>
「……そっ」
次にエリオット君が言った言葉に、私は小さく息を吐く。
そこからはどうしても話が長続きせずに、気付けば諦めたように私は「そろそろ寝よっか」と口にしていた。
通信を切った後、《ARCUS》の時計の文字盤に目を落とす。今の時刻は十一時半過ぎ――。
部屋に戻った私はアリサとエマにひと声かけて、真ん中のベットに思いっきり体を沈めた。既にパジャマに着替えているから、このまま寝てしまっても問題無い。
「こらっ。そこ、私のベッドなんだけど」って文句を言うアリサの声を無視して、そのまま枕を抱いて私は目を閉じるのだった。
エリオット君のばーかっ。
こんばんは、rairaです。
さて、今回は7月24日、第四章の特別実習の一日目の続きとなります。
四章特別実習は出来れば原作で描かれなかった部分に重きを置きたいと考えているので、一日目はかなり色々と詰め込んでいます。
まずはアントン&リックスとの再会。彼らは後程大きな役割を担うかも知れません。
ヘイムダル大聖堂のお話は、四章がB班視点と決めた時からこれしか無いと思っていました。彼女は四章のゲストキャラクターになります。
それにしても、マキアスとエリオットはヴィータ・クロチルダに夢中すぎですよねー。終章、彼女の正体を知ってどうおもったのでしょうか…。苦笑
本当はアリサもリィンと《ARCUS》で通話していたおまけ付きだったのですけど…更新直前で真夜中にリィンがラウラとフィーにフルボッコにされてしまっていた事を思い出してカットしたりしています。二日目におあずけですね。
次回は7月25日、特別実習の二日目のお話です。
最後まで読んで頂きありがとうございました。楽しんで頂けましたら幸いです。