「うわぁ……」
エリオット君の部屋にお邪魔した時、私は思わず驚嘆した。
びっくりするほどの楽器の数々。小さな楽団を作れるんじゃないかと思ったくらいだ。
「流石に引いちゃうよね?」
「ううん。私は凄いと思うし、夢中になって打ち込めるものがあるって良い事だと思うけどなぁ」
「あはは、ありがとう」
笑顔は人を笑顔にするとはよく言ったものだ。
フィオナさんのあの誤解の後、ちょっと私達の間は気不味かったので、エリオット君が私に笑いかけてくれるのは結構久し振りだったりする。だけど、こうやって彼が笑ってくれるだけで私は嬉しくなるし、自然と頬が緩む。
でも、実は私は音楽にあまり良い思い出はない。好きな曲は勿論有るし、演奏を聴くのは好きだけど、自分でやるのはからっきしだった。
お母さんはよく村の酒場でピアノを弾いていたらしいけど、何事も練習を三日坊主にサボってしまう私は昔から楽器はダメダメ。というか、それ以前に音楽のセンスが無いのだ。教会の聖歌では下手すぎてシスターに居残りを言い付けられるし、思わず鼻歌を歌えば音痴とフレールに馬鹿にされる。お祖母ちゃんや村の大人には『父親に似た』とよく言われたものだ。
最初に士官学院で音楽の授業があると聞いた時はそれなりに憂鬱だったが、メアリー教官の授業は主に音楽の知識的な勉強や鑑賞が多くて助かっていたりする。
もう音楽に関してはあんまり才能が無いと諦めているけど、何でもいいから楽器を出来るようになっていれば良かったと、エリオット君と話している時はよく思うのだ。
いまからでも遅くは無いっていう彼の言葉を信じて吹奏楽部に入ろうか、そうすれば 放課後も――ああ、私、部活やってる暇なんて全く無いんだった。嫌なことを思い出してしまった。
「そういえば……もう身体は大丈夫?」
「うん、全然平気だよ。あの後は全身筋肉痛になったけど」
ベッドに腰掛けたエリオット君の隣に私も腰を下ろして、伸びをするように両足を宙に伸ばす。
テロリストと激しく戦ったあの後、私はエマの応急処置で身体のあちこちにガーゼやら包帯やら湿布を貼っていたが、二日も経てば完治である。ただ、所々打撲が薄っすらと青痣になって残っている所もあるが。
「そっか……良かったぁ」
エリオット君達A班の皆とは昨日は会っていないので、彼らの中の私はあの少し痛々しい姿のままだったのかも知れない。
振り下ろされるナイフから身を守る為にライフルを盾に使った時に捻挫して、昨日まで包帯を巻いていた左手首をエリオット君に見せる。擦り傷もしっかりと塞がっているし、捻挫の痛みもあまり無い。
私は大丈夫である事をしっかり伝えようと、準備体操の時のようにヒラヒラと脱力させて手首を振った。
「ねっ、平気でしょ?」
そう笑って口にする反面、こうやってわざと激しく動かすとまだ少しだけ痛みが手首に走っていた。
でも、これぐらい――そう思った時、私の左手を彼の手が包んだのだ。
「……わっ……」
「無理しちゃダメだよ」
ほんの少しだけ怒った様なエリオット君の顔を見て、小さく私は頷く。
そして、包まれた私の左手が触れ合う温もりを求めて、いつの間にか彼の手を握っていた。
「ご、ごめん!」
一瞬だけ感じた、惚けるような変な気分。
直後、”手を繋いでる”という事に気付いた私は急に恥ずかしくなって、謝ると同時に重なってた手を振り解いてパーカーのポケットに隠すように突っ込んだ。
その時、左手に当たる紙袋の感触にある物の存在を思い出す。それは、今日中に私の隣に座る彼に渡さなくてはいけないもの。
だけど、もう既に私とエリオット君の身体の間には再び気不味い空気が漂っていた。三十リジュものさし位あるこの間、埋めれる気がしない。
