「……ホイナ、起きた?」
ホイナは名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。
ラサギが目の前にいた。薄暗い。彼の顔越しに酒瓶の並んだカウンターが見える。
「ラサギ?」
ホイナは不思議に思って声をあげる。ここはどこだろうと周りを見回した。暗くした照明、気密室へ続く回転扉、壁に描かれた楽士たちの絵、展望用の窓。
いくつもの卓には紳士や淑女が声を潜めて談笑している。カウンターでひとり杯を傾けている者もいた。
ここは飛行船内のバーだ。
「その場で寝ちゃうほど飲むなんて、珍しいね」
ラサギはホイナの席を通り過ぎ、彼女の隣に座る。注文に来たバーテンダーを断り、ホイナの様子を窺っていた。ホイナは自分の手元にある、カクテルの入ったグラスを見やる。
「ああ、そっか。飲んで、それで眠っちゃったんだ」
ホイナは自分の気分がどこか浮ついているのが分かった。覚醒しきっていないのだと理解したが、ひどく幸福な気分でもあった。
「何か寝言を言ってたよ。夢でも見てた?」
ラサギが聞いてくる。それで、ホイナは記憶にこびりついた風景、あの山奥にあった川辺の空気を思い出し、微笑みを彼へ見せた。
「ヒーエが夢に出てきた」
ラサギは少しだけ驚き、しかしホイナの穏やかな表情を見て、「そっか」と頷く。
「ヒーエは何してた?」
「私に手紙書いてた。夢の中でも、あの子は相変わらず変な子だったよ。村が大きくなるだけじゃ我慢できなくて、私の不幸まで自分のものにしたいみたい」
ホイナは涙がこぼれるのを自覚した。泣いてしまう。
夢の中、ホイナが自分を呪うまでもなく、ヒーエはホイナを呪っていた。
そのことが、ホイナを無性に、たまらなく感動させた。狂おしいまでに焦がれた心の底の底から、ホイナは涙を流す。
泣いてしまうホイナを見て、だがラサギはそれには触れず、ただ訊ねた。
「いやなことがあったら、ヒーエを思い出すよう?」
「呪われてかまわないから、呪ってやる、って言ってた。あと、祝ってやる、って」
その言葉に、ラサギはしっとりと湿った笑顔をホイナへ見せる。湿っていたが、それは爽やかな湿度だった。
「夢の中なら、ヒーエに会えるね」
「うん」
ホイナは頷く。
夢の中、ヒーエに好かれていた。感謝されていた。恨まれていた。呪われていた。
さまざまな感情の塊をヒーエはホイナにぶつけていて、その混沌とした情動はなぜか、ホイナをせつなくさせる。
薄暗いバーの中、肌で感じる空間と時間はどこまでも甘く、深かった。
「あれ、そういえばなんでラサギはこっちに来たの?」
ホイナは涙を拭きながら、不思議に思って訊ねる。
ラサギは普段ホイナがひとりになりたいときは、本当にひとりきりにしてくれる。ホイナもラサギがひとりになりたいときは、そうしていた。
そして充分ひとりきりに満足したら、お互い帰ってくる。ホイナとラサギはそうしてきた。普段は。
「君の言っていたユナさん、彼女の同室のひとが、きみがバーで寝てしまったから、って伝えてくれたんだ。君が眠ってしまうほど飲むなんてなかなかないから、ちょっと心配して来ちゃった」
そうして、ラサギはホイナの向こう側の席、カウンターなのでホイナからはラサギと反対側に位置する席を示す。
ホイナがそちらを見ると、その席にユナが座っていた。ありとあらゆる気配を消して。ラサギに言われるまで、まったくその存在を感じなかった。
「気持ち良さそうに眠っていらっしゃるので、どうしようかと迷ったのですが、やはりご主人をお呼びするべきだと思いまして」
ユナは静々とした声でそう言う。
そうしてから、ユナは軽やかに席を立ち、ホイナ越しにラサギへ一礼した。
「ユナと申します。奥様にはたいへん親切にして頂いております」
「いえ、こちらこそ。妻の話し相手が見つかって嬉しいです」
「聞くところによりますと、新婚旅行の最中とか。御礼申し上げます」
そしてユナはおもむろにバーテンダーを呼び、「この船で最も高価な酒を」と注文した。
それもグラスではなく、封を切らないままのボトルまるごと一本を買った。彼女は袖口から魔法や手品のように、高額紙幣の束を取り出し、なんということのない動作で支払いを終えた。
「お祝いの品です。荷物になって大変恐縮ですが、御笑納下さい」
ユナはその酒瓶を、ラサギへ差し出した。三十年物の高級蒸留酒だ。富豪であるヒーエの家でも、滅多に手に入らない高級酒だった。
「すごい、大富豪だったんだね、ユナって」
ホイナは素直に驚きの声を上げる。ラサギに酒瓶を受け取って貰ったユナはやはりなんともない涼しい顔で言った。
「紙で解決するものであれば、私は万能に近しいことを保障されているのです」
相変わらず奇妙なことを言う人だ、とホイナは思う。
「……偽札?」
「まさか、本物ですよ。必要とあらば偽札も御用意致しますが、それには及ばないでしょう」
ふふっ、とユナは笑う。
ホイナはラサギと顔を見合わせる。彼もホイナと同じ気持ちだと分かった。変な人だな、と思っているのだ。
それから少しだけホイナはラサギを交えてユナと話し、そして部屋に戻っていった。二段ベッドの下段、自分のベッドでホイナは寝る。
眠ってばかりな気がする、とホイナは思った。思いながら、眠りに落ちる。
.... .... ....
