天気は快晴で、風は穏やかだった。
飛行場の彼方に、白く霞んだ摩天楼の町並みが見える。
降り立った飛行場の周囲は、ホイナ達が出発したそれと同様にたくさんの人々で賑わい、喧噪の波を船体まで届けていた。その喧噪は微風に混ざり、飛行船を撫でる。
西大陸の空気はどこか荒削りで、しかし活気を伴う若々しさも感じられた。
ホイナは巨大な飛行場に着船した飛行船の階段を下り、久しぶりの地上へ足をおろす。
地面は念入りに押し固められ、平坦になるよう整備が行き届いていた。使い古されたという感じは全くない。ここは新しい飛行場なのだとホイナは思った。
「西の大陸は新大陸。何もかも新しいよ」
ホイナはその感想をラサギに言うと、彼はそう言った。そうかもしれないし、そうではないかもしれないとホイナは感じる。少なくともラサギは、新しいと思う人間なのだ。
彼と意見が一致しないことを、ホイナは何故だが面白く感じる。良い旅になりそうだ、と思った。
「ここでお別れですね」
背後から声がかかる。ホイナは振り向いた。
小さな手荷物を抱えた、ユナがいた。彼女の青い外套姿は、この別大陸の中でもやはり異彩を放っている。
しかし青空の下で見ると、その服の青い色は確かな存在感を持ってその場にあるのだと分かった。けっして風景に溶け込まず、しかしぎらついてつきはなつような荒々しさではない、落ち着いた青い色なのだ。
「ユナのおかげで楽しい旅だったよ、ありがとう。ここで別れるのが惜しいよ」
ホイナが帰りに乗る船便にユナは乗らないことを、旅の中で聞いていた。なのでホイナは心から残念に思った。
「気が向きましたら、手紙のひとつでもお送りください。それで充分です」
ユナは穏やかに微笑みながら言った。
「あ、そういえばユナの住所、私聞いてないよ。ごめん、教えて」
慌てて筆記用具を取り出そうとするホイナへ、ユナが制止する。
「必要はありません。宛先に私の名前を記せば、それでこちらへ送られます」
そんな馬鹿な、とホイナは思ったが、ユナが言うと本当なのかもしれないと考えてしまう。
ユナは自分の手を口元にあて、鈴のように笑う。
「今度、戯れに試してみて下さいな。きっと驚きますことでしょう」
ユナ独特の冗談なのか、それとも本当に宛先のない手紙が送られるのか、ホイナは唸ってしまった。
「ユナ」
と、そこで別の声がした。ユナのその後ろから、男の声が彼女を呼ぶ。
ユナは振り返り、ホイナもついそちらを見た。
ひとりの男性が佇んでいた。年の頃はホイナたちと同世代、精悍で整った顔立ちだが、表情というものは浮かんでいない。
長めの黒い髪は整えられておらず無造作そのものといった風貌だが、なぜか彼にはそれが相応しいと思える、奇妙な年季を感じさせた。
その男は無機質な口調でユナに言う。
「俺はここで別れる」
「挨拶くらいしたらどうですか、ミュルツ。こちらは旅の中で良くして下さったご夫婦なのですよ」
応対するユナの声音はどこか呆れ気味で、彼女のそんな声をホイナは旅の中で一度も聞いたことがなかった。
ユナはホイナへ向き直り、
「同室者が失礼を致しました。こちらが私と同室だった、ミュルツです」
と紹介する。
この人物が、部屋に籠もって本ばかり読み、食事にさえ現れない引きこもり、とユナが妙に毒舌を披露した同行者か、とホイナはまじまじとその男性、ミュルツを見詰める。
そしてその名前に、ホイナは聞き覚えがあった。
しかしどこで聞いた名なのか思い出せず、とりあえずミュルツへ一礼する。ミュルツは小さく会釈した。
「ミュルツ、こちらはまだ新婚旅行の途中なんですから、何かお祝いをしてさしあげなければ」
ユナが言う。唐突なことをいうなあ、とホイナが思っていると、ミュルツは数瞬の後、おもむろに手をホイナへかざす。
そこでホイナは妙なものを見た。
革手袋に包まれたその指先に、黒い球のようなものが浮かんでいる、気がした。
ホイナはよく目を凝らす。
もうその瞬間には、何も浮かんでいない。ミュルツの、大きいが何の変哲もない手だけがそこにあった。