ああ、もうどうして……。
二人っきりになった今が絶好の機会な筈なのに。
ラウラとフィーはフィオナさんにクッキー作りを教えてもらっている最中だが、買い出し組である他の皆はもうそろそろ帰ってくるだろう。そうなれば、流石に二人でいる事は出来ないし、晩ご飯の用意の手伝いもしなきゃいけないのだ。招かれたと言っても十二人分の用意をフィオナさん一人にして貰うのは訳にはいかない。
今を外せば今日一日無理な可能性もある。そして、今日を外してしまえば”夏至祭”では無くなってしまう。
今しかない――そう三度念じて、呼吸を落ち着かせる。
「じ、実は……渡したいものがあるの」
噛んだ。上擦った。いっつもいっつも私は……。
もう、エリオット君の顔なんて見れなくて、目を逸らしながらポケットから出した小さな紙袋を手渡す。
「えっと……僕に?」
君以外に居る訳ないじゃないか。少しむくれそうになりながら、私は頷いた。
紙袋を開ける音の後、袋の中身を見たらしい彼の「ペンダント?」という不思議そうな声が届いた。
「でも、どうして……?」
「げ、夏至祭にお世話になった人に物を贈るのは帝都じゃ当たり前って言ってたから……ほら! エリオット君、バイオリン好きでしょ? 私、お世話になった人って言ったらエリオット君が真っ先に浮かんで――ほ、本当はみんなにも買おうと思ったんだけど、私そんなにお金無いし、だから一番お世話になった――!」
とても気恥ずかしくて顔も見れない。そして、自分でも驚く程早口だった。
「ありがとう、エレナ」
愛銃のアサルトライフルの様に言い訳を連ねた私の口が動きを止める。
「大切にするね」
私が大好きな笑顔。
うわぁ……嬉しい……。
胸の奥からこれまでに感じた事のない暖かいものが溢れ出す。それはただでさえ火照る私の身体を。恥ずかしさとか全て飛び越えて、今なら何でも出来るような気がした。
「わ、私が付けてあげるよ!」
あまりの嬉しさから自分でも分かるほど気を良くしてた私は、エリオット君の右手からひったくるようにそれを取って、ベッドの上を膝歩きして彼の後ろに回る。
「え、エレナっ?」
私の膝が少しエリオット君の腰に当たり、どきっとする。でも、それは今は心地の良い刺激で、これから私がしようとしている事を邪魔する事はない。まるで料理に使う香辛料の様に、火照り切った私を更に熱くさせる。
慌てる彼なんてお構いなしに、男子とは思えない白くて綺麗なうなじにチェーンを回した。手に触れる彼のサラサラの紅茶色の髪の毛の感触が、私の胸の鼓動を早めていく。
「へへ……」
肩越しに前のめりになって、彼の胸元に銀色に輝くバイオリンを象ったペンダントを覗き込む。似合ってる、かなぁ。自信は無いけど、それでも私がプレゼントした物を身に付けてくれているという嬉しさは何物にも変えられない。
鼻孔をくすぐった私とは違うシャンプーの匂いに思わず胸がきゅんと鳴り、今まさに私が結構凄いことをしてしまったと気付かせた。
彼の背中に半ば身を預けて密着している今の状態。
今更ながら照れ臭くなってしまうけど、後悔はまったくなかった。それどころか、このまま腕を回してぎゅっと、もっと触れ合いたいなんて我ながら大胆な事を思ってしまう。
「あはは……ありがとう……少し照れ臭いけど……」
言葉に出来ない満足感と充足感を覚えながら、私はもう一度ネックレスの留め金を見る。
ほんのりと赤くなっていた彼のうなじに、エリオット君も私と同じなのだと気付いてまた頬が緩む。エリオット君も男の子、さすがに照れちきゃうよね。でも、それが、どうしてか嬉しかった。
