それは、世界に一先ずの平和が訪れ、少しずつ各地の街の復興も進み始めていたころだっただろうか。
暇をつぶすために港近くの公園の草木をぼーっと眺めていた時、たまたま目の前の花に色鮮やかな蝶が留まった。私は、好奇心から衝動的にその蝶を捕らえようと手を伸ばした。けれども、あともう少しというところでこちらの存在に気がついたのかひらひらと茂みの向こうへと飛んで行き、完全に見えなくなった。それなのに、私は何故か蝶が飛び去った方向をしばらく見つめていた。
鼓膜が破れてしまいそうになるほどの爆発音と、痛みを感じるほどの熱風によって、一瞬もうろうとしていた意識が現実に引きずり戻される。
マレー半島、クワンタン沖。普段は静かな南国の海でしかないそこは、この世の地獄と呼べるような状況に代わってしまっていた。
本国の予想では、私達Z部隊に対して重桜が繰り出してくるのは既存の戦艦すべてを上回る新鋭戦艦、通称モンスターか速力の出る金剛型かと思われていた。けれど、実際に繰り出してきたのは戦艦でも、巡洋艦部隊でもなかった。
飛行機の群れは水平線の向こうからものすごい速度で接近してくると、私めがけて魚雷を放ち、爆弾を落とす。私はそれを必死に避けながら、何とかこの状況を逃れようと必死に対空機銃を奴らめがけて連射した。けれども、敵が高速で飛び回るせいで狙いを定めて撃ったはずの弾は一発もかすりもせず、逆にあまりにも敵の攻撃が激しすぎて、避け損ねた分が少しずつ、しかし確実にダメージを蓄積させていく。
気がつけば髪は焼け焦げて縮れており、服はあちらこちらが破けて海のように青かったはずの色はどす黒い赤に染まっていた。そして、爆弾が命中するたび途切れそうになる意識を何とか本能でこらえ続けている、まさに風前の灯火という言葉がこれ以上似つかわしいものはないであろう、と若干自嘲気味に思ってしまうほどの状況であった。
愚かな者とは今の私のことを言うのだろう。このまま耐え続けたところで味方からは戦闘機一機の援軍が来るわけでもなく、いつかは終わってしまうことは目に見えている。それなのに、もはや無きに等しい生存願望を未だ捨て切れずに何とか命をつなごうとしている。
ふと右側に視線を向けると、少し離れたところでプリンス・オブ・ウェールズも私と同じように集中攻撃にあっていた。それでもなお彼女の対空射撃が止むことはない。どうやら彼女も私と同じ人種であったようだ。そんな彼女の存在が、何故か私の気持ちを落ち着かせた。
重桜の南方進出に対抗する目的で、私達はロイヤルの東洋における一大拠点であるシンガポールに派遣された。当初は重桜を遅れた国家であると侮っており、それに加えて有事の際はユニオン太平洋艦隊の支援をすぐに受けられることからこの任務を楽観視するものも多かった。けれども、重桜軍の宣戦布告なしでのマレー半島への奇襲上陸、そして同盟国であるユニオンが重桜機動部隊による奇襲攻撃を受け壊滅的な打撃をこうむるなど、あっという間に状況は私達にとって不利な方向に傾いていた。
「ねえ、この状況、どうすればいいかしら?」
重桜による上陸作戦がほぼ完了したその日の夜、ウェールズはそう私に尋ねて来た。恐らく何も妙案が思い浮かばなかったからだろうが、私だって特に打開策があるわけでもなく、しばらく考え込んだ後に
「うーん、今のところは輸送船団を叩いて戦力増強を阻止しつつ本国からの援軍を待つしかないと思う」
と答えるのがやっとだった。
「まあ、それしかないでしょうね」
ウェールズはあきらめ気味にそう言うと、作戦室の方へと歩き去って行った。私にはそんな彼女の後ろ姿が、とても疲れているように思えた。
周辺を飛び回っていた飛行機たちは爆弾を空にしたのか再び巣へと帰って行く。しかし、一息つく間もなく既に水平線を新たな悪魔の群れが真黒に覆いつくしていた。
この場所から逃げることが出来たならどれほどよかっただろうか。叫び声で飛行機が落ちてくれるのならどれほどよかっただろうか。けれども、奴らは私達よりもはるかに早く飛び、広い海の真ん中には身を隠す岩一つない。叫び声など悪あがきにもならない。
結局のところ、既に終わりは決定されてしまっている。この状況でもなお希望を捨てない人というものは果たしているのだろうか。
すでに戦闘開始からかなりの時間が立ち、疲れと傷の痛みから動きも段々と鈍くなってきていた。恐らく次の空襲を耐えることはできないだろう、と今の状況を人ごとのように感じている自分がいた。
気分を紛らわそうとポケットに手を突っ込むと、何か小さな球状のものに指が当たった。掴んでポケットから出すと、それは高級さが感じられるコートのボタンだ。それは特に印象深い後輩巡洋戦艦のものだ。それは、かつてロイヤルの栄光を象徴する存在であった彼女のボタンだった。
凍えてしまいそうになるほど冷たい北風が艦隊めがけて吹き付けて来る。
季節は春であるというのに、北の海は相変わらず冬のように寒かった