彼はさっとその手を下げる。そして無言のまま、背を向けて歩き去っていった。ホイナ達はわけがわからなかった。
ユナが懐から、何かの紙片を取り出し、それを読む。そしてホイナ達に言った。
「どうやら、おふたりの旅の中で不幸なことは起こらないようです」
「なんで?」
「そういったものは今、祓われました」
何のことなのか、ホイナ達は首をかしげる。しかしユナがこうした不思議な言動をとるのは旅の中で幾度もあったため、今更気にする必要もないと思うことにした。
「ではお二方、今度こそお別れです、楽しい旅をありがとうございました」
ユナは深々と優雅にお辞儀する。最初に出会った時と変わらない、まるで社会の様々な煩わしさから独立した、浮世離れした雰囲気のままで。
「こちらこそ、ありがとう、ユナ。またどこかで会いましょう」
ホイナはユナにそう言い、荷物を地面において、ユナを両腕で軽く抱きしめる。
その動作に、ユナは少し驚いたようだ。ユナが驚くことはなかなかないので、ホイナは、やった、と思った。
ユナの体は細かったが、折れてしまいそうな不安感はない。彼女の編み込まれた茶色の髪から、わずかに水の匂いがした。ホイナはそれを懐かしいと感じる。どこかで嗅ぎ続け、馴染んだ匂い。
ああ、川の匂いだ、と彼女は気付く。
どうしてユナからそれがしたのかは分からない。けれどユナのことだから、私は川から生まれましたと言い出しても不思議ではなかった。
「じゃあ、またね」
ホイナはユナを離す。笑って、自分からユナを置いてその場を去っていく。
荷物を再び手にしたホイナは、振り返らなかった。隣をラサギが歩く。ふたり。
そして、ホイナは先のユナから発せられた川の匂いで、突然思い出した。
「ヒーエに返事、書かないと」
それは夢の中の出来事であるはずだった。彼女は死んだのだ。彼女の家族ももういない。手紙を書いたとしても、送り先など無いはずだ。
だがホイナはその行動の予定を打ち消す要素など、自分の中にまったく存在しないことを知っていた。
そしてさらにおかしなことに、そうだ、ユナに送ろう、と思いつく。ヒーエはユナの知人だから、送り先も知っている気がした。同封して、彼女に頼んでみよう。
「……あ」
ホイナはふと、遙か上、高い高い空を見上げた。
果てしなく青い壁を走るように、何かが飛んでいる。遠すぎてホイナには小さな黒い影にしか見えない。
その小さな影はすぐ見えなくなった。何だったのだろう、何かだったのだろう、とホイナは思う。彼女は地上へ視線を戻した。
ラサギがタクシーの待合所を探している。
ホイナは彼にそれを任せて歩きながら、町に着いたらまず百貨店や雑貨屋を巡って、便箋を探そうと決めた。できるだけ素敵な便箋を。香りの染み込んだ品の良い封筒と一緒に。ホイナは亡き親友への文章を頭の中で考え始める。
雑踏の気配が彼女を包んだ。
(完)
最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます。
今作品はかつて某雑誌の小説大賞に応募したものを、供養として投稿したものです。
「ドラゴンスレイヤーズ」「古神幻想」「夢の中なら」の3作で1セットなのですが、
だいたい読んで頂いた方からの感想が
「ヒーエの最期が報われずあまりに理不尽」
「ヒーエの父親が胸糞」
「首締めるところ最高」
と、ヒーエのところばかりピックアップされる次第で、本来の主人公であるホイナの影が薄くなってしまいました。
(とはいえヒーエの人物像は私の嗜好とか性癖とか呼ばれるものの全てを注入したので、お褒めの言葉を頂けたのは恐悦至極でもありました)
時間が経って振り返ってみると、せっかく1920年代くらいの飛行船をイメージした舞台で、あまり事件らしい事件を起こしていないのは勿体ないと反省しています。
というか駄弁りすぎなんですよね、誰も彼も…もっと船内を探検するべきでした(汗)
長々と書いてしまいましたが、読んで頂いた方のお時間に見合う価値であったことを願っております。
改めまして、最後までお付き合い下さり、心からの感謝を。ありがとうございます。