しっかりと繋がっている留め金が私と彼の絆であればいいななんて思いながら、私はシャツの中に隠している自分の音符を象ったペンダントに触れる。
ううん、そうであって欲しい。
そんな想いを胸に彼の隣へと戻って座り直した時、私と彼の間は先程より少し近くなっていた。
・・・
「あ、このラズベリーのタルト美味しい! フィオナさんが作ったんですか?」
キッチンに用があったのか、丁度私達の近くを通りかかったフィオナさんに声を掛けて逃げた私に、隣に座るアリサが不満気な顔を向けてくる。だけど、いくら小声の内緒話であっても、流石にあの話題をエリオット君の実のお姉さんの前では続けないだろう。
「それは、アリサさんとエマさんが作ったのよ。ふふ、サラさんと私も美味しく頂いてたわ」
ありがとう二人共、と私の両隣のアリサとエマに微笑むフィオナさんの前で、意外過ぎる展開に私は思わずアリサの顔を凝視した。
「何よ……その目は……私が料理できちゃ悪いのかしら?」
「アリサ、タルトなんて作れたの?」
「そ、それぐらい私でも出来るわよっ」
「ふふ、お向いのハンナさんに教えて貰ってからよく二人で練習してましたものね」
「こ、こら……エマ……!」
さっきのアリサの不満気な顔の理由は、私が逃げて露骨に話題を逸らした事に対してではなく、彼女が作ったタルトを私がフィオナさんが作ったと決めつけて聞いたからだったのかもしれない。
少なくとも不満気になるぐらいは頑張って練習したのだろう。私は今初めて聞かされたけど。
「えーなにそれ! 私、初耳なんだけど!」
「エマ以外には内緒で練習してたのよ。それに、貴女にバレると言っちゃいそうだし……」
恥ずかしそうに、もごもごと小さくなるアリサの声。親友としてこんな形で隠し事をされて少々残念だけど、なんとなく事の経緯は分かってきた。
「ほら、エレナさんは帰りが結構遅いですから」
先々週までは主にバイトとフィーとの銃の特訓で、今週からは生徒会の手伝いとサラ教官の小間使いまで加わった私の寮に帰る時間は早くて夕食直前だ。アリサの反応から私やある男に秘密にしていたっぽい感じは間違いないけど、大方エマの言う通りそれが最大の理由だろう。
「エリ……リィンは知ってた?」
思わずテーブルの反対側に座るエリオット君の名前を呼ぼうとしたのを慌てて止めて、私の向い隣、アリサの前に座るリィンに話を振る。さっきの話をアリサに蒸し返されるのも困るが、それよりも夕方のあの出来事を思い出してしまってどこか気恥ずかしく思えた。
それに、守りに徹し続けるのは私の趣向ではない。ついさっきまでエリオット君の胸に光る物の事で散々小声で追求された反撃を、最も効果の高そうな一撃をお見舞いしてやる。そう、攻撃は最大の防御なり、だ。
「ああ、といっても食堂を覗いてたシャロンさんに教えて貰ったんだけどな」
「ええっ!? シャロンにバレてたの!?」
「確かシャロンさんが来てすぐだったような……」
「あーもう!」
少し困ったように苦笑いするリィンの暴露にアリサの叫びが上がる。
ちょっとまってアリサ。第三学生寮であのシャロンさんにバレずにキッチンを使えるとでも思ってたのだろうか。
「ぶっちゃけ、良い匂いしてたから誰でも分かると思ってたけど」
エマの隣からフィーが首を覗かせて、言外に私と同じことを言わんとする。
口元にたっぷりとタルトのラズベリーのかけらとナパージュを口元に付けて。
「フィー、ついているぞ」
「ん」
それに気付いたのはラウラだった。いつもはこの役割はエマの筈だけど、それだけ二人が仲良くなったという事かも知れない。うん、昼間も息ぴったりだったしね。