「逆探知した信号の位置によれば奴の位置はこの辺であっているはずなのですが」
ロドニーは静かにそう言った。
「うーん、さっき奴にダメージを与えているから速力はかなり落ちていると思うんだけど…」
ヴィクトリアスは不安そうな様子で周囲を見回している。
フッドを撃沈し、逃亡を続けているビスマルクを捜索するため私たちは北方に派遣されていた。そして、先程ビスマルクが発信した信号を元にすれば、この座標の周辺に奴は潜んでいるはずなのだ。しかし、視界にも、レーダーにも反応はない。
その時、周辺を飛び回っている哨戒機から連絡が入った。内容はビスマルクを発見したというもの。
「…え」
けれども、その位置は私達から数百キロ離れた遥か南方を示していた。
「今から追いつくことは…出来そうもないですよね」
ロドニーは悔しそうに拳を握りしめていた。
「で、でもっ。確かその付近にはレナウンさんとアークロイヤルさんがいるよ」
「…そうですね」
ヴィクトリアスの言葉にロドニーは少し落ち着いたのか、少し力強くそう言った。
「よしっ、そうと決まれば早く追いかけましょう」
「あの…、お二人は港に帰ってください」
一瞬彼女が何を言ったのかが理解できなかった。
「なんでよ、ロドニー!」
ヴィクトリアスが怒りのこもったきつい口調でそう言った。
「お二人の燃料では奴に追いつくまでは持ちません」
「でもっ」
ヴィクトリアスが駄々をこねた子供のように叫ぶ。
突然轟音が鳴り響き、後方の海面で水飛沫が大きく上がった。ロドニーが霞んで見えるほどの大量の煙が周辺を覆った。
「撃たれたくなかったら、私のいうことに従ってください」
ロドニーは苛立ちを何とか抑えているように見えた。
帰る途中、私達は一言も言葉を交わさなかった。
港につくと、呆然と立ち尽くしているウェールズがいた。服はボロボロであちこちが焼け焦げており、彼女の自慢の四連装砲もほとんど使い物にならないほど壊れてしまっている。
近づいてくる私に気がついたのか、彼女は顔を空からこちらに向けた。けれども、その目は焦点が定まっておらず、血が拭かれずにこびり付いているのも相まって死者と面会しているような気分にさせられた。
「…これを、フッドから渡すように頼まれたの」
彼女はおもむろに握りしめていた拳から金色に輝くボタンを私に渡してきた。
それは、フッドが常に着ていたコートに付いていたものだった。恐らく、形見という奴なのだろう。そう考えると、何故か今まで綿毛のように頭の中をふわふわとうかんでいた彼女の死が、突然実感を持って私にのしかかってくる。
「…何か、言ってた?」
かすれがちな声で彼女にそう問いかける。
しかし、彼女は何かを隠したまま決して答えようとはしなかった。
思えば、その時からだろうか。ウェールズが常にどこかに冷たさを帯びるようになってしまったのは。
執行人は断罪の鎌を振り下ろすべく、こちらへと向かって来る。これは罰なのだろう。ウェールズを助けてあげられなかったこと。いや、フッドから渡された重荷を彼女に押し付けたまま軽減してやれなかったことに対する罰なのだろう。
結局のところ、私はあの時蝶を捕まえられなかったように、フッドも、ビスマルクもつかむことはできなかった。そして今度もまたウェールズも、自分自身すらもつかめないまま奈落へと落ちてゆく。この手につかんだものは、つかもうとしていたものの抜け殻でしかないただのボタンに過ぎなかった。
風を切りながら飛んでくる飛行機が、海に凶暴なサメを産み落とす。もう、私にはあがき続ける気力も、体力も残されていない。
けれども、自分がもう終わるということに不思議と恐怖を感じることはなかった。頭の中を占めるのは、自分が今までできなかったことに対する後悔のみ。
「ごめん、ウェールズ。私…」
地中海の冷たい夜風が窓から部屋へと流れ込んでくる。
「もうすっかり冬ですね」
私は窓を閉めると、壁に立てかけていた銃を膝において撫でた。この銃は私と共に様々な戦場を駆け抜けたある空母が所有していたものだ。
。気づけば彼女の沈没から一月近くが立ち、遺品もすっかり処分されて彼女の存在を残すのはこの銃のみとなっていた。記憶の中にいる彼女の微笑みを思い出すと、思わず寂しさを感じてしまった。
机の引き出しを開け、中に入っていた金色のボタンを取り出す。所有者だった彼女と同様、上品な雰囲気を醸し出すそれは、彼女の最後を見届けたウェールズから譲り受けたものだ。
気づけば、親しかった人たちは次々と私のもとを去り、一人取り残されてしまったように感じる。
ふと、写真立てに目を向けると、先程のボタンの持ち主と、この世に一人しかいない妹、そして私の三人が笑顔を浮かべている様子が写されていた。
妹は今、何をしているのだろうか。任務地のシンガポールでも元気だろうか。毎日そんなことばかり考えてしまう。まあ、明るいあの子のことだ、きっとうまくやれているだろう。
「レパルス、どうか無事でいてください」
写真立ての中の彼女が、優しく微笑んだような気がした。