今度のミュルツの間は、妙に豪勢だった。
大量の焼きパン、串焼き肉、輪切りにされた豚肉の燻製、焼かれたチーズ、大量の香料と肉と野菜が混じった炒め飯、そして様々な果物。
まるで何かの祝事のようだった。
「どうしたの、これ?」
ホイナは思わずミュルツに訊ねる。彼は敷き布の上に腰を下ろし、手近にあった串焼きのひとつを手に取った。
「これはきみの夢だ」
以前にも聞いた台詞を彼は紡ぐ。
「君が、なにか祝いたいと思ったのだろう」
ふうん、とホイナは分かったような気になって、とりあえず切り分けられた梨の一切れを手にし、口に入れる。淡く爽やかな甘みが口の中に広がった。
「実は俺の方にも、人間であれば祝い事にならなくもないことが決まった」
唐突にミュルツが言う。
「曖昧な言い方だね」
「決定されたのは、潜入任務だ。竜殺し本体は人類社会構造体から変わらず身を隠すが、対人解析機は敢えて構造体に取り込まれ、情報収集活動を行う」
「つまり?」
「具体的には身分を偽装し、大学に属する学生として各地の人間社会に対する論文を収集する」
淡々と彼は言い、肉を頬張った。
食事というより機械の補給活動にホイナには見えたが、彼は彼で食べ物を味わっているのかもしれない。
「人間が人間自身に対してどう認識しているのか、それを知るためには構造体の中へ潜入しなければならない。より能動的な情報収集を竜殺しは望んでいるようだ」
「つまり、ミュルツの言ってる祝い事って、大学に入れたこと? 学生生活を始めるの?」
「竜殺しの幻惑能力であれば、ひとりの人間の身分を偽装することなど容易い。祝うに値するかは正直疑問だ」
表情を変えずにミュルツは言った。
その言葉に、彼女はミュルツが単なる夢の住人ではないと気付く。
「あなたは、だれ?」
「最初に言った通りだ。竜殺しの対人解析機」
「ここは私の夢なの?」
「そうだ。君の夢を、竜殺しが対人解析機と繋げた。だからこうして俺と話している」
平坦な口調には何の悪意も脅威もなかった。
ホイナは、ミュルツが彼女に危害を加えるためにこのようなことをしているのではないと察した。
「でも、何のために?」
「人間を知るためだ。対人解析機に人間の無意識を繋げ、その人間を解析し、人類社会構造体に関する情報収集を行う。しかし人間の夢、無意識だけでは集められる情報が限られると竜殺しは判断したようだ」
よって先の潜入任務の話になった、と彼は言う。
チーズの切れ端を食べながら、ホイナは考える。彼と、彼の言う竜殺しについて。
「竜殺しはずいぶんあなたに期待してるね」
「と言うより、使用できる道具が俺しかないんだ。竜殺し本体は人類社会構造体に関する情報を解析することが出来ない。そのため対人解析機を使うしかない」
「人間と竜殺しの中間に、ミュルツはいるんだ」
ホイナの言葉に、ミュルツは頷く。
「実を言うとこの対人解析機は、竜殺しが作ったわけではない。貰い物だ」
「え?」
「かつて竜が単独で存在していた時代、ひとりの魔剣使いが竜に転生した。そしてその竜は竜殺しと戦った。そのとき魔剣は竜殺しに対人解析機を渡した。その解析機が、俺だ」
「何のために?」
「魔剣の意図は不明だ。しかし竜殺しは竜が人類社会構造体と共生してしまった以上、この解析機を使わざるを得ない。魔剣はそれを見越して渡したのかもしれない」
ミュルツの言葉は答えになっていなかったが、ホイナは深く追求しなかった。自分には理解できない話になる予感があったからだ。