「だって、毎週木曜日のあの時間だけシャロンは買い出しと母様の仕事の代行で帰りが遅いし、何も言われなかったし……エマと一緒にちゃんとキッチンも綺麗にしてたし……」
ぶつぶつと続けるアリサ。木曜日ってラクロス部の休みじゃないか。それは完全に嵌められたんじゃ無いかと思う。それにしても、シャロンさんも人が悪い。
「素直にシャロンさんに教えてもらえば良かったのに」
「シャロンに頼むのは恥ずかしいっていうか……何言われるかわからないし……それに、出来れば内緒で練習して元気のなかった――って、もう! 何言わせてるのよ!」
明らかな照れ隠しが微笑ましかった。色んな意味でおご馳走様だ。
そういえば、あの頃はそんな時期だった。私は自分の事で精一杯で気付かなかったけど、リィンも結構落ち込んでいたと聞いていた。つい一か月ちょっと前の事なのに少し懐かしい。
「素直じゃないなぁ」
「相変わらずだね」
「まぁ、アリサも料理を作ってあげたい人が居るってことは分かったよ」
この一撃は決まった筈。アリサの今にも爆発しそうな横顔。
「何言ってるのよ!? りょ、料理ぐらい当たり前じゃない!」
思いっきり耳元で怒鳴られて、頭が右に左に揺さぶられる。
ほーら、煩いわよ、なんて呑気な酔っ払いに出来上がったサラ教官が少し離れたソファーから窘めた。
「あはは、でもすっごい美味しいよね」
「ああ、正直毎日食べたいぐらいだ。作ってくれた二人には感謝だな」
「じゃ……じゃぁ……」
私の聞き違えだろうか。隣から虫の音より小さな声で、「毎日作ってあげても……」なんて聞こえた気がするのだけど。こんなに美味しくても、流石にベリータルトを毎日っていうのは間違いなく飽きるだろうに。
「ふふ、私は今回はほんの少し手伝っただけで、殆どアリサさんですけどね」
「はは、そうか。ありがとな、アリサ。また機会があったら食べさせてくれ」
私の期待した本命の一撃が炸裂し、アリサの横顔が秋の林檎か旬のアゼリアの実の様に真っ赤に染まる。
だけど、これで終わりにはしてあげない。”やる時は徹底的に”だ。
「……リィン、食べさせて欲しいって。ほら、今度はスプーンで、あーんって……」
意図的に有り得ない解釈を、追い討ちをかける様に私は彼女の耳元で誰にも聞こえない様に囁いた。
アゼリアの実は完熟を通り越して、その場で俯く。
そして、少しの間の後、下を向く顔を少し私の方へと向けた。キッと目だけを見れば途轍もないぐらい鋭い睨みに、私は思わず仰け反りそうになり、顔が引き攣る。
やばい、本気だ。流石に調子に乗り過ぎたと後悔しても、もう時すでに遅し。
「……貴女、後で覚えときなさい……」
私、今日寝かせてもらえないかも。
そんなアリサと私を半分心配、半分笑いながら料理の話題は盛り上がった。
今はあまり作る機会が無いとはいえ、Ⅶ組のみんなはそれなりに料理が出来ることも盛り上がる一因だろう。それに皆それぞれ出身地も異なることから自分の地元の料理を語れば話題には事欠かない。
「苦手じゃあないよ。上手いかって言われたらあんまり自信はないけど……」
アリサよりは上手いはず、と喉元まで出た言葉を飲み込む。これ以上からかうと、何が起きるか分からない。今ではないが、この家を出て、ヴェスタ通りに着いて、寝室に入った後に。ただでさえ、今の状態でも何が起きるか分からないのだ。少なくとも根掘り葉掘り聞かれるのは間違いないと思うけど。
それに、流石に私も反省している。
それとなく隣に視線だけ送ると、まだほんのりと頬を朱色にしながら何かを見つめていた。
彼女が右手に持つ、銀色のスプーンを。
……本気にしてないよね?
「あれ、でも……前にユーシスと一緒に……」
「エリオット」
今まで大してこの話題に入って来なかったユーシスが、そこで鋭く遮った。その声は有無を言わさない程の力が込められており、ある意味で先程のアリサと同じかそれ以上であった。
突然のユーシス様のお声にしんと静まり返るテーブル。酔っ払ったサラ教官の渋いオジサマについての熱い語りに相槌を打つフィオナさんという、大人の恋バナに花を咲かせるお姉さん二人の声がいやに大きく聞こえる程だ。
想い人の事なのだろうか、軍人嫌いの気もあるサラ教官が「軍に戻ってしまった」と項垂れ、それに「軍服も格好良いじゃないですか」と返すフィオナさん。どうも話題の”ダンディなナイスミドル”はこの二人の共通の知り合いらしい。
そこに、ユーシス様のさも貴族様然とした尊大な咳払いが響く。
「世の中には公にならない方が良い事もある。俺はそう思うが」
「ユ、ユーシス?」
大貴族様の機密事項を知ってしまった人物への口止めの言葉だろうか。逆らえば粛清されてしまいかねないと思える位、結構マジな様になっているのが流石は四大名門の御曹司といったところだが、その機密の全てを知る当事者の一人の私から言わせて貰えば下らな過ぎて笑えない。
そんなに料理を作ったことを知られたくないのだろうか。主にマキアスに。大体、作ってる最中に起きたアレの方が断然面白いのに。
アレを思い出した私は、今まさにあの時のユーシスの顔を頭の中に浮かべて思い出し笑いしそうになる。
それにしても、被害者のエリオット君なんて突然のユーシスの圧力に顔が引き攣ってしまっているじゃないか。
「ユーシス、必死過ぎ」
「あはは……」
「ふむ……?」
ユーシス様の沽券に関わるらしい機密事項の一端を知る他の三人の一人は呆れ、一人は乾いた笑いを浮かべ、最後の一人はまだ把握出来てはいないみたいだ。まぁ、真っ直ぐなガイウスだからこそ、あんな下らない事は思いもつかないのかも知れない。
「な、何があったんだ?」
「レーグニッツ、お前は知らなくても良い事だ。さっさと食後の珈琲でも用意しないか。何の為に高い豆を買って一人寂しく挽いていた?」
ピシャリと言い返されて唸るマキアス。もっとも、いまのユーシス様には彼もいつもの調子で噛みつけないで、渋々といった様子でコーヒーを用意する為か席を立った。
「えっと……それってあの事ですよね?」
「多分そうだね」
「あの事とは何のことだ?」
「俺も気になるな」
「あの事……? ああ、私が風邪引いた時に作ってくれたハーブチャウダーのことね……そういえばそんな事を」
「アリサ、それ以上口を――」
「ああ、確か中間テスト前だったな」
「ほう、そんなことがあったのか」
「君が料理だと? 信じられんな、ユーシス・アルバレア」
マキアスもキッチンの方からしっかり参戦してくる。何故か得意気な顔で、彼は眼鏡をクイっと上に動かし、導力灯の明かりを受けたレンズが光を放つ。
嬉しそう……マキアス。
でも、本当に面白いことはマキアスは知らない。言いたいけど、流石にマキアスには言えないかなぁ。面白そうだけど、本気でユーシスに怒られそうだから。
「そういえば、ユーシスが――」
あれ……でも、あの時の話って……あの後、確か……あっ……。
「――エプロン着てくれなかったとか、じゃがいも剥いてくれたとか、たまねぎで泣い――」
「だ、だっ、だめ!! アリサ!それ以上は――」
「……アゼリアーノ」
ギロッという擬音が聞こえた気がする。先程のエリオット君への圧力なんて目じゃない程の眼力。
これは、まるで――裏切り者、いや、反逆者を見る目だ。ひい、怖いよ。
そこに、助け舟を出してくれたのはフィーだった。
「ユーシス、たまねぎに泣いたの?」
私にも度々向けられる彼女の直球すぎる突っ込みに、流石のユーシスでもたじろぐ。そりゃあ、アレだけ隠したいと思っていたことをそのまま突き付けられるのだから仕方ないだろうけど、それでもその光景は滑稽だった。
その傍らでエリオット君が笑いを堪え切れないで小さく笑い、リィン、ガイウス、エマ、ラウラと笑いが伝染してゆく。
「くっ……くっく……ひぃ……」
キッチンからはマキアスの声にならない壊れた音がしていた。