それより、周りに並べられた御馳走の群れを片付けよう。ホイナは手当たり次第に手にとって口に運んだ。
「なんで、私の夢だけど私の夢じゃないことをばらしちゃったの? 普通隠さない?」
「これは夢だ。起きれば忘れる」
「忘れない夢もあるよ」
「それこそが君の夢だ。現に君は起きている間、俺のことなど忘れいてた」
そういうものなのかな、とホイナは思う。とにかく、食べた。
「君は嬉しそうだ」
ミュルツが言う。
「いいことあったからね」
ホイナは応える。
食べながら喋るのははしたなかったが、あくまでもここは自分の夢の中なので、礼儀に関しては忘れることにした。
「俺は対人解析機だ。使われる立場にあるため、竜殺しの決定事項に口出しは出来ない」
ミュルツは単調な作業を片付けるように、規則正しい動作で食事していく。
食べながら、彼は言った。
「魔剣たちが竜殺しに敗北しないことを祈ろう」
何を言っているのかホイナには分からなかったが、彼女は気にしないようにする。
ミュルツの間に並べられた料理の山は、果てることなく続いていた。
.... .... ....
空中の船旅は順調に続いた。
ミュルツはラウンジや喫煙室に足繁く通い、同乗した名士たちと交流を深めていた。
ホイナは相変わらずユナを相手にお喋りに興じ、また窓から西の大洋を眺めたり、ピアノから弾かれる音楽の調べに耳を傾けたりと、船旅を満喫していた。
ユナが読書室で手紙を書くと、ホイナもそれに倣って両親や友人に手紙を書いた。主に飛行船の中のことや、旅路で出会った不思議な女性に関して。
そうして手紙を書いていると、誰かにも手紙を出さなければならないはずなのに、それが誰だか思い出せない気持ちに陥る。
ユナにそのことを相談すると、
「思い出す時期というものがあるのでしょう。今はその時ではないのでは」
と言った。ホイナはおとなしくその託宣(たくせん)に従うことにした。
ラウンジや読書室とは反対側の舷をまるごと使った広いダイニングルームの料理は、ホイナ達を満足させた。
ラサギは鴨料理を気に入り、肉にかかったペーストはなんだろう、とずいぶん細かいところまで注視していた。
ホイナはメニューに記載されたどの料理も気に入り、「一気に持ってきてくれないかな」とラサギに無茶なことを言ってみた。彼は苦笑して聞き流した。
ダイニングルームと言えば、ホイナはユナが料理を食べるのを見たことがある。
二人がけの食卓にひとりで座り、落ち着きと静寂そのものの動作で料理を口に運んでいた。
それはひとつの作品のように完成された姿であったが、ひとり、という事実にホイナは淋しさを覚え、旅の後半からはユナを誘って三人で食事を取るようにした。
「新婚旅行なのに、悪いですよ」
とユナは言ったが、ホイナは譲らず、
「ラサギにはあとでたくさん埋め合わせするから大丈夫」
と押し切った。
ラサギはやはりホイナの提案を拒まず、快くユナを席へ受け入れた。
いいんですか? とユナがラサギに訊ねると、
「ホイナの埋め合わせがどんなものか、楽しみが増えましたよ」
と笑った。
こうして旅行の半分は三人での旅になった。
ホイナが談話に飽きると、ユナは詩集を持ってきたと言って読書室に誘った。
普段は小説の類ばかり読んでいるホイナだが、自然を切なく讃えたその詩の韻はとても心地良く、ユナに「面白かった」と感謝した。「恐悦至極」とユナは優雅に礼を返す。
そうして、彼女らは四日間を船上で過ごした。
旅が終わる。