「ええい!」
「煩いって言ってるでしょ!」
ユーシスが席を立って声を荒らげるが、間髪入れずに再びサラ教官からお怒りが飛んだ。
だけど、こっちに来て怒る様子は無く、すぐにフィオナさんに向き直ってどこぞのオジサマのダンディな口髭について大声で語り始めた。そんな話を興味津々に聞いてしまうフィオナさんも優しいのか何なのか。
駄目だこりゃ。
誰もがそう思ったに違いない。
ユーシスも腰を折られて力無く椅子に腰を下ろして盛大な溜息を付いた。
「はは、いいじゃないか。そうだな、今度はみんなで料理を作り合ってみるのもいいな」
そんなユーシスに笑いかけながら、皆に提案をするリィン。
「いいアイデアですね。丁度、学院に帰ったらすぐに夏季休暇ですものね」
「いいね、楽しそうだね!」
「フフ、その時は自慢のノルドの郷土料理を振る舞うとしよう」
料理にある程度の自信の有る乗り気なメンバーを中心に既にやる気満々で、程なく夏季休暇の内に料理パーティをすることが決定した。
まあ、中には「食べるの専門でいい?」なんて聞く不届き者もいたけど。っていうか、出来るなら私もそっちがいい。
「だから、ユーシスもアリサも頼んだぞ」
「……お前がそういうのであれば仕方有るまい」
「……そ、そうね……」
ユーシスはため息混じりながらも意外と素直に、アリサは少し複雑な表情を浮かべて頷いた。
「そういえば……クレア大尉との話はどうだったの?」
マキアスの淹れてくれた珈琲を右手に、暖かい食後の余韻に浸っていた私の心臓が飛び上がり、他人の家であるのにも拘らずソファーに半ば寝っ転がっている担任教官に目をやった。
アリサの疑問は何気ないものであったのだろうけど、この場には私が昼食を共にした人と仲の悪いサラ教官が居るのだ。そして、今日の午後は自由行動が許されていた為、昼間のことを私は報告していなかった。
「そんな顔でこっち見なくてもとっくに知ってるわよー。律儀にわざわざ昨日の夜に連絡して来た位だしね」
寝っ転がったまま上体を起こすことも無く、至って興味もなさ気に調子も軽い。
クレア大尉、私と話す事をサラ教官に連絡していたんだ。
それにどんな意味が有るかは詳しくは分からないけど、サラ教官に配慮したものであるのは間違い無いと思う。
それ以上は何も言わないサラ教官。それを促されていると解釈した私は、Ⅶ組のみんなに向き直って口を開いた。
「みんな、聞いて欲しいことがあるの」
皆の視線が私に集まる。
「今回帝都であった色々なことをちゃんと……考えて……私にはやりたい事、目標、出来たの」
どういう反応をされるだろうか。《四大名門》の貴族のユーシスや、因縁の有りそうなサラ教官は分からない。
もう一度、皆の顔を一人一人ゆっくりと目を走らせる。最後にユーシスを見た後に、意を決して、私は皆の前で決意を口にした。
「私、鉄道憲兵隊に進みたいと思ってる」
・・・
翌日、特別実習の全日程を終えた私達は帝都駅のホームで列車を待っていた。
皇城《バルフレイム宮》にお呼ばれしていた私達は、オリヴァルト殿下とアルフィン殿下、そして後から来て下さった皇太子殿下とレーグニッツ帝都知事、そして――。
「エマ、大丈夫? まだ少し顔青いけど」
今はもう平気そうだけど、バルフレイム宮の迎賓口であの人と顔を合わせた時、エマだけじゃなくてリィンもちょっと様子が変だった様に見えた。
「オズボーン宰相……僕も初めて会ったけど凄い人だったね……」
「あのような御仁を傑物というのだろうか……」
「……《鉄血宰相》、怪物というのもあながち間違いでは無いようだ」
ユーシスが思い返したように呟く。
帝国の歴史上初の平民出身の宰相、十一年前に皇帝陛下に任命された元正規軍の将官だったギリアス・オズボーン宰相。
およそ政治家とは思えない、元軍人ということが一目見て納得出来てしまう程の非常に大柄な体躯の存在感。そして、あの鋭い眼光と纏う雰囲気。その全てが圧倒的なものだった。
あれが《革新派》の筆頭とでも言うべき宰相閣下――仮に私が鉄道憲兵隊に入隊すれば、事実上は彼の指揮下に入ることとなる。
――諸君らもどうか健やかに、強き絆を育み、鋼の意思と肉体を養って欲しい――
――これからの”激動の時代”に備えてな――
激動の時代……か。
帝国解放戦線と呼ばれるテロ組織。もう既に帝国はテロの脅威との戦いに突入している。そして、テロリストに背後で蠢く不気味な《貴族派》の影。
鉄道憲兵隊に入れば間違いなくその対立の最前線に立つことになるだろう。
そうなれば……。
「……フン、昨日も言った通りだ。別に俺は何も思っていないぞ。トールズは士官学院、別に鉄道憲兵隊を志望する人間が居てもおかしくあるまい」
無意識にユーシスを見ていた私に気付いた彼が、鼻を鳴らしてから続ける。
しかし、そう言われても尚、ユーシスの実家と対立することになる将来を考えると気が重いのは確かだ。そして、その事について今ではなく未来の彼がどう思っているのかというのも。
「確かに貴族派と鉄道憲兵隊の関係は最悪だろうが、かといって俺はそんな下らない争いを倣おうとは思わん。お前の様な少々抜けた所のある奴が簡単に入れる部隊とは思えないが、まあ精々努力してみるが良い」
大きな溜息に続けて、さも仕方無さそうに話すユーシス。
「……第一、俺より問題なのは後ろの教官殿だろう。先程も大人気無く突っかかっていたことだしな」
「失礼ね。それはそれ、これはこれ。いくらアタシでも個人的な理由で生徒の進路希望に文句は付けないわよ」
ユーシスにムッとして返すサラ教官。
「ま、確かに教え子をあの女達に送るのは癪に思うけど、反対はしないわ。何よりもあなた自身が決めた目標――元遊撃士として複雑に思う以上に、あなたが自分の意志でそれを掴んだ事が私は一番喜ばしい事だと思ってる」
「サラ教官……」
担任教官であると共に憧れをも抱くサラ教官に、そう言って貰えた事は何よりも嬉しかった。昨晩、エリオット君の家でみんなに打ち明けた後、余り言葉を交わすことが無かった事が私の脳裏にずっと不安を過ぎらせていたからだ。
「それにまだ完全に決まった訳じゃないしね。今回の件でも身を持って感じたでしょうけど、鉄道憲兵隊は半端な部隊じゃない。帝国全土の規模で展開する高度な捜査能力はそこら辺の憲兵や領邦軍とは比べ物にならないし、個々の戦闘技能もその道のプロである猟兵にも引けを取らない筈――」
瞼を伏せていたサラ教官の眼が見開かれ、私に注がれた。
「――そして、あの鉄血宰相の直属と言うべき表側の実働部隊でもある。その意味は理解してるわね?」
「……はい」
「結構。それなら私から言う事は何も無いわ。ただ、例え鉄道憲兵隊を目指すっていっても、今はまだ士官学院生で私の生徒よ。これからも色んな事を見て、聞いて、実践して、あなたは学ぶ時期にある。ま、将来の身の振り方は卒業してから考えなさいな」
そこでやっと、サラ教官の頬がふっと緩んで、私も緊張感から解放される。
続けて「あーあ、ちょっとでも迷うような素振りを見せたら、思いっ切り反対してやったんだけどね~」、なんてほんの数分前の「反対しない」という言葉を反故にするような事をサラ教官は言い出して周りのみんなから突っ込まれるが、それはご愛嬌――たとえ私が迷っても教官は”今は”反対しなかっただろう。それぐらいは私も含めてⅦ組の皆は分かっている。だから、彼女の冗談にこうやって、笑って返しているのだ。
帝都駅の一番線――東へと続く大陸横断鉄道とクロイツェン本線を兼ねるプラットホームの一角が笑いに包まれる。
そして、汽笛の音。続いて構内へと滑りこんで来る鋼鉄の列車が起こした風に、少し伸びた前髪が緩やかになびく。
「ありがとうございます……サラ教官」
到着した列車の音に掻き消されてしまって、聞こえなかったかも知れない。それでも、サラ教官はもう一度、私に微笑みを向けた。
青色の客車を見上げてから、この列車が走ってきた線路へと向ける。
ホームの先端の先には、帝都の市街地の中、夏の太陽に照らされた眩く輝く沢山の数の鉄路が続いていた。
「エレナ、どうかしたの?」
「あー……うん、この特別実習、本当に色んな事があったなぁ、って思って」
多分、人生で三回目に訪れたこの帝都での日々は私にとって一生忘れられない記憶になるだろう。
上手くは言えないけど、進路とかよりもっと根幹で私の中で何かが確実に変わったと思える。
「そうね……それに、特に貴女は……」
少し口にし辛そうな彼女に私は頭を左右に振って、そういう意味では無い事を伝える。
そして、心からの感謝の言葉を短く紡いだ。
「ありがとう。アリサ」
――大丈夫、大丈夫よ。私達は何があっても貴女の味方だから――
「エマ」
――それに……皆それぞれ抱えるものはありますから――
「ガイウス」
――フフ、だから言っただろう。『皆も同じ気持ちだろう』と――
「ユーシス」
――……あまり心配を掛けさせるな。阿呆が――
「ラウラもフィーも……マキアスも……エリオット君も」
Ⅶ組の女子で一番大きいラウラと一番小さなフィーが寄り添って微笑んでくれる。
六日前、帝都に来た時よりぐっと縮んだラウラとフィーの間の距離、どこかいい顔になったマキアス。
彼女達はこの実習で、私と同じような経験をしたのだろう。
そして、エリオット君と視線を交わす。私も思わず頬が緩み、首筋の光に照れくさくなる。
――でも、話してもらった僕はエレナを支えるよ。だってほら、仲間でしょ?――
感謝してもしきれない。あんな安物のペンダントでお礼を済ます訳が無い。
彼がいつか私を頼ってくれる様に頑張って、その時に彼にして貰った様に全力で支えてあげる――それが私に出来る唯一のお礼だ。
「リィン」
――君がどう思おうが、君はⅦ組のメンバーで、君がいないとⅦ組じゃない――
その言葉は今でも覚えてる。彼のあの言葉がどれだけ私を救ったか。
「今一度、お礼を言わせて。みんな、本当にありがとう」
――私は君たちに現実に様々な《壁》が存在するのをまずは知って貰いたかった――
士官学院に入学して四か月。色々な《壁》を私はⅦ組のみんなと共に見てきた。最も強く見せ付けられたのは、《貴族派》と《革新派》の対立、その根幹にあるのは貴族と平民という身分の《壁》だった。
ケルディックやバリアハートでの特別実習では嫌な思いをすることも少なくは無かった、そして、士官学院でも。
――その二大勢力だけではない。帝都と地方、伝統や宗教と技術革新、帝国とそれ以外の国や自治州までも――
私は身を持って知っていた。辺境の故郷と比べて、帝都は何もかもが輝いて見える。衰退する地方と繁栄する都市。
同じ帝国の中に有るのにも関わらず、これでもかという位の違いは、歴然とした《壁》だ。
そして、帝国とその外の間の《壁》の一つは、私の中にも存在していた。
――この激動の時代において必ず現れる《壁》から目を背けず、自ら考えて主体的に行動する――そんな資質を若い世代に期待したいと思っているのだよ――
それを受け入れて貰えた、全てを吐露してしまった今だから解る。
どうかご安心下さい。オリヴァルト殿下。
女学院や帝都競馬所では全く余裕も無く殿下と満足に言葉も交わせなかった私だが、今は自信を持ってそう思える。
――それでも私は君たちに賭けてみた。帝国が抱える様々な《壁》を乗り越える”光”となりえることを――
Ⅶ組のみんなは正に私にとって”光”だった。
楽しい時は一緒に笑ってくれて、辛い時は励ましてくれて、いつも共に寄り添ってくれて。
そんな私の大切なみんなが、私達が《壁》を乗り越えれない訳が無い。
「私、士官学院に来れて良かった。Ⅶ組のみんなと会えて本当に良かった」
私はやっと見つけたんだ。
想いを胸に輝く鉄路を一瞥し、みんなと共に列車へと乗り込んだ。
こんばんは、rairaです。
この話をもって第四章の帝都編は終わりとなります。
アンゼリカ先輩との朝帰りなサボり編から始まった四章ですが、あのお話が大した事に思えなくなってしまう程のイベントの連続だった気がします。
本来、おまけであった筈のエレナの決意とクレイグ家訪問ですが、書いていく内にどんどん文量が増えていってしまい、当初予定していた一話から二話構成となってしまいました。「帝都繚乱」といい最近は話数が増えるパターンが多くて困ります。苦笑
さて、次回から第五章ジュライ・ガレリア要塞編となる予定です。
クロウ先輩とミリアムの編入に久し振りの学院の日常と書きたいことが山程ある章が続くので楽しみで仕方がなかったりします。笑
最後まで読んで頂きありがとうございました。楽しんで頂けましたら幸いです。